3.仲秋

 バックモニターのライトブルーが、曲を追うごとに深みを増す。やがてたどり着くのは、いつもあでやかな「紫色」だ。この曲は夕暮れ時の歌らしい。
 曲の入り、袖側に体を向けながら空いた背をそっと振り向く。Aメロの後半で数歩後退する。届かないと伸ばした指先が何かに触れかける。この曲を歌う時、いつも隣に「誰か」がいる。恋がテーマの曲だから、演出に特別疑問は抱かない。
 ただいつも寂しい。そういうタイトルの曲だから間違いじゃないとメンバーは諭したが、環は与えられた曲がもっと明るければよかったのにと、何度もわがままを言いそうになった。
「四葉環さん、ありがとうございました。それでは――」
 次の歌手に後ろ髪を引かれながらスタジオを後にする。楽屋に戻ると、マネージャーからラビチャが来ていた。明日明後日と個人での仕事が続くみたいだ。ナギのおかげで広告モデルの仕事も増えてきた。少しでも人の目に触れるため、どのチャンスも最大限に活かしたい。
 外は思いのほか寒く、鞄から衣装のストールを引っ張り出して巻いた。駅の雑踏をくぐり抜け、迷わず地下へ降りる。最近、九時過ぎに仕事を終えた日は、真っ直ぐ海へ向かうのが習慣になっていた。
 一人で歌う、と初めに決めたのは、厳密には環自身ではない。一番最初に環の人気だけがたまたま伸びて、それに目をつけた他所の事務所が、環の家庭問題にもつけ込んで引き抜きを画策した。それを阻止するためのメジャーデビューは、もちろん一人ではなくてもよかった。が、一度一人で歌うという選択肢を与えられてからは、もう他の誰かと、と考える気にはなれなかった。
 歌も踊りも好きだったが、それを仕事にしようと思ったことはなかった。妹を探すためにアイドルになったことを、小鳥遊プロダクションも承知している。だから一人のほうが動きやすい。
 一方で、六人グループが常態だから、一人で歌うのがことさら物悲しいのだと思う。いちいちこんな気持ちになるなら、初めから他所の事務所でソロデビューしておいたほうが穏やかだったのかもしれない。しかし当時――今も、その選択肢は一切なかった。
 IDOLiSH7はもともと一人欠けている。環も薄々違和感は感じていたが、改装された寮に入った時に確信した。マネージャーに問うたところ、初めは七人でグループを編成する予定だったのだという。単純に適役が見つからなかったという、それだけの話だった。
 大人の事情なんて、普段の環には知ったことじゃない。「欠けている」ことを言い訳にしながら、本当は一から一人でよその事務所へ行くのが嫌だっただけなのかもしれない。以前の自分なら屁でもなかっただろうが、五人との出会いはそれほど環を変えた。
 もしメンバー内の誰かとユニットを組んでいたら、あるいは引き抜きに遭ったのが一人でなかったら、自分の行動は変わっていただろうか。沈んだ心を様々な例え話で揺らしながら、環は今日も壮五を呼んだ。
 
「いつも君が歌っているの、なんて曲だい?」
「知らん。ちゃんと聞いとけばよかった」
 小さな船着場に身を隠しながら、環はそっと手を伸ばした。壮五も意図に気付いたのか同じようにする。触れるのにまだ勇気はいったが、目に見えて距離が縮むことを環は一番喜ばしく思った。
「月や昔の月ならぬ――って、長生きした人の曲だよね」
「わかんの?」
「昔の言葉は忘れちゃったけど、少しはね」
「そうじゃなくて、長生きした人の歌だって」
 壮五があからさまに首をかしげる。何を言われているのか分からないという表情をしている。
「ええと、分かるよ。そういう歌詞だもの」
「そっか」
 環にも、自分が何を疑問としていたのかよく分からなくなってきた。ぼんやり思考をくゆらせながら、何の気なしに冷たい指先を片手で包み込んでみると、壮五はくすぐったそうに手首をよじらせて「熱いね」とはにかんだ。
「……もしもそーちゃんがほんとにいたらさ」
「またその話?」
 壮五が眉をひそめかけたところ、不意にスマホの着信音が空気を震わせた。マナーモードにしておけばよかった、と悔やみながら呼び出しに応じる。
「ヤマさん、どしたの」
『どしたのってことないだろ。もう仕事終わっただろ?』
「ん」
『どこほっつき歩いてんだよ』
「んー……」
 仕事は二十二時までと決められているくらいだから、それ以降に出歩いていて大人に心配されるのもおかしくはない。駅名くらい覚えておくべきだったかと反省しつつ、環は記憶の限りで場所を説明した。
「――で、そっからちょっと歩いたけど、今は虹色の観覧車が見える」
『あー、まあ分かったけど。友達のとこ?』
「……ごめん、ちょっと今、時間ない。ちゃんと帰るから。ごめんなさい」
 プツ、と一方的に通話を切った。帰ったら話す、だとか少しは当たり障りのない返答をしたほうがよかったのかもしれないが、環は嘘をつける性格ではない。
「話してもいいのに」
「だって、なんて説明すんだよ」
「見たことがある人もいるかもしれないよ」
 壮五は穏やかに笑っている。感じたことのない薄気味悪さが襲って、反射的に目が潤んだ。受け入れがたい後ろめたさに、思わず壮五の手を離す。
「信じてないんだろう」
 抗う隙も与えず壮五が指摘した。思わず唇を噛むと、少し責めるようでもある瞳が環を見つめた。直に触れ合って乗り越えかけた不安が、再び環の足を捕り始める。
「そんなこと言ってねえだろ」
「でも、そういうことだろ」
「なんで分かんだよ」
「見てれば分かるよ」
 壮五は強く言い放ったが、環には不自然な言葉に思えた。何か真実を隠しているわけでもないのに、分かるも何もあったことか。
「俺のこと勝手に決めんなよ。そーちゃんこそ俺のこと信じてないじゃん」
「……ごめん」
 そのくせ、反論すると急に口数を減らすのだから調子が狂う。それ以上強く言えなくなって、環も黙りこくった。
 他人を怒らせることはめずらしくはない。原因の多くは、環がはっきりと物を言うことからだ。それそのものが悪いとは思わない。内容が他人と噛み合わないから上手くいかないのだろうし、多くの人は離れていったのだと思う。
 グループの仲間たちはその点、懲りずに環と向き合ってくれた。だから環も諦めずに済んだ。だけどそれは運が良かっただけなのかもしれない。
「……ヤマさんも怒ってるかな」
「僕は怒ってないよ」
「うそつき」
「うそじゃないよ。信じてくれない?」
 先ほどは思いもよらず鋭い言葉を投げかけてきたくせに、なだめるように微笑まれた。環は壮五が幻覚の類でないことはとうに確信していた。その根拠の一つに、壮五が決して自分にとって都合がいいだけの存在ではないことが挙げられた。
「信じたりとか、疑ったりとか、あんましたくない。でも分かんねえよ。そーちゃん、俺と全然違うんだもん。何考えてんのかとか、全然分かんない」
 壮五は環にとって、単なる安息の場や相談相手というだけの存在ではなくなっていた。歌を聴いてくれるのは嬉しいが、それも既にきっかけの一つにしか数えられない。
 壮五は、環のことをどう思っているのだろうか。
「僕のことは信じなくてもいいよ。でも、君の仲間は違うだろ」
 握手を求めるような仕草で、一度離れた手を壮五が再び差し出した。つられて環も右手を伸ばすと、壮五は冷たい両手でそれを包み込んで、祈るように自らの額へ寄せた。
「皆、環くんと一緒だろ。同じ場所に帰って、同じ場所で眠るんだろ。寂しくても一緒に歌い続けよう。そうしたら絶対に大丈夫だから」
 施設にいた頃も、多くの子供たちと同じ場所で過ごしていた。ゆえに、その心強さを環は自覚したことがない。それが壮五のようにいざ一人になれば分かるようなものなら、自分は壮五の言うように「大丈夫」なのかも知れないと思えた。
「……大丈夫かな」
「大丈夫だよ。信じられない?」
 戸惑いながらもゆっくりと首を横に振ると、壮五は満足げに頷いてくれた。環の手を握る壮五の指は相変わらず冷えたままだったが、確かにこもる力が、環に新たな安らぎをもたらした。
「そーちゃんのことも、信じたいけど、時々よく分かんなくなる。ごめん……」
 わがままを誰かに諌められることは何度もあったが、弱気を諭し導いてくれるような人は、環の周りにはいなかった。おかげでというべきか、環はそれなりに自力で自らを奮い立たせる術は備えていたが、他人の信じ方はよく分からないというのが本音だった。
「大丈夫だよ。君の正直なところ、いいところだと思う」
 それを知ってか知らずか壮五が肯定してくれたのはありがたかった。しかし、この性格が時に誰かに我慢を強い得るのも事実だ。言いたいことは言うものだと思って生きてきたが、通り一遍にはいかない例もあるということを、壮五との交流が裏付けかけていた。
「そーちゃん、そーちゃんは、そーちゃんがいたら、って話するの嫌い? もしもの話は嫌?」
 乾き始めた両手を壮五が海に沈めた。宙に置き去りにされた環の腕も、居場所を失って環の膝の上に戻る。
「嫌いということはないけど」
「そーちゃんもそーちゃんのこと正直に言って。ちゃんと話したい」
 知らなきゃ信じることもできない、というのは暴論ではないと思う。たとえ壮五に壁を感じようが、環も環なりに歩み寄ろうと必死だった。
「正直な気持ちだよ。嫌いじゃない。でも、僕はもしもの話より、君の今の話がしたい」
 反射的に「嫌だ」と思った。そう口に出さなかった点については自分を褒めたいくらいだが、恐らく顔には出てしまっていた。しかし壮五は、それを咎めるような素振りはしなかった。環の反応にはなんとなく予想がついていたのかもしれない。
「ちゃんと考えよう。僕がいなくても、君は歌い続けなくちゃいけないよ」
 こう訊かれると、嫌だとは言えない。分かって尋ねているのかもしれない。もしそうなら、壮五は環が思うより、ずっと厳しくて意地悪な性格だ。涙が出そうになるのをこらえて息を詰めると、壮五が優しく表情を緩めた。
「君は、どうして僕がいたらいいと思うの?」
 壮五こそ環のことなどろくに知らないくせに、様子を見てこんなふうに対応を変えてくれるのだから、環は余計に壮五のことが分からなくなるのだ。これなら壮五が実際にそばにいたとしても、かえって悩みのタネが増えたかもしれない。
「……俺は」
 言葉を上手くまとめられそうにない。もう一度手を握ってほしい――腕を差し出しかけたところで、視界の端の観覧車がふっと色彩をなくした。
「あ、あれって消えんだ」
「ちょっ……、環くん! 帰りの時間は?」
「あ」
 先ほど大和からの電話を切った時に、スマホの通知音をオフにしてしまっていたのだ。ロック画面を確認すると、いつの間にか変わっていた日付の下に、ラビチャの通知が五、六件連なっている。
 ざっと見るに、一織からは課題の締切の知らせ、ナギからはアニメの感想だ。陸からは眠たげな王様プリンのスタンプが届いていた。三月からのメッセージがなければ、のん気に壮五に見せてやっていたかもしれない。三月からは「ヤマさんに連絡しろ」とだけ来ていた。当の大和からはあの通話以降、なんの着信も入っていない。
「近くに住んでいるわけじゃないんだろう。帰れるの?」
「帰れない。でもそーちゃんいるしいいよ」
「よくないよ。寝られる場所はある?」
 すぐには思いつかないが、観光地なのだしホテルには困らないはずだ。しかし知らない場所に一人で寝に行くより、一晩中壮五と話していたほうが、ずっと楽に決まっている。
「ダメだよ」
「まだなんも言ってねえじゃん」
「明日も仕事があるんだろう」
 ほんの少しでも嘘をつける性格ならよかった。さっき見た一織からのラビチャで、課題の提出が午前中にあることを確認してしまったのだ。課題一つくらい、というわけにはいかない。万一単位を落とした時、補講や再試験のためにスケジュールを調整するのはマネージャーだし、そのしわ寄せを受けるのはメンバーたちなのだ。
「ちゃんと休息を取らなくちゃダメだよ。また今度話そう」
「その『今度』はいつまであんの?」
 壮五の表情が強張って、環も我に返った。口を衝いて出た言葉の続きが自分でも分からない。
「まあいーや。遅くまであんがと。おやすみなさい」
「……うん」
 壮五は胸を撫で下ろしたようにも見えた。それが引っ掛かったわけではないが、環は伸ばしかけた膝をついて、岸から覗く壮五の頭に顔を寄せた。
「そーちゃんに会ってから、一人で寝るの楽になった。ほんのちょっとだけだけど……。そーちゃんがいたらいいのにっていうのは、そーいうこと」
 このタイミングだから恨み言にも聞こえたかもしれない。他意があると取られないよう速やかに立ち上がって、改めて壮五に背を向けた。
「ま、またね」
 壮五が不用心に声を張って、周囲の小船を震わせた。
 スマホを取り出すと充電は残り半分を切っていた。アイドルを始めてようやくスマホを手にした環が、携帯充電器などを持っているはずはない。とりあえず車道沿いに架かる小さな橋に来てみたが、どの建物がホテルなのか分からない。インターネットで周辺情報を検索しながら、焦りを抑えきれず街なかの遊園地の方角へと急いだ。
 沈黙してそびえる観覧車は、仕事を失った歯車みたいだ。ふもと近くまで来ると想像よりずっと大きく、それだけに街が十数分前に比べていっそう暗く感じた。
 検索結果によれば、環にも手の届きそうな宿泊施設が付近にあるようだが、あれこれとプランが書いてあって値段が定まらない。どのみち財布に現金もあまりない。結局先にATMを探さなければならなくなって、環は残り少ない充電と格闘しながら、読めない地図を頼りに深夜の港町を駆け回った。
 スマホが力尽きる前に宿にありつくことはできたが、受付に戸惑っている間に時刻は一時を回ってしまった。四時間ばかりの猶予で環が寝付けるわけもなく、アラームが鳴るまで中途半端に微睡みながら、延々と寝返りを打つだけになった。
 
 寮へ戻るまで、電車での移動中はさすがに座席にもたれて眠った。アラームのバイブレーションはあまり信用していなかったが、寝過ごすこともなく、無事に予定通りに帰ることができた。裏を返せば、環にとっては寝ていないのと同じことのような気もしたが、自覚したら終わりだ。
「お前なあ、連絡しろっつったろ!」
 玄関をくぐるなり三月に声を潜めて怒鳴られた――剣幕は確かに怒鳴っていた。環の鈍った頭でも、大和がまだ寝ていることは容易に察せられた。
「ごめんなさい……充電切れるまで忘れてて」
「ちゃんと寝たのか?」
「うん。泊まった」
 三月は何か言いたげに溜め息をつくと、鍋がふつふつと煮立っているキッチンへ戻っていった。朝冷えに詰まりかけた鼻をすすると、カレーの匂いがして腹が鳴った。
「食う? 先にシャワー浴びるか?」
「食う。後でシャワー浴びる」
 充電器を取りに自室へ戻る時間も惜しい。椅子に座ると、三月がライスでネコ型の小島を作り、その周りにカレーの海をこさえてくれた。ルーはいつもより甘口に作られていて、ありがたくも睡眠不足を補うほどの食欲がわいた。
「一織が、一限終わるまでには来いってよ。課題見てやるって」
 ラビチャも来てるだろうけどな、と三月は環の頭を小突きつつ、皿の積み重なったシンクの前に立った。そういえば今日の片付け当番は自分だった気がする。
「み、みっきー、ごめん。来週代わっから」
「ややこしいし王様プリンで手ぇ打ってやる」
 三月の気遣いにコクコクとうなずきながら、溶けかけたジャガイモを呑み込んだ。プリンは一織にもいくつか献上しよう。デビューしてからというもの、いろんな人におんぶにだっこだ。他人に頼るのが苦手というわけではないが、一人なら一人でかまわないという性格でやってきたから、メンバーの優しさには時々痛み入ってしまう。
「学校もあるし、少しくらい甘えたってバチ当たんねーよ」
「でもいおりんはちゃんとやってんよ」
「一織にも苦手なことはあるよ。それも上手く隠しちまえるから厄介なんだけどさ」
 あっという間に空になった皿を持っていったら、ついでに洗うよ、と受け取ってくれた。そうじゃなくて、と三月は継いでつぶやく。
「無理してねーか?」
「無理はしてない。なんで?」
「あー、訊き方が悪いか。単に疲れてねーか、ってことなんだけど」
「別にだいじょーぶ……」
 その言葉を口にした途端、数時間前の記憶がふっと脳裏に浮かんだ。
『大丈夫だよ』
 冷たくて細い、頼りない指だったけれど、力強く環の手を握ってくれた。思えば手と手があんなにしっかりと触れた経験なんて、妹がそばにいた頃までさかのぼらないと無いかもしれない。
「大丈夫。まだいける」
「そっか。無理はすんなよ」
「だからしてねえって」
 大和が置いていった弁当を大事に抱えて、洗い物を終えた三月に頭を下げつつ、急ぎ足で自室へ向かった。その間、新しく手にした魔法のような言葉を脳内で繰り返す。――大丈夫、大丈夫。
 そもそも環にとって仕事は仕事じゃない。妹を探すための大切な手段だからこうしてこなし続けているし、無理をするとかしないとかいった考え方は、なんとなくずれているように思う。気持ちがもたなければ夕べのように寄り道もするし、何も無理していることなんてない。
 そもそも片親がああだ。物心ついた頃からやりたいことだけをやりたいようにやってきたつもりだ。立ち止まり方など知らない。
 
 
 
 知った道にキンモクセイが香り始めると、途端に秋の深まりを意識して気が焦った。思えば放課後、現場に向かいながら、夏の間に忘れかけた夕焼けに見とれる日が増えた。今朝は突然の冷え込みに鼻をすすっていたら、メンバーが羽根布団を出して乾燥機をかけてくれた。きっとすぐに冬がやってくる。
 壮五の棲む場所は寒くはないのだろうか。
「そのコート、似合ってるね」
「わかんの?」
「見たままを述べただけだよ」
 撮影で着た服の値段に手が届くことはあまりないが、このトレンチコートは手頃でよかった。黒なんて一織のほうが似合いそうだけど、と思いつつもこれ一着しかないので学校へ着ていったら、教室がどよめいていたのが少し面白かった。
「今日の夕焼け、キレーだったな」
「うん。普段はあまり明るいうちに外へ出ることはないんだけどね。あの橋の辺り、見えるかい」
 壮五が水平線を振り返って指を差す。コンクリートで固められた港の端から、電光ががまばらに行き交っている。
「いつもだいたいそこから陽が昇るんだけど……。今日の夕方は、そこの雲に夕焼けが映ってた」
「ほー。こっちでロケとかねえかな。見てみたい」
「ここじゃなくても見られると思うよ」
「んなこと分かってっし」
 じゃあどうして、と壮五は尋ねなかった。代わりに水面が不規則に揺らめいて、尾びれが緩やかに踊っているのが見えた。
「そこの広場から時々歌が聞こえるよ。大きな音も」
「たまにライブやるよな。テレビで見た」
「環くんの歌も聴けたらいいのに」
「……そーちゃんって結構ムシンケーだよな」
 昔から自分の不機嫌な声がその場を凍らせる。分かっているのに、突発的に感じた苛立ちを隠すことはできない。
「そーちゃんも一緒に歌ってくれたらいいっつってんじゃん」
「それじゃあ意味がないよ。君の声が聴こえない」
「教えてやる時に聴けんだろ! なあ、やっぱなんか隠してんの?」
 壮五の言い逃れに無理があることは明らかだった。環よりいくらか思慮深い壮五にも自覚はできているはずだ。追及すれば壮五は押し黙ったが、間もなく観念したように口を開いた。
「……君、つらい時にここへ来るだろう」
「それがダメなの?」
「そんなことない。嬉しいよ。でも、アイドルはやめるつもりだって言ってたろ」
「なんか関係あんのかよ」
「あるよ……」
 それきり壮五は口を閉ざした。ざざ、と風が海の上を走るたび、二人を隠した小船の影がたゆたう。
「……甘えちゃダメだった?」
「そういうことじゃないよ! じゃない、けど……」
 煮え切らない様子に焦りが募りはしたが、ふと、壮五の胸元で凪いだ水面が、細波とは別のリズムで揺れているのに気がついた。環も唇をきゅっと引き結んだ。怖がらせたくない、傷つけられない。もし相手が普通の人間の男なら、こんなふうには思わなかっただろう。
「じゃあ、そーちゃんの歌は?」
 何度か断られてはいる内容だったが、環は貸しを作ったつもりで提案を変えた。言いようのない心許なさに潰されそうな時、自分の好きな歌を歌って壮五が喜んでくれることはありがたかったが、本当に歌が好きだというなら、こちらの頼みだって聞いてくれてもいいはずだ。
「僕はいいよ」
 なのに、壮五はなおも否の答えを返した。穏やかな物言いだったが、きっぱりとした声色には、頑なな意志が宿っていた。
「いいじゃなくて、俺が聴きてえの」
「なら、言い方を変える。歌いたくないんだ」
「聞かせたくねえの?」
 沈黙の長さに従い環も傷ついた。自分にとって壮五は、明確な正体は知れないとはいえ今や誰にも代えられない存在なのに、壮五にとってはそうではないことを、改めて思い知らされた。もちろん、出会ってたかだかひと月程度で、他人の心の奥を見させてもらえるとは思わない。けれど、これから距離を詰めていくことすら拒まれたようで、環は継ぐべき言葉をなくした。
「誤解しないでくれ。君だから嫌というわけじゃない」
「誤解も何もそんままじゃん。ちょっとは仲良くなれたって思ってたの俺だけだった?」
 下まぶたにゆらりと小さな海ができる。川になって流れ出したら、たちまち喉が引き攣れて反論を返せなくなってしまう。しゃくり上げようとする腹を押さえて、環は声を絞り出した。
「なら最初から親切にすんのやめろよ……勘違いすんじゃん」
「勘違いじゃない、そういうことじゃなくて」
「なくねえよ、結局俺だけ調子乗って」
「……っ、君が!」
 わん、と壮五のテノールが響いた。環は慌てて周囲を見回したが、幸い人の姿はない。ほっと胸を撫で下ろしてから海に向き直り、目だけで控えめに壮五を責めた。
「ご、ごめん……」
「……続き話せよ。俺がなに」
 自分がもし獣だったなら、きっと唸り声が出ているだろう。フーッと深く殺した息に、壮五が怯んだように身を退いた。
「き、君が……君は、僕の歌を覚えられないと思う」
「なんだそれ。人間の歌とは違うの?」
「わ、分からない……比べたことがないから。でも、きっと違うよ。いつも海の中で歌うんだもの」
 いつぞや学校の授業で習ったはずの、声の出る仕組みや音が伝わる原理を思い出そうと試みた。答えは定まらなかったが、言われてみれば、風呂やプールの中でただの人間が声を発しても、周りに上手く聞こえないような気がする。しかしそれだけのことが歌わない理由になり得るだろうか。
「そう思いながら歌うのがやだってこと?」
 試しに思いついたことを口にしてみたら、壮五が小さくうなずいた。けれど黙ったままでいるのを見るに、単に都合のいい問いだっただけに過ぎないのかもしれない。
「なら何回も歌ってよ。そーちゃんの声、今聞こえるよ。その声でいーじゃんか。俺、英語分かんねーけど聞けば覚えられんもん。そーちゃんの歌も平気……」
 もう抵抗でもいい、壮五の言葉で説明させたい。環は必死でまくし立てた。しかし本当のことを言ってほしいと願うあまり、壮五の表情が一瞬歪んだのを環は見過ごしてしまった。
「……忘れられると思いながら歌いたくないよ」
「忘れないって言ってんじゃん。決めつけんなよ。こないだも言ったろ」
「決めつけてないよ……」
 壮五は最初から言うまいとしていたのかもしれないが、環は乱暴に核心に迫った。思えば環のそういうところが、今までにも壮五を戸惑わせてきたのかもしれない。しかし環はこれ以外にコミュニケーションの取り方を知らない。そうして人と接し、相手を傷つけるたび、環のほうも傷ついてきた。
「何回もって言うけれど、いつまで会えるか……分からないだろ」
「だから信じてって言ってんじゃん。俺、ずっと会いに来るよ」
「信じるとかそういう問題じゃない。君だって分かってるだろ!」
 ついに真っ向から叱責されて、驚きも相まって涙があふれた。壮五もばつの悪そうな顔をしていた。
 分かっているだろと言うなら、こないだ終電を逃した自分に一晩、付き合ってくれればよかったのに。あの日「また今度」となだめられたから、何も分からないふりをして、一人で寝る場所を探したのに。知る真実を選びたいだなんて、ひどいわがままであることは理解している。けれどあの日壮五が、これから先のことをごまかしたのなら、環になんと言われようと、それを貫いてほしかった。
「分かってるよ……。そーちゃん、いつまでもここにいるわけじゃねえもんな」
 二人のいる場所の間に、ぱっくりと傷口が裂けたような気がした。
 壮五は決めつけているわけではなかった。ただ初めからそう決まっていた――遠からず壮五は環の前から姿を消す。それを壮五が当然の前提としている以上、誰の意志によるものだろうが最早関係ない。
「だからいつも一人で歌えって言うんだ……」
 壮五は否定しなかった。恐らくそれが環のためだと信じているのだ。環は自分が諦めたのかどうかの判別もつかないまま、ふらっと立ち上がった。
「何も今すぐって話じゃない。ただ、少しずつでいいから……」
「……るさい。帰る」
 タイムリミットに設定したアラームはまだ鳴ってはいなかったが、環は壮五のか細い声を振り切って、大通りへ駆け出した。
 壮五は環に「甘えるな」と言いたいのではない。いつまでも迎え入れてやれるわけではないから、ここで弱さを癒すな、強くなれと言っているのだ。
 壮五の意図を認めた途端、額がかあっと熱くなった。駅までの道をひた走りながら切る潮風が、環の涙をさらっていく。環が、強くなりたいと願いながらも泣くことをためらわないのは、母からもらった自分のもう半分――自分の弱さを、失うまいとするがためだった。
 環は本当はもう、これ以上強くはなりたくなかった。