6.二度目の夏

 天気がいい日の港は陽が暮れた後もしばらく賑わっていたが、終電の時刻を過ぎるとやはり人が捌けた。補導されない身分になるのはもう少し先だが、一人での宿泊に慣れてきたのをいいことに、海岸のベンチで観覧車の消灯を見届けた。
 この海は相変わらず波の音がしない。もし自分が海を好きだったなら、こんなところへは来なかったと思う。恐らく壮五も同じだ。今思えば彼は、叔父の姿を探していただけではなく、人恋しくてたまらなかったのだろう。
 遊歩道にこもった熱が首筋に汗を流したが、温い風が頬を撫でていく心地は悪くなかった。水平線の果てに見える眠らない橋がまぶしくて、人より重いまぶたがゆっくりと落ちてきた。
 ぱしゃ、という音とともに何らかの液体を浴びせられた時、初めは夢を見ているのかと思った。しかし派手に濡れたTシャツがそれを否定した。鼻の脇を滑って唇に流れ込む液体は、ただの水というにはあまりに塩辛い。
「……いたの」
 立ち上がってからの第一声はあまりに間抜けだった。陸と海を隔てる鉄柵の向こうには、何度ここで歌を歌っても姿を現すことのなかった壮五が、しかめ面をして手のひらを構えていた。
「あんたなんで今まで……わぷ、ちょ、ちょっと」
「こんなところで寝こけていたら風邪をひくだろ。起こしにきただけだから」
「だからって水かけるこたねえだろ! つかもう起きてる!」
「泊まっていくつもりなんだろう? 本当に風邪をひくから、早く宿を探したほうがいいよ。……じゃあ」
 言いながら壮五は環に五、六回水を浴びせると、名残りも惜しまず背を向けて泳ぎ出した。待て、と声を上げる前に体が動いた。ベンチからの助走で、迷わず鉄柵を飛び越え、真っ黒な水面へと身を投げる。
「環く……嘘だろ!」
「だってあんた聞かねえんだもん、こうするしかねえじゃん」
「つ、冷たくない? 寒くない? 早く上がって……」
「ヘーキ。夏だし。俺、ビンボー育ちだから簡単に風邪なんかひかねえよ」
 そんなことより、いつまでも岸辺にただよっているわけにはいかない。もとより相手にされなければこうするつもりでここへ来ていた。手荷物は最小限にしてあるし、ポケットの貴重品は念のためジップロックで包んである。肌にまとわりつくシャツは、脱いでベルトに引っ掛けた。
「沖まで連れてって。水ん中なら、そーちゃんでも俺のこと引っ張れんだろ」
「で、できるけど……。そんなところまで行ってどうするんだ」
「そーちゃんと話す。……そーちゃんと話したくて来た。だめ?」
 壮五は、う、と言葉を詰まらせた。腕を伸ばさなくても届くほどに近づいた壮五の顔は、人間と間違いなく同じ造りをしていて、とてもきれいだった。高く伸びる街灯や月明かりくらいしか頼れるものがなくても、そばにいれば相手の表情が分かる。思い切って飛び込んでよかったと息をつく間もなく、遊歩道の先から足音が聞こえた。
「……息を吸って。目をつむって」
 壮五が耳元でささやいた。言われたとおりにするより早く、壮五が環の頭を抱いて、水中に深く身を沈めた。そのまま細い水路を流れていくように、壮五の細腕からは想像もできない速さで陸を離れていく。自分も水を蹴ろうと試みたが、動きのリズムが全く合わず、諦めて壮五の泳ぎに身を委ねた。
 十分に準備をできなかったせいか、すぐに息が続かなくなった。胸を叩いて訴えたが、壮五は気付いているのかいないのか、止まる気配はない。まだ顔を出すには安全といえる場所ではないのかもしれないが、たとえそうだとしたってこのままでは気を失ってしまう。慌てた環は、とりあえず壮五から離れようと腕を振りほどいたものの、水面へたどり着くことはできずに、海の底へと吸い込まれかけた。
「落ち着いて」
 壮五の声も、自分がごぼ、と吐いた泡の音に消えていく。温かな海水にふやけた手足がすうっと冷えていく。水を飲んでしまうのが苦しくて、壮五に腕を伸ばすより、うずくまって口元をふさぐことに必死になっていた。――その時、聴いた。
「環くん」
 水の中では絶対に聞こえるはずのない歌声が、同じく震えるはずのない環の鼓膜を優しく揺らした。はっとして目を開けると、ほんの鼻先に壮五の双眸がきらめいていて、長く繊細な下まつげの先から、小さな泡が花びらのように散った。アメジストの瞳が閉ざされた時、泣きだしたのかと思った。それを確かめるより先に、唇が環の口の先を塞いだ。
 口内に残った海水を飲み下すと、空いた場所に冷たい息を吹き込まれた。初めは空気が胃に入るばかりでどうしていいか分からなかったが、壮五が背を撫でるリズムを意識すると、すぐにタイミングを掴めて上手く呼吸ができた。波に揺られて離れないように、環も壮五の背に腕を回した。
「……大丈夫?」
 問いにうなずくと、暗い中でも壮五が微笑んだのが見て取れた。壮五は今度は環を抱えず、幼子を連れるようにゆっくりと手を引いた。美しい尾びれがくねるのに従い、環もプールで泳ぐ時と同じように水を掻く。やがて環が二度目の限界に指先を握ると、壮五は環の胸に抱きついて上昇し、ようやく外へと頭を出した。
「お疲れさま」
「ぷはっ、は、はあ、……そーちゃん」
「ごめんね、ちょっと無理をさせたね。大丈――」
 何をも待たず、海の真ん中で口づけた。まどかな月以外に、二人を照らすものはなかった。つながる場所を深くすると、壮五が応えるように舌を差し出した。ちゅ、と音を立てて唾液を吸うと、環の腕に触れていた指がかすかに震えた。
 やわらかな、しかしひんやりとした唇が、次第に自分と同じ温度に落ち着いていく。彼の肩に掴まっていれば水底へ沈んでいくことはないのに、上半身は確かに人と同じ味がする。味わうたび、涙がにじんだ。口づけは目を閉じてするものだと誰に教わったわけでもないが、嬉しいのか悲しいのか自分でもよく分からない今の顔を、壮五に見られなくてよかったと思った。
「そーちゃん、歌ったね」
「……うん」
 うつむいた壮五の表情は、後悔しているようには見えなかったが、決して明るくはなかった。急かしたい気持ちを堪えて、続く言葉をぐっと待つ。夜が明ける前にはどこかへ身を落ち着けなければならないが、幸い水平線の闇はまだ深かった。
「君に……会いたくて」
「うん」
「でも、……怒らないでほしいんだけど、会っていいのか分からなくて……。……決められなくて」
 ぽつ、ぽつ、と雨粒を落とすように壮五が話し出す。少しでも水音を立てたら聞き逃してしまいそうだ。
「本当に……ごめん、怒らないで。……これで、最後かもしれないと思って……もういいかなって」
 それきり壮五は黙りこくった。環も、返す言葉を見失っていた。一人なら心細くて耐えきれなかったであろう広い海原で、二人の影だけがゆらゆらと揺れている。そうしているうち、ごお、とどこからか海鳴りがとどろいた。だいぶ前に背へ見送った橋梁を走る、大型車両の音かもしれない。ともかく壮五はその陰で震えながら、薄い唇で確かにつぶやいた。
「怒ってもいいよ……」
 思わず肩を揺すって上げさせた顔は、空に浮かぶ月と同じように白かった。初めて会った時と変わらず透き通ったままの瞳に、環の泣き出しそうな顔が映っている。
「……怒る」
「うん……ごめんね」
「超怒る。一生根に持つ。……俺、そーちゃんのこと忘れないよ」
 怯えるように壮五は身を退いた。環が壮五に「忘れない」と訴えるのは二度目だ。言い争った夜を思い出すと、環の心臓もどくどくとせわしなく鳴り出した。けれど今日は逃がしはしない。壮五だってきっと、環を海のど真ん中に放り出して去るほど酷薄ではない。壮五は海に飛び込んだ環を一度咎めたが、最後まで話をするならここしかなかったのだ。
「いなくなるななんて言わねえよ。そーちゃんがいなくても、そーちゃんが俺の話聞いてくれたこと思い出したら頑張れたんだよ。そーちゃんに会えなかった間、寂しかったけど、寂しいから、忘れないよ」
「……忘れるよ」
 環の腕を握る壮五の指に、ぎゅうっと力がこもる。胸がひときわ大きく脈打ったが、環も壮五も、互いから目を逸らさなかった。
「忘れるよ……僕がいなくなって、泣くほど寂しがったって、いつか大人になって、守りたい人ができて、その人のために、その人と一緒に、ずっと――」
「そーちゃん、寂しい?」
 言葉をさえぎって抱き締めた肩は冷たかった。けれどこの頼りない骨も薄い皮膚も、手のひらで包んでいれば人肌に温まることを、環はもう知っている。
「そーちゃんの言ってること分かるよ」
 たった一人の肉親すら失いかけた自分だって、たくさんの人に支えられて、今日まで真っ当な生活を送ってきた。壮五と永遠の別れを迎えたって、母を亡くした幼い頃のように、寂しさを少しずつ癒していくのだと思う。
「だけど、そーちゃんが寂しいって思ってたことは、絶対に忘れないから」
 壮五の抱える傷を癒せないことが、今でも環の心を痛め続ける。でもそれでいい。壮五は頑なに厭うだろうが、その痛みと連れ添うことだけが唯一壮五にしてやれることであり、同時に環の救いだった。
「そんなこと言わないでくれ……」
 困り果てた壮五の目から、涙がぽろぽろとこぼれ出した。環はまず吃驚した。今まで壮五が泣き出しそうな顔を見せることは何度もあったから、逆に何があっても人前で涙を流すことだけは、絶対にしないものだと思い込んでいた。
「びびった。そーちゃん、泣くんだな」
「僕も驚いた……。海の中だとこういうの、ないよね」
「し、知らねえけど……。ええと」
 塩水に濡れた手で壮五の肌をこするのも憚られて、迷った挙句、環は目尻にちゅ、と軽く口づけた。ぱちくり、と瞬かれた瞳から、また一つ大きなしずくがこぼれ落ちる。頬の途中で止まっている水滴を掬い上げると、滑らかなそこがかあっと熱くなって、思わず環の頭までのぼせた。
「え、ええと……しょっぱいな。ふつーに……」
「涙は海の味がするって本当?」
「え?」
 環にだって、改めてそんなことを実感した経験はない。おずおずともう一度壮五の頬に舌を伸ばすと、お返しをするように壮五も、乾いていた環の目元に唇を寄せた。
「海の味って、僕はよく分からないんだけど……」
「……だいじょーぶ。そーちゃんも同じ味する」
「本当に?」
「ほんと。もっかい泣いてみ? 何回でも確かめてやる」
 言葉を詰まらせて環の胸に顔をうずめた壮五が、涙を流していたのかどうかは分からない。相変わらず波には濡れない壮五の癖毛が、腕の中でふわふわとそよいでいる。環が前髪から海水を滴らせると、それをぴんと弾いてまた揺れた。
「……会いたい」
「うん」
「また君に会いたい。会いたいよ……」
「うん。会いに来るよ。だから、そーちゃんの歌、教えて」
 二人が出会った街の向こうに、大きな月が沈んでいく。
「忘れちゃうなんて言わないで。……俺のこと、信じてください」
 夜明けの足音を後方に聞きながら環は一つ誓いを立てた。壮五は何も言わないまま、環の背をひときわ強く抱き締めた。
 
 空の果てが白み始めて、二人は再び先を急いだ。壮五の背をビート板のようにして覆い被さると、壮五は「大きな子供だなあ」と苦笑しながらも、環をおぶったまま泳いでくれた。
「……僕は心が冷たいのかな」
「なんで?」
「自分から近づいておきながら、結局離れろって言うなんて」
「んーん。そーちゃんが俺のこと見つけてくれて嬉しかった。俺に『大丈夫』って言ってくれてありがと」
 ちゃぷちゃぷ、一緒に水を掻きながら、今日までのことを報告し合った。冬の海は寒くなかったかと尋ねてみたら、遊覧船が減ってつまらなかったよと笑われた。年の境に一度、観光スポットの広場が賑わうシーズンがあって、その様子を覗き見にいくのがスリリングで面白かったらしい。環は恐らくその頃、IDOLiSH7として海外のポップシンガーの前座とブラックオアホワイトへの出場が立て続けに決まって、後悔に押し潰される暇もないほど忙しかった。
「環くん、頑張ったんだね」
「うん。皆も頑張った。ブラホワで優勝してからめっちゃ人気出て、誕生日終わるまで何してたかよく分かんねー」
「あはは。風邪はひかなかった?」
「そーちゃんそればっか。ヘーキだってば」
「悲しいこととかなかった?」
 壮五は話の途中で時々、つらくはなかったか、苦しくはなかったか、と訊いた。環は毎回、そんなことはなかったと答えた。父親を殴って逃げ出した日の翌朝、寮でまずメンバーと顔を合わせた時は、隣に三月がいてくれた。関係各所に謝罪をして回る時も、リーダーとマネージャーが両脇に並んでくれて、環は最後まで、泣き出さずに頭を下げることができた。
 しばらく陰口は叩かれたが、当然のことだと思えたから腹は立たなかった。現場で実際に迷惑をかけた人たちには一人でも繰り返し謝りにいったし、仕事でも成果を出せるよう努力した。その甲斐あって、と言っていいのかは分からないが、環は今年の春、初めてドラマ主演の仕事を獲得した。想い人を探しているという男性の役は自分に重なるところがあって、幸い演じ方に悩むことはあまりなかった。
 そんな中、環の目的は突然果たされた。
「理に会ったよ」
 壮五がちら、と環を振り返った。悲しい話じゃないよと示すために、なるべく優しく微笑んでその顔を覗き込む。
「アイドルになるんだって。あいつにもやりたいことがあるなんて、全然考えたことなかった。小さかったのになあ」
 三歳ぽっちで別れた妹が、環を兄だと認識できたのと同じように、環も彼女を一目見ただけで、自分の妹だと確信することができた。抱き合った体はやはり母に似て細くか弱かった。しかし表情は環のどんな想像よりも明るく、強い意志に満ち満ちていた。
「アイドルになるって言った理、笑ってた。嬉しそうだった。俺はいつやめるかって、そればっかり考えてたのに……」
「じゃあこの先、妹さんと一緒に仕事ができるかもしれないんだね」
「うん。……でも当分先かな。シュギョーのためにアメリカ行くんだって」
「遠いの?」
「んー。地球の裏側ってほどじゃねえけど、空飛んでいくようなとこ」
「そうか……」
 水平線を見据えた壮五の声がわずかに沈む。壮五は環の弱がりな性質をたびたび心配していたが、もしかすると壮五のほうが、自分よりよっぽど沈みやすい性格なのではないだろうか。
「俺さ、理の居場所分かったけど、ソロ活動、続けることにした」
 壮五ははっと息を呑んだが、壮五が落ち込んでいるからと放った言葉ではない。壮五の姿を探して再びあの港町を訪れ始めた時から、ずっと報告しようと思っていた。
「曲作んの……は無理でも、作詞とか、やりてえなって思って。気持ちとか伝えるのまだ苦手だけど、これならできるかなって」
 ダンスやルックス、キャラクター――今まで特に意識しなくても売れる点ばかりを買われて仕事をしてきた。欠点が誰かに迷惑をかけても若いからと、あるいはそれが環だからと許されてきた。しかし、生まれた家で守られるしかなかった妹が、大切な人を守るためと戦うことを選んだように、自分も、諦めていた弱点を克服してみたい。
「それに、テレビは難しいけど、歌なら、アメリカまで届くだろ」
「そういうものなの?」
「知らんけど、ネットとかで手に入りやすいじゃん」
「そうなんだ。海の中にもあったらいいのにな」
 壮五としては冗談を言ったつもりなのだろう。環はふふ、と少しだけ息を漏らすと、眉が寄りそうになるのを堪えて、壮五の肩に鼻先をうずめた。
「そーちゃんがもし消えちゃって、またどこかに生まれた時、俺の歌が残ってるかもしんないだろ」
「……君」
 壮五が進むのをやめて、環に向き合った。隠していた表情が晒されて、余計に情けない顔になりそうだった。勇気を振り絞って言ったつもりだったが、環の緊張に反して、壮五はあっけらかんと言葉を返した。
「案外可愛いことを言うね」
「かわ……はあ? あんたってほんと時々無神経!」
「やっぱり冷たいって思う?」
「んなこと言ってねえだろ、ずりいぞ!」
「ふふ、もう、すぐ怒る」
 壮五はいたずらっぽく笑うと、環を支えていた腕をそっと解いて、暁の空の方角へと向かった。置いて行かれても、顔を出したままなら、環もパニックになったりはしない。平泳ぎでちゃぷちゃぷ、と肩を並べると、壮五は環の泳ぎぶりを確かめた後、手首だけで右方向を指差した。
「もう少しだよ」
 遠方に陸が見えていた。自分たちがいた場所とは違う、自然の岩そのままの小島だった。
「向こう側は、橋で町につながっているんだよ。周り込んだから少し時間がかかっちゃったな。……くたびれてないかい?」
「ヘーキ。一晩泳ぐ気で来たし」
「冬だったらどうするつもりだったの」
「分かんない。冬でも会える場所ない? このくらいキレーなとこでさ」
「探しておくよ」
 浅瀬へ上がる頃には、空は赤く色づき始めていた。環は壮五を下半身だけ浸かる位置に座らせると、ベルトに引っ掛けっぱなしにしていたシャツを軽く絞って、壮五に着せてやった。
「肌、乾くと痛いかもしんねえし。体重くない?」
「やっぱり肩と腕が少し重いね。外だとこんなに違うんだ」
「しんどかったら戻ろうな」
「大丈夫だよ。君だって海の中で器用に泳いでただろ」
「そういう問題か……?」
 壮五が導いてくれた場所は、高い崖の真下が削げたように洞になっていて、海を渡らなければたどり着けないが、身を隠すのにはうってつけだった。
「ごめんね。戻るのが少し大変かも」
「だからヘーキだって。それより、道分かんねえから帰りも送って」
「うん。ちゃんと眠ってから行こうね」
 岩陰で身を寄せ合って、東の空の彼方を見つめた。思えば壮五と、細波が規則的に寄せる音を聴くのは初めてだった。壮五の前で何度も早足になった心臓が、心地良いリズムに落ち着いていく。壮五の胸も、同じように穏やかであったらいい。
「……ねえ、そーちゃん。そーちゃんに教わった歌、俺が歌っちゃだめかな」
 壮五がぎこちなく上体を捻ろうとしたので、無理をするなと伝える代わりに、波打ち際に浸った手をつないだ。
「おじさんとか、ややこしいことは言えないけど、大事な人の大事な人が作ってくれた曲ですって、俺が歌っちゃだめかな。……そーちゃんはさっき笑ったけど、そーちゃんがまた生まれてきた時、俺の歌が聴けたらいいのにって思うの、ホントなんだよ……」
 環だって、途方もない話をしているのは分かっている。生きた人間と再会するのだって十年以上かかった。それこそ、叶わないことを想像するくらいなら、初めからしないほうがマシな話なのかもしれない。けれど賭けたい。
 環の気持ちに応えるように、壮五が細い指をぎゅうと握った。
「僕も君に頼みがある。やっぱり僕にも、君の歌を教えてほしい」
 壮五は一度つないだ指を離し、砂地に手をついてほんの少しだけ腰を浮かせると、環のほうへゆっくり体を向けた。岩にでも寄りかからせればよかったと反省しつつ、取り急ぎ背に腕を回して支えると、壮五も遠慮がちに環の二の腕に捕まった。
「僕は君の歌を海の向こうへ届けたりだとか、そんな立派なことはできないけど……」
「つまり、そーちゃんの『わがまま』ってこと?」
「……だめかな?」
「だめじゃねえけど……」
 嬉しかったけれど、さすがに引っ掛かった。かつて歌いたくないと先に言ったのは自分だが、一緒に歌えというなら別にかまわないと、壮五だって拒んだのだ。
「ごめんね。わがままだよね……」
「わがままでいーけど、だって、なんで……。教えてって、そーちゃん、歌ってくれんの? なんで?」
 感情を吐露する時、壮五はいつも震えている。今も例に漏れてはおらず、環は逸る気持ちを一生懸命抑えながら、壮五が本心を話してくれるのを待った。
「僕が、君を突き放したのはね……。僕を逃げ場にしないでほしいって気持ちもあったけど、もう一つ――厚かましいかもしれないけれど、君の歌に、僕との思い出を残したくなかったんだ」
 壮五を理解できないと思ったことは、今までにも何度もあった。しかし一度本音を紐解いてみれば、理屈は想像以上に簡単なのかもしれない。壮五の言い訳は、壮五が環を思い遣ってずっと訴え続けてきたことだった。環はそれに何度も抗おうと試みてきた。ようやく二人の答えが見つかりそうだ。
「僕も叔父さんのようにいつかいなくなるなら、ただのファンでいたかった」
「……分かった。でも、それってもう過ぎた話だよな」
「そのつもりだけど……。だから怒らないでね」
「そーちゃんが俺の歌覚えてくれたら許してやる」
 初めに歌いたいのはやっぱり、ソロでデビューする時にもらったあの曲だ。いつも見えない誰かと踊っていた振付も、海の中でなら教えてやれるだろうか。壮五が教えてくれる歌にも、ダンスを考えてやれるかもしれない。試してみたいことが次々と湧いてきて、胸が今までとは違う音で高鳴り出した。
「……あ」
 不意に壮五が声を上げた。その視線の先――水平線に目をやると、その際から、ネイビーブルーの空が金色に染まり始めた。
「そーちゃん、日の出!」
「わ、まぶしっ……」
 海の底に長いこといたせいだろうか、壮五は色素の薄い瞳を庇うように、顔を環の肩に伏せた。抱きとめた白い背の先で、朝の光を受けた鱗が、薄紫色に輝いた。
「……そーちゃん」
 無数の星屑のようなきらめきに見とれながら、環はすぐそばの小さな耳にささやきを落とす。
「俺、なんだかんだ、そーちゃんいなくなったらちょー寂しいと思う。でも、それをそーちゃんが分かってくれてるから大丈夫なんだよ」
 環を何より支えてくれる力が、壮五の助けにもなればいい。