2.初秋

 ガシャン、パリン。ガラスが割れる音にはもう驚かない。怒号にも、近所迷惑な足音にも。それより弱々しい悲鳴、それさえ聞こえなくなる瞬間、反して自分の息遣いを濃くする静寂が環には恐ろしくてたまらなかった。
『子供たちが寝ているから静かにして』
 母は自分たちが眠たそうな顔を見せなくても、定刻になると二人を部屋の奥に寝かせて電気を消し、襖を閉めた。乳幼児には十分すぎる空間ではしゃぎ転げているところに怒鳴り込まれるうち、電気を消された時は息を潜めていなければならないことを本能的に学んだ。
 酔った父は身勝手なもので、起きていればうるさいと殴るくせに、寝ていても「俺が働いているのに」と当たり散らした。父にとって、本当のことなどきっとどうでもよかったのだ。そんな父に対して母はいつも「ごめんなさい」と泣いていた。
 恐らく母は父の行動を、行動に至る理由を理解しようと努めていた。子供に手をあげられる時は「やめて」と叫びこそしたが、父を見捨てようとは決してしなかった。環はそんな母のことをとても優しい人だと思ったし、守ってやらなければと思っていた。しかし母は間もなく死んだ。残された環が妹と生きていくため反面教師に据えたのは、強い父ではなく、弱い母のほうだった。
 実際、産まれた日付が災いして、小学校ではいつも小さいとからかわれた。当然、施設に住んでいることについても、何度も口汚く罵られた。その都度言い返したりやり返したりしてはいたが、自分よりずっと頼りない妹はどうなってしまうのだろう。母のように負けてしまうのだろうか。そう思うと「強く」ならずにはいられなかった。
 そうして自分はどんどん、母のようではなく、父のようになっていくのだ。
 
「やっべ寝坊っ……」
 夕べ出したばかりの毛布を跳ね飛ばして時計を見ると、九時を回るところだった。今から準備をして、二時間目に滑り込めるかどうかというところか。一織が作ってくれた単位取得の計画表を片手に階段を駆け下りると、食卓の環の席には、焼き魚や葉物のおひたしが作り置かれていた。恐らく朝食ができたタイミングで一度声をかけられているはずなのだが、失敗した。
「いおりんこれ作ってから行ったんかよっ……いただきます!」
 白飯を掻っ込んでいたら、身支度を済ませた大和が降りてきた。もしかして、寮を出るのは自分が最後か。あのまま寝過ごしていたらと思うとぞっとする。
「味噌汁あるけど飲む?」
「の、飲む飲む」
「喉詰まらせないようにしなさいよ」
 大和は温かな椀と一緒に、バンダナで包んだ弁当箱を出してくれた。朝食当番だった一織は中身を知っているだろうが、どんなキャラクターで彩られていたのか、ネタばらしをされないよう用心したい。
「出席ヤバいの?」
「二時間目遅れたら死ぬ。追試入れるとこない……」
「ありゃ。飯食ってる場合じゃないでしょ」
「作ってもらったら食うっ」
 ごちそうさま、としっかり手を合わせて自室へ飛んで帰り、小テストがある科目の教科書だけ鞄に突っ込んだ。こういう時、前日のうちに準備しておけという一織のアドバイスが骨身にしみる。しみるだけでなかなか身につかない。遅刻癖も協調性のなさも、メンバーに困った顔をされながら少しずつ直していけてはいるものの――。
 なんだかんだ共用スペースで油を売っている大和を置いて、駅までの道を疾走した。電車に飛び乗ったところで目的の時刻には間に合いそうなことを確認したが、これまた一織の作ってくれた、予想回答集を丸暗記するという大仕事が残っている。これだけ覚えておけば赤点だけは免れるという、環にとっての魔法の紙切れだ。以前、いつまとめているのかと尋ねてみたら、授業を聞きながらだという、環には到底理解できない答えが返ってきた。
 IDOLiSH7になる前は、こんなことはあり得なかった。学校へ行かなくても困るのは自分だけだったし、そもそも自分自身も大して困ると思えなかった。養護施設でのルールは守っていたがそれも最低限の範囲内で、自由だとか不自由だとか、考える機会すらほとんどなかった。
 この寮に来たばかりの頃、自由とは一人になることだと、一織に言われた気がする。その言葉の真意は、今でもよく分からない。しかし、今まで好きなように振る舞っていた自分が、実はとても寂しかったのだということに気付かされたのには変わりない。一織の言っていたことは正しいのだと思う。
 卒業のための単位も、大人が決める集合時刻も、お菓子を食べられない現場も、ゲームをする暇のない夜も、窮屈だと思わないわけではない。しかしそれらの見返りとして、現に学業とアイドル業を両立し、人に「頑張れ」と応援されるようになってから、単なる「自由」とは違う幸福の存在を知ったのは確かだ。
 大切な人を守れないどころか誰かに守られないと生きていけなかった自分が、育った施設を出て、他人に弾かれず、完全ではないにしろお金を稼いで食べていけるようになる将来なんて、思い描いたこともなかった。どこかにいるはずの自分の妹にもそうなってほしい。だから仕事をするだけではなく、苦労しながらも学校へ通っている。
 これ以外の道があったとは思わない。それでも陽の下を一人で歩く時、何かを失くしたような心地を覚える。アイドルになってから得る物ばかりだというのに、未知の空虚が胸を揺らす。
 それとも、初めから欠けていたことに、今まで気付かなかっただけなのだろうか。
 
 小テストは分かる問題だけを回答したところ見事にギリギリセーフだった。向かい合わせた机で弁当を食べながら、一織に向かって興奮気味に感謝を述べたら、米粒が飛んでこっぴどく叱られた。
「それより、マネージャーからラビチャが来てますよ」
「おお。イイ知らせ?」
「見事に良いお知らせです」
「あ、よっしゃ!」
 冠番組の放送開始に続いて、バラエティを中心とした新番組へのレギュラー出演が決定したそうだ。デビュー前からIDOLiSH7を応援している大御所の番組ということもあって、この話には皆大いに期待していた。加えて秋の暮れには、リーダー主演の連続ドラマが放映される予定だ。その主題歌の担当も、敏腕マネージャーが無事にもぎ取ってくれた。これからますます忙しくなる。
「ごちそーさま。仕事あっから行くわ」
「……早退するなら無理して昼食を食べなくてもよかったのに」
「なんで? 飯は人数多いほうがいいじゃん」
 鞄を背負いながら一織を見下ろすと、ぷいとそっぽを向かれてしまった。もう一度椅子に腰掛けると、「なんですか」と機嫌の悪そうな声が返ってくる。視線は、王様プリン型のオムライスをつつく箸先を見つめている。
「いおりんは一人で食べるほうが好き?」
「そんなこと言ってないでしょう」
「ん。明日も一緒に食べよーな」
「分かりましたから。少しは急いだらどうですか」
 教室を出る間際、残された一織にクラスメイトが話しかけているのが見えた。なんとなくほっとしながら、言われたとおり早足で校舎を後にする。今日の仕事は恐らく六時前には終わる。その後寮へ帰って晩ご飯の当番があるから、壮五のところへは行かれない。
 楽しみな仕事が増えたと早く報告したい。きっと壮五も一緒になって喜んでくれる。他人の名前も顔も覚えるのは得意ではないのに、壮五の笑顔だけはどんな場所にいてもすぐに想像することができた。不思議な気分だ。壮五の存在は、写真しか思い出せない母親やもう顔の分からない妹とも、もちろんグループのメンバーの誰とも違った、特別なものになっていた。
 
 秋雨の季節が過ぎるとともに、ソファや床で眠りこけたり、寝過ごしたりする日が続いた。ツアーでグループ内ユニットが作られて以来、ユニットごとの仕事も増え、食卓に六人揃う日のほうが少なくなったため、食事当番も朝だけになった。ユニットを組んでいない環は、必然的に一人で夕食を取る日が増えた。
「そーちゃん、来るなりだけど飯食っていい?」
「う、うん」
 コンビニのおにぎりからビニールの包みを引き抜くさまを、壮五は目を丸くして見つめていた。試しに食べるかと尋ねてみたら遠慮がちに首を振られた。普段何を食べているのか聞いてみたかったが、食べながら話すとまた叱られるかもしれない。
「日が暮れてだいぶ経つと思うけど……。忙しいの?」
「んー。前よりは」
「無理して来なくてもいいんだよ」
「メーワクなら来ねえよ」
「そういうことじゃなくて……」
 何度か通って気付いた。壮五は環と違って、あまり自己主張をしない。そんなところが、決して嫌いではないものの気に入らないと思うことが時々ある。我慢ばかりで苦しくはないのだろうか。照れ隠しをする時の一織ですら、あんなにはっきり物を言うのに。
「じゃないならいーけど。ていうか、歌ったらホントに来んだな」
「うん。そう約束したじゃないか」
 時間のなさは互いの歩み寄りの枷となっているかもしれない。しかしそのおかげで、いたずらに苛立ちをぶつけたり怒らせたりせずに済んでいるのも事実だった。
「でもどうして場所を変えたの?」
「ご近所さんにヘンな目で見られても厄介だろ」
 壮五と出会った場所は駅を出て五分もかからない辺りだったが、今日は遠くに見える虹色の観覧車の方角へ、少し歩いてから呼んでみた。いちいち他人の目を気にするような性質ではないが、世間が異常者に対して時に恐ろしいほど敏感なことは、環も身を以て知っていた。体格から成人に見られることは多いが、それだけにできるだけ一か所に留まっていたくはないのが本音だった。
「そーだ。新番の出演、正式に決まったんだぜ」
「おめでとう。よかったね」
「あんがと。最近テレビの仕事多いから嬉しい」
「ふふ。テレビが好きなの?」
 離陸して間もない半月が壮五の白い頬を照らしている。鉄柵のないデッキを選んだから、二人の距離はいつもより近かった。
「……妹、探してる」
 思いも寄らず沈んだ声が出た。しかし壮五は動じる様子を見せなかった。いかなる場所でもすぐに駆けつけてくれる壮五の孤独に、環も気付き始めていた。
「もうずっと会ってないの?」
「……じゅうにねんくらい? おふくろ死んでから、ちょびっとしか一緒にいらんなかった。新しい家族と、楽しくやってんだと思ってたけど……」
「だから、早く有名になりたいんだ」
「ん。見つかったら、アイドルはやめる」
 メンバーには、妹と再会するため芸能界に入ったと打ち明けたことこそあるが、その後のことは一切相談していない。当然後ろめたい気持ちがあることも理由の一つだったが、それ以上に、何を言われてもこの意思を曲げるつもりはないからだった。
「そーちゃん、怒った?」
「……怒らないよ。どうして?」
「メーワク、とか」
「思わないよ。君の決めたことだろ」
 とめてほしかった気もするし、受け入れてほしかった気もする。しかしどちらを行う筋合いも、壮五は持ち合わせていなかった。他人に「相談」をする気は端からなかったが、「話を聞いてもらうだけ」という行為が思うより冷たいものであることを、環はこの時初めて知った。
 壮五がそれに気付いていたかは分からない。しかし壮五はいつも環の言葉にわずかな共感を見出して、壮五なりの言葉で説いてくれた。
「君の妹――」
「あや。理っていう」
「理ちゃんは、歌は好きなの?」
「知らん。園で一緒に歌ったりはしたけど、ちっちゃかったし」
「そうか」
 母親の歌を覚えているのは、彼女と一緒に歌ったことがあるからか。壮五の他愛ない質問に答えながら、ふとそんなことを思い出した。
「僕の大切な人も歌を歌っていたよ」
「本当? どんな人? 優しい?」
「ふふ。そうだね。優しい人だったよ」
 壮五は環の言葉のほとんどを拒絶することはなかったけれど、自分に対する問いに答える時は、やはり自己主張をしない壮五らしく、控えめに話をした。
「家族の人?」
「親戚かな。叔父――僕の父の弟だよ」
「ほー。ややこしーな」
「そうかな?」
 叔父、と名の付く関係の人間は、環にはいない。どういう距離の親戚なのか掴みかねたが、週に数時間会えるかどうかの、しかもこの世の者かどうかも危うい生き物と共通の話題をようやく見つけて、環ははしゃいだ。
「そーちゃんもその人と歌ったりしたんだ」
「うん。僕に歌を教えてくれたのは叔父さんなんだよ」
「やっぱそーちゃんみたいなカッコしてんの?」
「どういうこと?」
「人と魚のあいのこ、みたいな」
「そういうことか。そうだけど、おかしいかな?」
 おじさん、という響きから、安直に年配の男性を想像した。昔、絵本で読んだように、人魚が女性ばかりだとは思わないが、いざ人魚の「おじさん」を想像しようとしても、なぜだか上手く像を結べない。
「やっぱりおかしいかな……?」
「だって、あんま見ねーもん。人魚のおじさん……」
「そんなこと知らないよ……。失礼だな」
 むくれた壮五が軽く水を飛ばした。締まらない顔のまま「ごめん」と謝ると、壮五も「どうしようかな」と言いながら笑ってくれた。そういえばこないだ、外見を気にする様子を見せていた気がする。忘れていたのは迂闊だったが、今の状況はなぜだか結果オーライに見えた。
「俺もおじさんに会ってみたい。歌、教えてほしい」
「そうだね、会わせてあげたかったな」
「ここへは来れない?」
「うん。少し前に亡くなったんだ」
 言葉の意味を理解するより先に心臓がどくんと痛んだ。壮五の言っていることを、環も、言葉そのものを知るより先に、この身で体験している。
「……死んじゃった?」
「うん」
「なんで?」
「病気……かな」
 曖昧な答えが返ってきた。真相を知らないのか、単に話したくないだけなのか、分からないのがもどかしい。しかし乾き切らない傷をえぐられるような苦しみは環も知っている。環も、自分の母親のことを、必要以上に他人に語ったりはしない。
「……俺さ」
「うん?」
「俺もおふくろ死んだ理由、ちゃんと知らないのかも」
「……知らされなかった?」
「ていうか、親父がおかしかったから、教えてもらえないのかも」
 壮五が目を見開いた。ざぶ、と水面を乱した右手が、宙をさまよって環の靴の先に触れた。
「君は天涯孤独なの?」
「てん……孤独? 一人ってこと?」
「家族はいないのかってことだよ」
 環は戸惑った。自分の今の状況を「家族がいない」と表現するなら、家族は十年以上も前からいない。環にとってずっと当たり前だったことだ。幼子ならともかく、今さら他人に驚かれる由もない。
「でも、グループの奴らいるし」
「だろ。そうだろう。君は歌をやめちゃダメだよ」
「どうしてそーちゃんがそんなこと決めんだよ」
「決めるのは君だよ。でも、僕はやめてほしくない」
 言っている意味が分からない。代わりに、スニーカーにじんわりとしみていく冷たさから、壮五にも実体があるのだということを確かめた。壮五の指は、環がおずおずと手を伸ばしても退くことはなかった。
 今までだってこうして触れて、そこに本当にいるのか知ることはできた。踏み出せなかったのは言うまでもない。いないと知るのが怖かったからだ。
「……俺の仕事の歌、聴いたことないくせに」
「君が歌わないんじゃないか」
「一人で歌うのはやだって言ったろ」
「だから無理にとは言ってないだろ」
 握り合ったのは片手の、ほんの指先と指先だけだ。壮五の手はずっと水に浸かっていたから、温かさは感じ取れない。けれど人と同じ皮膚がある。頼りないけれど骨と筋がある。壮五が声を荒げている内容なんかどうでもよかった。
「君のことが心配だよ」
 なぜ? 疑問とともに、ああ子供だからか、と納得した。思えば出会った時から幼いと言われていた。しかし腹はやはり立たなかった。施設を出てからできるようになったことはたくさんあるが、あるからこそ、背伸びをしなくていいと頭を撫でられているような安らぎがあった。
「そーちゃんがほんとにいたらよかったのに」
「いるよ。ここにいる僕じゃだめかな」
「そーいうことじゃない。……そーちゃんと一緒に歌いたい」
「……うん」
 海辺で声を合わせてくれるだけでいいのに。そう言いかけたところでスマホのバイブレーションが鳴った。
「終電……」
「そっか。じゃあ、またね」
 壮五は離した指を頬の横で小さく振った。次こそ一緒に歌ってよ、と念を押すか迷った。結局やめたのは「おじさん」の話を聞いていたからだ。壮五も歌う時、何かを思い出して寂しいのかもしれない。もしそうなら恐らく、今の環ではそれを癒せないのだ。
「ごめんね」
 去り際、壮五がつぶやいた気がする。謝られる謂れはなかったので、意味を追及することもなく、環は駅へと足を速めた。指先に潮の冷たさが残っている。この感触を忘れないよう努めれば、今夜もきちんと寝付けると思う。
 壮五が眠るのは、やはり暗い海の底なのだろうか? 当人に聞けばすぐに分かりそうでもある空想に耽りながら、環はがらがらの上り列車に乗り込んだ。