1.晩夏

 グラデーションを描くペンライトの群れが紫に変わり、やがて闇へと暮れる。見る物の一切を失いうつむくと、汗ばんだ首に取り付くストールが空色に光った。
 自分だけがいつまでも夜を迎えられない。
 
『終点、終点――』
 通常より長い停車時間に重たいまぶたが開いた。駅名を確認もせずホームに降り立つと、ほどなくして扉が閉まった。もとより知らない場所に行ければどこでもよかった。
 先日、アルバムツアーの全行程が終了した。「四葉環」個人としての活動に併せ、初めての全国ツアーをこなすのには想像以上の気力が要ったが、ようやく手にした清々しい成功は、IDOLiSH7の前途を明るく照らしてくれた。秋からは冠番組の放送が予定されており、今日もちょうど生放送ライブへの出演が決定したと、マネージャーから報せを受けたばかりだ。
 何もかもが順調であるのは間違いなかったが、IDOLiSH7としての活躍の傍ら一人でステージに立つたび、体の奥がぼろぼろと砕けていくような感覚に囚われた。胸の辺りに洞のような空間があって、次第に乾き、広がり、風に触れられたわけでもないのに朽ちていく。グループで歌う高揚感は、その不安をいっそう加速させた。
 今日の仕事を終えて、とっさに寮とは逆方向の電車に飛び乗った。そんなにひどい顔をしていたのだろうか、若い婦人が端の席を譲ってくれて、半ば押し込むように座らされるがまま、数秒後には眠りに落ちていた。思えば最近、まともに睡眠を取っていなかった。IDOLiSH7としての活動が多忙になるにつれ、環個人としての活動の管理は自分で行うようになっていたからだ。
 終着駅のホームはまだ新しいのか、環の知る地下鉄とはかけ離れて綺麗だった。長いエスカレーターや地下道を億劫がることもなく外へ出ると、交差点の景色に覚えがあった。左手に朱、青、金に彩られたきらびやかな楼門が見える。そういえば数年前、中学校の行事で訪れたことがあるかもしれない。どこにも馴染めない自分に嫌気が差して、校外学習への出席はそれきりにしてしまったけれど――。
 知らない場所へ行きたかったのにしくじったどころか、昔の記憶がとり憑いてくる。それだけでも忘れさせてほしくて、環は楼門に背を向け大通りを渡り、奥の公園に足を踏み入れた。ミッドナイトブルーの海沿いに長椅子が連なっているが、終電が近いからだろうか、人の影はほぼなかった。
 広い場所に出ると、歌いたくなる。果てのない空間に自分の声がどれだけ響くのか試してみたくなるのだ。髪を流した潮風に少し気分が晴れて、環は深く息を吸った。何もかもを忘れたいと思いながら歌う曲は自分の知ったものであることに矛盾を感じないでもなかったが、そのくらい歌うことは好きだったし、環の心を潤してくれた。
「もう少し声を落としてくれるかい」
 その小さな呼びかけが聞こえたのは幸運だった。ひたすら無心で歌っていたのに加え、波の音がしない割に背後の車道の騒音は決して静かではなかった。人影を探してきょろきょろと首を回しているうち、視界の端にきらっと光るものが映った。その正体を見定める前に、水面に浮かんだこれまた小さな頭と、ばっちり目が合ってしまった。
「ご、ごめん。うるさかった?」
 パニックのあまり最初に出てきた返答がそれだった。環はホラーやオカルトの類をこの世で最も苦手としていた。夏の心霊番組でやらされたドッキリ企画や、新しいお化け屋敷の体験入場を思い出す。水辺は霊が集まるとも聞いた。このまま引きずり込まれてしまうんだろうか。
「ううん。その逆。もっと聴きたいから」
 環の戦慄を知ってか知らずか、それは甘い声で続きをねだった。従う以外に選択肢はない。凍りつく喉を必死に開いて、一曲を終えることに集中した。
 その小さな頭は周囲を伺うと、少し浮かんで水面に白い肩を覗かせた。歌っているおかげか環も冷静さを取り戻し始めた。街灯だけではよく見えないが、薄色の短髪に気の強そうな大きな瞳、柔和に弧を描く上品な唇――性別を感じさせない顔立ちではあったが、先ほど聞いた低い声から、男性であることはなんとなく判断がついた。
 歌い終えると彼は笑顔で拍手をしてくれた。今までも、歌い終えた時に喜んでくれる人はたくさんいたが、こんなに優しそうな顔で微笑んでくれる人は一人もいなかった。ちょっとなら、本当にほんのちょっとなら引きずり込まれてもいいかも、と思った。
「あの。ここで死んだんですか」
「ううん。まだ生きてるよ」
「さ、寒くないですか」
「大丈夫だよ」
 何がどういう理屈で大丈夫なのか。生きた人間ならしかるべき機関に通報するのが先だろうか、再び混乱し始めたところで、その生き物がぱしゃ、と水面を打った。
 すぐそばの街灯、右手に浮かぶ無人の客船、彼方にそびえる白い大橋、いずこかの光を受けてそれはきらきらと輝いた。そして環は確かにその姿を見た。水族館を訪れた経験がなくとも、大した料理をする習慣がなくとも、魚の尾びれの形状を知らないとは言わない。
「あの、あんた、人魚さんなの?」
「はは。どうして『さん』付けなの」
「年上の人には『さん』つけろって、誰かが」
「そうか。えらいね」
 人魚の存在は知っている。当然、架空の生き物だということも。昔読んだ絵本の記憶をたどれば歌が好きだった気もするし、一方で人間に見つかってはいけない生き物だったような気もする。街なかの港に現れるような話に思い当たりはしなかったが、自分の今見ているものが幻であるということだけは理解できた。
「あー、えと、人魚さんは」
「壮五だよ」
「え」
「名前。壮五といいます。君は?」
「た、環。です」
 幽霊でないなら怖くはない。もっと近くで顔を見たくて、環はしゃがんで鉄柵の隙間に貼りつくように首を伸ばした。その魚――壮五も、岸にゆっくりと身を寄せる。髪は濡れているはずなのになぜだろうか、ふわふわと巻き上がる粉雪のように揺れていた。一つ、二つ、その流れに従わない癖毛がピンと立つのが可愛らしい。互いの顔を覗くように合わせた瞳は、アメジストのように透き通っていた。細い鎖骨の下は波に沈んで見えないが、暗闇にぼうと浮かぶ白い素肌が目を惹いた。
「どうして僕が年上だって思うの?」
「俺が仕事で会う人、たいてい年上だもん」
「そうか。いくつ?」
「じゅーなな。あんま見えないって言われる」
「ふふ、そうだね。でも、話すと分かるよ」
 人ならざる彼に年齢という概念はないだろう。それでも「分かる」ということは、恐らく「子供」だと言われているのと同義だ。しかし褒めてもらえるのならそれも悪くはない気がした。もとより幻なのだ。自分が望んで見ている存在なのだから、腹を立てるのもおかしな話だろう。
「あ、やべ、終電」
「帰るの?」
「う、うん……。あのさ、あんた、ずっとここにいる?」
 壮五はきょとんと首を傾げたが、すぐにぱあっと顔をほころばせた。こんなに嬉しそうな顔をされるとは思わなくて、環は息を呑んだ。
「いるよ。また来てくれる?」
「お、おう」
「ありがとう。おやすみなさい」
 身を翻して壮五は沖へと泳いでいった。どこへ帰るのだろうか、見届けたい気持ちもあったが、姿が消えてしまうのを想像したところで結局やめた。
 寮の最寄駅までの乗車時間は思っていたよりずっと長くて、何度もうつらうつらするたび自分の頬をつねった。スマホのアラームをかけて寝てしまうという手もあったが、ツアーの合間にそれで失敗して以来、一人で電車に乗る時は極力座らないと決めていた。
 音を立てないよう玄関の扉を開けると、食卓側の照明は落とされていたものの、共用スペースにリーダーが残っていた。テレビを見ながら一人酒をしているのかと思ったが、ビール缶は見当たらない。
「ただいま……」
「おかえり、タマ。遅かったな。仕事じゃないだろ?」
「うん。……ちょっと友達のとこ」
「ふーん。ま、口出しはしないけど、危ないことには巻き込まれんなよ」
 不良息子も帰ってきたことだしそろそろ寝ますか、と大和はソファを立った。仕事用に自分で買った腕時計を見ると、十二時をとうに過ぎていた。
「や、ヤマさん」
「んー?」
 大和に続けて環も階段を上がった。大和は伸びをしながら返事こそしたが、こちらを振り向こうとはしなかった。
「俺、ヤマさんよりでけーし。たぶん腕っぷしもあんよ」
「はは。そういう心配はしてないよ」
 おやすみ、風呂入れよ、と締めて大和は環に手を振ると、隣室を通り過ぎ、角部屋へ帰っていった。途端に下がり始めたまぶたをこすりつつ、環も自室の扉を開ける。散らかったベッドへ倒れ込むと、もうシャワーを浴びようなんて気力は起こらなかった。仕事は周りの力を借りつつ真面目にこなせているつもりではあるが、こういった時、環を引っ張り起こしてくれるようなメンバーは、この寮にはいなかった。
 眠りに落ちながら、つい数時間前の出来事を反芻した。魚の尾を持った、海に浮かぶ人間なんて、現実にいるとは思っていない。疲労から見た夢だと考えれば、それだけで十分に納得がいく。
 けれど、環の目には確かに見えていたし、会話らしい会話もできた。他の誰のものでもない名前を名乗った。――また来てくれるか、と問うた。誰かに話せば馬鹿馬鹿しいと笑われるかもしれないが、その戸惑いがかえって一人寝の心細さを紛らわしてくれた。
 
「四葉さん、起きてください」
 その翌朝は、同級生の呼びかけで目覚めた。部屋の目覚まし時計はスマートフォンのアプリも合わせて三つ置いてあるが、夕べのようにかけ忘れたまま眠ってしまうことも少なくない。慌てて時刻を確認すると、身支度にはまだ十分な時間があった。
「いおりん、おはよ。起こしてくれてあんがと」
「いえ。二階堂さんの言っていたとおりでした」
「んん?」
「シャワーを浴びる前に力尽きているだろうから、早めに声をかけるようにと」
 七時過ぎには出ますからね、と念を押して一織はきびすを返した。シワのないシャツの背がはたと波打つ。ブレザーを羽織ればすぐにでも登校できるのだろう。さすがだな、と他人事のように感心しながら、環も散らかった床に足を下ろした。
 今日の朝食当番は三月とナギだ。濡れ髪の環が食卓へ着く頃には、寝ぼけまなこの陸もパジャマ姿で階段を下りてきた。まだ目が覚めきっていないのか、コーンスープにフォークを突っ込んで首を傾げる様子に、三月が仕方ないなというように笑った。
「陸、また時間忘れて本読んでたんだろ。コーヒー入れてやろうか?」
「みっきー、俺もちょーだい。甘いの」
「おう。二人ともミルク増量な。あ、ナギ、大和さんの皿にラップかけといて」
「ラップ、昨日から行方不明です」
「マジかよ。男所帯だとどんどん物がなくなるな」
 私はきちんと片付けているのに、と一織が文句をこぼす。ラップは誰が置いたのか、電子レンジの上に放られていた。テーブルの角のポテトサラダとハムエッグには指示通り処置がされ、三月が「鍋にスープがある。九時までだったらフレンチトースト作ってやる」とメモ書きを添えた。
「そういやいおりん。俺の英単語帳知らない?」
「やっぱり忘れたんですか。一昨日、ストレッチしながら勉強すると言って『空き部屋』に持っていったでしょう」
「そーだっけ。そーかも。探してみる」
「くれぐれも急いでくださいね」
 環は皆が席を立つより早く王様プリンまでたいらげて、片付け当番の陸に手を合わせつつ、再び上階へと走った。――「空き部屋」というのは、大和と環の間の一室のことだ。寮の二階に並んだ七つの個室のうち、そこだけが文字通り空き部屋になっている。
 扉を開けると、紫色のラグの上に、目的の物が置き去りになっていた。大方読んでいる途中で、風呂かミーティングにでも呼び出されたのだろう。一織の言うとおりあまり覚えていない。勉強した内容もだ。小テストは今日だったと思う――恐らくそのために数時間だけでも学校へ行くことになっている――が、直前にパラパラ見ておけば、何かしらは出題されるはずだ。
 この寮は、小鳥遊プロダクションが以前から持っていた物件を改装したもので、IDOLiSH7のために造られたものではない。メンバーが六人なら、七つある部屋のうち両端のいずれかを空けるのが普通だろうが、リーダーが隣室に人の気配があると眠れないと言うので、角部屋の隣を空けることになった。ラグと、揃いの紫色のカーテンは、社長の指示で置かれたものらしい。それ以外、この部屋には何もない。
 環は時々ここを訪れた。初めは自室を片付けてからにしろと小言も受けたが、環が空き部屋を散らかすわけでもないのを見て、そのうち誰も何も言わなくなった。環以外のメンバーについては、陸が環のいる時に合わせて読書に来るくらいで、皆この部屋に特に思い入れはないようだった。そもそも机一つない殺風景な場所より、自室のほうが居心地はいいのが普通だ。環もそれは理解できた。
 住み慣れた部屋の安心感とは別に、環はこの部屋の空気が好きだった。時を止めたような静けさが、生まれてこのかた自分だけの居場所を持ったことのない環を受け入れて、好きなだけ息をつくことを許してくれた。この部屋だっていずれ誰かの仮住まいになることを思えば、おかしな話だけれど――。
「ああ、やっぱりのんびりしてる。四葉さん、時間ですよ」
「あ、ごめん。玄関で待ってて」
「昼食を買う時間も計算してください。今日はお弁当がありませんから」
「うーす」
 ここでのひと時を妨げられたからといって、やたらに機嫌を悪くしたりはしない。寮暮らしを始める前なら心を乱したかもしれないが、他人と働くのに不都合な癖は、五人のメンバーのおかげで順当に和らぎつつあった。
「そういえば、四葉さん。あなたが先日勝手に受けた『再会もの』番組の放送日時ですけど」
「いおりん、それまだ怒ってんの?」
「怒ってませんがしつこく言わせていただきます」
 傘を縦に並べ、駅までの道をたどりながら、後方の一織に軽口を返した。一織は殊のほか世話好きというのだろうか、育ちも性格も違うはずの環に不思議と構いたがったが、聞きたくない時は態度で示せば諦めてくれるので、特別嫌だと思ったことはない。そもそも環も一織も教室では浮きがちだったから、学業の面倒を見てもらえることがありがたいだけではなく、一織の居場所の一つになれている気がして環は嬉しかった。
「マネージャーから個別に連絡が来るはずですから、きちんと確認してくださいね」
「おー」
 相づちを打ちつつ天を仰ぐと、小降りの雨が止みかけていた。直に冬が始まる前の、つかの間の秋晴れの季節がやってくる。
 好きなのは晴れか雨かと訊かれたら、間違いなく晴れだと答える。しかし今年はどうしても、時の移ろいにただ焦る。傘を閉じて足を速めると、後ろの一織が「そんなに慌てなくても」と環をなだめた。
 
 終点の港町を訪れてから約十日、入道雲が姿を消して、環は密かに待ち侘びていた日を迎えた。今日の仕事は夜九時頃まで、個人で引き受けた撮影を最後に終わる。朝、改めてその予定を確認した時から一日中、環の胸は高鳴っていた。
 迷いはあった。誰に話すこともない不思議な生き物との記憶は、それこそ夢のように薄らぎ始めていた。一度見た幻をやはり幻だったと確かめるくらいなら、事実は曖昧にしておいて、夢だけ胸の奥にしまって、大事に守っておくほうが幸せだ。けれど「確かめるか否か」という選択肢が生まれた時から、何度も彼の声を思い出している。
『また来てくれる?』
 また、と望まれること自体、環にとって甘美な出来事だった。アイドルとしてプロの手により着飾られていたわけでもない、ステージに立っていたわけでもない時のことだからなおさらだ。確かめないということは、この喜びを裏切ることでもあった。まして、ずっとそこにいるかと尋ねたのは自分だ。彼もそれを覚えていて待っていてくれるならどんなにいいだろう。
 十七年生きてきて初めての期待が環の足を動かした。予定通りに仕事を終え、先日と同じホームの列車に飛び乗った。大和には念のため、所用で遅くなる旨をラビチャで伝えた。終点までいくのだからと座席に腰掛けたが、眠くなることは一切なかった。
 地下道を早足で歩いているだけでも、心臓がどくどくとせわしなさを増していく。上がる息を抑えながら海沿いの公園へ入り、以前出会った辺りをうろついてみたが、それらしき影は見当たらない。まだ冷え切らない潮風が、環の首筋に汗を流す。言い得ぬ落胆に身を包まれかけたところ、不意に彼の言葉がよみがえった。
『もっと聴きたいから』
 試しに、この前と同じ歌を歌ってみることにした。見つけてほしいと願いながら、他人に見つかってはいけない気がして、声量は自然と小さくなった。心細さが胸を突き始めた頃、震える声に紛れてちゃぷん、と水音が聞こえた。はっとして辺りを見渡すと、待ち望んでいた甘やかな声が意識をさらった。
「環くん」
 そばに停泊している船が落とした影から、白い頭がゆっくりと覗いた。繰り返すが環はお化けが嫌いだ。正体を知らなければ腰を抜かしていたかもしれない。
 相手はしばらく様子を伺っていたが、歌の続きを忘れた環が身動き一つ取れないでいるのを見ると、滑らかな動きですうっと岸辺へ寄った。
 底なしの闇のような海の上で、壮五の髪や素肌はどんなかすかな明かりもこぼさず集めて、淡い光を放っていた。華奢な首筋や薄い肩が相変わらず陶器のようにきれいで、不思議と寒々しくは感じなかった。見惚れてしまいそうになるのを抑えながら、改めて造形を観察する。この生き物が確かにいると、どうにかして思い知りたい。
「どうしたの」
「ど、どうって」
「ほら、続きを歌って」
「ええ……?」
 意外に口うるさいな、と内心悪態をついたら、気持ちが少し落ち着いた。言われるがままに音を発しながら、脳内で壮五の全身を思い描いてみる。この前ほんの一瞬目にしただけだけれど、水を掻くしなやかな下半身は、陽に照らせばきっと宝石のようにきらめくだろう。姿には神々しさすらあるのに、口を開くと思いのほか情緒を欠く。そのちぐはぐさが憎たらしくも可愛くて、環に親しみを抱かせた。
 最後まで歌い通すと、壮五はまた手を叩いて笑ってくれた。彼が動くたびちゃぷちゃぷと水面が跳ねる。
「……あんがと。この曲、好き?」
「うん。流行りの歌かい?」
「たぶん違う。おふくろが昔歌ってた」
 母親を亡くしたのは三歳の時だ。誰かに家族の話をするたび、そんな幼い頃のことをよく覚えているねと驚かれることも多い。しかし母親以外にこの歌を誰かが歌っているのを聞いたことはない。この歌は自分が物心ついてからほんの一時しか一緒にいられなかった家族のことを「覚えている」ことの証でもあった。
「ここに来た時は歌を歌ってくれるかい」
「そっか。そしたら俺もそーちゃんのこと探さないで済むな」
「そー……なんだって?」
「そーちゃん。そーごだからそーちゃん」
「まあ、呼びやすいように呼んでくれてかまわないけど……」
 仕方ないな、と壮五は眉を下げて苦笑した。許してくれたのが嬉しくて、環の頬も自然と緩んだ。
「なあ、『環』って」
「うん?」
「もっかい呼んで。俺の名前」
 しゃがんだ膝の間に口元を埋めながら、ぽそぽそとつぶやいた。言葉にすると恥ずかしい。「君」というのもそうだが、慣れない呼ばれ方で壮五の姿を見つけた時の、胸がきゅうとする感覚を、単純にもう一度味わいたかった。
「……環くん」
「うん」
「環くん、……この呼び方、気に入らないかい?」
「わかんない。でも、そう呼ぶ人あんまいない」
 環にも今の気持ちは上手く説明できない。そもそも気持ちを口で伝えること自体、環は得意ではない。一方で壮五はしばらく考えた後、合点がいったように微笑んだ。
「新鮮だった?」
「そーかな。そーかも。なんで嬉しそうなの」
「だって、海を出たことのない僕でも君を驚かせることができるなんて」
「よく分かんねえ。会った時から驚いてるけど」
 なんの気なしに言ったつもりだが、壮五は、そうか、と一つだけこぼすと、困ったように首を傾げてまた笑った。緩やかにときめいていた環の胸がどきりと強張る。自分はいつも本当のことしか言わないつもりだ。しかし今は嫌な気持ちにさせたのかもしれない。
「別にあんたがヘンとか言ってんじゃなくて」
「うん。気にしてないよ」
 ないことないだろ、という台詞を寸でのところで呑み込む。明らかな嘘だったが、嘘をつくなと怒ることを環はなぜかためらった。
「優しいね」
 迷っている隙に返された笑顔に、反論することを諦めた。壮五のその言葉は心からのものだったろうと察せたからだ。
 人魚も傷つくことがあるのだ。それを知って環の心も少なからず痛んだ。けれどその場を立ち去ろうという気にはならなかった。単なる性格の違いが生む居心地の悪さを超えて環を引き留めるような力を、壮五は持っていた。
「なんかあんた、友達とは違う感じ」
「やっぱり話しにくいかな」
「んなこと言ってねーだろ。なんてか、話弾むわけじゃねえけど、嫌いじゃないっていうか、なんか、知ってる感じというか……」
 そうだ、この空気を知っている。音楽を流しているわけでもないのに、体の奥をめぐる血が特別なリズムで流れ出す。ふとした拍子に思い出す時、懐かしい記憶と同じ香りが匂い立つ。――ただ知っているとしか言えない。ただ知っていた。しかしそれだけで安心できるほど、環は満たされた子供ではなかった。
「はは。いいよ、分かったら教えてね」
 反して恐らく壮五は環の今の言葉だけで満足したのだ。見守るようでもある笑顔を向けられると環も不思議と、まあ今はいいか、と思えた。
「ていうか、友達みたいなのはそんな多くない」
 それに、環にも引っかかる言葉はあった。壮五と違って環は、それをそのままにしておけるような性格ではない。しかし愚痴ではなく二人の間にわだかまったものを潰すための努力だ。環は壮五ともっと仲良くなりたかった。
「……同じ年頃の子とはあまり馴染めてない?」
「高校入ってからはそうでもねーけど。いおりんのおかげで、ちゃんと行くようになったし。でも、悪口減った代わりに、なんか気ぃ遣われる」
 名が売れることを望んで芸能界に入った。個人名義での活動に積極的なのもそのためだ。他人に「好き」と言われる喜びを知って揺れる心がなかったわけではないけれど、たった一人の肉親に自分の名前を届けるためなら、どんなことでもやるつもりでこの世界にいる。
「そうか。なんの仕事をしてるの? やっぱり歌?」
「アイドル。歌うし、踊るし、なんでもすんよ」
「そうなんだ。ねえ、君の歌も聴きたいな」
 無邪気な笑顔でせがまれて一瞬お願いを聞いてしまいたい気分になったが、環は心に決めていた。
「歌わない。一人で歌うの、ほんとは好きじゃない」
「僕が聴いてるのに?」
「だって、いつもは六人で歌ってんだもん。……俺の持ち歌も、もともとはグループの曲だった」
 IDOLiSH7のデビューに先駆けて、環はソロでデビューしていた。きっかけはいろいろあったが、チャンスに乗ると決めたのは、環自身、できるだけ多くのメディアに露出させてもらいたかったからだ。環の若さや芸歴の浅さから、同い年の一織と組む案も上がってはいたが、よその事務所の強引な引き抜きを突っぱねた時、自分の目的を果たすためだけの活動は自分一人で行おうと決意した。
「そーちゃんも一緒に歌ってくれるならいいけど」
「僕はいいよ」
「あっそ。じゃあ仕事の歌は歌わない」
 辺りがしん、と静まり返ってしまった。時折ごお、と車の行き交う音は聞こえるけれど、目の前の海はそこらじゅうコンクリートで固められているからだろうか、広さに対して潮騒とは驚くほど無縁だった。
「……ごめんね」
「なんでそーちゃんが謝んの」
「だって、嫌な気分にさせただろう」
「そーちゃんは悪くないじゃん」
 そういえば、怖い顔をしているとよく言われる気がする。この仕事を始めてからはそうでもないけれど、やはり三つ子の癖はそうそう直らないようだ。親指でぐにぐにと両頬を揉み、穏やかな表情を作るよう努めてみる。この笑顔はファンサービスではない。
「いーよ。仕事の歌じゃなくてもそーちゃん、聴いてくれるもんな」
「そんなの……なんだって聴くよ。君が歌いたい歌を歌ってくれるのが一番いいよ」
 壮五は懸命に首を伸ばして息巻いた。必死な様子がいじらしくて思わず口角を上げると、壮五の頬もふっと緩んだ。
 壮五が笑ってくれると安心する。壮五も、そうなのかもしれない。彼の住む海に家族や友人はいるのだろうか。尋ねてみたかったが、いよいよ終電の時刻が差し迫っていた。
「なあ……」
「また来てくれる?」
 いつまでここにいるのか、と問うより先にそう懇願された。ふと、初めてここへ来た時の心持ちを思い出した。一人で歌い続けることがとても寂しくて、時々六人で歌うのにも耐えがたくて、仕事も日常も関係ない別のどこかに行きたくて、限られた時間でやっとたどり着いたのがここだった。
 自分の不安の根底を探ろうとするといつもわけが分からなくなる。反して壮五から今感じ取った寂しさは輪郭まで明らかだった。単純に彼は「一人」なのだ。他に行くところもない。恐らくずっとここにいる。
「来る。来るよ。あ、でも、いつとか約束できない……」
「はは」
 なんで笑うんだ、と言い返す前に、壮五が今夜一番の笑みを見せてくれた。
「ありがとう」
 一緒にいたいと望まれる喜びを、環は初めて知った。