4.晩秋

 環が壮五と喧嘩をしてから数週間、ツバメが南へ渡る頃。IDOLiSH7は、グループでの出演は初となる、生放送ライブの本番を迎えた。忙しさにかまけて環は忘れていたことだが、デビュー前に環を引き抜こうとした事務所に盗まれた曲を、偶然六人で歌うこととなった。手放しで喜べるほどの晴れ晴れしさはなかったが、悔しさすら意識するまいと封じ込めた大切な曲を、ステージの下で思い切り歌えるのは嬉しかった。壮五の言っていることもなんとなく分かる気がした。やはり歌は歌われてこそ「歌」なのだった。
 歌い終えて、ステージで皆とハイタッチを決めながら、環はほっと胸を撫で下ろした。以前何度も苛まれていた、六人でステージに立った後の空虚感が和らいでいた。もっとも、壮五にお節介は無用だと言いたいがため、無意識に感情を抑え込んでいる可能性は否定できない。しかし事実として、通常より穏やかな気持ちで仕事を終えられたのだから、環自身、心から安堵した。
 行きは学校帰りに電車に飛び乗って、ギリギリでスタジオに滑り込んだから、周りの景色をあまり見ていなかった。高揚し切らず妙に落ち着いた気持ちで歩道を歩いていると、埋め立てられた海岸の匂いが、壮五に会うため通っていた街と少し似ているような気がした。
「タマキ? 忘れ物ありますか?」
 環の前――五人の最後尾を見守るように歩いていたナギが、環の足取りが遅れたことに気付いて振り返った。
「いや、えっと……」
 少し時間がほしい、という説明で納得してもらえるだろうか。しかしせっかく久々に六人揃って帰れるのに――と迷いを振り切れないでいたら、ナギより数歩先の三月が助け舟を出してくれた。
「万理さん、渋滞捕まったって。途中まで電車で行くからゆっくり来いよ」
 せいぜい十五分くらいにしとけよ、と釘を刺しつつ、三月はナギの手を引っ張って、前方の三人のところへ戻っていった。ありがと、と慌てて声を掛けると、背を向けたまま手を振ってくれた。
 コンクリートの塀に沿って来た道を少し戻り、階段から波打ち際へ降りた。人工の湿った砂浜は、思いのほか崩れやすく歩きにくかった。用心深く歩を進めながら辺りを見渡すと、通い慣れた港と同じく、白い大きな橋梁が彼方に見える。周囲のビルの明かりはあまり派手ではなかったが、足元が覚束ないほどの暗がりでも、不思議と恐怖は覚えなかった。
 環は深く息を吸い、いつも壮五に聴かせている母の歌を歌った。小船一つない広い海岸には、環の声は響かなかった。ざざ、ざざ、と細波だけが寄せては返す。今や懐かしさすら感じるあの温かな声を、潮騒の合間に聞くことはなかった。
「あいでっ」
 代わりに背後でよく知る声が叫んだ。聞こえた方を振り向き駆け寄ると、砂に足を捕られたらしい三月がうつ伏せに転がっていた。
「なんだこれ。めちゃくちゃ歩きにくいな」
「へーき? 砂食ってねえ?」
「食ってたまるか。環は? 転ばなかったか」
「へ、へーき」
「そっか。運動神経いいもんな」
 どっこいしょ、という掛け声とともに立ち上がった三月は、おっさんの口癖が移ったな、と笑いながら波のほんのそばまで下りていった。ゆっくり追いかけると、三月はそのまま、メンバーが向かった方角へ歩き出した。環も用事は済んでいたのでそれに従った。
「環って海好きだっけ」
「わからん。海の近くに住んでたわけでもねえし」
 海辺の街に通ってこそいるが、そこだってたまたま乗り過ごした電車の終着駅だったというだけで、海に特段の思い入れがあるわけではなかった。乗る路線が違っていたら、環は山に行っていたかもしれない。
「最近、夜遅くまで出掛けねーよな」
「……そーかな」
「ケンカでもしたか?」
 前方を行く小さな背中に、探るような気配はない。恐らく大和に話を聞いたのだろう。
「そんなとこ」
「お前ケンカっ早いもんなー」
「みっきーに言われたくない」
「んだとコラ」
「あはは。ほら」
 環が笑うと、三月が砂の斜面によろけながらも振り返り、歩調を緩めた。環が海側に立って肩を並べると、油断した三月がまた足を滑らせて地面に手をついた。
「くっそー。もうパッサパサじゃんか」
「皆んとこ戻ろ」
「もう気は済んだのか?」
 問いかけられて、もう一度だけ海に目をやった。夜闇に慣れ始めると、水平線の手前に横たわる橋の照明は、少しまぶしすぎるように感じた。
 
 ドラマ主題歌のシングルがリリースされてから、音楽番組やバラエティ番組にグループで出演する機会が再度増えた。食事の当番制は朝食のみのままにしておいたが、六人揃って仕事を終えた日は皆で夕食を取った後、寮の共用スペースで団らんを楽しんだ。
「お、TRIGGER」
 缶ビールを片手に未成年組の七並べを眺めていた大和が、ふと声を上げた。点けっぱなしにしていたテレビには、こないだ生放送ライブで共演した、ライバルグループの姿が映っている。
『先月から始まった八乙女さん主演の恋愛ドラマ――』
 司会が番宣を促し、三人がそれぞれ、展開について思うところを語り始める。BGMには当該ドラマの主題歌ではなく、TRIGGERが今年の春先にリリースした、既存曲のインストルメンタルが流れていた。
「こいつら、主題歌取んなかったんだよな」
 どうして、と言いたげに三月がつぶやいた。主題歌の担当はTRIGGERではなく同事務所の、年配の男性シンガーが務めていた。
「確かに不自然ですね」
「ちょっと一織、スペードの6止めてない!?」
「七瀬さん、話の腰を折らないでください」
「あ、いおりんか。じゃあ俺がそこ助けてやる」
「ホント?」
 環は自分の手元に残しておいたジョーカーを、スペードの6の左に添えた。ただしその続きを持っているのは環だから、もうしばらく陸をからかうことができる。
「いおりん、不自然ってなに」
「あ、オレまたパス……なんで二人とも話しながら作戦立てられるんだよっ」
「七瀬さんやかましいです。……最近、あの曲を一切聞かなくなったでしょう」
 一織の言いたいことはすぐに分かった。例の生放送ライブを境に、IDOLiSH7
が代打で歌った曲――盗作に遭った幻のデビュー曲を、テレビやラジオで耳にすることがなくなった。もともと気に留めないよう努めていた環にも、違和感を感じるほどの変化だった。
「でも何がフシゼンなんだ?」
「要するに、あの曲が傷物になったと考えるなら、すぐに新曲を出すのが普通だということです」
「……ほー」
 そもそも後輩の自分たちが歌っただけでケチがついたと捉えられるなんて、環は思いつきもしなかった。大人の考えることは面倒だなとげんなりしていたら、うっかり止めていたカードを出してしまって、陸に弱り切った声で謝辞を述べられた。
「あー、やっぱ喋りながらゲームすんの無理」
「ならどちらか諦めてください」
「るせー。あの曲ちょーよかったし、それよりいいのなんてすぐに作ろうとすっから、手間取ってんじゃねえの」
「あんなに大きな事務所でも曲に困ったりするのかな?」
「プロだからこそ完璧を求めて足元を掬われるヒトもいます」
 思い思いに意見を交わしていたら、それまで淡々と手持ちのカードを減らしていたナギが、美貌に似合わず重苦しい声を発した。
「焦っているでしょうね」
 アイスブルーの瞳は文字通り凍てついたように冷たく細められていて、環は駆け上がった悪寒に思わず身震いをした。三月は空き缶を片付け始め、大和は主演男優として密かにライバル視していたはずの八乙女の姿が映らない番組に、チャンネルを切り替えた。一織も陸もそれきり黙り込んでしまって、七並べは結局、ナギが一抜けたところでお開きになった。
 
 事務所から曲を盗んだのが誰かは知らないが、八乙女事務所側があの曲をなかったことにしたいというなら、それでかまわないからさっさと新曲を出してほしい。こっちだって「歌えない曲」にいつまでも振り回されていたくはない。他人の勝手にめずらしく苛立ったので、気分転換に翌日の準備を整えることにした。気の進まないこともたまには役に立つものだ。
「あ、明日、久々に一人か……」
 自筆のスケジュール帳はあまり信用できないので、マネージャーからのラビチャを確認した。四時間目まで授業に出た後、ファッション誌の撮影とインタビューが入っている。地図の画像と一緒に、アンケート用紙を忘れずにお持ちになってくださいね、と注意書きが添えられていたが、手元にそれらしきものは見当たらない。
 念のため隣室を覗いてみたが、まるでがらんどうだった。ない記憶を必死に絞り出していると、扉の音がうるさかったのだろうか、奥の部屋から大和が顔を覗かせた。
「まだ起きてんの?」
「あ、うん。アンケの紙なくした」
「昨日事務所で書いてたでしょーが」
「そうだっけ?」
 よく見てるなあ、と感心しつつ大和にお礼を述べ、環は急いで寮を出た。焦っていつものパーカーを引っ掴んできたが、寝間着のスウェットにそれだけでは、夜はもう肌寒かった。
 今となってはライバル事務所の引き抜きの話に応じなくてよかったと思うものの、当時は妹のことを引き合いに出されて、心が大きく揺らいだ。メンバーがとめてくれたおかげで、今もこうしてIDOLiSH7を続けているが、実際に一度「IDOLiSH7を抜ける」と口にしてしまったことが、環にソロでの活動を選択させる決定打になった。
 昔から、カッとなって物を壊しやすい。他人のものも、自分の大切なものもだ。せっかく舞い込んだチャンスを活かすなら、自分の欠点を危惧して縮こまるより、できる限り身軽でいたい。自分なりに考えて決めたという意味でも、環の寂しさというのは本当にただの「わがまま」なのだ。環自身そんなふうに自覚していた。
 さて、寮から事務所までは歩いて十分程度だ。万理に連絡するのを失念していたが、幸い窓の明かりはまだついていた。そのまま階段を上がりドアノブを静かに捻ると、いつも通り少し散らかった室内に、人の気配とわずかな物音がした。
「バンちゃん? 探し物?」
 声をかけると、カチャカチャとガラクタをいじっているような音が止んだ。不気味に思いつつ、さっさと用を済ませてしまうため書類を探していると、事務室の奥に自分より一回り小さな影がうずくまっているのが目に入った。
「わ、バンちゃ、あれ、えっ?」
「ちくしょう、見つかっちゃ仕方ない!」
「うわ!」
 いきなりダァンと押し倒されて背中を打った。机にぶつけたのだろうか、頭に鈍い痛みが走るとともに少しくらくらとして、本能的に危険を察知した。相手の肩の向こうに、数か月前新しく設置した金庫が見える。頭上に振りかぶられているのは刃物ではないようだが、何らかの工具だ。
「み、み、未発表の曲をよこせ!」
「ざけんなっ……てめ、夏に事務所荒らした奴かよ! あんたのせいでナギっちがブチギレ……」
「黙れ! こっちはクビ寸前なんだっ」
 立ち上がった相手は予想以上に小柄だったが、窮地だからかものすごい力で環を拘束した。環も負けるまいと、首を押さえつけてくる相手の胸を蹴り上げて跳ね飛ばし、今度はこちらから覆いかぶさった。動きはなんとか封じられそうだが、一人では通報すらできない。迷っているうちに手足をめちゃくちゃに振り回され、獲物が額にガツンと当たった。
「……ってえ!」
 考えるより先にみぞおちへ膝を突き立て、うめいた隙に、机の脚に思い切りこめかみを打ちつけた。相手が気絶すると同時に、相手の首や服に、自分の額から流れた血がぼたぼたとこぼれた。
「あれ、空いてる? 誰かいる?」
 戻ってきた万理の声を聞くなり体中の力が抜けた。そこからの記憶は少しおぼろげだ。病院に付き添ってくれたのはマネージャーと三月だったから、自力で後部座席に乗り込んだのだとは思うが、脳内にもやがかかったように、まともに物を考えられなかった。
「落ち着け。頭って血ぃ出やすいんだって」
 震える環に三月がそう声をかけてくれたが、そんなことに怯えているのではなかった。ただただ、ためらいもなく相手の意識を奪ったという事実が恐ろしかった。
 後で聞いたところ、事件当時、万理とマネージャーは戸締りと消灯をした上で、コンビニに出掛けていたらしい。廊下が暗かったせいで、環は鍵が壊されていることに気付かなかったのだ。環が病院で傷口を縫っている間、万理とリーダーがどのような対応をしたのかは知らないが、後日両社の社長がマネージャーを交えて話し合うということで、ただちに警察には突き出さなかった。
 環たちが寮へ戻ると、時刻は丑三つ時に差し掛かる頃だった。三月が、ただいま、と声を上げると、テレビの前のソファで待っていたナギがキッチンへ向かった。
「ナギ、大丈夫だから寝てろっつったろ。ん? なんだこれ」
「……ハーブティーです」
「めずらしくパニクってんな。ポット割りそうだから貸せ、淹れてやる」
 二人の問答を眺めていたら、ポケットに入れっぱなしにしていたスマホがブブッと鳴った。一織からの個人ラビチャだ。彼も彼で混乱しているようで、いろんな言葉を散り散りに連投してきていたが、まとめると「様子を見に行くと聞かない陸を寝かしつけているので部屋からは出ないが、どうぞお大事に」といった内容だった。
 ソファで膝を抱えてうずくまっていると、卓袱台に三人分のティーカップが並んだ。湯気と花の香りが冷えた頬をふやかしたが、自分の一撃で気を失った男のことを思い出すと、割れ物なんてとても握れなかった。
「ごめんな。波に乗ってる時だし、曲泥棒のことがなくても、用心しておくべきだったよな」
 環一人で夜道を歩かせたことを三月は謝った。全員が、男だからと油断していたのだと思う。環も環で、外出前に大和に声を掛けられなかったら黙って出掛けていたかもしれないことを反省した。後々分かったことだが、大和は環を送り出した後、マネージャーに「環が邪魔しに行くからお使いの一つでも頼んでやって」と一報を入れていたらしい。もちろん万理は「もう少し戻るのが早ければ」と悔しがってはいたが――。
「でもお前、お手柄だったよ。万理さんだったらマネージャー庇ってる間に逃げられてたかもしんないし、俺らの腕っぷしも、相手がエモノ持ってんじゃどれだけ太刀打ちできたか分かんねえもん」
「……うん」
 三月が一生懸命環を褒めるので、なんとか声を出した。しかしそれ以上言葉は続かなかった。自分が怪我をしたことで、あんなに怒っていたナギが、見る影もないほど落ち込んでいるのがひどく堪えていた。
「みっきー、今日さ」
「うん?」
「みっきーんとこで寝てもいい?」
「タマキ、ずるいです。ワタシも行きます」
「男三人も入んねーよ」
 その日の晩は環とナギが三月の部屋へ布団を持ち寄って、二人の部屋より段違いに広い床で、川の字になって眠った。
 
 額の傷は残らないとは言われたが、包帯があってもなくても目立つため、個人で引き受けていたテレビ出演やグラビア撮影の仕事が、いくつか取り止めになった。とはいえ、グループでの仕事は、髪型や帽子などでカバーして出ることになっていたので、何もマネージャーが手を煩わせたり他社に迷惑をかけたりすることではないと環は反対した。どうやら、盗作の露見を恐れた相手事務所が圧力をかけてきており、個人での露出のみ控える、ということで話に折り合いをつけたらしかった。
 スケジュールにゆとりはできたが、進級やメンバーとの仕事に影響を出すまいと一織に協力してもらいながら頑張ってきたことも、無駄になったように思えた。それが先に手を出してきた、あまつさえいい大人の都合によるものだなんて遣る瀬無さすぎて、怒る気力すら湧かなかった。
「四葉起きろー」
 教師に後頭部をつつかれて身を起こすと、前方の空席が目に入った。いつもはそこに、ぴっと背筋を伸ばした一織がいて、今のように環が居眠りを咎められようものなら、せめて教科書くらいは読んでくれと授業の進行状況を口うるさく教えてくれる。今日は陸との仕事があるとかで、昼前には帰っていった気がする。ぼんやりしていてあまり話を聞いていなかったが、授業は出られるうちに出ておけと釘を刺されたので、一人でも一応形だけはこうして席に座っていた。
 授業に身が入らぬまま放課後を迎え、昇降口を出ると、パーカーのフードを目深に被っていても風が冷たかった。今朝見た天気予報は終日晴れを示していた気がするが、空の霞は晴れというには濃すぎるように思えた。順当に早まりつつある日没も手伝って、冬枯れを招く寒さがいっそう切なく感じた。
 そんな状況で電車に乗って、寮へ帰るために一人で歩こうだなんて思えなかった。環と同じく下校中の学生でごった返している乗換駅の人混みをかき分け、地底深くの路線に移ると、停車のたび木枯らしが入り込むことはなくなった。
 壮五に特別会いたくなったというわけではない。彼を思い出すと、あの日めずらしく荒げられた声がどうしても同時によみがえるし、そもそも姿を見せてくれない可能性も否定できなかった。しかし今なら何が起きても諦められる気がした。環自身、自分の性質に嫌気が差し始めていたというのもある。
 アイドルをやめるなというのは正直余計なお世話だと思う。しかし壮五がそう主張する理屈は理解できた。妹を探すために芸能界に入ったことは間違いないので、個人の活動に一切執着はしないが、最近六人での活躍が盛り上がりを見せてきていたこともあって、IDOLiSH7自体は続けてもいいかなと心が動き始めていた。
 そんな矢先に、仕事が原因のトラブルで人に怪我を負わせた。それについて今後どうすればいいか、と壮五に意見を求める気はない。事情を話す気もなかったが、彼になら仮に傷のことを突っ込まれても、慣れない嘘をつかずに済むから楽かな、とは考えた。もしかしたら多少の期待はしていたのかもしれない。
 途中からずっと座っていたが、眠くなることはなかった。終点より手前で降車し駅ビルを出ると、ちょうど頭上に通り雨が来ていた。鞄の底に押し込めていた空色の折り畳み傘を取り出し、迷わず海沿いの広場へ向かう。
 流れる雨雲を左手に眺めながら歩道をたどると、小さな巡視船がいくつか停まっているのが見えた。日が暮れ切ると、人影はほぼなくなった。秋の初めは気付かなかったが、人里といえど彼はこんなに物寂しいところにいつも一人でいたのか。自分の気持ちなどかまわず歌くらい聴かせてやるべきだったかと省みながら、時雨に沈んだ海風を思い切り吸い込んだ。
 
 数週間ぶりに姿を見た人魚はコンクリートの海床をくぐり、自分の姿が陰になる場所へ環を誘導した。波に濡れてもふわふわと踊っていた癖っ毛が、雨粒で力なくしな垂れている。境の鉄柵へ傘を傾けると、壮五は慌てて手のひらをこちらへ向けた。
「環くんが濡れるよ」
「そーちゃんだって濡れんじゃん」
「海にいるのに濡れるも何もないよ」
「そういうもん?」
 壮五が騒ぐので、傘の位置を元に戻した。顔色はよく見えないが、特別寒そうだとか、具合が悪そうな様子は感じ取れない。目を凝らしていると、壮五が気持ちよさそうに前髪をかき上げ、冷たい雨に額を晒した。
「環くんは今日、帽子を被ってるんだね」
「あ、う、うん。あったかいから」
「そうか。似合うね」
 ずり、と退いた右足にじんわりとした痺れが走った。服を濡らさないためにしゃがみこんでいると、鍛えていてもすぐに膝や足首がくたびれる。日頃から荷物は少ないが、帰りがけにレッスン室で使うかもしれないと、大判のタオルだけはいつも鞄に入れてある。これでしばらくは凌げるだろうと、それをシート代わりに敷いて腰を落ち着けた。
 秋の暮れの、それも雨の日の海辺は恐ろしく静かだった。相変わらず波の音はほとんどしなくて、ただしとしとと空の涙が、人工の海岸を打ち続けている。
 改めて壮五の顔を見つめると、首を傾げて優しく微笑んでくれた。先日あのような別れ方をしたのに、穏やかな調子を崩す気配はない。かえってこちらに警戒心が募って、環は何も話し出せずにいた。
「こないだ、あんなに怒ってたのに」
 そんな環には環自身が気にしているであろうことをぶつけたほうがかえって楽にしてやれると判断したのか、それとも単に鈍感なだけなのだろうか、判別はつかなかったが、ともかく壮五は大胆に、禁忌と思われた話題を繰り出してきた。ただし表情は笑みを湛えたままだ。
 肩の強張りが緩んで、ほうと深い吐息が漏れた。息が白くなるにはまだ早いが、そうなりそうな温かさが環の膝を湿らせた。
「怒ってたのはそーちゃんじゃん」
「怒ってないよ。気が高ぶるのは久々だったから、自分でも混乱してつい大声を出してしまったんだ」
「高ぶったってことは怒ってたってことじゃん……」
「怒ってない。怒っていたら会いにこないよ」
 それもそうか、と納得するとともに、やはりそんな日が来得るのか、と心が沈んだ。壮五が少しでも長くここに留まってくれるのなら、頑なに封じ込めていた、ステージで歌うための曲を歌ってもいい。しかし、自覚できるほどの邪さに彼が気付かないはずはない。気付いていて見逃してくれるほど、彼は甘い性格ではないのだ。
「そーちゃん。俺も怒ってないよ」
「そう? じゃあ、仲直りしよう」
「……仲直りの印に、何かしてほしいこととか、ある?」
「ううん。君の言葉があればいいよ」
 壮五も環を許した。それ自体に胸は痛まなかった。嘘を言っているつもりはない。前回壮五の話を聞かずに帰ったのは、怒っていたからではなく、悲しくてそれ以上聞いていられなかったからだ。
 再び壮五に会いに来たのは、初めてこの街にたどり着いた理由とほとんど同じだ。知らない場所へ――環の本当の姿を知る者のいないところへ行きたかった。ただしあわよくば泣き事を聞いてもらえないかという甘えは完全に潰えた。壮五の言い分が正しいかどうかはともかく、自分の振舞いを弱がりだと捉えられて、距離を置かれてしまうことが怖かった。
 せめて同じ地上の生き物だったなら、妹を探すのと同じようになんだって手を尽くせたのに、彼が海の上にいるというだけで、単純に追いかけることすらままならない。これでは会いたがっているほうが圧倒的に不利だ。壮五に負けるようで悔しいと思い始めると、不思議と強がる気も湧いてきた。
 そういう時に限って、壮五は優しい。
「歌は歌えないけど、歌ってくれた人――叔父さんのことを話すよ」
 壮五なりの「仲直りの印」なのかもしれない。壮五が胸に大事にしまってきたであろうその記憶を、本当に環に話して聞かせたかったのかどうかは分からない。けれど壮五が歩み寄ろうとしてくれたことは涙が出そうなほど嬉しくて、無理するなとさえ言えなかった。
「……君にどこまで話していたかな」
「ええと、歌が好きだったってことと、そーちゃんに歌を教えてくれたってことと、死んじゃったこと」
「そうか。……うん。歌が、好きだったんだよ」
 壮五が語るに、叔父の歌う歌は一族から嫌われていたらしい。端的に言うと棲む場所を追い出され、どこかで体を病んで亡くなったのだという。
「でも、僕も叔父さんの歌が好きだった。歌う時は岩場の陰や、もっと沖の深い所に隠れて歌ってた。叔父さんはどこで暮らしていたのか分からないけれど、そんな僕をいつも見つけ出して、一緒に歌ったり、新しい歌を教えてくれたよ」
 ――歌える場所を見つけたと、叔父さんは言っていた。嬉しそうだった。どこにいるのか気になって、帰っていく叔父さんを一度だけ追いかけたことがあるんだ。危ないから来てはいけないと叱られたけれど、その場所がこの港だったんだよ。
「もしかしたら叔父さんは、誰かと一緒に歌っていたのかもしれないね」
 思いのほか空気は重くはならなかった。壮五の声は終始穏やかに明るかった。
 そして壮五は、自分が決して歌おうとはしない理由を説明した。要するに、壮五の知る歌は全て叔父が歌っていた歌なのだ。叔父が死んでから、叔父の歌は当然のごとくどこからも聞こえなくなった。周囲の者たちも次第に叔父の存在を忘れていく。
 初めから何もなかったかのように波は揺れ、潮がめぐる。そうなると知っていて大切な記憶を、誰かと分かちたくなどない。
「それにね、叔父さんがいなくなってから、僕もずっと一人で歌ってた。だから、君の寂しさはなんとなく分かるんだ……」
 分かるからこそ、心を開かなくてもいいと壮五は言うのだろう。ただしその代わりに、壮五も心を開かない。そんな関係が無意味だとは思わないが、果たして最後には何が残るのだろう。
「話したら少しすっきりしたよ。ありがとう」
「……他にもっと話したいことない? 無理にとは言わねえけど……」
「いいよ。あまり楽しい話じゃなかっただろう」
「そういうことじゃねえだろ。あんたの話もっと聞きたい」
 環はそう抗いはした。壮五に距離を置かれることを案じた時点で明らかだったが、壮五と会えなくなるのは本当に悲しかった。永遠の別れそのものの苦さを知っていたというのももちろんある。それ以上に、環が察した壮五自身の寂しさを、この広い海にほうっておくことができない。
 しかし、それは壮五にとっては、会い続ける理由にはなり得ないのだ。
「叔父さんの死んだ理由、本当はよく分からないんだ。ただ、急にどこにもいなくなってしまったんだよ」
「……体も、見つからなかったの?」
「うん……というより、そういうものなんだよ。みんな海に還る。海から生まれたんだもの」
 人間も「土に還る」って言うだろ。壮五はそう補足したが、自分の母の体は焼かれた後どうなったのか、環はよく覚えていない。
「僕は叔父さんが亡くなってから――君が来る前から、ずっとここにいたけれど……」
 壮五はそれきり言葉を濁した。その先はなんとなく察せた。確かめようとも思えなかった。
 人の営みが盛んなこの海は、お世辞にも綺麗とは言い難い。壮五は環の将来のために環を突き放すと見せかけて、本当は最初から、自分も先が長くないことを承知していたのかもしれない。
「俺、ここに来るのやめる」
 たとえ孤独でも長らえることと、命を削りながら誰かと生きること、どちらが正しいのか分からない環にとって、これが今出せる精一杯の答えだった。