5.暁のスーパーノヴァ

 もし俺とそーちゃんの血がつながってたら、どんなことがあってもその血を頼りに、一人にしないよ信じてって言えた。

「そーちゃん、おはよー。……起きれる?」
 トントントン、とドアを叩いた音に返事はなかったけれど、待ちきれなくて開けてしまった。水面みたいに殺風景な絨毯の奥で、そーちゃんはまだ寝息を立ててる。忍び寄るとそっとまぶたが開いた。そういえば、寝起きの顔をまじまじと見るのって初めてかも。
「あ、朝か……。今何時……?」
「七時。慌てなくていーよ。俺も学校ねえし」
「ごめん……最近、変な時間に寝たり起きたりしてたから……」
「はは。昼に寝んのも結構よかったろ」
 きちんと大人しくしていたおかげで、そーちゃんのお腹はだんだん落ち着いてきたみたいだ。顔色ももうすっかり良かった。ここ数日間、そーちゃんは体がナマることを頻りに気にしていたので、動けそうなら少しずつレッスンやトレーニングを再開してもいいかもしれない。提案する前にそーちゃんが上半身を起こして、ううんと気持ちよさそうに伸びをした。
「……シャワー浴びてこようかな」
「おー」
 そーちゃんの瞳が、朝日みたいにきらっと光った。どんなに休むことが不得意でも、やっぱり元気なほうが、そーちゃんもいい気分だよな。
 ほっとした俺はマネージャーに伝授してもらったレシピでお粥を作り、さっぱりしたてのそーちゃんに食べさせてやった。貧血対策に卵が入ってるやつだ。そーちゃんがすごくびっくりしてくれて、俺もなんだかお腹がいっぱいになった。プリンは夜にとっとこう。
 レッスン室は IDOLiSH7 以外の人も使うから、同じグループのメンバーはなるべく固まって練習してって言われてるんだけど、大事な時期だからいいよって、バンちゃんが特別に MEZZO” だけで一室使うことを許可してくれた。
「ここに来るの、ずいぶん久々に感じるな」
「やっぱり恋しかった?」
「うん。早く歌いたかった」
「でもゆっくりだかんな」
「そんなにヤワじゃないと思うけど……」
 倒れたそーちゃんが言っても説得力ない。そうツッコんで自ら立場をなくしても妙なので、さっさと本題に入ることにした。
「じゃーん。デビュー前につけてた練習ノート。持ってきた?」
「あはは。じゃーんって、君、ずっと小脇に挟んでたじゃないか」
 くすくす笑いながら、そーちゃんも水筒やタオルを入れてた手提げ袋から、俺のものよりいくぶんか綺麗なそれを取り出す。
 なんだか今日は、二人とも機嫌が良い気がする。久しぶりに二人で歌えるのが、俺はすごく楽しみだ。そーちゃんもそうだといい。 MEZZO” やめなくてよかったって思ってもらえるといいな。
「じゃあ今日は、俺らがどーやったらいいコンビになれんのか、考えよ」
 俺がレッスン室の真ん中に腰を下ろすと、そーちゃんもすとんと隣に座った。いつもはそーちゃんが仕切ってくれるけど、今日は任せてもらいたい。
「ストレッチは?」
「するけど。その前にさ、そーちゃん、思うように歌えないのまだ気にしてんだろ」
「……やっぱりそう見えるかな」
「うん。でも七人の時はちゃんとできてる。歌えないの、俺と歌ってるからだって思う?」
 う、とそーちゃんが言葉に詰まる。本当かどうかはともかくそーちゃんが元気をなくしていたのは俺のせいじゃないと言われて、俺は気付いたことがある。
「俺はちょっと思ってる」
 そーちゃんがふとお腹を押さえた。何かを考えているというより、何も考えられない、みたいな顔。
「そーちゃん、まだお腹痛い……?」
「えっ、……あ、ううん。ごめん、癖で」
「嘘つくなよ。ちょっとでもちゃんと言って」
「ごめん、お腹は本当に平気だけど、……また『やめよう』って話になるのかと思って」
 カチン、って音がした。頭の奥で。なんだそれ、数日前までやめるってあんたが言い張ってたくせに。
「ふざけんなよ、そーちゃんなんか人の気も知らないでっ……」
「大声出さないで。だいいち、やめるとかやめないとか君のほうから先に」
「休もうって言っただけじゃん! そりゃやめたほうがいーかなとは思ってたけどっ」
「やっぱり思ってたんじゃないか!」
 そーちゃんが倒れた夜に掴みかかって後悔したから、両手はしっかりノートを抱えて、そーちゃんを思いっ切り睨み付けた。同じく威嚇するみたいに視線を鋭くしたそーちゃんとしばらく無言で向かい合う。先にふっと力を抜いたのはそーちゃんだった。
「……僕のせいで、僕らにとって IDOLiSH7 のほうが本命…… MEZZO”はオマケみたいなものだって言われてるの、知ってる?」
「知らん。でもなんとなく察した」
 コーベに行く前だと思う。そーちゃんの様子がヘンだった。何かと集まってこそこそ喋ってるスタッフもいたし。悪口とまでは言わないけれど、俺らに聞かれたら気まずいような話なんだろーなと。
「 IDOLiSH7 があんな褒められてんのに、 MEZZO” は最初の勢いだけなんて思われたくねえよな」
「……そうだね」
「レコーディングの時はちゃんと歌えたじゃんな、俺ら」
 そう、デビューシングルは今振り返ってもめちゃくちゃ良かったし、売り上げもその後の人気の伸びも凄まじかった。けれど、そーちゃん本人はデビューの前から――二人でデビューするって決まった時から、ずっとなんとなく調子が悪い。
「そーちゃんはさ。おじさんのこと考えて歌ってたわけじゃねえの?」
「どうして?」
「こないだおじさんの話聞いて、そーちゃんの『大事な人』っておじさんだったんだー、って思ったけど、でも、なんか……上手くいってねーじゃん。誰のこと考えてんの?」
「miss you… 」に歌われるような相手なんていないと言ってたそーちゃんは俺と同じように家族のことを考えて歌うものだと、俺は勝手にそう納得していたし、おじさんの話を聞かせてもらった時この人がそうなんだと合点がいった。でも思えばデビュー前、真っ暗なレッスン室で、練習しても歌えないって言ってた。あんなに取り乱したそーちゃんを見たのは、今でもあれ一回きりだ。
 話を聞く限り、おじさんはそーちゃんにとって他の誰とも比べられないくらいに大切な人のように思えるのに、それがどうして、そーちゃんの歌にとって、いい方向に働かないんだろう。
「誰……というのは特にないかな」
「誰のことも考えてねえの?」
「そういうわけでもない。……七人の時は歌えてるって君も言ってただろ。君と二人だと……思い出すんだ。叔父のことを」
 三角座りをしたそーちゃんの頭が、話しながらだんだんと俯いていった。目線が落ちたノートの表紙には、何も書かれていないままだ。
「なら、レコーディングの時は誰のこと考えてたの」
 そーちゃんが弾かれたように顔を上げる。伏せられていた目がまんまるになってた。
「誰って、あの日は君のことだよ」
「俺ぇ?」
 思わず素っ頓狂な声を出すと、そーちゃんは拗ねたみたいに唇を尖らせた。
「なんだよ、その態度……。君のせいで、平静を保つの大変だったんだから」
「あ、あー。そうか……」
 思い出した。そーちゃんがあんまりぐるぐるしてるから、力ずくでもリセットさせてやりたくて、突拍子もないホラを吹いたんだった。
 あの日、真っ赤になったまま歌うそーちゃんが何を考えているのか、分かったとまでは言えないけれど、貼りついた笑顔で淡々と話すそーちゃんを見ている時より、ずっとそーちゃんに近づけたような気がした。
 「歌やダンスを言葉の代わりにする」――ヤマさんが言ってたのは、あの日のそーちゃんの様子に近いのかもしれない。そーちゃんも、何かを吹っ切ったらもっと気持ちを込めて――ううん、もっと気持ちを解き放つように、思い切り歌えるはずなんだ。
「そーちゃん、さ。歌うの、好きなんだよな」
「……うん」
「ほんとに? 大好き?」
「……」
 ここで、大好きだよ、なんて、鼻息を荒くして訴えるそーちゃんなんか、らしくないよな。そのらしくなさが、歌ってるそーちゃんの何かに追われているような、それでいてどこにも動けないような表情に妙に釣り合っていて、それがずっと気にかかってた。
「歌う時、ごめんって思ってない?」
 そーちゃんは唇を引き結んだまま顔色を変えなかった。胸の内で今、静かに傷ついているのかもしれない。だけど、俺にしか見えないそーちゃんのことだから俺が言わなくちゃいけない。
 固唾を呑むっていう感覚を今初めて知った。思ったことをそのまま言う俺でも、さすがに言葉を重ねる勇気がない。そーちゃん、うんって言って。
「君はどうしてそう、変に聡いのかな」
「さとい?」
「君の言うとおりだと思うよ、ってこと……」
 膝を抱えたそーちゃんの声が、細く小さくなっていく。そーちゃん自身も気付いていながら、見て見ぬふりしてきた問題なんだろう。
「そーちゃん、こっち見て話して」
 ゆっくりながら視線をこちらに向けたそーちゃんは、もう少しも口をききたくなさそうだった。こんな弱った目をするそーちゃんを見るのも初めてで、無理しないでいいよってつい言ってしまいたくなる。
「ええと、おじさんだって、嬉しいと思うけど」
「……そういうことじゃないんだよ」
「じゃあどういうこと? これなんとかしねえと、そーちゃんいつまで経っても」
「もういいから! 君にはっ……」
 二人ぼっちのレッスン室がわんと鳴った。二人して脅かされた赤ん坊みたいな顔をしていた。そーちゃんは一瞬申し訳なさそうに瞳を歪めたけれど、こういう時のそーちゃんは絶対に譲らないと思っておいたほうがいいくらい、実は頑固だ。
「ごめん、いいっていうのは、そういう意味じゃなくて……。僕も分かっているんだけど、でも」
「んー。また今度にしよ。無理強いすんのも気分わりーし」
 あーあ、捨てられたみたいな顔しやがって。そーちゃんってマメで細かい性格のとおり、神経のほうもセンサイだ。
「おじさんは幸せだったって証明する前に、そーちゃんも幸せだって、まずおじさんに言えるようになんなきゃダメだろ。俺が言いたいのはそんだけ」
 今日はもう練習しよ。そう続けて立ち上がると、そーちゃんが俺を見上げたので、ぐいっと腕を引っ張ってやった。
 荷物を壁際に寄せて、プレーヤーのスイッチをパチパチいじると、すぐに「 miss you… 」のインストゥルメンタルが流れ始めた。この曲はテンポも曲調もストレッチにちょうどよくて、俺たち二人の間ではダンスレッスン前の定番になっている。
「――君は」
「んー?」
「君は……君こそ、歌ったり踊ったりしている時以外の君のことを、もっと好きになればいいと思う」
 背中をぐっと後ろに反らしながら――はたから見たらかなりとんでもない格好だけれど――そーちゃんはふとそうこぼした。そーちゃんは本当に、自分のことはほとんど話さないくせに、俺についてはよく喋る。多少文句を言っておこうかと構えたけれど、元の姿勢に戻ったそーちゃんはさっきまでしょげていたくせにもう穏やかな顔に戻っていて、見逃してやろうかという気になってしまった。
「アイドルの君を好きなファンの子はたくさんいる。けれど、アイドルじゃない君のことを好きになってくれる人も、ちゃんとたくさんいるからね」
 なんの話だ、と返しそうになったけれど、違和感はすぐに消えた。思えば繰り返し言われてきた。そーちゃんもそーちゃんで、俺のことをずっと気にしていて、それで自分のことが後回しになってしまってたのかもしれない。
「そんならもう、俺のこと本当に好きになったらいーのに……」
「うん?」
「……なんでもない」
 そーちゃんにもう一度「好き」って言っても、もうあんなふうには歌ってくれないだろう。やっぱりそーちゃんはそーちゃんの大事な人への、おじさんへの気持ちを整頓しなくちゃいけない。ちゃんとできたら、俺に話してくれるといいな。ゆっくりゆっくり、頑張ってこう。

 しかし頑張るといっても今まで頑張ったことのない俺にはいい方法なんて思いつかない。こういう時、仲間がたくさんいることに感謝したくなる。
「ヤマさん、五分前行動ってどうやんの」
「それ、俺に聞く?」
「このおっさん、さっきからあと一缶っつってるから。壮五は?」
 確かに明日オフだからって共用スペースを占領し、自分たちのライブDVDを肴に飲んだくれてる大人たちの言葉に、説得力があるかは微妙なんだけど。そう思ってまず最初にいおりんの部屋へ行ったんだけど、「宿題やってから来てください」と言われて退散してきたのだ。
「そーちゃんには内緒にして」
「 MEZZO” はまぁたケンカしたのかよ」
「ちげえよ。ていうかケンカじゃなくて、そーちゃんが怒ってるだけ」
「またソウ怒らせたの?」
「別に今は怒らせてねえよ!」
 もう酒なんか嫌いだ。全然ハナシ進まないじゃんか。
「怒られねえように、っていうか、もう迷惑かけねえように、ちゃんとしたいっつってんの」
 ヤマさんとみっきーが顔を見合わせ、二人して俺の腕を引っ張ってきた。その方向に従ってしゃがむと、求めた答えはくれないまま、ニコニコしながらまた二人で俺の頭をポンポンしてくる。ほんと、話が進まない。
「いい子いい子しなくていいからさあ……。なんかないの」
「オレは出がけいつもドタバタするから、テキトーにアラームいっぱいかけとくけど」
「なにそれ、うるさそう。ヤマさんはバタつかねえよな。なんで?」
「面倒だから」
「ほー」
 一瞬、なるほど、という気になって、考えてみた。バタつくのがめんどくさい。そーちゃんに怒られるのがめんどくさい。
「……別に面倒ではない」
「でしょうね。なんやかんやタマは、世話焼かれんの悪い気してないだろ」
「でも迷惑かけたくねえの! なあ、なんかない?」
「十五分前行動でもしなさいよ……」
 呆れ声のヤマさんに俺も呆れた。この後、ダメ元で残りの二人にも同じ質問をしてみたけれど、いおりんによく叱られてるりっくんはみっきーと同じタイプだって聞かなくても分かってたし、いつぞやの TRIGGER ライブ以来遅刻しなくなったナギっちは「五分前に行動すればいいだけです」と言い放った。うちのメンバーは極端な奴しかいない。
 それで俺は結局、通い慣れた相方の部屋のドアをノックする羽目になっている。
「どうぞ」
 最近は名乗らなくてもすぐ「どうぞ」と返ってくるようになった。訪ねてきてるのが誰だかちゃんと分かって返事してるんだろうか。
「そーちゃん、あの、怒んないで聞いてほしいんだけど」
「……とりあえず座ったら?」
 そーちゃんめ、ちょっと迷ったな。ムッとしつつ促されるままにベッドへ腰を下ろす。手持無沙汰なのがなんだか嫌で、すぐそばにあったそーちゃんの枕を抱き締めた。メモ帳でも持って来ればよかったな。
「それで、どうしたんだい」
「あの、あのさ。……五分前行動のやり方教えて」
 そーちゃんは一瞬きょとんとした後、ぱっと右手で口元を押さえた。俺への回答は一切せずに、なぜかDVDプレーヤーをいじり始める。モニターに映し出されたのは、どっかの屋内ライブの映像だ。そこで気付いた。そーちゃん、音量を調節しながら、必死に笑いをこらえてる。
「もういい! そーちゃんなんか知らねー!」
「待って待って! 今からこれ観ようって、君を呼びにいくところだったんだから」
 手首を掴まれて反射的に振り返ると、涙を浮かべたそーちゃんが肩をぷるぷる震わせていた。見慣れない表情につい目を奪われたけれど、これで絆されるのは余計に腹が立つ。
「謝るから座ってくれないか」
「文句言われる前に謝ってんじゃねえよ……」
 これまためずらしく床に座ったそーちゃんの隣に、俺も渋々落ち着いた。内容はよくよく見たら、以前 MEZZO” が出演した生放送ライブの番組だ。
「サウンドシップの予習ってこと?」
「そうだよ。よく覚えてたね。生放送ライブは、 IDOLiSH7 としては初めてだろう。僕たちが皆を支えていかないと」
 映像が始まって間もないうちに、俺たちの出番が来た。この頃は、 IDOLiSH7 早くも分裂か、なんてゴシップ誌に書かれていた時期で、控え室にいてもステージにいても、とにかく奇異なものを見るような視線が痛かった。モニターの中で歌っている俺たちも明らかに緊張していて、今でも目をつむりたくなるような箇所がちらほらある。
「今度、 TRIGGER さんも出るんだよね」
「そうだっけ。そっか」
「ミュージックフェスタ以来だね」
 ごく、と喉が鳴った。七人が一生忘れない番組だと思う。特にいおりんと俺たちは。
「……そーちゃんはさあ」
「うん?」
「泣かねーよな」
 完璧で自信家ないおりんだけど、あの日は声がかすれるまで泣いてた。いつも気楽に構えてるヤマさんですら涙を隠そうとはしなかった。そういう時に皆を元気づけてくれるナギっちはともかくだけど、皆と同じくらい堪えていたように見えたそーちゃんは、その時も、それ以降も、一度も涙を見せていない。そりゃあ、酒飲んで泣くほど笑ってるところとかはたまに見るけど。当然、そういう涙だけなのが一番かもしれないけれど……。
「泣きたい時とかねえの?」
「ないよ。大人になるとね、そう簡単には泣かなくなるものだよ」
「でもヤマさんはたまに泣いてんよ」
「それは……、人それぞれかもね……」
 そーちゃんはモニターから目を逸らさない。たぶん今、都合のいい言葉を使って逃げた。しかしここ最近立て続けにしんどそうなそーちゃんを見ていた俺は、すっかり根性がすり減っていた。今日のところは許してやろう。
 とはいえ、映像はもう頭に入ってはこなかった。本人に改めて問う勇気が出ないほどの確信を持った。――そーちゃんは、おじさんのお葬式の時、泣けなかったんだ。周りの、お父さんや親戚の人たちの目を気にして。
 そーちゃんの感情の一部がきっと、その日に閉じ込められたままになっている。

 さてそう思い至ったところで、どうやって解決すればいいんだろう。連日考えても考えても、迷宮の入り口にすらたどり着けなかった。
 そうこうしているうち、バラエティの新番に IDOLiSH7 のレギュラー出演が決まり、 JIMA へのノミネートが決まり、ヤマさん主演のドラマの主題歌担当が決まり、慌ただしく毎日を過ごす中、あっという間にサウンドシップの日がやってきた。
 寮を出発するのは午後三時半。ただし俺だけ、その時刻にはまだ学校にいた。土曜日だからいつもはお休みのはずなのに、今日に限って運悪く赤点の補習が入ったのだ。卒業できないのは困るからちゃんと顔は出したけれど、しっかり者のいおりんが一緒にいないぶん、俺にとっちゃ平日より分が悪い。もともと会場へ直行する予定だったとはいえ、ギリギリのタイムスケジュールでいざ行動し始めるとやっぱり不安になる。
「環くん、慌てないで!」
 ホームの階段を一目散に上がると、改札の向こうからそーちゃんの大声が聞こえて、少しだけ緊張がほぐれた。他の皆は先に向かっているみたいだ。
「そ、そーちゃんっ、俺、忘れてたんだけど!」
「何!? 物によってはマネージャーに頼むよ!」
 教えにならってばっちりチャージしておいたICカードがスムーズに道を開けた。息を切らしながら駆け寄ると、並んだそーちゃんが俺の背中に手を添えて、疲れかけた足取りに合わせてくれる。
「五分前行動のやり方……あんた、こないだはぐらかしただろっ」
「ああ、そんなこと?」
 そんなことってなんだ。本番前に怒らせるな、とどこかで聞いたような台詞を繰り出す前に、そーちゃんが本番前とは思えない笑顔で俺を見上げた。
「できてるよ。時計を見てごらん。ただしこのまま走れればの話だけど」
 自分の顔がぱっと綻ぶのを感じた。それに応じてそーちゃんの表情もいっそうやわらかみを増す。他の人にとっちゃささいなことかも知れないけれど、そのささいなことがすごく嬉しい。
「……あ。そーちゃん」
「なんだい?」
「腕時計ない」
「はあ!?」
「いつもスマホ見てるから……。ええと」
「出さなくていい! 走って!」
 なんだかんだこうしてケチがつくけれど、ゆっくりゆっくり頑張っていったら変わるかな、どうかな。いつまで続くだろうとどこか他人事のように捉えてた MEZZO” の行く末も、できる限り長いものでありますようにと、この時ばかりは真面目に祈った。

 思えば、デビュー以来毎日と言っていいほど、そーちゃんの隣で時を過ごしていた。恐らくヘタな家族よりも一緒にいる。本物の「家族」をろくに知らなくても分かる。
 それでも、そーちゃんについて知らないことはたくさんある。時々とてつもなく遠いなと感じることも。
「タマ、さっきありがとな。ソウに何か言われた?」
「別に何も。なんで?」
「お前さんの挑発で盛り上がったのに、元気ないからさ」
 ライブ後、正確には TRIGGER の代わりを務めることになった時から今の今まで、そーちゃんはほとんど口を開かなかった。
「叱られたわけじゃないならいいけど」
「叱られねえよ。そーちゃん今めちゃくちゃヘコんでんもん」
 自身も大ファンである TRIGGER に聞こえるかもしれないところで、 TRIGGER を待ちわびていた人たち相手に、 TRIGGER の事務所に盗まれた、恐らくそーちゃんも一、二を争うくらいに思い入れのある曲を歌った。絶えない歓声は俺たちの選択に大きな丸印をくれたけれど、そーちゃん個人の気持ちはきっとそうじゃない。
「あいつもああ見えて大人だからさ。すぐ立ち直るよ。そっとしといてやんな」
 うんともううんとも言えずに、楽屋の隅っこで着替えるそーちゃんの背中を見つめた。いつもはぴしっと伸びてる後ろ姿が、心なしか少し丸まっていた。
「オトナオトナって、あんたら言うけどさ」
「なーに。ご不満?」
「そういうわけじゃねえけど……」
 ちょいちょい、と指先でヤマさんを呼び寄せる。その手で自分の口元を覆うと、ヤマさんはすぐに耳を近づけてくれた。
「子供の時にできた傷って、大人になってもちゃんと治せる?」
「……それは特定の誰かの話?」
「んー。誰とか考えないで」
「了解。しかし難儀なこと訊くねえ」
 距離を正したヤマさんが、腕を組みながら苦笑いした。
「根本からなんとかしたいなら、一回傷ごとえぐらなくちゃダメかもな」
 眼鏡の奥の瞳は迷いなくそーちゃんを見守っていた。ヤマさんは面倒くさがりだけど、時々他の誰にも口にできないような、残酷なことをさらっと言う。

 要は、負った傷と同じくらいの衝撃を与えなければ、そう簡単に人は変われないということなんだろう。試行錯誤の前に俺は挫折しそうだ。
「環くん、どーこーかへー……って、ここのハモリ、ちょっと変えてみたいんだけど、どうかな」
 ヤマさんの言うとおり、そーちゃんの様子はものの数日で元に戻った。あまりに何もなかったみたいな笑顔でレッスンに励むので、当日のことなんかもう今さら突っ込めやしない。
「歌いづらいかな。……環くん?」
「え、……あ、ごめん。なんだっけ」
 右から左になっていた話を聞き返してはみたものの、また真剣味が足りないって怒られるかもしれない。つい口答えしてしまうとまた長くなるので、唇を噛むというなけなしの努力を試みる。けれどそーちゃんが何か言い出す前に、そーちゃんの指がちょんと俺の左手に触れた。
「ここ、ずっと触ってるけど、まだ痛む?」
 言われるがまま視線を落とすと、先日事務所で曲泥棒に出くわした時にケガした、小指のことを指しているのだと気付いた。程度は軽い打撲で済んだけれど、痛めていることを忘れてうっかりバク転なんかしないように、そーちゃんの案でマネージャーが、湿布と包帯でぐるぐる巻きにしてくれた。
「痛くはない。ちょっとかゆいだけ」
「そうか。お昼ご飯の前にもう一度、様子を見てみようね」
 おまじないでもかけるように、患部をそーちゃんの親指が撫でた。間近で見るたびいつも、ほっそい手だなあ、とびっくりする。一本一本、爪の先まで観察すると、同じ男とは思えない。けれどこの細腕が躊躇いなくパソコンを振りかぶったりするのだから、きっとそれなりに力はある。
 そーちゃんはいつもニコニコしているけれど、決して大人しい人間じゃない。俺がよく怒らせているのを差し引いたって、感情の起伏は緩やかではない。ストレスだって、溜めこみがちだけれど、呑み込んで消化してしまえるような性格じゃないんだ。子供の頃からずっと押し込められてきたのであろうそーちゃんの悲しみは、一体どこへ行ってしまっているんだろうか。
「レッスン中にすみません。……四葉さん、逢坂さん」
 不意にゴン、と重たいノックの音が一つ、レッスン室の鉄扉を震わせた。なあに、と俺が返すと同時にそーちゃんがノブを回すと、いおりんがいつになく神妙な面持ちで立っていた。
「一織くん、何かあった?」
「例のゴシップなんですけど、ちょっと……プライベートな内容だったので」
「また新しいネタ? しつけえな、もう」
 皆キイキイ愚痴を垂れたりはしていなかったけれど、サウンドシップ以来どこの反感を買ったのか、俺たちに関する不穏な報道をよく耳にするようになった。俺は悪口なんて慣れっこだけれど、思いのほかそーちゃんがピリピリしていたことを思い出して、一応事務所へ話を聞きにいくことにした。

「ああ……これくらいなら大丈夫だよ。いつかは書かれると思ってたし」
 問題の記事にはそーちゃんの経歴や家庭事情、「親戚」であるミュージシャンのプロフィールまで事細かに書かれていた。デマの部分も多いだろうとはいえ、今まで他のメンバーが遭ってきた被害よりずっとえげつない。
「これ、そーちゃん?」
 仕事中のそーちゃんの写真に混じって、俺の知らない写真もいくつかあった。大勢の前で壇上に立つ姿や同年代の男と談笑する姿、単に授業を受けているだけのようななぜ撮られたのかよく分からないものまで――モノクロだから分かりづらいけれど、よく見たら全部そーちゃんだ。
「大学にいた時のものかな。せいぜい二年くらいしか通わなかったんだけどね……」
 目を伏せて薄く笑むそーちゃんの横顔からは、懐かしさ、寂しさ、嫌悪、怒り、どの感情も読み取れない。言葉を選ぶよりまず声をかけていいのかすら判断がつかないうちに、そーちゃんの特集記事に続けて、「四葉環」の見出しを見つけてしまった。
「……なにこれ」
 ろくでもないと知りつつ、つい目を通してしまう。――四葉環の「妹探し」は
売名のための嘘、騙り。事務所も承知のヤラセ行為、人の良心に付け込んだ悪質な
虚構――。
「……っざっけんじゃねえよ!!」
 週刊誌を叩きつける前にそーちゃんが制止に入った。はっとして思わず、ケガをさせていないか確認する。幸いというべきか、そーちゃんの手は俺の腕をがっちり捕まえていた。
「怒らないで。一度怒ったら止まらなくなる。君のしてることは嘘なんかじゃない。こんな記事に乗せられちゃだめだ」
「だって……っ、これ、週刊誌だろ。単なる悪口ならいい、いくらでも聞く。でも」
 この仕事に就いて電車であちこち行くようになって、また雑誌をよく読むようになって知った。紙の記事や広告は時に、テレビなんかよりずっと多くの人にその情報を広める力がある。
「これ、理も見るかもしんないっ……」
 俺の声が、姿が、理に届いてほしいって、その気持ちを忘れて仕事に臨んだことは一度もない。この記事にだけ気付かないなんて都合のいい話は絶対にない。――嫌な思いをさせたくて芸能界に入ったわけじゃないのに。
「そーちゃん、俺、早く理のこと見つけたい。早く終わらせたいよ、こんなこと……」
「うん……そうだね」
 ぐしゃ、と週刊誌を握り潰した俺の指を、そーちゃんが両の手のひらで労わるように包んでくれた。
 数日後、タイミング良く訪れた「感動の再会もの」の番組収録の日には、包帯ぐるぐる巻きの俺の小指はもう、すっかり元通りになっていた。

***

 もういいから。
 その声で我に返った時、そーちゃんが真正面から飛び込むように俺を止めていた。
 親父に届かなかった俺の拳がほどけて、そーちゃんの薄い背を無意識に抱いた。その隙にテレビ局の人が、尻餅をついた親父の脇を掴んで俺から引き離す。そこで俺はようやく、きちんと親父の姿を見た。俺の他人より大きな体はやっぱり親父譲りだった。
 正気に戻れてよかったって気持ちと、このまま何も分からなくなってしまいたかったって気持ちがごちゃ混ぜになった。全部めちゃくちゃに壊したいくらいの怒りはあったのに、同時にそれがとても怖くて、体に力が入らなかった。
「すみません、一度控え室に連れていきます」
「ソウ、待て。じゃあ――」
「――いえ」
 ヤマさんがそーちゃんに何か言ったのを、そーちゃんが突っぱねていたように見えたけれど、どうにも息が上がって頭がくらくらして、よく聞こえないし理解が追いつかない。
「……そーちゃん……」
「ハンカチ、口に当てておいて。無理に喋らないで、ゆっくり息を吐いて」
 されるがまま、言われるがままに渡された薄紫色の布を口に押し当てた。そーちゃんはしゃがみ込んだ俺の脇に体を滑り込ませると、ゆっくり俺を立ち上がらせた。膝がどうしようもないくらいに震えていたけれど、転びでもしてそーちゃんを潰しちゃいけないと思ったらなんとか歩けた。そーちゃんはヤマさんと何を話し合ったのか、一人で楽屋まで俺を引きずっていってくれた。
「もう少しだからね」
 スタジオの喧騒が遠のくのに従って、あまり聞き取れていなかったそーちゃんの声が鮮明になる。ばくばくと痛いくらいに脈打っていた心臓が、少しだけ落ち着きを取り戻した。
 楽屋へ着くなり、鏡台やミーティングテーブルよりも近いところにあったパイプ椅子にへたり込んだ。息をするたび金具がギシギシと音を立てる。深呼吸をしながらまぶたを閉じ、また開けるまでの間に、そーちゃんが即席の氷袋を作ってくれた。
「手、出して。ぐーぱーってして。……大丈夫かな」
 また怪我しちゃったね、とそーちゃんがつぶやいた。親父を殴った右手の指の付け根が赤く腫れていた。今まで全然気付かなかったのに、そーちゃんに触られると、じわっと痛みが熱を持って広がった。
 俺の足元に膝をついたそーちゃんの髪がゆらゆら揺れていた。なんだかひどく疲れてしまった。もう何も考えたくはないのに、泣くこともできないほど鈍った頭の隅で浮かび上がった気持ちを確かめる。――傷をえぐるってこういうことか。もしそうなら、俺は誰にもおんなじ思いをしてほしくない。

 マネージャーの指示で IDOLiSH7 はいったん事務所へ戻り、マネージャーとリーダーが社長へ報告に上がった。残りのメンバーはレッスン室に待機した。
 この後話し合われる内容は分かっていた。何よりもまずテレビ局やケガをさせた人たちに謝りに行かなくちゃならない。それくらいはもう俺でも予想できる。ただし受け入れられるかは別問題だ。
 ここに戻るまでついぞ涙が出なかった俺は絶対に謝らないと決めていた。今強がりを解いてしまったら、もう一生歩き出せなくなる気がする。
「――解散だって」
 ボスの宣告が現実のものであることを確かめるように、りっくんがぽつりとつぶやいた。謝らないと言い張った俺を責めていた皆も項垂れていた。これだけの人数がいながらレッスン室がこんなに静まりかえったのは初めてかもしれない。
「下岡さんやテレビ局の前に、社長に許してもらわなくてはいけませんね」
 気落ちしたいおりんの声に、マネージャーだけがはい、と覇気なく返した。誰のものとも分からない溜め息が重い。何も言われなくても、俺のせいだって言われているような気がする。あらゆる音から耳を塞いでしまいたいのに、腕一つ動かすのにもなぜか妙な覚悟が要った。
「……なあ、壮五さ。環の気持ちも考えろって言うけど、お前だって……」
 みっきーが話し出すなり、俺は思い切って立ち上がった。きっととても最後まで聞けるような内容じゃない。ヤマさんやナギっちがこちらを振り向いたのに気付いてはいたけれど、俺は首を動かすことなく、レッスン室をそっと後にした。逃げるなと叱る声を振り切る心の準備はしていた。だけど実際のところ誰一人、そーちゃんすら、俺を引き留めたりはしなかった。
 ビルを出ると、一番星が光っていた。息がわずかに白かった。枯葉がカラカラと音を立てて、足元を通り過ぎていく。思わずジャージの裾を指先まで引っ張り肩をすくませた。そういえばコートも荷物もなんもかんも、レッスン室に置いてきた。もちろん戻れるわけがない。いつ取りにいけるのかも、今は全然分からない。
 そもそも解散でもなんでもすりゃあいいと吐き捨てた俺に、あの寮へ帰る資格はあるんだろうか。ふと胸がぎくりと鳴った。だけどよそに寝床を探すほど殊勝な人間でもない。だいいち財布も持ってない。通い慣れた帰路を真っ直ぐたどりながら、夜空に向かって小さく溜め息をついた。今夜はきっと居心地が悪くて眠れないだろうな。

 例によって肌身離さず持っているパスケースには、寮のカギと自室のカギも一緒にくっついている。こんな時にもそーちゃんの気配りに助けられるなんて複雑だ。
「……ただいま」
 玄関のドアを開けるなり、真っ暗な共用スペースに肩がびくついた。考えてみれば当たり前だ。俺は仕事の合間に学校へ行っていたから、誰もいない寮にいることなんて今までほとんどなかった。頼りない記憶でどうにか電気のスイッチを探る。案外すぐに明かりは点いて、もう一度ほうっと息を吐いた。
 食卓に俺とりっくんのコップが飲みっぱなしになっていた。そーちゃんが怒るやつだ。反射的にそれらを流しへ突っ込んだ。ガスコンロの脇にはビール缶の列、ソファの端には取り込んだ洗濯物の丘ができている。見慣れたものがあちこちにあるのに、無人というだけでこの寮全体、初めて訪れた場所みたいによそよそしい。
 やけに足音が響く階段も、様相はいつもと変わらないのに寒々しかった。たどり着いた自室は案の定冷え切っていて、早々にベッドに体を放った。
「……いて」
 腰に何か硬い物が刺さったけれど確認するまでもなかった。ポケットに入れっぱなしのスマホだ。取り出してみると、マネージャーからのラビチャの通知が一件だけ表示されていた。
『謝罪は明日以降にします。落ち着いたら連絡くださいね』
 すぐさま飛び起きて、滅多にかけない部屋の内鍵を締めた。皆きっと追い追い寮に帰ってくる。誰かが訪ねてくると思ったわけではないけれど、今は誰にも開けてほしくない。皆が言い合う声も聞きたくなかった。
 だいいち、そーちゃんが俺を庇うからわけが分からなくなった。あの場でそーちゃんがいつも通り皆に率先して俺を諭したなら、そーちゃんに協力的なみっきーやりっくんが俺を引きずってでもテレビ局に連行しただろうし、リーダーといおりんに追い打ちをかけられながらナギっちに絆されて、なんとか頭を下げられたかもしれない。
 俺以外のメンバーとケンカなんかしたことのないそーちゃんが、みっきーに責められてた。ヤマさんと言い争ってた。他の皆についても、俺との間でそーちゃんは板挟みだ。俺なんかのことを庇ったせいで。
 また心臓がどくどくと急ぎ出して、抑えるように枕元のぬいぐるみを抱いた。そんなささいな動作なのに、つい数時間前のことがふっとフラッシュバックする。この腕が人を殴ったんだ。ぎゅうと力を入れた右手の指が痛んだ。親父もおふくろを殴る時には、こんなふうにわざわざ手を傷めていたのかな。
 もういっそこのまま眠りにつけたらと思い始めた矢先、ガタ、と部屋の窓がわずかに揺れた。階下のドアが開閉された反動だ。身を固くしてつい息を潜める。廊下に並んだ扉のいくつかが立て続けにバタンバタンと音を立てた。
 皆、俺について何か話したりしたのかな。一人くらいラビチャを寄越してくるかもしれない。寝転がったまましばらくスマホと睨み合ったけれど、幸いと言っていいんだろうか、画面が点灯することはなかった。代わりに、ベッドの向かい側の壁がコツ、コツ、とゆっくり鳴った。
 忍び寄って耳を寄せた。壁の向こうの気配はあまり感じ取れない。試しにこちらからもコツ、コツ、と叩いたら、数秒と空けずにまたコツ、コツ、と返ってきた。
「……そーちゃん」
 俺の声が聞こえたのかどうかは分からない。けれど、コツ、と一つだけまた音が返った。冷たさは承知でもたれかかるように座り込む。この向こうにきっとまだそーちゃんがいる。
『環くんの気持ちも考えてあげて』
 そーちゃんはレッスン室で俺が謝らないと言い出す前から、ずっとこの一点張りだった。その割に俺自身には何一つ意見を求めてはこなかった。単に慰めることや、まして叱責することもだ。そーちゃんは大事な時ほど何も言ってくれない。倒れる前だっていざ動けなくなるまで絶対に部屋から出てこなかった。
 あの時は、今日と同じく怒っていたわけじゃなかった。降板のことで自分を責めてた。なら今は何を考えているんだろう。
 スマホに手を伸ばしかけたところで、先に通知音が鳴った。マネージャーの追撃かと身構えながら画面を覗く。
『環くんはどうしたい?』
 途端、ぶわ、と目頭が一気に熱くなった。よみがえったのは、先ほどのトラウマにも近い再会のシーンなんかじゃない。
 そーちゃんが沖縄で管を巻いてた時も、倒れた時も、ずっと不甲斐なかったしやるせなかった。そーちゃんが二人のことを一人で決めてしまうからじゃない。そーちゃんが俺の気持ちを一人で決めつけてしまうからだ。俺はそーちゃんからのこの一言を、知らずずっと求めていた。
 けれど思えば俺はそーちゃんに話せ話せってそればっかりで、全然自分の気持ちを伝えてこなかった。たまに話し出せば口答えばっかで、そんな時すら俺はどうせ口下手だからと逃げていた。そんな中で、ヤマさんが俺の得意な歌やダンスを「言葉の代わり」と言ってくれたのは嬉しかった。そうそう他人に好かれやしない自分が、他人と気持ちを共有するなんて夢のまた夢だったから、これならできるって自信が持てた。――でも、このままじゃダメなんだ。
 誰かに出くわす可能性も顧みず、俺は自室のドアを開け放した。その脇に、誰が持ってきてくれたんだろう、俺の荷物とコートが重ねて置いてあった。こんなことにまで泣きそうになるけれど、今は足を止められない。いつもは主の言いつけの通り立ち止まってノックする隣室のドアも勢いのまま開けて、無遠慮に中へ入った。
「そーちゃんっ……」
「いらっしゃい、環くん」
 そーちゃんはもう壁際にはいなかった。いつものように机の前に座っていて、椅子をゆっくり回転させながらこちらを向いた。さっきまで起きていたことが全て嘘みたいに微笑むそーちゃんに、一瞬だけ背筋が寒くなる。途端すくんだ足になんとか力を入れつつ、後ろ手にドアをしっかりと閉め切った。ぐっと見据えたそーちゃんの瞳は、相変わらず何を考えているのか分からなかったけれど、やっぱり間違いなく、俺を責めてはいなかった。
 そーちゃんが倒れた日、ヤマさんが「変われる」って言ってくれた。俺は変わりたい。自分の気持ちをちゃんと言いたい。それがそーちゃんにとって良いことになるのかは分からないけれど、少なくともそーちゃんはもう俺を庇ったりしなくて済むし、俺のせいで誰かに責められたりしなくて済む。
 そーちゃんのことを助けたいなら、話はそれからだ。

 そーちゃんは本当にいつも通りで、歩を進める俺をベッドまで導き、座るように促した。そこでそーちゃんも隣に腰掛けるのが通例なのだけれど、それだけはなぜか違っていて、落ち着く間もなく扉のほうを振り返った。
「甘い飲み物でも持ってこようか」
「ま、待って」
「うん?」
「い、今一人にされたら気がどうにかなりそう」
 そーちゃんを止めた手が情けないくらいに震えていた。そーちゃんはちょっと苦笑いを返すと、回れ右をして窓際の棚の前に跪き、何やら小物入れを漁り出した。
「応急処置だけど」
 戻ってきたそーちゃんに右手を取られて何かと思ったら、腫れたままの甲に湿布をかぶせられた。その上から、子供の工作みたいにぺたぺたとサージカルテープをいくつも重ねてくる。ケガの手当はあまりやったことがないんだろうか、スパナで小指を負傷した時にマネージャーがやってくれたものとはあまりにかけ離れた不器用さで、なんだか少しだけ笑えてしまった。
「 JIMA までに治さないとね」
「……もう出らんねえかもよ」
「そうだね……。はい、できた」
 不格好に貼られた湿布は、手を数回握ったら剥がれ落ちてしまいそうだ。全然できてないんだけど……? と口には出さずに湿布とそーちゃんとを交互に眺めると、有無を言わさんとばかりにもう一つ微笑まれたので、なるべく動かさない努力をしようと決めた。
 改めてそーちゃんが俺の隣に着いたところで、さっきまでぬいぐるみを抱き潰していた両手が急に行き場をなくしてしまった。かといってそーちゃんの枕に頼ろうにも距離があったので、仕方なく既によれ始めている湿布をさすった。
 俯いたまま言葉に詰まっていると、そーちゃんが首をかしげるようにこちらを伺った。その表情を見なくても鼻の奥がツンとなって、こらえようとしたら話し出すしかなくなった。
「……いいの? そーちゃんは」
「何がだい」
「解散すんの……」
「いいとは言わないよ」
「じゃあなんで俺のこと庇うの」
 結局そーちゃんの話ばかりしてしまっている。どうして俺の気持ちはいつも、突き詰めると全部ここに帰ってきちゃうんだろう。また堂々めぐりになるのは目に見えているのに、話し出したら止まらない。
「家族捨てて、学校もやめちゃって、自分にはもうここしかないって思ってるくせに、解散すりゃいいって言った俺のこと庇うのかよ」
「君は、僕に君を責めろって言ってるの? 勝手なこと言うな、解散なんかさせないって?」
「だって、そーちゃん、ここ辞めさせられたらどこ行くんだよ」
 いくら親がいないと言ったって、俺にはまだ帰る場所がある。ヤマさんだって、オーディションの日真っ先に辞退を願い出たのだから、行くあてがないわけじゃないんだろう。そーちゃんだけだ、ここを出たら一人ぼっちなのは。
「さあ、僕も分からない。分からないけど……」
 ひりついた気持ちが声になるより先に、そーちゃんの笑みがすっと退いた。
「君は他人の居場所のために、しないでもよかった理不尽な思いを我慢するの?」
 問うような眼差しじゃなかった。氷みたいな瞳に肯定すら拒まれそうな気がした。代わりに、泣かないと決めていた俺の目から何かが解けてくように溢れ出した。俺がそーちゃんの肩口に顔をうずめたのと、そーちゃんが俺の背に手を回したのとは、どちらが先だっただろう。
「本当によく泣くなあ……」
 つぶやいたそーちゃんの声がなぜか少しだけ嬉しそうで、俺はもう何がなんだか分からなくなって、そーちゃんが倒れた夜より泣いたんじゃないかってくらい、宥められるがままにそーちゃんの肩を濡らした。
『誰……というのは特にないかな』
 「大事な人」の話をする時、そーちゃんはいつも寂しそうだった。俺も他のメンバーも、大切な誰かのためだと自分を奮い立たせて頑張り続けることができるけれど、そーちゃんはそうじゃない。そーちゃんが頑張り続けるのはいつだって、ただ頑張り続けることそのものだけのためだった。
 そーちゃんは最初から、ずっと一人ぼっちだったのだ。そんなふうになってしまった理由は、ここへ来るより昔の出来事によるのだろうから俺には分からない。代わりに明らかになった答えが胸を絞め上げる。
 そーちゃんの傷をえぐれる人は、この世のどこにもいないんだ。
「そーちゃん……」
「うん?」
「そーちゃんが俺の兄弟とかだったらよかった」
「はは。もう家族みたいなものだよ」
 ううん、と勇気を出して首を振った。そーちゃんは腕の力を強めることも緩めることもしなかった。
 一人にしないよと誓うことはたやすい。そーちゃんが俺の駄々に笑って答えを返したのと同じくらいに。こんなやり取りすら支えになるというなら、そーちゃんは俺なんかよりずっと弱い人間じゃないか。一人放り出されても平気そうな顔をしていられるのは、自分の頼りなさを見て見ぬふりしてるせいに決まってる。それとも、――そうじゃないなら、そーちゃんはどんな支えも役に立たないほど、俺の想像の及ばないくらいに強いんだろうか。
 どちらにしても俺は、本当のことを言うって決めた。
「家族にはなれない。けど、……かさぶたくらいにはなるよ」
 自由の一切を奪うことなく、優しく抱き締めてくれていたそーちゃんの腕は、さっき見せた瞳の冷たさを負かすくらいにあったかかった。どんなにそーちゃんを助けたくても忘れちゃいけない。傷を含めてそーちゃんなんだ。癒せないなら一緒に守る。
 そーちゃんは何も言わなかったけれど、やっと出た結論をよすがにしたら、今の気持ちが形を成した。
「そーちゃん……」
「うん?」
「俺、皆に謝りにいく」
 そーちゃんが俺の肩をそっと掴んで、ゆっくり体を引き離した。冷たい親指が俺の頬を一度だけ滑る。涙を拭われたのだと遅れて気付いた。
 そーちゃんが立ち上がると同時に無意識にその手を取ったら、そーちゃんが振り向いて諌めるみたいに笑った。そーちゃんの笑顔の意味は、出会って半年経った今でも分からない時のほうが多い。けれど今は不思議と不安はなくて、導かれるみたいに背中を追った。
 部屋を出る直前、そーちゃんがもう一度振り返って、口元にしーっと人差し指を立てた。
「……うん」
 俺たちが話している間、皆が同じように寮を出ていったのか、それとも今日のところは寝付いてしまったのかは分からない。分からないながら迷わずいくつものドアの前を通り過ぎていく途中で、そーちゃんの貼ってくれた湿布がはらりと落ちた。拾おうかと一瞬歩みが鈍ったけれど、捨て置くと決めるまでに、立ち止まるほどの間もなかった。