5.初冬

 秋に続けて、大和にまたドラマ主演の仕事が舞い込んできた。一度目は渋った大和も、二つ返事で引き受けた。今度は三月、ナギにも友情出演の依頼が来ているらしい。
 環の包帯も無事に取れた。怪我のため仕事を断った企業のいくつかは、迷惑をかけたにも関わらず、春にかけて新しい仕事をいくつも依頼してくれた。
「環、期待されてるんだなあ」
 空き部屋に本を読みに来た陸が、長座でストレッチをしている環の背に寄りかかりながらそう感嘆した。
「りっくん、もうちょい押して。……そーかな」
「そうだよ。コンビのオレたちと同じくらい仕事入ってるもん」
 今まではテレビに出られればなんでもいいと考えがちだったが、怪我の一件で、事務所やマネージャーにばかり膳立てをさせてきたことに気付いた。三月やナギに自分の売り込み方や仕事の取り方を教わり、現場での振る舞いに気を遣うと、ファンだけでなくスタッフや他事務所のタレントまでもが、環に応援の言葉をかけてくれるようになった。
「そう……かな。そーかも。なんか、甘えないようにしなきゃって思ったら……」
「えらいなー。オレももっとしっかりしたほうがいいかな?」
「いおりん、アメとムチ超上手いから気にしなくていいと思う」
「あはは。言えてるかも」
 優しい家族と清潔な病室に守られて生きてきた陸は、その天真爛漫さゆえに、環の目にも危なげに映るところがあった。ただでさえ弱い体でセンターとしての重責を担う陸のそばに、定められたパートナーとして一織が寄り添うこととなって、本当によかったと心から思う。
 環にとっても一織は恩人だ。一織は傍若無人だった環に、人と協調する方法を教えてくれた。自由と孤独とは表裏一体なのだと今なら分かる。他人に自分の時間を捧げることは、自分を絶対に孤独にはしない。
 思えば一織がだいぶ前から、環の前でそれを実践していた。一織は自分自身が多忙であるにも関わらず、環の勉強や、卒業に必要な単位の面倒を見てくれた。環は、初めは感謝こそすれ、無理してまで助けてくれなくてもいいと思っていた。しかし一織に一人で弁当を食べさせることに切なさを感じ始めてから、お節介ではなく友人としての好意だったのだと気付いた。
 自分もそんなふうに自然に、好きな人たちと一緒にいられるようになりたい。今まで持つことすらなかったそんな望みは、陽だまりのように環の胸を暖めてくれた。その温もりを知らなければ、冷たい海に一人でたゆたう壮五の姿に、なんの感情も抱かずに済んだのかもしれない。誰かと共にある幸せは寂しさと紙一重だということなど、心を形作る前に親を失っていた環には、思いもよらないことだった。
 今の環には、壮五の気持ちもきちんと理解できる。最愛の叔父を亡くした壮五のことだから、自分の体についてはどうなったってかまわないと考えてるに決まっている。壮五が環との逢瀬にためらいを見せたのは恐らく、自分がいついなくなるのか分からないからだ。叔父がいなくなった時と同じ思いを環にさせたくなかっただけではなく、させるかもしれないと思いながら会い続けることそのものが、壮五にとって苦痛だったのだろう。
「環、最近この部屋にいること増えたよね」
「そーだな。外さみーし」
 言いながら開脚して上体を倒すと、陸の背もたれがリクライニングチェアのように傾斜して、愉快そうな笑い声が上がった。
「オレもこの部屋好きだな。静かだし落ち着くよね」
「りっくんの部屋はちょっとまぶしーよな」
「あはは。元気な時はいいけど、落ち込んでる時はちょっと疲れちゃうんだよね。……この部屋に住むかもしれなかった人は、きっと静かで落ち着いた人だよね」
 自分たちメンバーに虹の七色――赤橙黄緑青藍紫――が充てられていることは、初めてライブ用の衣装を受け取った時から明らかだった。欠けている一人は間違いなく、最後の一色を担うはずだった。
 社長は適任が見つからなかったと言うが、赤とも青ともつかないこの複雑な色をまとうのに違和感のない人間なんて、この十七年間を振り返っても心当たりがない。意図的に「誰かがいるはずの空間」を設けた環の曲の演出から考えても、本当は初めから、誰かを入れる予定なんてなかったのかもしれない。――そのほうがいい。諦めがつく。一緒に歌えるかもしれなかった人が、自分の知らないどこかにいるなんて悲しすぎる。
 壮五にも初めから会わないほうが、互いに心穏やかでいられたのかもしれない。
「病室も静かで綺麗だったけど、やっぱり、早く出られたほうがいい場所だからさ。でも、この部屋はなんだか『気の済むまでいていいよ』って言われてるみたい」
 壮五がそんなふうに言ってくれることを、環はきっと期待していた。壮五の住んでいる場所がコンクリートで固められた海などではなく、雨の音が細波のように優しく響く、薄紫に彩られたこの部屋ならよかった。
 
 さてグループの活動も個々の活動も絶好調といった雰囲気の中、IDOLiSH7がいわゆる週刊誌に取り上げられることが多くなった。メンバーの不仲を煽る記事に初めは六人も踊らされたが、ネタが尽きたのか個々の家庭事情を書かれるようになってから、さすがに様子がおかしいことに気付いた。
 環の妹探しが「ヤラセ」だと詰られたタイミングで、大和が皆を共用スペースに集めた。成人組が夜まで仕事をしていたため、時刻は二十三時を回っていた。
「ま、どのへんが動いてんのかは想像つくけど。どうする? 社長に相談して探り入れてもらうか?」
「……いい。園のこと書かれてねえもん。肝が小さい奴なんだろ。そのうちやめるっしょ」
 それより皆がケンカしてるほうがヤだ、とつぶやくと、ワタシもです、とナギがこぼした。間に座っていた三月がバンザイをするような格好で二人の頭を撫でると、向かいの一織と大和が、同時に噴き出して口元を押さえた。
「おーい。早々にケンカ売っちゃう?」
「やめてよー。環が泣いちゃうよ」
「泣かねえよ。りっくんもなでなでしてもらえば?」
 陸がそわそわとうらやましげな様子を見せると、陸と一織との間にいた大和が、両脇の頭を抱き寄せてくしゃくしゃと髪を掻き回した。
「俺も嘘とはいえ大人げなかったなー。ごめんな、タマ」
「ヤマさんマジで怖かった……」
「その点、タマは落ち着いてたよな。こんなのに慣れんなよ」
「うん……」
 夜が更けないうちにその場はお開きとなった。ナギと一緒に三月の布団に潜り込みたい気分だったが、悩む間もなくやめた。陰口を叩かれるのと同じように、一人で寝るのだって、続けていればいつか慣れるのかもしれない。一人で自室に戻り、目覚まし三つとスマホのアラームをセットしてから、冷えた布団で体を丸めた。
 ゴシップ記事に書かれるようなネタがアイドルのイメージを損なわせるというなら、自分の生い立ちは恰好の餌食だ。それに手を出してこない黒幕の小心さが環は気に入らなかった。引き抜きの時は脅しに屈しかけもしたが、正体は結局この程度なのだ。大人に振り回されるのなんて馬鹿馬鹿しいと、物心つく前から思い知らされていたはずなのに情けない。
 ともかく、早く妹を見つけ出したい。誰かを失う恐怖から解放されて、シンプルな頭でこの先のことを考えたい。強くなって、今の仕事を続けるとなんの後ろ暗さも持たずに言うことができるようになったら、もう一度壮五に会いにいくことを許される気がする。
 だけどもし、妹が見つからなかったら――誰かに捕まって、どこぞの社長の言うように暴力を振るわれていたら。その場から身体だけは奪還できても、彼女の心を救えなかったら。ただ産まれただけであんな目に遭うのだ。施設を出て路頭に迷った子供が無事でいられるなんて、本当は思えない。
「うあっ……」
 自分の叫び声で飛び起きると、相変わらず散らかり放題のベッドの上だった。電気はいつも通り点けっぱなしにしていたが、思考の闇に捕らわれるとそんなものは役に立たなかった。
 ひとたび焦り出すと、夜眠るのがいっそう困難になった。ただでさえ壮五と会わなくなってから眠りは浅くなる一方だったのに、しばらく見ていなかった悪夢が環をますます追い詰めていた。
『大丈夫だよ』
 ふと、壮五の教えてくれたおまじないのような言葉が耳によみがえった。今までこの音の連なりが、環の眠りを支えてくれていた。
『大丈夫だよ。信じられない?』
 思えば、壮五の示す態度はいつもこの一言に尽きた。常に共にいられる関係ではなかったけれど、「大丈夫だ」と壮五が環を信じるたび、環は本当に強くなれるような気がしていた。
 強くならなくちゃ。新たにされた決意と、環を突き放した壮五が抱いていたであろう願いが重なると、大きく脈打っていた心臓がほんの少し足を緩めて、ぼんやりとだが眠りに意識を委ねることができた。そんな報告をする機会はもうないかもしれないけれど――と、早くも馴染み始めていた寂しさが、枕に一粒、涙を落とした。
 
 しかし意気込みに反して精神はまだ未熟なもので、目を覚ましているうちはやはり不安と焦燥に苛まれていることが多かった。踊っていても人と話していても気が紛れなくなってからは、やはり慣れるほうが早いのかもしれないと、自らその手の情報で頭をいっぱいにしてみようと試みた。
「まーた人探しの番組観てんのか」
「あ、みっきー、おかえりなさい。手洗わないと怒られんぞ」
「はいはい」
 三月はキッチンでうがい手洗いを済ませると、環に並んで、ぼすんとソファに腰掛けた。番組はというと、本職は俳優だという年配のタレントが、別れた妻について行った娘との再会を果たしていた。
「おかーさん死んじゃってて、見つけんの大変だったんだって」
「おお。でも会えてよかったな。この人、家族の写真持ち歩いてたもんな」
「みっきー、知ってんだ」
「仕事で何度かな」
 依頼人と目的の人物が無事に出会えるケースばかりではなかったけれど、この手の番組は、終盤にはいつも決まって「感動の再会」を映してくれた。泣きながら微笑み合う親子や兄弟の顔を見ながら、大丈夫、大丈夫、と自分にも静かに言い聞かせる。番組中の再現VTRの余韻が眠りを妨げることも少なくなかったが、自分の記憶や想像で繰り返し傷つけられるよりずっと楽だった。
 そんなふうに何度頭の中でシミュレーションをしていても、自分が実際に「再会もの」に出演するとなると、ものすごく緊張した。バラエティにしてもミニドラマにしても、あまり台本を読み込み過ぎずに挑んだほうがスムーズに現場に馴染めることを自覚していたし、自然体の自分を褒めてもらえるのなら、それが何より嬉しかった。
 しかし今回は見事に例外だった。カメラが回っているのはいつものことだが、妹に会えるかもしれないのだ。たとえ会えなくても、画面の向こうで観ているかもしれない。何を突き付けられたって、みっともないざまは晒せない。
 そんな兄としてのプライドは、きっと壮五には分からない。不安を吐露すれば「大丈夫だよ」と言ってくれただろうが、困ったように眉を下げる表情が目に浮かぶ。会わない、と決めていてよかったかもしれない。目の前にいたらきっと、めちゃくちゃに泣き言を吐いている。
 収録当日は一日中晴れていて、教室から見上げるイワシ雲が美しかった。全く身の入らない授業を六時間目までこなし、一織と一緒にスタジオへ急いだ。
 運命の瞬間まであと十数分。楽屋で待機している間、心細さに震える指を必死に握っていたら、三月が背中をさすってくれた。彼は環よりずっと小柄だけれど、環にとっては一番身近な「兄」だった。強張った全身からほんの少しだけ力が抜ける。
「オレたちも一緒にスタジオにいるから。生放送じゃないんだし、何かあったら声かけてやるから」
「うん……。大丈夫……だよな」
 そう唱えても、手足が冷えてじっとしていられない。トイレ行ってくる、と席を立ち、スタジオ内をさまよう間も、すれ違うスタッフの表情ばかりが気にかかった。皆、妹が見つかったのかどうか知っているんだろうか。
 鏡に映った青白い頬をパシパシと叩き、楽屋に戻る途中、番組の制作スタッフの一人らしき男に声をかけられた。
「今日、楽しみだね。期待してるよ」
「あの……俺んとこ放送するの、何分くらいからっすか」
「うーん。まあ、編集したらちゃんと連絡入れるから安心して」
「……うす」
 いざスタジオに入ると、暗い顔をしているスタッフは一人もいなかった。そういうものなのだろうが、言い得ぬうそ寒さを感じて環は身震いをした。環の生い立ちを労わる司会の明るい声が、頭の少し後ろを通り抜けていく。
 この後、セットの奥の扉が開いたって、見つかったけれど会えないから手紙を預かってきただとか、そんな展開もテレビで何度か観ていた。残念ながら見つからなかったという結果だって当然にある。いろんなことを考えていたつもりなのに、そんなことしか思いつかなかった。――その瞬間は、恐れる間もなく訪れたのだ。
「よく出てこれたな、このクソ親父!」
 気付くと叫んでいた。自分のその声は他人の物のように聞こえたのに、人が殴られる音を思い出した時、いつかこんな日が来る気がしていたことを、はっきりと自覚した。そこからはもう自分を止められなかった。
 目の前で父親が苦しげにうめいている。やり返してくる気配はなかったのに、相手が口を開きかけるなり、胸ぐらを掴み上げて繰り返し怒鳴りつけた。まともに口をきいたら自分が自分でなくなる。この男のどんな言い分も、言葉として認識し記憶にとどめたくない。
「環、もうやめろ! 下岡さんまで――」
 陸だろうか、三月だろうか、メンバーの声も判別できないほど朦朧とした意識はもう、自分の体をコントロールすることなど不可能だった。やめろだなんて、あの家では、殴られている母親と自分以外に誰も言ったことがなかった。
「タマ、もうよせ!」
「いやだっ……こっち来んな!」
「いいから落ち着け」
「やだ、やめろ、離せっ……!!」
 大和が父親との間に割って入り環を押さえつけた途端、幼い頃の記憶が絵巻物を転がすようによみがえった。パニックに陥った環を背後から押さえ込もうとした三月と陸がよろめいて、ナギと一織がそれぞれ庇っている間に、環はとうとう大和の体を正面から突き飛ばしてしまった。――ということに、全て終わってから気付いた。父親の傍らに倒れ込んだ大和の姿を見て、環はようやく正気を取り戻した。
 番組の収録は中止となった。楽屋の扉を閉めてからしばらく、誰も口を開かなかった。環も一応ここまで歩いて戻ってきたが、壁にもたれてうずくまるなり、身動きが取れなかった。
 謝罪に向かったマネージャーを待つばかりでいたら、リーダーの携帯電話の着信音が鳴った。
「万理さんの車でいったん帰れって――あ、タマ!」
 制止される間もなく楽屋を飛び出し、環はスタジオから逃げた。すれ違う人に腕や肩がぶつかって、再び環の思考は正常さを欠いていった。ぜいぜいと上がる息に血の味がにじむ。疲れ果てた足を止めるのが怖い。
 駅は違ったがよく知る路線の先頭車両に滑り込んで、隅に身を縮こまらせた。通勤ラッシュも終盤に差し掛かる時間帯で車内がごった返し、環の姿を目立たなくした。考えるべきことの一切を拒みつつも、前回降りた駅とちょうど同じ地点で体が動いた。向かう場所は決まっていた。
 クラクションをかき分け、遊園地を横切り、人がまばらに行き交う遊歩道から海際への段差を駆け下りる。人目を完全に避けられる場所ではなかったが、構う余裕もなく叫んだ。
「そーちゃん!!」
「……環くん」
 歌を歌わなくても、彼は姿を現した。たまたまそこにいたのか、環の声を聞いて来たのか、それとも幻覚なのかは分からない。
「もう来ないって言ってたのに……」
「来ない。……もう来ない。これで最後にする。そーちゃん」
 震える喉から、自分でも信じがたい言葉が飛び出した。
「一緒にいて」
  壮五が目を見開いた。いいよと言われるはずなどない。非難の言葉を聞きたくなくて、めちゃくちゃな理屈をひたすら訴え続ける。
「そーちゃんがいなくなっちゃうなら俺も一緒にいる」
「待って、話が見えない。どうして急にそんなこと」
「急じゃねえよ、絶対いつかこうなるって分かってた!」
 自分が父親の子供なら、何かの弾みで間違いを起こす。体が小さい頃は周りが止めてくれたけれど、大人になればそうはいかない。ユニットを組んでしまったら、自分が芸能界にいられなくなった時、相方が可哀想だ。――そう思いながら、ずっと一人で仕事を受けてきた。
「や、ヤマさんに怪我させた。たぶんいろんな人に」
「……許してもらえなかったの?」
「許してもらえなくていい……」
 たとえ干されたって、優しい彼らが環を追放するようなことはないと思う。そう予想できることにも耐えがたかったが、一番の問題は環の中にあった。この間鉢合わせた空き巣は小柄な年配の男だったが、今回はメンバーの中でも鍛えている大和までもが負傷した。人がこんなに簡単に倒れるとは――自分の力がこんなに強いとは思っていなかった。
 把握も制御もできない自分の力が恐ろしかった。こんなことを繰り返さないために、どこかへ消えてしまいたい。
「いいって、だって、妹さんはどうするの」
「理だってこんな兄貴見つけてもどうしようもねえもん! お願い、そーちゃん、そーちゃんと一緒にいる。そーちゃんだってずっと一人じゃんか」
「……馬鹿なこと言わないでくれ!」
 怒鳴りつけた壮五は泣き出しそうな顔をしていた。握りしめていた鉄柵が二人の間でわんと震える。
 壮五は環に厳しいことも言うけれど、間違いなくずっと優しかった。環の泣き言に心を痛めながら、常に環の幸せを望んだ。壮五自身がなくしてしまったものを、手放すなと願っていた。
 環だって今、自分が壮五を傷つけていることは分かる。壮五が最も恐れていた、取り返しのつかない台詞を口にしたということも。自分はいつもこうだ。感情に突き動かされて、自分の大切なものも他人の大切なものも台無しにする。
「つまり、僕が君を道連れにしろということだよね」
「だ、だって」
「だってじゃない。……もうここには来ない」
「やだ、そーちゃん待ってっ……うわっ」
 背を向けた壮五を追うように思わず身を乗り出したら、勢い余って上半身が大きく傾いた。腰の高さ程度の鉄柵は、長身を支えるには不十分で、環は重力に従いそのまま、海にざぶんと落ちてしまった。
 水は刺すように冷たく、体感したことのない苦痛に言葉を失った。思わぬことに壮五は一度振り向いたが、迷いを断つように波を掻き、瞬く間に水底へ消えた。
 いっそ死んでしまいたいと思っていたはずなのに、いざその危機に瀕すると気が動転した。夢中で岸に這い上がると、コートの内ポケットでスマホが震えた。
『あっタマっ……電話くらい出ろよ!』
 歯の根をがちがちと鳴らしながら、何も考えられないまま通話をつなげた。大和の叱責の後ろにメンバーの声も聞こえる。
『お前どこにいるんだ? 外か?』
「外……う、海、落ちた……」
『はあ!? 大丈夫か!?』
「さ、寒い、死にそう」
『当たり前だろ! どっか風呂とか』
「わかんない、いつものとこいる……」
 大和が送話口から離れ、誰かに何やら指示を出しているのが聞こえた。かじかみ切った指先の感覚がない。全身ががたがた震えて電話を握ることもままならない。海風が冷たくて気を失いそうだ。
『分かった。観覧車近いか?』
「み、見える」
『すぐそばに風呂入れるとこあるから行け。動けるか?』
「がんばる……」
 ただでさえ凍えた体が言うことをきかないのに、水を吸った冬服の重たさは想像を絶した。しかし今までは歩道から少し窪んだところに身を縮こまらせておけたが、こんな姿でいつまでもうろうろとはしていられない。
『風呂入った後でいいから店の名前連絡して』
 分からなかったらフロントに聞けよ、と補足して大和は通話を切った。そういえばあの収録の後、大和も楽屋へは一緒に戻ったと思うが、怪我の様子はどうだったのだろうか。
 手すりにすがりながら海縁の階段を上ると、以前終電を逃した時に世話になった建物が、虹色のイルミネーションを映していた。死に物狂いで駆け込み受付へ上がると、スタッフにも客にもひどく驚かれたが、入館手続きに戸惑う余地もなく、すぐに温浴スペースへ放り込まれた。
 
 浴衣に着替え、早々に客室に引きこもった。館内どこにいても視線を感じた。借りた部屋は、奥にテーブルが一つきりの簡素な和室だった。肌寒く感じたが、座布団を引っ張り出す気も、まして布団を敷く気も起こらず、壁際で膝を抱えてじっとしていた。
 濡れた衣服は、フロントでもらったビニール袋に適当に詰め込んだ。畳の上に当て所なく放られたスマホが、先ほどより愉快なメロディを鳴らして震えた。
「……みっきー?」
『あ、風呂出たか? どこにいる?』
「へ、部屋。四〇五号室」
『分かった。フロントにオレの名前伝えといてくれ』
「待って。外出たくない……」
『電話あんだろ』
「電話……?」
 四つ這いで部屋の中をぺたぺたと急いで回ると、作り付けの棚の下にそれらしきものを見つけた。おっかなびっくり受話器を耳に当てると、何も押していないのにコール音が鳴ってまた驚いた。
「えっ、わ、あ、えっと、四〇五の四葉環ですけど……」
 戸惑いながら連れが来ていることを伝え、電話を切ると、スマホからかすかに「もしもーし」と三月の声が聞こえた。
「み、みっきー、言った。だいじょぶ?」
『おう。ツインの部屋取ったから三階来な』
 言われるがまま荷物を持って階下へ降りると、ボストンバッグを抱えた三月が廊下の端で待っていた。
「帰るの明日でいいよな?」
「う、ん……」
 いいのかどうか環にはよく分からなかった。そもそも、まず開口一番に逃げ出したことを叱られるのだと思っていた。ちらと伺い見た三月の表情には、怒りの色はない。
「着替え適当に持ってきたから。濡れた服は干しときな。乾かねーと思うけど」
「……みっきー」
「怪我とかしてねーか?」
「し、してない。みっきー、ヤマさんはっ……」
「まあとりあえず座んな」
 三月は棒立ちになっていた環から服を奪い、手際よく壁際のハンガーに吊るした。座れと言われたが椅子も座敷もなく、とりあえずツインベッドに腰を下ろすと、三月が向かいに座った。
「ヤマさんは心配ねーよ。手首捻っただけ。運転できないからオレが来た」
「ご、ごめんなさい……」
「謝んのはオレにじゃなくてヤマさんにな」
「だって……ドラマの撮影とかあんのに」
「テーピングすればなんとかなるって。冬だし服でいくらでも隠せるだろ。ホントに心配ねーよ」
 話しながら、ベッドの間に垂れた二人分のつま先を見ていた。顔を上げるのが怖い。涙はかろうじて押し留めているけれど、声を絞り出した喉が焼き切れそうだ。
「お前の話をしにきたんだよ」
 思わず目をぎゅうっとつむった。腰掛けている場所がわずかに沈んで、三月が隣に来たのだと分かった。
「み、皆、怒ってるだろ」
「いや、怒ってるっていうか……」
「俺、アイドルやめる……。もうやめるから。ずっとそのつもりだったから、もういい……」
 やめて責任を取れるとは思わないが、今自分にできることといえばもう消えることくらいしかない。今回の惨事を思えば遅すぎたほどだ。このまま見捨ててくれと環は願った。しかし三月は席を立たなかった。
「早い話が、怒ってんの社長なんだよ」
「あ、謝りには行く。ちゃんと」
「あー、えーと、環のことじゃなくて。JIMA……前にマネージャーが言ってた賞あるだろ、あれにノミネートされたんだけど……。でも皆、曲泥棒だのゴシップ記事だので疲れてた時にこのトドメだろ。で、喜べないならやるなって言われたよ」
「でも……」
 皆、環の不祥事がなかったら、選ばれたのを機に仕切り直そうと思えたはずだ。優しい三月は環を連れ戻しにきたのだろうが、自分にはそんな気など毛頭ないことをどうすれば分かってもらえるのか、言葉で訴える以外にもう思い付かなかった。
「環、やめるって言うの二度目だよな」
「そうだけど……っ、弾みとか勢いとかじゃない、今度は」
「今度は何があった?」
「なんもねーよ、ずっとそのつもりだって……」
「ちゃんと言わなきゃ分かんねーよ!」
 三月が環より一回り小さな手で、環の両肩を揺さぶった。まぶたに浮かんでいた涙がぱたぱたと落ちて、汗ばんだ浴衣を温かく濡らした。
「お前、いつも『大丈夫』って言うだろ。でも、でもさ、あんなふうに爆発するまで一人で抱え込んで、何が大丈夫なんだよ」
 陽だまり色の大きな瞳が、環の泣き顔を映している。三月がカレーを作りながら環を案じてくれた朝を、昨日のことのように思い出す。
「でも……ほんとに『大丈夫』なんだ」
 ユニットは組まないと決めた日から、父親が目の前に現れたあの瞬間まで、事実としてここまで走ってこれた。妹の身がかかっていたから、諦める選択肢なんてあり得なかった。それでも感情に引きずられて立ち止まりたくなった時、海辺で魔法の言葉を手に入れた。
「そーちゃんがそう言ってくれたんだよ……!」
 たまらずわあっと声を上げると、すがった三月の小さな背に、涙が雨のようにとめどなく流れた。暖かい腕に強く抱かれながら、ほんの数えるほどしか触れられなかった、冷たい指先を思い出していた。
 妹を見つけるのが先か、この世界にいられなくなるのが先か、どうなるかは賭けだったとしか言いようがない。結果としてその賭けには失敗した。しかし同じ血が通っているのかも分からない彼の言葉一つだけで、環は自分でも驚くほどに救われてきた。いつか誰かを傷つけるかもしれない恐怖をねじ伏せて、幾度も一人で床に就き、淡い夢を見ながら朝を迎えた。
 強くなれと環を突き放した彼こそが一番、環に安らぎを許してくれた。彼はいわば環の「夜」だった。暗闇を拒む青空に優しく帳を下ろし、健やかな眠りにつかせてくれた。いつまでも眠っているわけには当然いかないけれど、決して欠いては生きられなかった。
「『そーちゃん』ってのは、最近会いに行ってた友達のことか?」
「……わ、かんない……」
 声を出そうとすると、ひっ、と喉が震えた。うう、と苦しげに息を詰めると、三月は慣れた手付きで環の背をさすった。
「う、まく、言えねえけど……。いおりん、は、友達だし、好き……。でも、そーちゃんは、そういうのじゃない……」
 ひっく、ひっく、と落ち着かない体が静まるのを待ちながら、夏からの壮五との記憶をたどった。たぶん友達ではなかった。兄とも違った。頼りにはしていたが、同時に彼もどこか頼りなかった。
「……ユニット組み直すか」
「なんで……。俺やめるって」
「オレがはい分かりましたって言うと思うか?」
「お、思わない……」
「だろ」
 皆もきっと言わねーよ、と三月が念を押す。怪我のことを抜きにしても、大和が三月を寄越した理由が分かる。環がずず、と鼻をすすると、パーカーの袖で大胆に鼻水を拭ってくれた。遠い昔、自分も泣き虫の妹に同じことをしていた。
「で、でも、組み直すのはやだ」
 これだけは譲るまいと必死で反論すると、三月は弱ったように眉を下げた。
「これからも一人で歌うつもりか?」
「だって……、いおりんとりっくんも、みっきーたちも、今のままが一番いい。バラバラなんて考えらんない」
「でも、乱暴な言い方だけどさ、相方いたほうがストッパーになるかもしれないっていうか……」
 環に劣らず喧嘩っ早い三月が、懸命に言葉を選んでいる。環も口を挟むことはせず、三月が一旦話し終えるのを待った。
「うーんと、信用してないわけじゃないんだけどさ。なんていうか、一人で頑張らせるの心配なんだよ」
 ――『君のことが心配だよ』。三月の声に次いで、波が寄ることのない石の海岸を震わせた、壮五の声がよみがえる。呼応するように、止まりかけていた涙があふれて、三月が呆れたように溜め息をついた。
「もう……。今度はどうしたよ」
「俺、そーちゃんのこと怒らせた」
「なんで?」
「たぶん、アイドルやめるって言ったから」
 優しい壮五が必死に声を張って訴えた願いを、踏みにじるかのごとく傷つけた。海に落ちた瞬間、壮五がどんな表情をしていたのか見る余裕はなかったが、彼は今どんな思いで、暗く冷たい海の底にいるのだろう。
「みっきぃぃ……ごめんなさい……」
「あーもう。はいはい。いいよ、言ってみな」
 数えきれないほどの失敗に、頭はパンク寸前だった。けれど濁流のように渦巻く後悔の中で、壮五の白い姿が澪標となって、環を結論へと導いた。
「俺、もうちょっと頑張りたい……。そーちゃんに、ちゃんと頑張ったよって言いたい」
「おう。俺らもサポートするし、その『そーちゃん』に褒めてもらおうぜ」
 じゃあそういうわけでもう寝なさいよ、と三月が環の頭を撫でた。またあれこれと考えさせてややこしいことになる前に、話をまとめてしまおうと思っているのだろう。
「早く帰んなくていいのかな……」
「車だし帰れっけど、一応皆には泊まるって言ってある。帰りたいか?」
「えっと……。じゃあ、お言葉に甘えて、泊まります……」
「だよな。ちょっと休みな」
 三月はクローゼットに入っていた浴衣に着替えると、ベッドサイドのランプを残して部屋の明かりを消した。環は迷わず、三月と別々のベッドに潜り込んだ。また手が微かに震えていたが、久々にきちんと眠れそうな気がした。壮五の住処に近い場所だからか、今までの思いを吐き出せたからか、これからのことを決められたからかは分からない。
 三月の寝息を子守唄に微睡みながら、最後に聞いた壮五の声を思い出して、環はもう一度だけ、静かに涙をこぼした。
 今の自分では、壮五に顔向けはできない。許されるとも思わない。仮に許されたとしても、このままでは彼に悲しみを殺させ続けることしかできない。
 けれど頑張って、芸能界に戻ることが叶って、歌い続けたいと自信を持って言える自分になれたら、もう一度壮五に会いにいきたい。壮五が臆病な自分を勇気づけてくれたから、寂しさに狂わずやってこれたのだと伝えたい。
 そして自分も誰かの助けになりたい。過ぎた願いかもしれないけれど、大切な人を亡くし、歌うことをやめ、眠ったままの彼の光になりたい。いつになるかは分からない。壮五の体調のこともあるから、あまり時間はかけられないが、ほんの数か月で成せるような話でもない。まずは、一人で上手く眠れるようにならなければ――壮五がまたかつてと同じ優しい瞳で微笑んでくれる夢を見ながら、環は今度こそ、深い眠りに落ちていった。