6.明日のオービット

 僕たちは正反対なんかじゃない。きっと。

「環くん、おはよう! はい起きて!」
 明らかに「うるさいな」って顔をされたけれど気にしない。僕は夕べからすこぶる元気だった。あのダグラス・ルートバンクにサインをいただいたうえ、直接激励の言葉をかけられたのだ。クリスマス公演のオープニングアクトは身命を賭す覚悟で臨みたい。
「そーちゃん、ちょっと落ち着きなって。あんた焦るとろくなことねえよ」
「環くんはもう少し焦って。今日から本格的にダンスレッスンに入るんだろ」
 ダグラスへの敬意を込めて、新曲は衣装も振付も思い切り華やかにしようと皆で決めた。特に振付についてはこれを機にメンバー全員、一段階レベルアップを図るつもりだ。年末にはブラックオアホワイトも控えているし、正直食事の時間も惜しい。
「そーちゃん、夕べちゃんと寝た?」
「う、うーん?」
「嘘つかないだけマシか。今晩もDVD観て夜更かしすんなら見張り行く。俺が嫌ならいおりん派遣するから」
 すぐさま廊下の端から、勝手なこと言わないでください! と叫び声が聞こえた。地獄耳だなー、と笑う環くんの手を引っ張って洗面所へ向かい、洗顔や歯磨きを済ませながら、朝食のメニューは何か予想してみる。
「ナギっちがそろそろ鍋食いたいとか言ってたな。ジャパニーズ鍋」
「えっ、朝から?」
「夜だと皆時間バラバラじゃん」
「もう一人の当番は……」
「りっくん」
「……鍋かな」
 この寮で寝起きするようになってもう半年だ。僕たち二人の関係は少しずつだけれど変わってきている。それは僕個人の変化にもちゃんとつながっているんだろうか。どんどん成長していく相方の隣で、時々そんなことが気にかかる。

 先日ダグラスのDVDを観賞しながら膨らませたイメージを材料に、まずはベースのステップを組んだ。試しに通して踊ってみたけれど、曲が終わるなり座り込むことをしなかったのは環くんだけだ。
「いやー、これおっさんにはキッツいわ……」
「おっさんじゃなくてもキツいです……」
「リクよ、お前もおっさんへの入り口に足を踏み入れているんだよ……」
「あなたたち無駄口叩いてないで息を整えてください……」
 前座で歌うのはこの一曲のみだ。数分に全身全霊を懸けるつもりで作る。とはいえ最初から最後までずっと飛び跳ねているような状態になりそうだ。当日は袖に捌けるなり動けなくなるかもしれない。
「……環はホントタフだな……」
 比較的体力に自信のある三月さんが大の字になったまま、踊り続ける環くんを見上げた。
「そーちゃん、ちょっと見てて。さっきのタッタタッタッタターンのとこ……」
「……環くん。歌詞を覚えて」
「だって英語読めねーもん。そのうち覚えるし。いいや、最初からやる」
 三月さんに並んで寝そべっていたナギくんがプレーヤーに手を伸ばしたけれど、環くんは音が鳴り出す前にAメロの旋律を口ずさみ始めた。
 真剣な横顔につい見入る。この半年間でずいぶん大人になったなあと思う。もちろんそれだけの出来事があったってことだ。一年後、三年後、五年後の彼はどんな表情をして踊るアイドルになるんだろう。
「――あ」
 ぼんやりと空想にふけっていたら、環くんの動きがぴたと止まった。どこか痛めでもしたのかと立ち上がる前に、環くんはきびすを返して出入り口へ向かう。
「環くん、どこへ――」
「顔洗ってくるっ」
 バン、と扉がレッスン室を震わせた。寝転がっていたメンバーが次々に身を起こす。出入り口に一番近いところにいた三月さんが小さく溜め息をついた。
「環のヤツ、やっぱちょっと不安定だな」
 どうするリーダー、と振り返った先で、大和さんがもどかしそうに首を掻いた。
「まあ、見守るしかないでしょ……」
 再会ものの番組での事件の後、関係者に謝罪に回ってから、例えば環くんが上手く眠れなくなったりだとか、食欲が落ちたりだとかすることは全くなかった。強い子だな、と感心していたけれど、もしかしたら環くんは周囲が思うより、自分自身の気持ちに無頓着なのかもしれない。
「僕、ちょっと行ってきます」
「いつもごめんな。頼むわ」
「いえ」
 失念していたが、木枯らしが吹き始めてだいぶ経つ。汗だくのまま廊下に出ると思わず身震いするほど寒かった。行き先の見当をつける前に、建物中に大きなくしゃみが響き渡った。迷わず階下の給湯室へ向かうと、案の定シャツで顔を拭う環くんがいた。
「ほら、タオル。風邪ひくだろ」
「おー、あんがと」
 ついてくるなと言われることを多少覚悟していたけれど、思いのほか明るく振る舞われて戸惑った。どう話し出すべきか考えている間に、環くんのほうから口を開いた。
「やっぱ皆に心配かけてっかな」
「そうだね……。君には、かえって気を遣わせてしまってるかな」
「んー。気にかけてくれんのは嬉しいけどさ。別に俺、へーきだよ」
「……でも、泣いてたじゃないか」
 少し高い位置にある瞳を見つめた。晴れ渡った空みたいに綺麗な色だ。ここから前触れもなく涙がこぼれることが増えた。本人は決まって、何も悲しいことなんかないと言う。
「なんか、うーん。歌ってると、気持ちがわーってなる。でも、また皆で歌えるのすげー嬉しいし、悪いことじゃないと思う」
 確かめるみたいに、環くんがゆっくりゆっくり言葉を紡いだ。大和さんの言うとおり、究極的には見守ることしかできないのかもしれない。けれどそれではコンビでいる意味がない。先にそういうふうに考え出したのは環くんのほうだ。
「環くん、助けてほしいこととか、あったらきちんと言うんだよ」
「おー。とりあえずレッスン室戻りたい」
「はは。そうだね、戻ろうか」
 扉冷てーからそーちゃん開けて、と環くんが甘えた声を出した。環くんの場合、無理して強がったり我慢したりということはたぶんあまりない。だからこそ本人が自覚していない脆さは周りがサポートしなくちゃいけない。それに一番適した位置が僕のいる場所なのだ。
「すみません、戻りました」
 環くんのお願いの通りひんやりとした扉を開けると、五人が円を描いて床に座り、各々の練習用ノートを広げていた。
「おかえりー。今、休憩がてら曲の解釈について話し合ってたとこ」
「でも、今回の歌詞は難しいですね。抽象的な言葉が多くて」
「ハートですよ、イオリ」
「ナギ、それじゃ余計分かんねーよ」
 僕と環くんも使い古したノートを持参し円陣の一部に混ざる。皆ああでもないこうでもないと雑多に意見を交わしていたところ、陸くんがおもむろに挙手をした。
「ねえ、提案なんだけど……。パート振り直さない?」
 皆の動きがぴたりと止まる。パートについては社長から曲を受け取ったその日の夜に話し合って決めたきり、特に変更したりはしていなかった。
「リク、パート減らすですか?」
「うーん、というより、センター変えませんか。リーダー」
 陸くんが少し自信なさげに、しかし意を決した瞳で、大和さんに向き合った。
「実は俺もちょっと考えてた。たぶん、言いたいことは一緒だな」
「……え? なに? 俺?」
 二人の視線の先で、環くんがきょとんと首をかしげていた。誰の返事をも待たずして、残りのメンバーも納得したのか、次々に頷き始める。
「りっくん、もしかして調子悪い?」
「そういうわけじゃないよ。ただなんていうか、オレがメインになるよりも……」
「七瀬さんが合わないというわけじゃありません。四葉さんのほうがより適任というだけの話です。で、できるんですか、できないんですか」
「えっ今決めんの。待ってって、もう……」
 長身ゆえに端で踊ることの多い環くんは、新しい楽曲を振り付けるたび一度は「俺も真ん中がいい」と言うのが通例になっていたので、喜ばないのは意外だった。ダンスに自信のある環くんでもセンターとなるとやはり怯むものだろうか。
「だーいじょうぶだって。『AWESOME』は大和さんメインでやっただろ」
「ヤマさんと俺はちげえだろ……」
「おっ、買いかぶってくれる? ありがと」
 真っ向から励ます三月さんと、推薦しておきながらも茶化す大和さんに、環くんが唇を噛んだ。本人もきっと、自分がセンターをやる以外の選択肢はもうないと分かってはいるんだろう。俯いた顔を覗き込むと気配を察知したのか、まつげがこちらを向かないままで少しだけ揺れた。
「環くん。やりたくない?」
「……やりたくないわけじゃない。けど……」
 環くんが抱えた膝の前で、右手を庇うように、あるいは戒めるように左手で覆った。怪我はもうとっくに治っていたけれど、気持ちのほうはそう簡単にはいかないみたいだ。
「環くん、ここへ戻ってきたのはどうして?」
 声を落として問いかけると、親を待つ幼子みたいな顔がこちらを向いた。不安を一切拭うことは難しいけれど、きっともう答えは要らない。
「……分かった。やる。やります。頑張る」
 その代わり振付ちょー派手にするからついてきて、と環くんが頼りなげな表情のままで発破をかけた。任せなさい、誰に向かって、と皆も次々に指を鳴らす。僕の経験からは大したアドバイスはできないだろうけど、相方の挑戦に、勝手ながら今までにないほど心が躍るのを感じていた。

 その日から環くんは本当に頑張った。熱心にレッスンをするだけじゃない。センターとしてメンバーをどうリードするべきか考えるため、日頃から皆の様子に気を配るようになった。風邪気味のメンバーがいれば食事当番にメニューの変更を頼んだり、就寝の遅いメンバーがいればスケジュールや家事当番の見直しに手を貸したり。環くん自身もゲームでは夜更かしをしなくなった。
 個人的に驚いたのは、環くんが時々僕を起こしにくるようになったことだ。
「そーちゃん、たぶん霜降りてる。踏むの一番乗りしよ」
「……えっ」
「声も出ないほど驚かなくたっていーじゃんか」
「だって、君が先に着替えているなんて……」
 今のテクニックの限界に挑むつもりで振付をすると宣言した環くんは、ジョギングへ出掛ける時刻を一時間半も早めた。皆には皆のペースがあるからと一人でそうし始めたくせに、ものの数日で「やっぱりつまんない」と僕を誘ってきたのはおかしかった。お陰様で僕も毎晩早めに床へ就く習慣がついた。
「そーちゃん、昨日、早朝ロケだったろ。キツかったら言って」
「大丈夫だよ。夏から君と走ってるんだから」
「それ一昨日も聞いた」
 準備運動の時はこんなふうに掛け合いもするけれど、走り始めると大抵沈黙が続いた。今はこの時間を心地好く感じられる。恨めしかった広い歩幅も、コツを掴んだら難なく合わせられるようになった。環くんといる時間が好きだな、と思い始めていた。
「……そーちゃん、相談、なんだけど」
 ふと環くんがスピードを緩めたのに僕も従う。はあっと吐いた二人の息が薄明の空に白く光った。
「みっきーと振りのタイミング合わない。間奏のなんか速いとこ」
「八分で刻むところかな。ちゃんとできてるよ」
「頑張ればできっけど、気が散るっつーか……直前のパートの声出なくなる。俺もともとあんま声でかくねーじゃん」
 言われてみればそうだ。ちゃんと自己分析してるんだな、なんて感心している場合じゃない。もともと環くんの持ち味は、型や周りの要求に囚われすぎない伸びやかさだった。センターとしての役割に注力するあまり動きが固くなってしまっていると感じたことは実際に何度かあった。
「大丈夫だよ。まだ日にちはあるし、練習を重ねよう。もしも難しければ、立ち位置を変えることだってできるし」
「うん……」
 環くんは頷きはしたものの、腑に落ちなさそうな表情を浮かべていた。とはいっても今の僕にはこれ以上、かけられる言葉は見つからなかった。

 普段考え込むことがあまりないからだろうか、逆に一度悩み出してしまうと、環くんの気持ちはどんどんそちらに引っ張られていってしまうようだった。普段の仕事にも影響が出始めた。 MEZZO” としての収録で歌詞を間違えた時はさすがに肝が冷えたけれど、環くん本人が一番落ち込んでいたので何も言えなかった。
「どうすっかな……。身長差は仕方ないけど、タマもミツも変更なしで合わせようって必死に練習してるから、口出しづらいんだよな」
 皆が休憩している間にも鏡の前に並んでステップを踏む二人を、背後から大和さんが腕組みしながら見守っていた。他のメンバーも汗を拭うことすら忘れ、彼らの動きを真剣な眼差しで追う。
「ストップ。兄さん、そこのターンをステップジャンプに変えませんか」
「わーってるよ、脚が短いって言いたいんだろ」
「何もそこまで……」
「いや別に自虐じゃなくて。そうなんだよな、ここを間に合わせようとするとどうにも次が……」
「おー。なるほど」
 言い合う和泉兄弟を尻目に、環くんがマイペースに振りの修正を試みる。ごー、ろく、しち、はち、と何度か思いつくままに足を動かした後、首をかしげながらもなんとか頷いた。
「全員変えるこたないよな。ちょっと考えてみる。いおりんあんがと」
「いえ……。それより」
「なに? 他にもなんか案あったら言って」
「そうではなくて。大丈夫なんですか。あなたあまり寝てないでしょう」
 あー、と環くんは頭を掻いた。否定はできない。最近の環くんは待ち時間や移動中にうたた寝一つせず、ダンスレッスン用に自分だけ新しく作ったノートとにらめっこをしたり、メンバーとこまめに連絡を取り合ったりしている。僕もなるべくサポートに努めてはいるけれど、マネージャーから MEZZO” への連絡の窓口を僕一人に絞ってもらったくらいで、やっていることは普段とあまり変わらない。かといって環くんの領域に踏み込みすぎても機嫌を損ねてしまったりする。妹さんがいたからだろうか、環くんはいったんやる気を出すと、どこまでもやりたがりになるみたいだ。
「んじゃー明日の朝食当番、いおりんが代わって。スフレオムレツ? とかいうの食べたい。なんか前テレビで食った」
「仕方ないですね。プリンはどうしますか」
「もちろん食う」
「卵尽くしじゃないですか」
 それでも周囲への頼り方はきっと僕より上手い。どうしようもなくなる前にSOSを出すだろう。安心しながら、自分の不甲斐なさを歯がゆく思う。何もできることが思いつかないくらいならまだいい。いやよくはないのだけれど、最近の MEZZO” は夏より調子悪いんじゃない、なんて陰で言われているのを僕は知っている。

「単刀直入に言うけど、 MEZZO”元気ないよ。喧嘩でもしてるの?」
「してないっす。すいません」
 ついにスタッフさんから直接言われてしまった今日、頭を下げながら環くんがちらっと僕の表情を伺っていた。僕には前科もあるし心配をかけてしまっているんだろう。けれど今は余計な気を遣わせたくはない。なんて言い方をしたらまた怒らせてしまうんだろうけど。
「そーちゃん、ほんとに元気ないな」
 楽屋で着替えながら環くんがそう切り出した。振り向くと相手は着替えの手なんかとっくに止まっていて、じっと観察するみたいにこっちを見ている。
「そんなことないよ。ちゃんと睡眠はとっているし、君こそ……」
「そーいうことじゃなくて。そーちゃん、何か言われると、いつも俺の五倍くらい謝んじゃん。でもなんか今日、口数少なかったよな」
「ご、ごめんね。君が大変な時に……」
「俺のことはいいからそーちゃんはそーちゃんの心配しろよ」
「……最後まで聞いてくれる?」
 しまった、と思った時には遅かった。黙り込んだ環くんはふいっと顔をそむけると、中途半端になっていた着替えを再開した。
「……ごめん」
「ごめんはいい。続き話せよ」
「僕のことを気にかけてくれたのに」
「俺が大変な話はどこいったの」
「僕がいつまでも……うん?」
 想定外の返答にぽかんと口を開けたら、環くんが再びこちらを向いてへらっと笑った。喧嘩とは言わないまでも、また僕のせいで険悪な雰囲気にしてしまうかと思ったのに。
「別に俺、やりたいことやってるだけだし。慣れねーから大変そうに見えんのかもしんないけど、そんならなおさらケンカすんのやめよ。……なんで溜め息ついてんの?」
「いや、ううん……ありがとう」
「おー。……なにが?」
 最近の環くんは本当に大人になった。正直僕の立場がない。そう思うと悩んでいる時間ももったいない。さっさと帰って歌のレッスンでもしようと荷物をまとめ出したら、環くんも同じように片付けの手を進め始めた。
「忘れ物ないね。環くん、ちゃんと椅子しまって」
「んー」
「……あ」
 扉を開けたところで、ちょうど共演者に出くわした。ぺこりと反射的に頭を下げると相手も足を止める。確か環くんよりも一つ二つ年下の男の子たちを集めた新人アイドルグループのうちの一人だ。今日の収録前にざっと情報を集めてみたところ、僕たちのようにメンバーの性格や持ち味は様々である中、この子は歳の割に歌にもダンスにも鬼気迫るような真剣さがあって、時折危うさすら感じたけれど姿勢自体には好感が持てたし、見習いたいなと思っていた。
「今日はすみませんでした。僕たちのせいで収録が長引いてしまって」
「別に。あなたもともとバラエティ苦手でしょう。秋の特番よりマシでしたよ。僕はたまたま見学に行ってたんですけど」
「そ、そうなんだ」
「それより後ろのあなた」
 突然矢継ぎ早に話されて尻込みしていたら、環くんがぴっと指を差された。振り返ると、間が悪いと言うのか運悪く大あくびをしているところで、一瞬にしてその場の空気が凍った。もちろん気圧されている僕に口を挟む余裕なんかない。
「あ? 俺?」
「そうです。あのね、ヤラセとかどうでもいいけど、実力がついてこないようじゃ困るよ」
「あー。つーかあの記事はガセだってば」
「どうでもいいって言ってるよね。気を取られてる場合なの? この世界は甘くないんだ。音楽を軽んじてる人間に入ってきてほしくないんだよ」
「……あのさあ、あんたに何が分かんの?」
 呆気に取られている場合じゃない。下手したら環くんよりも喧嘩っ早そうな子だ。彼の言いたいことはもっともだし分かるけれど、環くんに黙って聞いてろというわけにもいかなくて、とりあえずあたふたしながら二人の間に立ちはだかり続けた。
「分かるよ。だって、この仕事が大事ならどうして関係者を殴ったりなんかできるわけ? 君の仕事は君だけのものじゃ……」
「……っるせえな」
「た、環くん」
「分かってんだよ! そんなことっ……」
「環くん、声抑えて!」
 身を乗り出した環くんの肩を掴むより早く、相手が廊下の端を振り返り、駆け足で去っていった。
「おい待てよあんた!」
「環くんってばっ……」
「MEZZO”どうした? やっぱ喧嘩してる?」
「あ、し、してないです! 大丈夫です!」
 スタッフさんが来てたのか。環くんの気は済まなさそうだけれど、ひとまず助かった。僕より一回り大きな体を楽屋に押し込めてドアを閉める。さてなんと声をかけたらいいものか。
「ご、ごめんね。君が悪いというわけではなくて……」
「……いーよ。なんかあんた謝ってばっか」
 ふーっと溜め息をついた環くんは、怒っているというよりはばつが悪そうな顔をしていた。座って話を聞いたほうがいいんだろうか、蒸し返さないほうがマシか、迷っている間に、環くんは楽屋の奥へ戻るといささか乱暴に椅子を引いた。
「まだここいてへーきだよな」
「たぶん……。帰りたくない?」
「そーいうわけじゃない。あいつに会ったらまたケンカ売りそうだから」
 長机の上で組んだ指を握ったり開いたりしながらつぶやいた声は、さっきと打って変わって沈んでいた。僕が机を挟んで向かいに座る間に、大きな肩がへたりと正面に突っ伏した。なんだ、やっぱり帰りたくないんじゃないか。
「……情けねえこと言ってもいい?」
「いいよ。なんでも聞く」
 乱れがちな長髪をそっと撫でると、たくましい体躯がぴくっと震えた。獣を起こしてしまったみたいな気分で、こちらもこちらでなんとなくびっくりしてしまう。それでも手を止めずにいると環くんがまた一つ息を吐いて、おでこが重ねた腕の中にもぞもぞとうずまった。
「俺さ、『解散しろ』っつったじゃん」
「うん。皆気にしてないよ」
「そうかもしんねえけどさ。でも言っちゃったじゃん。時々ふって思い出して、胸がぎゅーってなって、足が動かなくなんの。たぶん、そーいう時に涙がぽろって出てくる」
「後悔してるの?」
「……超してる」
 環くんが、ず、と鼻をすすった。ティッシュは僕の真後ろの鏡台の上にあったけれど、顔を上げろとは言えなかった。代わりに耳の後ろをくすぐるようにこしょこしょと撫でた。
 僕が倒れた時、お見舞いにきてくれた環くんが泣き出してしまった時も、僕は環くんの頭を撫で続けていた。こんなことで彼が癒されるのかどうかは分からなかったけれど、少なくとも悪い感覚ではないだろうと思った。小さな頃から兄として育ち、他人より大きな体に成長したこの子はきっと、あやされることに慣れていないから。
「でも、皆が俺のこと、センターに推してさ。迷ったけど、ちゃんとできたら、ちょっとはバンカイできっかなって。だけど、すげーいい曲だし、自分に歌えんのか分かんない……」
 いつになく弱々しい声だった。話す直前、言ってもいいか、とわざわざ断られたことを思い出す。こんな弱音を、環くんは誰にも吐かないんだろうか。だとしたら僕も僕にしかできない助言をしてあげたい。そんなふうに意気込むのに、出てくるのは環くんに負けないほど弱った声だ。
「環くん。罪悪感っていうのは、なくなるものじゃないんだよ。許されてしまったらなおさら、燻って焦げ付いて、いつまでも残ったままになる。……本当は僕も分かってるんだ」
 いつも大人だなんだとえらぶっているくせに、と自分に嫌気が差す。だけど分かるよ、としか言えない。同じだよ、と。君の苦しさを僕は知っているよ、と。かつて僕の後悔や罪悪感を暴いてくれた君に、僕こそが救われていたのだから。
「環くん、僕が歌う時『ごめんって思ってる』って言ったよね」
「うん。そーちゃんもその通りだっつってたけど」
「うん……。本当にその通りなんだよ。僕はずっと僕のことが嫌いだった」
 環くんが今にも泣き出しそうな顔を上げた。弾みで、僕の手がする、と環くんの頬を滑り落ちた。その上に環くんが自分の指をおずおずと重ねる。少し震えていたのは僕の指のほうだと思う。
 僕はずっと後ろめたかったのだ。父や大人たちに向かって、それでも音楽が好きだ、と主張することがではない。周りの目を気にして音楽を好きだと言えなかった自分が叔父に対して申し訳なくて、申し訳ないと思う浅はかさすら恥じ入るべきものだと分かっていて、こんな自分は叔父に笑いかけてもらう資格はないと、自分一人で壁を作った。それが結局、叔父を孤独なまま死なせる結果となってしまった。僕があの人に何を差し置いても大好きだと伝えていたら、それだけで何かが少し変わっていたかもしれないのに。
「叔父が亡くならなければ僕は一生、音楽が好きだと主張することはなかったかもしれない。――歌うたび思ったよ。叔父が死んだから僕はここにいるんだって」
「……だから、歌っててもあんま楽しそうじゃなかったの?」
「楽しくないわけではなかったんだけど……。きっとそうなんだろうね」
 それでも僕なりに足掻き続けてきたつもりだ。もう間違えたくなかった。家と決別しこの道を選んだ僕は今度こそ、大事な人を一切のやましさ無くそばで守り続けられると思った。これ以上後悔をしたくなかった。
「せめて、もう誰かが傷つくところを見ているだけなのは嫌だったんだ」
「……だからそーちゃん、なんていうか、しつこかったのか」
「しつこい?」
 復唱するなり環くんがぺ、と舌を出した。ちょっとまずいこと言ったって自分でも分かってるんじゃないか。普段のふてぶてしさがないとなんだか可愛げがあって、気に障る発言も許してしまう。
「俺さ、 MEZZO” 休もうって言ったじゃん」
「言ったね。言っておくけど、僕はそれ、当分根に持つからね」
「最後まで聞けって。傷つけたくなかったの。俺はそーちゃんのこと、傷つけたくないから離れようとしてた」
 ついさっきまで涙がこぼれそうだった瞳が何かを閉じ込めるみたいに伏せられて、だけど口元はニカッと笑んで、環くんの声を明るくした。
「俺ら真逆のことしてたんじゃんな」
 なんだあー、と環くんが嘆きながらまた胸を伏せた。けれど横に向けられた顔は確かに笑顔のままだ。つられて僕も目を細めた。次いで鼻の奥がツンと熱くなった。
 環くんは笑ったけれど、今の僕には離れようと試行錯誤していた環くんの気持ちが少しだけ分かる。僕がどんなに彼の隣にいようと努めても、環くんが一番大事にするべき人は決まっている。僕はいつまでも環くんの隣で、環くんを守ってあげられるわけじゃない。
「以前、スタッフさんにね」
「ん?」
「環くんの妹さんのことについて、僕が環くんを庇う筋合いはないって言われたよ」
「……どーいう意味?」
「家族じゃないから」
 叔父が亡くなったことについてあれほど「もう遅いのだ」と思い知らされた日はない。実際、あの夜を境に叔父の夢を見ることはほぼなくなった。ひどく絶望すると同時にある程度の踏ん切りがついたのだ。代わりに、環くんの隣にいると、いつか別々の道を歩む日を想像するようになった。もちろんこんなことは環くんには言わない。――言わないまま歩み寄ろうとするから時々ボロが出る。そういう時の自分は、今でもやっぱり少し嫌いだ。
「環くんも『家族にはなれない』って言ったよね。その通りなんだ。時々、自分の浅はかさが本当に嫌になる……」
「おーい。また落ち込むわけ?」
「またってなんだよ。そりゃあいつまでもうじうじしていて申し訳ないけど……」
「そういうことじゃなくてさあ。俺が落ち込んでた時にやたらしっかりしてたそーちゃんはどこいったの」
 今度は環くんがポンポンと僕の頭を撫で始めた。いざやられる側になると、思いのほか落ち着かない。
「俺が元気だと安心して落ち込み出すから困るよあんた」
 そんなつもりは、という声は音にならず喉の奥で消えた。環くんの笑みがあまりに大人びていてつい見入ったからだ。事あるごとに泣いたり声を荒げたりしていた子が、いつこんな顔をするようになったんだろう。記憶ばかりたどってしまって、後ろ向きな言葉は続かなくなった。
「これじゃあ、MEZZO”がいつまでも元気なくて当たり前だよな。絶対どっちかが落ちてんだもん」
「ふっ……あはは。確かに」
 耐えきれず噴き出すと、環くんが満足そうにまた笑った。今度は歳相応に可愛らしい、いたずらっぽい笑みだ。お馴染みの顔を見られたことに妙に安心して、しょぼくれたことを言う気がすっかり失せてしまった。
「そーちゃん、頑張ろ。気長にやってこ。俺らたぶん、人よりゆっくりなんだよ」
 ダグラスのはダグラスので頑張るけど、MEZZO”はゆっくり歌えるようになろ。僕に劣らず安心しきったようなその声に胸がいっぱいになって、間に机がなかったら、思わず環くんを抱き締めていたかもしれない。

 さて、世紀の仲直りを果たしたところで、僕たちは現実に起こっている問題を何とかしなければならない。陸くんが後半どうしてもバテるだとか、大和さんの眼鏡が落ちてくるだとか、色々あるけれど、観客から見て一番目立つのはやっぱり環くんと三月さんの動きのズレだった。
「やっぱオレ、後ろのナギと場所変わるよ。それで丸く収まんだろ」
「やだ。そしたらみっきー、ほとんど前出れねえじゃん。ちょっと待ってって」
 もう少しで何か思いつきそうだから、と環くんが鏡と睨み合いつつ手足を振り回す。環くんの思考回路は比較的単純なほうだと思うけれど、この時ばかりは彼の脳内がどうなっているのか想像もできない。一度環くんになって思い切り踊ってみたいなあ、なんて考えていたら、何かがすっとつながった。
「環くん、そこ、三月さんのキックターンをワンステップに変えて。その代わり、環くんと後方のサイド二人でハイキックを入れよう」
「えっ、みっきーがこうで? 俺が……」
「やってみるよ」
 環くんに並んで鏡の前に着くと、なぜかいやにはらはらした表情で見つめられた。腑に落ちないながらも頭の中で一度シミュレーションをし、数小節前からカウントを刻んでイメージ通りに脚を振り上げた。
「さんと、しと、ご……うわっ」
「あー! 言わんこっちゃない!」
 勢い余ってひっくり返った僕の背を、右から環くん、左からは大和さんが支えてくれた。おかげで尻餅をつかずに済んだ。心配されていたのはこういうことか。
「大事な時にケガなんかすんなよな、もう……」
「ご、ごめん」
「この速さじゃ筋力ないから戻ってこれないんだよな、ソウは」
 ちょっとムッとしたが怒るに怒れない。大和さんに言われたとおりだ。環くんもそれを分かっていたんだろうから余計に悔しさが募る。その傍らで、一織くんが僕の思い描いていた振付を完璧にこなして見せた。
「おー。いおりんすげえ」
「 Hm ……キックするの、ワタシとソウゴですね。イオリ、後でレッスンしてください」
 本来の立ち位置からいえば、環くんとナギくん、そして僕がこの振付で行くことになる。先の二人は恐らく問題ない。
「そーちゃん、いおりんと場所変えよ。後半で疲れてんのにキツいだろ、これ」
「いいよ。そうしたら最初からまた調整が要るじゃないか」
「いいとかじゃなくて。本番でコケたらシャレになんねえだろ」
「練習するよ。他の振りは大丈夫だし。本番まで――」
「あーもう! ほんと聞かねーなあんたっ」
「わ、ちょっと」
 先ほど助けてくれたとは思えないほど乱暴に腕を引っ張られて、そのままレッスン室の外へ連れ出された。ゴォン、と重たい扉の音がビル中に響く。レッスンに夢中になっている間にすっかり陽が暮れ切っていて、すぐそばの非常灯でしか環くんの表情を伺い知ることができない。
「あのさ、あんたのことだから、本番でズッコケるとまでは思ってないけど」
 僕をここまで連れてきた力の強さに反して、声は穏やかなものだった。怒っているわけじゃないのか、と少し拍子抜けする。意地になっている自覚はあった。
「でも相当キツイだろ。ダグラスの前でぎこちない踊り方してあんたが落ち込むの目に見えてる」
「えっ?」
「え、って……え?」
 二人して目を丸くした。まず僕は環くんにそんなことまで心配されているとは思いもよらなかった。というより、いささか行き過ぎじゃないか。いかに僕が今日まで落ち込んでばかりだったとしても。
「……君の役に立ちたいと思っただけなんだけど」
「それならなおさら、いおりんと代わったほうが早いと思うけど」
「言いたいことは腹立たしいほど分かるけど、譲りたくないんだよ。ね、お願いだから」
「それが役に立ちたい奴の態度かよっ。……そーじゃなくて」
 環くんが声を静めるのと同時にしゃがみ込んだ。僕も遅れて視線の高さを同じにする。滅多にないほど真面目な顔をした環くんの瞳を覗き込んだら、照れたんだろうか、顔が膝にうずまって、長い髪がさら、と音を立てた。
「そーちゃんさあ、ダグラスに会った日、今までで一番元気だったじゃん」
 身に覚えがないわけがない。あの日の歓喜はたぶん一生忘れない。環くんがちょっとひいてたという余計な情報もくっついてはくるけれど。
「だからさ、ダグラスの前座成功させて、いいとこ見せたら、少しは自信になんじゃねえのって思ったんだけど。あんたの傷、どうにかすんのはたぶん無理だから」
 傷の話に心当たりはなかったけれど、環くんの意図は十分に理解できた。それならなおさら、僕の目指しているところは違うよと否定しなければならない。
「いいところなんか見せられなくていいよ。その前に失敗なんか絶対しないけど」
「なんで今回に限ってあんた、そんなに気が大きいんだよ……」
「君が頑張ってるから」
 トントンと指先だけで肩を叩くと、弱った顔がこちらを向いた。何もかもに気を遣わせ続きで申し訳ない。この顔がまた気まぐれにむくれたり寝こけたりする日が、早く戻ってくるといい。
「ポジションを変えないで僕が新しい振りを踊ったほうが、これ以上変更も要らないし、君の負担が減るだろ」
「別にそんなこと……、言ったじゃん、俺が好きでやってるって」
「僕だって好きでやるって言ってるの。それとも、やっぱり不安? 任せるには、僕は頼りないかな」
「それは……ちょっと」
 すまさなそうに上目遣いでこちらを伺いつつも、環くんは正直に告白した。らしくなさがおかしいやら、飾らない態度が面白くないやらで、軽くデコピンをかましてやると、腕の陰に隠れた頬がぷくっと膨れるのが見えた。
「僕の自信になるって言ってくれたよね。特訓してくれる?」
「わーったよ。ほんと頑固だなあんた」
「環くんは案外聞きわけがいいよね」
「その代わり、公演終わったら王様プリン十個だかんな」
 はいはい、と相槌を打ちながらレッスン室の扉を開けたら、すぐ脇の壁に、陸くんが蛇に睨まれたみたいな表情で貼りついていた。
「ど、どうしたの」
「えっと、……逃げ遅れました」
 見ると、他の四人はレッスン室の真ん中にいながらも、不自然に背を向けて座り込んでいたり寝そべっていたり、まるで「だるまさんが転んだ」みたいだ。
「どうせ俺らがケンカしてると思ってたんだろ」
「えっ、違うの?」
「ちげーよ。な、そーちゃん」
「うん。僕のわがままを聞いてもらってた」
 そう返すと、陸くんがぱちくりとまばたきをして、なぜか環くんが得意げにふふんと笑った。

 無理はしないと約束し、他の五人に先にお風呂を済ませてもらっている間だけ、僕と環くんとで特別レッスンをしようと決めた。
「そーちゃん、体やわらかいから考えたことないと思うけど、ここんとこ上半身倒してみ。そしたら無理しないでも足の高さ合うよ」
「……あ、ほんとだ」
「な。で、こんままターン」
 一連の動きをゆっくりなぞって見せると、環くんが嬉しそうに微笑んだ。なんだか気恥ずかしい。思えば二十年間、歌はともかくダンスは自主練習ばかりで、誰かに教えてもらう経験なんて皆無に等しかった。
「あ、みっきーからラビチャ来た」
「もう少しなんだけどなあ」
「延長戦はナシだかんな。一回寝たら頭が覚えっから、明日はもーちょい上手くできるよ」
「へえ。環くん、なんだか先生みたいだね」
「そお?」
 先生かあ、と環くんが噛みしめるみたいにつぶやいた。持ち上げた矢先だけれど、無邪気さが可愛くて笑えてしまった。
 練習を終えて表へ出るたび、雪が降り出すんじゃないかと思うくらい冷え込む夜が増えた。クリスマスイブには初雪が見られるかもしれない。
「でもよかった。そーちゃん大丈夫そうだな」
「だから言っただろ」
「言ったけどさあ。そーちゃんの『大丈夫』はアテになんないんだって」
 日を重ねるごとに過去の苦い思い出が笑い話になっていく。環くんといると、なんだか無性に前向きな気分になる。もともと、天真爛漫な環くんの言葉は人を明るくさせてくれるのだ。デビュー曲の収録に始まり今日まで、僕は何度も彼の機転に助けられた。
 僕はあの日環くんが使ったような、魔法みたいな言葉も方法も持っていない。人に聞かせたってつまらない地道な練習の積み重ねでしか、環くんの助けになることはできない。「ゆっくり歌えるようになろう」と言ってくれた彼の言葉に甘えてゆっくり、明日も自分にできることを頑張る。
 そして時々、君がうずくまったら、そっと頭を撫でながら、たどたどしい泣きごとを聞いてあげたい。

 イブ当日はというと、雪なんか一つも降り出しそうにない快晴で、僕は環くんを起こすなり、朝から二人ぶんの布団を干した。
「こんな寒くてお日さまの匂いになんかなんのぉ……?」
「出発前に取り込むよ。まあ今晩を楽しみにしてて」
 言いながら胸の奥がピリ、と緊張する。明日の朝、僕はどんな声で君のことを起こすんだろう。
「そうだ、そーちゃん」
「な、なに?」
 気が張りつめたのを悟られたかとつい笑顔を作るけれど、今さら取り繕う必要もないか、と思ったら、なんだかかえって頬が緩んだ。
「ずっと使ってるノートあんじゃん。あれ、舞台袖に持ってきて」
「いいけど、君のじゃなくて、僕のを?」
「俺のも持ってく。そーちゃんも持ってきて」
「……いいけど」
 どうして、なんて、この子相手には聞くより実際にその通りにしたほうが早い。歌と振付の最終チェックをしながら体を温めて、計画通りふかふかになった布団を部屋へ入れて、衣装をワゴンに積み込んで、リハーサルを始めるまで、その日はあっという間に時間が過ぎていった。
 特訓の成果も無事に発揮できた。残すは本番のみだ。泣いても笑ってもあと一回だけ。今までの舞台は全てそうだったのに、今日だけなぜか特別な気がする。
「……そーちゃん」
 開演十五分前、環くんが舞台の入り口から少し離れたパイプ椅子に座ったまま、ちょいちょいと僕を手招きした。
「どうしたの、お腹痛い?」
「痛くねーよ。そーちゃん、ノートどこやった?」
「そこ……皆のお守りと一緒にしてあるよ」
「持ってきて」
 言われるがまま、ぬいぐるみやブロマイド、フィギュアなんかをまとめてある一角にひざまずく。僕のノートを手に取ると、ちょうどその下に環くんのノートも置いてあった。不自然に盛り上がっている表紙をめくると油性ペンが挟んであって、僕はそれも一緒に持ち主のもとに届けてやった。
「どうぞ」
「あんがと」
「緊張してる?」
「してねーよ。……そーちゃんさあ」
 俯いた顔はきっと強がっているんだろう。僕は立ったまま環くんの話を聞くことにした。膝に置いたノートの上で、白い手袋をはめた指がぎゅうと握られる。
「こないださ、文句言われた時、止めてくれてありがと」
 一瞬なんのことかと戸惑った。新人の男の子に食ってかかられた時のことだ。何を今さらと思ったけれど、環くんは顔を伏せたまま言葉を継いだ。
「ダメって分かってんだけど、やっぱりたまにカーッてなって、自分のこと止めらんない時がある」
 思わず頭頂部に手を伸ばしていた。なんだか妙な癖がついた。僕自身驚いていたけれど環くんはもっと驚いたみたいで、いつもより少し血色の良くない顔をぱっと上向かせて目を見張った。
「まだ、胸が潰れそうになったり、動けなくなったり、涙が出そうになる時がある?」
「最近はへーき。へーきだから、また俺がダメなことしないように隣で見張ってて」
 撫でるのはやめた。代わりにやっぱりその場に膝をついて、いっそう力のこもった環くんの拳に自分の手のひらを重ねた。傍目には分からないくらいにだけれど、小さく、弱々しく震えていた。
「……環くん、よく聞いて。一回しか言わないから」
 ずっと隣で君を守れたらと思う。けれど「隣」という単語を聞くたび冷静になる。「ゆっくり」と環くんが言ってくれた時、嬉しかったけれど、どんなにゆっくり歩んだって遠くない未来、僕の隣から君が離れなくてはならない時が来る。これは環くんがアイドルになることを選んだ時から決まっていたことだ。抗うつもりはない。いずれ君が一人で、君自身を守れるようにならなくてはいけないということにも。
「君の悲しみを誰かに傷つけさせたりしないで。君だけの気持ちなんだ。絶対に大事にするんだよ」
 誰がどんなに分かろうとしたって、君以外本当には分かり得ないものだから――そう続けながら、僕の声のほうが震えた。環くんの顔は見られなかった。どちらが泣き出しそうな顔をしていても、この後正気じゃいられないと思った。
「言っちゃいけないってこと? ……誰にも?」
「うん。君の気持ちは君が守らなくちゃ、誰にも明け渡しちゃダメだ」
 開演十分前です、とスタッフがカウントを打つ。僕たちの間には沈黙が続いた。せいぜいあと数分で皆のところへ帰らなければならない。といっても、メンバー全員、数歩先の距離に待機しているのだけれど。
「そーちゃん。ぎゅってして」
「えっ」
 不意に上がった声に、思わずばちりと目を合わせてしまった。かつてない至近距離に驚いてとっさに身を引いたけれど、なぜか手を離すのを忘れていたから、環くんが半ば反射的に、僕の手首を捕らえるように掴んだ。
「こないだ部屋でしてくれたみたいに」
「ここは人前じゃないか」
「人前だと何かヘン?」
 言われてみればそうか。立ち上がって、ひとまず環くんの肩に手を置いた。少し考えた後、環くんの帽子を取り去って、自分の胸に頭を引き寄せる。環くんが座っていてくれてよかった。僕の背じゃ君を包み込めないし、だから屈んでくれなんて、みっともなくて頼めやしない。
「そーちゃんには、誰にも見せてない気持ちがある?」
 座っていてくれてよかったけれど、心臓の音が丸聞こえになりそうなのは不都合以外の何物でもなかった。下手に口を開くことすら気が進まなくて、黙ってゆっくりと頭を撫でてやる。そのうち環くんの腕が僕の腰に回って、ふうっと一つ息をつかれた。こんなことが落ち着くというなら、本当に僕らはどこまでも正反対だ。
「ちょっとさびしいけど……そーちゃんも一緒なんだと思って頑張る」
 呪文のようにつぶやいた後、環くんの体がぱっと離れた。スタンバイの時間だろうかと慌ただしく環くんの帽子をセットし直していたら、僕の焦りを知ってか知らずか、環くんが自分のノートを僕に差し出した。
「そーちゃん、俺のノート持ってて」
「また『好き』とか言うの? もういいよ。ちゃんと歌える――」
「そうじゃなくて。そーちゃんのノートの表紙に落書きしてもいい?」
 いいけど、と返す間もなく環くんはペンのキャップを外した。なんの変哲もない無地の表紙に、環くんが少し強すぎるくらいの筆圧で文字をつづっていく。
「できた」
 満足げな声とともに渡されたのは僕のノートではなく、先が剥き出しのままの油性ペンのほうだった。衣装が汚れたらどうするんだと小言を言いたいのを抑えつつ、用心深くそれを受け取る。
 僕も同じく相方のノートに書き終えて環くんにペン先を向けると、パチ、とキャップを締めてくれた。同時に、本番五分前の合図とともにリーダーから召集の声がかかった。
「はは。そーちゃん、字ぃちっせー」
「うるさいな。後で何か書き足したくなるかもしれないだろ」
 僕を茶化しながらも愛おしげな眼差しの先で、頼りなげな筆跡がつやつやと光った。――『今は僕がいるから』。例の教えのすぐそばに書くのに気が引けなかったと言えば、嘘にはなるけれど。
「おーい、 MEZZO” くんたち、いつまで精神統一してんの。円陣組むぞ」
「あ、はい! 環くん、行くよ」
 環くんの手を引きながら今一度振り返り、自分のノートに書かれた文字を目に焼きつけた。次いで、環くんが僕の腕の中でつぶやいた言葉が、呼応するみたいに耳によみがえる。――「そーちゃんも一緒なんだ」。かつてデビュー曲の練習中にも言われた台詞だ。あの時僕の心をひどくえぐったのに、今その傷をどうしようもない愛しさで埋めてる。
この相方がいつまでも隣にいるわけじゃない。だけど、今日まで虚ろだったその場所に彼が残してくれた一言を、僕は一生忘れないと思う。
『いっしょにがんばろ』

「――そーちゃん、歌えるよな?」