4.短夜のプリズム

 やっと七人でデビューできた。これでいつか、そーちゃんが俺を見放すことのできる日がきっと来る。そーちゃんが俺から解放される日を、俺はずっと待っている。

「環くん、おはよう。はい、起きて」
 アルバムツアーが始まってからというもの、そーちゃんと一緒にいることがいっそう増えて、少しはギスギスするかと思ったけど、そーちゃんは相変わらずだった。もちろん説教はされるし俺もテキトーに言い返すけれど、毎朝こんな調子で俺の部屋に来る。寝ると忘れるタイプか、そーちゃん。
「ああもう、ベッドでゲームはしないでって言っただろ。眠りが浅くなるんだから」
「また取り上げる?」
「取り上げるって……。あれは拾ったのを返し忘れただけだよ」
 謝っただろ、とそーちゃんが言う。別に俺、気にしてないんだけどな。気にしてないというより、そーちゃんがついにキレたのかと思って、そーちゃんから何か言ってくるのを待ってたんだけどなあ。
 こんなふうにいつも通りの朝が続く中、約二か月に渡るアルバムツアーもそろそろ折り返し地点で、 MEZZO” の仕事との両立にもだんだん慣れてきた。来週から、ガッコーにも少しは顔を出せそうだ。授業なんかどうせ聞いてないから出られなくてもかまわないけど、気分転換に行きたくなってきた。
「今日のダンスはなんか怒ってんなー」
 七人でのレッスンも、そーちゃんと距離を置ける貴重な時間だ。ライブのリハーサルを終えて、貸しスタジオでおさらいをしている最中、さっそくヤマさんに話しかけられて、俺はちょっと機嫌を直した。
「そお? 俺、感じ悪い?」
「違う違う、そういう意味じゃなくて。単に感情がダンスに出やすいってこと」
 もう少し話を聞きたくて、休憩がてら壁に寄りかかって座った。ヤマさんも同じように隣に着いて、眼鏡の鼻あての汗を拭った。
 以前、そーちゃんと言い争った直後に歌番組の収録があった時、いつにも増して切なそうでよかったって言われたことがある。つってもケンカの原因は、俺が次の日使うアンケートの紙をなくしてそーちゃんに怒られて、そのせいでおやつを食べる時間がなくなったとかで、確かに俺的には切ない気分ではあったけれど、全然イイ話とかじゃない。でも、いつも同じ曲を同じように歌うだけで聴いてる人はつまんなくないのかなって気がしてたから、たまには腹減らすのも悪くないかなってその時は思った。
「けど、そーちゃんにたまに怒られる。気まぐれでアドリブすんなって」
「そりゃ、あんまりやったら困るだろうよ。七人ならまだしも二人しかいないんだから」
 二人、という言葉が俺の胸を痛くする。ヤマさんの言うことは十分に分かる。俺はバカだけど、これに限ってはたぶん、ヤマさんより俺のほうがずっと分かってる。
「んな顔すんなって。その良さをなくすなよ」
「良さ……かな。俺、こんままでいい?」
「歌やダンスを言葉の代わりにするくらいでちょうどいいよ。お前さんは口下手なんだから。ただし MEZZO” の時はほどほどにしてやれよ」
 抱えた膝に載せた頭を、ヤマさんがポンと撫でてくれた。 IDOLiSH7 にリーダーがいてよかったな、と思う。ヤマさんに話を聞いてもらうとほっとする。沖縄の時、そーちゃんが俺のことをヤマさんとみっきーに愚痴っていたのはムカついたけど、今ならそーちゃんの気持ちも分かる。あの日以来、そーちゃんはメンバーと飲んだりしていないみたいだけど、こんなふうに自分の気持ちを誰かに話せているのかな。
「ヤマさん」
「ん?」
「俺、そーちゃんにもそうできるようになってほしい」
 ツアーが始まってから俺とそーちゃんの間柄は良くも悪くもならなかったけれど、一方でそーちゃんの歌の調子はどんどんギクシャクしていった。もともと歌もダンスも上手い人だから、仕事に大きな障りが出るまでには至っていないけれど、そーちゃん自身が納得していなくて、悪循環に陥ってしまっているのを俺は知っている。
「そーちゃん、思ってることとか、全然表に出ねーもん。面白くないこととかあっても、ずっと楽しそうに振る舞ってる。そーちゃんが最近ヘンなの、そのせいだ」
「そうだな……」
 俺たちの座っている場所の向かいの壁の近くで、そーちゃんは踊っていた。レッスン場では、そーちゃんはいつも隅っこのほうに行く。俺はど真ん中が好きなんだけど、今日はわざわざ反対の端を陣取った。俺たちの話にも視線にも、そーちゃんは気付かない。
「最近は色々考えて緊張しちまってるみたいだし、ゆっくり話聞いてやれたらいいんだけどな」
「うん。たまには飲んでやって。俺じゃそーいうのダメだから」
「はは。未成年じゃあな。まあ、酔わすのはツアーが終わってからかな……」
 よっこいしょ、なんてヤマさんはいかにもおっさんみたいな掛け声で立ち上がった。練習時間の終わりが近づいていたけれど、今踊るとしょぼくれたダンスになってしまいそうなのが恥ずかしくて、俺は疲れたふりをした。

 そーちゃんと二人で飲むのを想像してみたけれど、そーちゃんは俺と一緒にいるのが仕事みたいなもんなのに、あんなふうにぐてぐてに酔っぱらってくれるもんだろうか。そもそも俺がハタチになるまで MEZZO” は続くんだろうか。いや、だいいち俺がハタチになったところで、俺自身が仕事でもないのにお酒を飲みたいと思う気があまりしない。
 結局、俺がそーちゃんのそばにいながらできることって、そーちゃんを怒らせないように努めることと、素面のそーちゃんの気持ちを煽ることくらいしかない。でもその二つってきっと相反するものだし、それ以前にどちらもどうせ上手くできないのだから、離れるのが一番なんじゃないのって俺は思うんだけど。
「環くん、またアンケート書いてない……」
「あ」
 考えているそばから、俺はまたヘマをやってる。紙をなくしてからというものちゃんとファイルに入れて持ち歩くようにはしたけれど、大抵入れたのを忘れてそのままになる。
「そーちゃん、書いといて」
「……聞くから答えてくれ」
 そーちゃんを観察すればするほど分かんないことばっかりだ。すぐ俺にキーキー言うくせに、時々全く腹を立てないことがある。たまたまくたびれている時なんだろうか。でもそれならそれで、くたびれているから自分で書いてくれって言うのが普通だ。言うくらいなら書いたほうがマシってことか。そのくらい「言う」のは疲れることなのか。
 他にも忘れているものがないか探すついでに手帳を開いてみたら、ツアーが終わるのは半月先だった。それからヤマさんがやっとそーちゃんの話を聞いてくれるなんて、俺としちゃあいくらなんでも遅すぎる。
「……そーちゃんはさあ。なんで、この仕事やってんの」
 ほんのひとかけでもそーちゃんの気持ちを聞き出して、誰かにつないでやるくらいはできないかな。思い切って真面目に質問をしてみたけれど、返ってきた答えはなんというか、漢字がよっつくらい並んでそうな――正直、難しくて三秒も覚えていられなかった。そんなことより――。
「家にいた頃と、結局……」
 誰に何を心配されても大丈夫大丈夫ってそればっかりだったそーちゃんが、めずらしく沈んだ声を出した。そーちゃんから初めて聞いた「家」という単語と、二人きりの時には見せることのなかったその表情ばかりが、寝ても覚めても忘れられなかった。

「昼休みに起きているなんてめずらしいですね」
「……だって」
 それから俺はめずらしく悩み込んでしまった。いおりんもいおりんで、普段は休み時間中マジメに予習しているのに、めずらしく俺に話しかけてくる始末だ。それもこれも、そーちゃんがめずらしいカオするせいだっつの。
「だって分かんねーんだもんー」
「宿題なら面倒見切れませんよ。さすがの私も今は自分の勉強で手一杯ですから」
「だよなー……俺になんかかまわなくたっていいじゃんな……」
「しおらしいことを言ったってダメです」
 そう言いつついおりんは、机に突っ伏した俺の顔を覗き込んでくる。イイ奴。イイ奴だけど、いおりんは嫌なことちゃんと嫌って言えるから、そこに関して周りが心配する必要はあまりない。
「あ、めずらしい。四葉が起きてる」
「というか四葉が登校してる」
 久々に教室で声を発したからだろうか、何やら人が集まってきた。いおりんもいるから話題性は二倍だ。俺、考え事してて起きてたんだけど、これじゃあ寝てるのと変わんないじゃんな。
「二人ともお疲れさん。夏にツアーなんてキツくね?」
「まあ着る物は少なくて済みますけどね」
「はは」
 いおりんの本気なのか冗談なのか分からない返答に笑ったら元気が出てきた。たまには教室に来るのもいい。思えば最近 IDOLiSH7 とMEZZO” を行ったり来たりで、仕事以外のことをするヒマなんてほとんどなかった。それこそ寝てる時くらいだ。
「ねえねえ、アイドルってやっぱり恋愛禁止なの?」
「ガッコーにいる時まで仕事の話なわけぇ……?」
 文句をこぼすと、でも気になるよねえ、と一部の女子から声が上がる。聞けば、七人でデビューしてからというもの、校内では俺といおりんの人気が大フィーバーらしい。
「女って皆、そーちゃんみたいのが好きなんじゃないの」
「近くにいる奴のほうが手届きそうで盛り上がるんだろ」
「ちょっと、失礼なこと言わないでよ」
 あーあー、なんだか急に険悪な雰囲気だ。こういうのは苦手だから、ほんと勘弁してほしい。でも俺が原因でケンカしてるんだから、俺が何か言わなきゃな。
「えっと、手、届くよ。触る?」
「四葉さん! 自分を安売りしないで」
 せっかくケンカしてた男女が黙ったのに、今度はいおりんがお怒りだ。あっちもこっちも立ってらんない、だっけ。皆が仲良くするのって大変なんだな。二人でも難しいんだから当然だ。
「んーと、いおりんはお高いの?」
「そういう意味じゃないです! ……もう、私は図書室で勉強しますからっ」
 そう捨て台詞を残していった割に、鉛筆一つすら持たずにいおりんは教室を出ていってしまった。クラスメイトの顔を見上げると、皆口をぽかんと開けていた。そういえば俺はもう慣れっこだけど、皆にとってはいおりんが怒鳴るなんて滅多にないことなんだ。
「ごめん、ちょっと追っかけてくる」
 人だかりは思っていたより分厚かったけれど、皆すんなり俺を送り出してくれた。だのに廊下にはいおりんの姿はもうなかった。確かに、早歩きっぽいもんな。
 いおりんのことだから、手ぶらでもきっと図書室に向かってる。覚えている限りでその道順をたどると、ちょうど入口手前でいおりんを捕まえることに成功した。
「別に嫌味言ったんじゃねえから」
「気にしてませんよ。巻き込まれたくなかっただけです」
 さっきはあれだけ取り乱していたくせに、涼しい顔して流された。そうはいくもんかと、扉の前で両腕を広げて通せんぼをする。
「……勉強しに来たんですけど」
「聞きたいことあんの。あのさ、『恋愛禁止』ってどーいう意味?」
 いおりんはぎょっとした後、周りをきょろきょろ見渡してから、俺の手首をガッと掴んだ。
「不用意なこと言わないでくれますか。話ならあちらで聞きます」
「サボるならいい場所知ってんよ」
「サボりません。近場にしてください」
 いおりんと腕の引っ張り合いっこをしながらたどり着いたのは、特別教室が集まってる別館のほうだ。教室を移動するにはまだ早い時間だったから生徒の姿はほとんどなくて、昼休みとは思えないほど静かだった。使わなさそうな教室に入ってもよかったけど、この静けさの中で改まって座るのも落ち着かなかったから、なんとなく廊下をとぼとぼと歩いた。
「手短に説明しますけど。そういう規約がうちの事務所にあるわけではありませんよ。ただ、アイドルはイメージも商売道具の一つなんですから、自分自身の扱いに気をつけてくださいということです」
「俺、別に恋人とかいねえけど」
「四葉さんにその気がなくたって勘違いする人はいるんです。悪意のある噂を流されることだってあります」
「例えば?」
「女好きとか」
「 TRIGGER は女はべらせてる奴もいんじゃん」
「高校生のあなたに付いていいイメージではありません」
 イメージを保つなんて考えたことがなかった。どんなに努力したって悪く見たがる奴は悪く見るし、好き放題文句を言う。逆に言えば、どんなに迷惑をかけたって、俺に面と向かって嫌いだと口に出さない、そーちゃんみたいな奴もいる。
  IDOLiSH7 のファンのうち俺のことあんまり好きじゃない奴のことだって、気にする必要はないと思ってる。それよりも、いつも一緒に歌ったり踊ったりしてる皆に嫌われることのほうが俺は堪える。
「いおりん、あのさ、理がさ」
「あや?」
「妹。俺の。今年で十五歳になんの」
 いおりんがぴたと足を止めた。座りたいのかな、と思ったから、俺が先に廊下に腰を下ろした。
「どこまで話したっけ」
「十五歳の妹さんがいるんでしょう」
「そうそう。離れたのさ、理が三歳くらいの時だった。だから俺、おっきくなった理のこと、全然なんも知らねえんだ」
 いおりんは相槌を打つ代わりに、俺の顔をじっと見てた。いちいちウンウンと返されるよりも安心して、俺はひたすら話し続けた。
「クラスの女見てるとさ。理の背丈は今こんぐらいかな、とか、どんなグループにいるのかな、とか、こんな遊びしてんのかな、とか、そればっか考えんの」
 行方が分からなくなってから、俺の知らないところで大変な思いをしているのかもしれないけれど、それでも遊んでくれる友達はちゃんといるかな。気は強いけど怖がりだったから、また泣いてるんじゃないのかな。会いたいな、と毎日思う。
「それでずっと、女はあんま得意じゃない。だから怒んないで、いおりん」
「別に怒っちゃいませんけど、それならなおさら、発言には気を付けてくださいよ」
「おー。あんがと」
 礼を言われることじゃありません、といおりんが口を尖らせる。理にも、こんなふうに話を聞いてくれる相手はいるかな。クラスで楽しそうな女子たちを見るたび、そして自分が嬉しいと思うたび、理のことがふっと思い浮かぶ。
 その寂しさは、無理して笑うそーちゃんを見る時の気持ちと、よく似てるんだ。

 いおりんに理の話をして思い出した。俺はそーちゃんの「家」のことを全く知らない。この単語が引っかかってるのはきっとそのせいだ。フツーの家なんだと思ってたけど、いおりんとかみっきー、りっくんたちみたいに、家族の話をしてくれたことは一度もない。もしかしたら、そーちゃんも家で何かあったのかな。ヤマさんとかナギっちとかは、いかにもワケありそうだもんな。
「そーちゃ……」
 ローカル線の座席に並んだそーちゃんに呼びかけたところで息を呑んだ。あのそーちゃんが、電車で寝てる。
「……うそぉ」
 首だけ動かしてちょっと顔を覗いてみる。目が乾いたからつむってるだけ、というわけじゃなさそうだ。タタンタタン、と電車が走るのに合わせて、そーちゃんの上半身も頼りなく揺れる。薄く開いた唇を見ていたら俺もだんだん眠くなってきて慌てて首を振った。二人して寝過ごしてしまったら大変だ。
 けれど、そういえば万が一にも失敗がないようにと、そーちゃんは降りる駅の手前でスマホが震えるように、いつもアラームをセットしていたはずだ。見ると、そーちゃんの細い指に、きちんとスマホが握られていた。
「寝てんのにおかしーの……」
 そのうち、ゆら、と大きく揺れた頭が、すとん、と俺の肩に収まった。同時に俺のこめかみを汗がつたって、そーちゃんにこぼれやしないかとひやひやした。
「……アラームかけてるから大丈夫だよな」
 こういう時のためにかけてんだもんな。そう納得して、俺も眠気に身を任せた。この後、どうしてか結局遅刻してしまったから、俺がそーちゃんを起こしてやるべきだったのかもしれないけれど、その時はそーちゃんと同じ場所で同じことをできるのがなんだか切なくて、でもその痛みをずっと味わっていたいような、このままでいたいような、手放したくないような気持ちだった。

 ただ、結果から言えばやっぱり俺が頑張って起きているべきではあった。その日の仕事は運悪く、そーちゃんが苦手なバラエティ番組の収録だったのだ。録画だったからよかったものの、いつも本番直前までイメージトレーニングをしているそーちゃんが、台本を読み返すことすらできずに臨む羽目になったものだから、緊張も相まって噛むし、詰まるし、終わった後のそーちゃんの落ち込みっぷりといったら相方の俺でも見てらんなかった。
「やっぱり今晩中に合流するのは難しいな。遅くなってごめんね、僕のせいで」
 ホテルへと続く狭い路地をたどりながら、そーちゃんが今日何度目かのごめんねを言った。ここで、皆と会えないことを謝っているのだと捉えるのが普通なんだろうけど、そーちゃんの場合「自分と二人きりでごめんね」と思っている節があるから困る。
「それにどうせ今夜だって、ろくに食わないんだろ」
「え?」
「なんでもない。腹減ったなって」
 昼間スタジオまで走りながら、勇気を出してそーちゃんに「ちゃんと言って」と伝えてみた。そーちゃんといつまで MEZZO” をやることになるのかは分からないけれど、 MEZZO” でいる限りこんな寂しい毎日が続くなんて、考えただけで気が狂ってしまいそうになっていた。
 案の定そーちゃんはいつもの笑顔で「大丈夫」と口にした。いよいよ心が折れそうになったけれど、そーちゃんはそこで初めて「ありがとう」と返してくれた。
「そーちゃん、最近はちゃんと寝れてんの?」
「大丈夫だよ」
「肉とかコメとか食べてる?」
「食べてるよ。お弁当もらってるだろ」
 そーちゃんの大丈夫、はちっとも安心しない。こないだお酒で潰れたそーちゃんを負ぶった時だって、大人の男とは思えないくらい細っこくて軽かった。
 だけど、ちゃんと言うって言ってくれたそーちゃんの言葉を信じたい。そーちゃんから言ってくれなきゃ意味がない。俺から言ったら、そーちゃんは「そんなことない」って絶対に言う。体調のことだけじゃない。何もかも全部だ。
 沖縄の時はシカトされたけど、そーちゃんも俺と合わないって認めて、ちゃんと嫌って言ってほしい。そうしたら俺も、じゃあやめようってやっと言える。

 そーちゃんに関して手応えはないまんま、アルバムツアーはついにファイナルを迎えた。それと同じくらいの時期に、冠番組の降板が決まった。テレビにたくさん映れるチャンスがなくなっちゃったのはムカつくけど、夏前よりひと回り細くなったそーちゃんを見てたら、今はこれ以上仕事を増やさないほうがいいのかなって気もした。
 目下の問題はこのそーちゃんだ。マネージャーからラビチャで「降板になりました」って一報を受けてから、自分がバラエティでコケっぱなしだからかも、って誰に言われたわけでもない心配でヘコんでいる。んなことねーよ、とはフォローするんだけど、君も見てただろうって遅刻した日のことを持ち出されて、何も言い返せなくなってしまった。
「……帰りたくないな」
 俺はというと、ツアーが落ち着いてからというもの、放課後、教室でぼーっとすることが増えた。いおりんは昨日からりっくんと地方ロケに行っているから、愚痴を聞いてくれる人もいない。他のメンバーの予定はいちいち把握していないけれど、寮に帰ってそーちゃんと二人きりになってしまったら面倒くさい。励ましてもダメだし、ほっといたらほっといたで元気ないままだし、どうしろっていうんだよ。
「あ、四葉クンだ」
「んあ」
 昼寝、いや夕寝でもして時間を潰そうかなと思っていたら、見覚えのある男数人に声をかけられた。
「今ヒマ? ヒマなら、またダンス教えてよ」
「……おー」
 名前は思い出せなかったけれど、まだアイドルの仕事を始める前、時々一緒に動画サイトを見ながら踊っていた奴らだった。久々の外での付き合いに、先に心が踊り出す。
 あまり焼けるなと言いつけられていた気もするけど、かまわず陽の下で思い切り体を動かした。アクロバットを決めると、校舎の上階からも拍手が降ってきた。大勢で振りを合わせた時、汗が散るのすら新鮮に感じて気持ちがいい。仕事も何もかも忘れて踊るのが久しぶりだからか。
「なあ、あれやって。『 miss you… 』の間奏で、ターンしながら何度もすれ違うとこあんじゃん」
「あー。あれ、俺一人じゃ無理。場所分かんなくてふらふらすんの」
「へー。そういうもん?」
 そういうもんか、と尋ねられると、さあ、といった感じだけれど、今さら踊れない振付が俺にあるなんて自分でも驚いた。そういえばいつもアドリブを入れてしまうのってこの部分だ。少しでもズレると正しい踊り方が分からなくなって、なんとか整えようと、自分が踊りやすいように変えてしまう癖がついている。
 なんだか結局、仕事に意識を引っ張られてしまった。ここで俺まで沈んだら、 MEZZO” はぐずぐずになってしまう。そーちゃんを元気づける力は俺にはないけれど、 MEZZO” で仕事をやる以上、俺だけでもなるべく元気でいなくちゃ。
「あれ、四葉くん、今日特番出るんじゃなかった?」
「へっ?」
 通りかかった女子に呼びかけられて時計を見ると、五時半を回るところだった。いや、時間は潰そうと思って潰してたから分かってるんだけど、その予定って今日だったっけ。確認しようにも手帳はカバンごと教室に置きっぱなしだ。だけどうちの生徒が覚えてるんなら、きっと本当のことなんだろう。
「ごめん、俺行くわ!」
「大丈夫か? 悪かったな、引き止めて」
「いい! 俺のせいっ……」
 たぶんあんまり大丈夫じゃない。カバンを取りに行く時間も惜しい。スマホも当然置きっぱなしだったけれど、パスケースだけはポケットに入っている。落とさないようにと、いつぞやそーちゃんが制服のベルトにチェーンでつないでくれたんだ。
 駅へ着くと、ちょうど帰宅ラッシュが始まりかけていた。リーマンよりも学生のほうが多い。心配したとおり、すぐファンの人たちに囲まれた。あんまり焦ると弾き飛ばしてしまいそうで、強く断ることができない。
 きゃあきゃあ騒がしい声で溢れる中、一人だけ神妙な面持ちで声をかけてきた女がいて、俺は思わず目を合わせてしまった。
「私、妹さんの居場所知ってます」
「うそ。ほんとに?」
「はい。少しでも協力したくて」
 協力、という言葉に体が動いた。テレビや雑誌の仕事で会った人たちも皆、できることがあれば協力するよと言ってくれた。そういう人たちは皆、俺が理の目に触れるよう一生懸命撮ってくれた。
 この仕事を始めるまで、俺の話を聞くたび可哀想だと言う奴はいっぱいいたけれど、実際に何かをしようとしてくれる奴はほとんどいなかった。別に何かをしてほしかったわけじゃないけれど、俺が理のためにこの世界に飛び込んだ途端、驚くほどたくさんの人が「俺のため」といって時間を割いてくれた。俺はそれが嬉しかったし、優しい奴ばっかだって感動したし、そのたびいつか本当に理にたどり着けるって心から思えて勇気が湧いた。
 ――俺はバカだったんだ。そんな中でも、悪口を言われたり、曲を盗まれたり、何度も何度もムカつく思いをしてきたのに、何一つ勉強してこなかった。そんなことよりも俺は、産みの親やたった一人の相方とすら上手くやれないこんな自分でも、応援してるって――好きだって言ってくれる人がこの世にいるって、一番に信じていたかった。

***

 生きてりゃ嫌われることもある。そんなもんだ。お互い不快になりたくないなら離れればいい。だけど、この仕事を始めてから優しい人たちにたくさん出会って、こんなでも一応ふてくされないでやってきてよかったなって思った。
 その優しい人の筆頭がきっとそーちゃんだった。本当は初めて顔を見た時から知っていた。そーちゃんは俺の思ったとおり優しく、手を抜くことなく、こんな俺のことを絶対に諦めないで、いろんなところに引っ張っていってくれた。嫌いなはずの俺にすらニコニコしてお人好しなそーちゃんのこと、ムカつく奴って思ってたのに、本当はそんなそーちゃんに救われてたんだ。
 別に、一人は嫌だとか、今さら思わない。だけど、この人のことすら突っぱねてしまったら俺は、これから誰かと生きてなんかいけるんだろうか。そーちゃんの隣にいて寂しいと思った気持ちを、そーちゃんと離れてからも、ずっと抱き続けていくんだろうか。
「そーちゃん、ごめん! ごめんなさいっ……」
 スタジオに着いてからというもの涙が止まらなくてみっともなかったけれど、許してほしくて思い切り声を張り上げた。聞こえてないはずなんかなかった。なのに、そーちゃんは返事をしないどころか、俺のほうを少しも見ようとはしなかった。一瞬だけ伺い見た表情は不気味なほど色がなく、少なくとも怒りを表したものではなかった。まるで俺がここにいないみたいで、十七年間されてきたどんな扱いより、ずっと苦しくて気を失いそうになった。
 楽屋に入る勇気はとてもなかった。俺は建物の入り口から数歩離れた電柱の陰で、そーちゃんが出てくるのを待った。もちろんもう一度謝るつもりだった。けれど、いざそーちゃんの横顔を見ると、どうしても足がすくんで動かなかった。
「……そーちゃん」
 やっと出た声は車の騒音にかき消された。足取りの重いそーちゃんの後ろ姿がどんどん遠ざかっていく。それを見ていたらまた涙が溢れてきた。
 腫れた目が戻るまで寮には帰れない。どこに行こう、と考えるなり、ぐうう、と腹が鳴った。財布も何もかも学校だ。涙を乾かしがてら取りに戻ってもよかったけれど、さっきの生放送のことを知ってる奴らに会うかもしれない。そもそも財布なんかよりまずスマホを取りにいってマネージャーに連絡するべきなのだろうけど、今は人に何かを言われるのが柄にもなく怖かった。悩んだ結果、ちょっとだけ回り道をして、遅くならないうちに事務所に謝りにいくことにした。

 ツアー中、俺のスマホをそーちゃんが持ってた時、そーちゃんが何も言わないものだから、怒るのもくたびれたのかなと思った。そのほうがよかった。僕たち合ってないよねと、あるいはやっぱり君のことは好きになれないよと、面と向かって言ってはくれないならそのまま、俺にうんざりしたまま見限ってくれればよかった。望んでいたことのはずなのに、いざ突き放されると悲しくてたまらない。俺なりにそーちゃんとのこと一生懸命考えてたつもりなのに、結局この程度の気持ちだったんだろうか。
「タマ、どこ行ってたんだ! 携帯もつながらねーし……」
「ごめんなさい。先にそーちゃんのとこ行ったんだけど……」
 やっぱりそーちゃんに声をかけておきたくて部屋を訪ねてはみたけれど、一度も出てきてくれなかった。肩を落として事務所に足を運んだら、そーちゃん以外のメンバーが勢揃いしていて、電話口で何度も頭を下げるマネージャーの背中を見守っていた。
 地方ロケから戻ったばかりで疲れているはずのいおりんが、俺を咎めるヤマさんやみっきーの口を遮ってまで、俺の言い分を聞こうとしてくれた。許されてはいけないと知りつつ俺は皆に甘えて、遅刻してしまった理由を話した。そーちゃんがちゃんと怒っていてよかったのかもしれない。そーちゃんにまで「いいよ」と言われてしまったら、俺は本当に居たたまれなくなってしまう。
 けれどすぐに、そんな思いすら甘えだったのだと知る。俺に代わってそーちゃんの部屋に行ったりっくんが、血相を変えて戻ってきたからだ。

 救急車には、マネージャーとりっくんが同行した。そーちゃんの部屋を一番訪れたことがあるのは恐らく俺のはずなのに、荷物をまとめることすら上手く手伝えなかった。――もしもまた戻ってこなかったら? 全身が粟立って、喉に何かが込み上げる。思わず口に当てた手の震えが止まらない。
「タマ、座ってな。顔、真っ青だぞ」
 ヤマさんが何か言っていたけれどよく聞き取れなかった。次いでナギっちが俺の肩を押して、ソファにゆっくり座らせた。いおりんが俺の額の汗を拭いて、みっきーが頭を撫でてくれた。マネージャーが戻るまで、俺は身動きをとれなかった。
「ストレスが原因じゃないかって……」
 マネージャーの言葉に目を閉じた。何かの宣告のようだった。もうこんなことが起きないように俺からなんとしてでも離れるべきなのかもしれない。そんな考えがよぎったら、事務所に帰る道すがら必死で押しとどめてきた涙がぽたりとこぼれた。
「タマキ。ソウゴ帰ってきますから、皆で迎え行きましょう」
 ナギっちに諭されたけれど、立ち上がれなかった。俺に何を言われても困ったように眉を下げるだけだったそーちゃんが、お腹を押さえてあんなにつらそうな顔をしてた。対して俺はごめんという言葉一つかける以外、何も思いつかないことを認めたくなかった。
「タマ、しゃんとしな。ほら立って」
「や、やだ。行きたくない」
「リーダー命令だ。気持ちは分かるけど、お前がそんな顔してたら、ソウが余計に気に病むだろ」
「いやだっ……俺もう、そーちゃんと MEZZO” 続けらんない」
 みっきーとナギっちに引っ張られて腰を上げはしたものの、視界のぼやけた目をぎゅうっとつむったら、何粒とも数えきれないほどの涙がぼたぼたと落ちた。しゃくりあげてしまいそうになるのが苦しくて、腕を強く口元に当てる。それをほどいてくれたのはいおりんで、こないだ理の話を聞いてくれた時と同じ目をしてて、俺は胸の奥へ奥へとしまい込んでいた気持ちを、ようやく声に出すことができた。
「俺のせいで誰かがだめになっちゃうの、もうやだよ……」
 目の前で遠ざかっていくサイレンの音に、十年以上も昔の記憶がフラッシュバックしていた。あの日おふくろは帰ってこなかった。最後に見たのはしんどそうな顔でもなんでもない、普段通りの笑顔だった。
 おふくろが死んだのを誰かのせいだと言う人はいなかったけれど、俺は分かっていた。時々帰ってくる親父を除いて、あの家にはおふくろと産まれたての理以外、俺しかいなかった。三人ぼっちのあの家で、おふくろは最期まで誰にも頼ることができなかったんだ。
「タマ、涙拭きな。色々あったんだろうけど、もう昔のお前とは違うだろ」
 ぱち、とまばたきをするなり、綿みたいにまとめられたふわふわのティッシュを顔に押し付けられた。こんな豪快なことをするのはみっきーだ。ごしごし、目元をこすられながら、俺に真っ直ぐ向けられたヤマさんの声を聞く。
「人の気持ちを考えられるようになって、その腕っぷしで、大事な人のことちゃんと守ってやれんだろ」
「……守ってやれる?」
 ずずーっと鼻をすすると、今度はそこにティッシュのかたまりを突っ込まれた。よく見ると、みっきーとナギっちが笑っている。
「もう……。自分で拭けるからいーよ」
「ばぁか、こんなに泣いて、手が足んねーだろ」
「スタンバイ、手伝っているのですよ。遠慮しないで、タマキ」
「いえ、遠慮します。ダイジョーブ。ありがとう」
 泣いても目はこすんなってそーちゃんによく言われんだ。そうつぶやくと、皆は一瞬きょとんとした後、顔を見合わせてまた笑った。
「ヤマさん、俺、変われるかな」
「頑張んなさいよ。まだ十七歳だろ。何にでもなれるよ。お前のなりたいように」
 この晩、 IDOLiSH7 までもをやめると言い出したそーちゃんに掴みかかりながらも、俺はようやくそーちゃんの口から、そーちゃんの「家」の話を聞いた。

 翌日、俺は一人でまた別の生放送の現場にいた。
「じゃあ、四葉くん。周りもフォローしてくれると思うけど、しっかりね」
「……はい」
 そーちゃんは最低三日間は安静にしていなければならないということで、 IDOLiSH7 の仕事は六人でカバーし、 MEZZO” の仕事は当然、俺だけでこなすことになった。
「逢坂くん休養って、何か知ってる?」
「さあ。でも生放送に穴開けるような相方じゃあなあ」
 ちょっとくらい休ませてやったらいいんじゃないの、とスタッフが耳打ちし合っている。声色や表情は俺の噂というよりも、そーちゃんを心配するそれだった。
 番組の間中、俺の隣の席は空いていた。俺は俯向くこともそちらに見向きすることもせずに、いつもそーちゃんが座っている場所に、そっと右手を置いておいた。
「 MEZZO” 、今日は一人だけど歌えるかな。緊張してる?」
「ちょっと。でも、そーちゃんに少しでも恩返しできるように、そーちゃんのぶんまで一生懸命歌います」
 スタジオにいる人たちはたぶん皆、俺が昨日犯した過ちをどっかで聞いてる。それでも仕事だから俺を罵ることはしないし、慣れない状況を気遣って親切にしてくれる人までいる。そのたび目が潤んだけれど、そーちゃんの居場所を預かっているのだと思ったらちゃんと笑えた。
 この番組が始まる前、久しぶりに、デビュー曲の練習中に使っていたノートを見返した。最近は忙しさにかまけてカバンに入れておくだけになっていたけれど、かつて自分の手で表紙に書き留めたアドバイスを読み返したら、そーちゃんのフォローでやっと踊り切っていた間奏の振付も、一人で完璧に踊り切る自信が湧いた。
「それでは MEZZO” で『miss you… 』、どうぞ」
 いつも通り、そーちゃんの居場所と背中合わせにスタンバイをした。音に合わせて振り返ったステージは、不思議と広くは感じなかった。
 夕べ、そーちゃんがお腹の痛みをこらえながら一生懸命話してくれた。そーちゃんも俺とおんなじように、産みの親と決別していた。そして叔父さんを――今の自分を形作ってくれた大切な家族を、後悔を残したまま、亡くしていた。
 悲しいことがあっても、体がしんどくても、仕事中は俺のぶんまで笑ってたそーちゃんの努力を、ほんのひとかけだけでもいいから今日、分かりたい。そして、そーちゃんがここに戻ってきたら分かち合いたい。俺も一緒に笑えるよって言いたい。
 きっとそーちゃんは今頃、ベッドでこの番組をはらはらしながら見てくれている。デビューして以来俺は初めて、そーちゃんのことを考えながらこの曲を歌った。

「……そーちゃん、ただいま」
 我ながら情けない声が出たなあと呆れつつ、トントントン、となるべく丁寧にそーちゃんの部屋のドアをノックした。昨日一通り話し終えるなり眠り込んでしまったそーちゃんは、今朝俺が学校へ行く時間になってもぴくりとも動く気配がなかった。そーちゃんが倒れてから二人きりで話すのはこれが初めてだ。
「そーちゃん……?」
 返事がなかった。まだ寝ているんだろうか。もう一度ノックをしようか迷ってやめた。話したいことはたくさんあったけれど、今は休めるだけ休んでほしかった。
 手紙でも書こうかな、と考えながら部屋に戻ると、ちょうどスマホがラビチャの通知音を鳴らしていた。
『起きてるよ。入っておいで』
 すぐに飛んでいくと、そーちゃんが布団に包まったまま、こちらに首を傾けて笑っていた。
「……そーちゃん」
 そーちゃんの顔のそばにひざまずくように座って、そっと呼びかけた。ぐっすり眠ったおかげだろうか、そーちゃんの顔色は、ここ数か月のうちで一番良かった。いくぶんかほっとすると、そーちゃんにもそれが伝わったのか、息を漏らしてまたふふっと微笑んでくれた。
「ごめんね。あまり大きい声が出なくて」
「ううん。へーき。近くにいたらちゃんと聞こえる」
 ずり、とそーちゃんが頭の位置をずらしてベッドの際に寄せた。こんなに顔が近づくのは、春頃そーちゃんのベッドに潜り込んだ時以来だ。
「そーちゃん、なんか、そーちゃんの匂いする」
「あ、夕べから布団に入りっぱなしだったから……ごめんね」
「気になんねえよ。ライブの時なんかもっと汗だくじゃん」
「そういう問題かな……?」
 身体を拭いてやるくらいできないかな、と思いつくままに腰を上げかけたら、そーちゃんの手が、弱々しくだけれど確かに俺の腕を掴んだ。
「どうした? してほしいこと、ある?」
「環くん。妹さんのことで騙されたって本当?」
 突然のことに困惑した。そーちゃんにこの話をするつもりはなかった。ヤマさんたちだって揃って「しょうがない」と俺を許したのだ。そーちゃんの反応なんか想像するまでもなかった。
 そーちゃんが俺を責めないことは明らかだったけれど、それ以上にそーちゃんの目は真剣だった。熱を持った細い指にぎゅうと手首を拘束されて、どうにもごまかすことができない。
「大和さんから聞いたよ」
「そ、そーちゃん、だめ。怒って。騙されただけじゃない。そのうち絶対こうなってた」
 騙されたのはたまたまだ。もともと遅刻ギリギリだったし、日頃から俺はいい加減だった。今までなんとか失敗をしないでこられたのは、みんなみんな、そーちゃんのおかげだ。
「そーちゃん、だめじゃん、なんも変わってねえよっ……」
「環くん、話を聞いて。聞こえないの? もっと近くにきて」
 ぐいっと思いのほか強く手を引かれて、そーちゃんの掛け布団の上に上半身だけ倒れ込んでしまった。すぐそこに見える首元からそーちゃんの匂いがして、混乱している間に、俺を引っ張った手が俺の頭の上に置かれた。
「それだけ悲しい目に遭って、よくスタジオまで来られたね」
 さら、とそーちゃんの指先が俺の髪を滑った。わけが分からないと思っている間にも、さら、さら、とそれは繰り返されて、自分がそーちゃんの腕に抱かれていることに気付いた。
「えらかったね」
 掛け布団に何百粒目かの涙がしみた。そんなこと言わないで、と胸の内で唱えたけれど、体が少しも動かなかった。自分のしたことを償うために見ないふりをした、心の弱いところが呼び起こされていく。
「……そーちゃん」
「うん」
「俺、それでも、応援するって言ってくれる人のこと信じてたい。ありがとうって言いたい。だって、こんなにいっぱいの人が俺のこと好きって言ってくれたの、初めてなんだもん……」
 生きてりゃ嫌われることもあるし、悪く見たがる奴は悪く見る。当たり前のことを自分に言い聞かせながら十七年間、人より嫌われやすい自分が傷つくことのないよう必死に生きてきた。石を投げられるのは仕方ないとやり過ごす代わりに、好きだと思った人には好きだと伝えた。それを受け取ってもらえたことで、この人のそばにはいてもいいのだと確認した。
 その例外がそーちゃんだった。そーちゃんといると、俺のどこが今まで他人に嫌われてきたのか、つくづく思い知らされた。なのに、そーちゃん本人だけは俺のことを絶対に避けようとはしなかった。
 そーちゃんを好きになってはいけないと思った。そーちゃんのことを諦めるために、そーちゃんに俺のことを嫌いだと認めさせたかった。けれど、そーちゃんはグループをやめると決意した最後の一瞬まで、俺のことをかけらも責めたりしなかった。この人にはもう一生勝てない。
「うん、信じていて。君にはそのままでいてほしい」
「でもそのままは嫌だ……。仕事すっぽかしたりなんか、もう絶対しない」
 嫌だと言わないそーちゃんが時々怒る理由もちゃんと分かった。仕事に穴を空けるということは、いろんな人にそーちゃんみたいな思いをさせるってことだった。その思いをするのがそーちゃん一人なら怒らなかっただけ、我慢させてただけだった。
 だからここで、そーちゃんが「そうだね」って言ってくれるんだと思ってた。だけど違った。
「違うよ、環くん。一番大事なものは自分で決めていいんだ」
 涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。そーちゃんは変わらず微笑んでいた。でもほんのわずか、瞳が寂しそうに揺れた。俺が口を開くより先に、そーちゃんの手がまた俺の頭を包むように撫でた。
「もちろん仕事は大事だよ。けれど、誰かの決めた『優先すべきもの』を貫き続けた結果、取り返しのつかなくなったものが、僕にはいくつもあった。――君は同じ思いをしないで」
 幼子に語るような声だった。そーちゃんが言葉を継ぐ前に、また一つ涙が俺の頬を滑った。微笑むそーちゃんのまぶたが落ちる。その裏にきっと叔父さんの姿がある。
「周りが、時には僕がなんと言ったって、妹さんを守らなくちゃだめだよ」
「……そんなこと言うなよ。困るじゃんかよ。今度こそそーちゃんと理、どっちかがいなくなっちゃうってなったら、俺どうすればいいの」
 答えを待たず、掛け布団に顔を埋めてひたすら泣いた。駄々や八つ当たりに近いことを言っているとは分かっていた。それでもかまわないと思えてしまったのは、告げられることのなかったそーちゃんの言葉が、揺るぎないものだって知っていたからだ。
「泣き虫だなあ……」
 そーちゃんもそーちゃんでひたすら、俺の頭を撫で続けていた。やわらかい羽みたいな指の動きが、ささくれ立った感情をなだめてくれるような気がした。
 この日、俺たちは一晩話すことなく、眠りに落ちるまでこのままでいた。