3.朔日のカノープス

 音楽の道を選ぶと決めた日、家族を捨てた。人生最初で最後の不徳だ。僕はこれ以上、誰かと分かり合うことを諦めたりしたくない。

「環くん、おはよう。はい、起きて」
 最近はごねられるのを見越して早めに声をかけるようになった。目を開けさせる前に携帯電話を取り上げておくのがポイントだ。まだ時間あんじゃん、なんて二度寝を始められた日には、一織くんや三月さんに頼み込んで数人がかりで引っ張り起こすことになる。
「……ん」
 しかし今日は様子が違った。携帯の画面がゲームのマップを表示しているのは毎度のことだけれど、いつもならしかめ面をして耳を塞いだりブランケットをかぶったりする環くんが、静かにそっとまぶたを開いた。
「もー朝なの……」
「……もしかして、あまり眠れなかった?」
「んー……」
 環くんがぎゅうっとまばたきをしながら上半身を起こす。赤くなった眼に反し血色を失った顔にはうっすらとクマが浮いていた。
「なんか……昨日までのこと考えてたら」
 あふ、と大あくびをした環くんの目尻から涙がこぼれる。良くない夢を見てしまったのかと尋ねかけたが、以前暗闇が嫌だの一人で眠れないだのと同じベッドに潜り込んでこられたことを思うと、口には出せなかった。
 昨日、 IDOLiSH7 は晴れてメジャーデビューを果たした。これが第二の始まりの歌、と温めてきた曲をアクシデントで使えなくなり、失意に耐えながら必死で撮り直したミュージックビデオも、新たに組んだグループ内ユニットのアルバム曲も、振り返れば今の僕たちに作り出せる最高の出来だった。
 八乙女プロダクションの盗作疑惑が浮上した当初声を荒げていた環くんも、既存曲の再録が決まってからはきちんとレッスンに集中した。もしかしたら相当の我慢をしていたのかもしれない。
 学校がなければ少しは休ませてあげられるのに、と気落ちしかけたところで、トン、と腹に重みが加わった。見ると、環くんが寝癖だらけの頭を僕に寄りかからせている。後頭部に手を延べかけたところでようやく事態に気付いて驚き、遅れて自分の手のやり場に困り果てた。
「ヘンな大人って結構いるもんなんだな」
 くぐもった声になぜか心臓がどき、と鳴る。曲を盗んだ犯人のことを言っているのだと思う。
「そーちゃんは眠れた?」
 環くんに正面から見上げられて、まず自分の顔色が心配になる。たった一晩寝不足をしただけの環くんの表情がこれだけ暗いのだ。思わず、丸まった広い肩を掴み、ぱっと距離を取っていた。
「あ、……ええと」
「昨日、カメラ回ってんのにめずらしくぼーっとしてたじゃん、あんた」
 言いながら環くんはもう一度あくびをした後、僕の両手の拘束を取り払うように大きく全身で伸び上がった。
「聞いてる? そーちゃん、大丈夫?」
「……うん。ごめん。大丈夫だよ」
「別に、俺に謝ることじゃねえし」
 環くんは不機嫌そうに答えると、僕を軽く押しのけて立ち上がり、開きかけたままの扉へ向かった。床が散らかっていることを差し引いても、いつもよりなんとなくふらついているような気がする。
「環くん、今日くらい、学校は休んでもいいと思うよ」
「いい。どこでも寝れっし。起きれた日はちゃんと行く」
 ペタペタ、足音が遠ざかって、朝食当番の三月さんのあいさつが聞こえる。もう一生歌えないであろう曲ができてしまった寂しさは口に出さずとも皆一緒だったけれど、あの拍手にも似たフラッシュの音、カメラの向こうに見たファンの歓声、「おめでとう」に「ありがとう」と返せる晴れ晴れしさも、きっと同じ形で七人の胸の奥に踊っている。
 気を散らしてばかりではいられない。目頭を覆った両手でそのまま頬をパチンと叩いた。環くんの問いはほとんど図星だった。もともと寝付きはあまり良いほうではなかったが、沖縄での撮影を終えてからというもの、僕の睡眠時間はどんどん短くなる一方だった。

 沖縄での夜、大和さんたちの話によれば環くんが寝かしつけてくれたおかげで、酔いが翌日に持ち越されることはなかった。恐らく悪酔いしやすいだけでアルコールに弱いというわけではないようだが、大人なんだからもう少し後先を考えてくださいと一織くんに叱られてしまった。帰りの座席を決める時、マネージャーがババ抜きみたいに差し出してくれたチケットの一枚に手を伸ばしたら、環くんから「あんたはこっち」と彼の隣のものを渡された。
 理由の如何はともかくせっかくその距離に座れたのに、フライト中どころか寮まで一度も言葉を交わすことができなかった。撮影中に聞いた環くんの声が頭の中をぐるぐると回り続けて、隣の部屋へ帰るのに「おやすみ」すら口に出せなかった。
 環くんの面倒を見ることについてあまり意識をしたことはなかったが、その時ばかりは彼を起こす役目が僕でよかったと思わずにはいられなかった。少しだけ寝て、起きて、喉の震えを殺しながら「おはよう」と呼びかけた時、環くんはいつも通り「あと五分……」とわがままを言った。
『 MEZZO” ……少しお休みしよ』
 つい口を滑らせてしまうことも少なくない環くんだけれど、あの日の提案は考えに考え抜いた末のものだったと僕は思っている。だって、それまで特に喧嘩をしていたわけでも、険悪な雰囲気が続いていたわけでもなかったのだ。潮風に洗われたような青空の下で、夜なんて忘れるくらいの日差しの中で、僕の隣に立った時、やっと音を成した気持ちなんだろう。
 それを感じ取っていながら僕はその話をうやむやにしてしまった。返答に困ったわけでも、時間が欲しかったわけでもない。心は決まっている。僕は MEZZO” をやめたくなかった。環くんは「休む」と表現したけれど、休んだところで一体いつ再開する気になるというのか。そう思いながらこのユニットを組み続けることこそ、本当は不誠実なのかもしれないけれど。
「壮五、朝飯冷めるぞ! 早く来いよ!」
「あ、――はい!」
 三月さんの呼びかけで我に返り、洗面所で一度身だしなみを確認してから、急ぎ足で共用スペースに向かった。ホットケーキやミモザサラダが並んだ食卓の横で、大きなテレビモニターが、昨日の会見の様子を映し出している。
『みんなが諦めずに、頑張ってくれたおかげです』
 当然、カメラは僕へも平等に向く。陸くんから話題を振り直された僕が笑っている。他の局でも同じ映像が流されているだろう。父がどの程度僕の動向を気にかけているのかは分からないが、このニュースは遅からず父の耳にも入る。
 だからどうなるというわけでもない。僕の目的が揺らぐことはない。ただ、毎夜ベッドに横たわり微睡み始めると、叔父をなじった親戚や出ていけと吐き捨てた父の表情が、フラッシュバックのようにまぶたの裏に閃くのだ。いざこの道を選んでしまった今となってはそんなもの、もう怖くもなんともないのに。

 そんなふうに悩んでいるのも寝入る前と食事の最中くらいで、ひとたび一日が始まれば目が回りそうなほどの忙しさに追われた。まず最低限の家事をやっつけ環くんの身柄を一織くんへ引き渡した後、他のメンバーと、時には一人で、僕もその日の仕事へ向かう。
 今日は撮影の待ち時間に午後の資料を読み返していたら、「あんまり念入りに準備するとかえって緊張しない?」と大和さんに声をかけられた。
「ちょっと言っている意味が……。準備の時間なんていくらあっても足りないです、今は」
「はは。まあソウらしいっちゃらしいか……」
「はあ」
 からかわれたのか気遣われたのか考えあぐねていると、ポケットに押し込めていた携帯電話がブブッと音を立てた。相手を確認するより先に荷物をまとめる。この後は自分が映るカットのぶんだけ先にまとめて撮ってもらったら、すぐに次の現場へ向かう予定になっている。
「間に合いそうか?」
「ええ、でもギリギリかもしれません」
「了解。まあ任せなさい」
「すみませ……あ、襟曲がってます」
「あらやだ。言ってるそばから」
 互いの姿を簡単に確認しながらカメラの前へ出る。大和さんとのグラビア撮影はいつもスムーズに進むおかげか、求められたものに力まず応えられるのが心地好い。
「そういやあ、マネージャーが MEZZO” につくって話なかった?」
「ありましたけど……。端的に言うと、断りました」
「そんなこったろうとは思った。タマの輸送だけでもしてもらったほうがいいんじゃないの。あいつ一人で駅歩かせるの、なんか不安だろ」
「確かに環くんはよく目立ちますけど。他の皆だって変わりませんよ」
 昨日、 IDOLiSH7 の冠番組の制作が決まったと聞いた。また、今夜はアルバムツアーの準備のため、横浜に順次現地入りする。 MEZZO” としての仕事はある意味今まで通りなのだから、マネージャーは IDOLiSH7 に集中してもらったほうがいい。僕たちだって MEZZO” である以前に IDOLiSH7の一員なのだし。
「――はい、オーケー。逢坂くん、次の仕事頑張って」
「ありがとうございます。ではいってきます、大和さん」
「はいよ。気をつけて」
 パシッと軽くハイタッチをし、ジャケットを脱ぎながら鞄を引っ掴んでスタジオの外へ駆けた。楽屋へ寄っている暇はない。そういえば、環くんからのラビチャを確認しそびれたままになっている。ポケットから携帯電話を取り出しつつ、こんなものを入れたまま撮影に臨んでしまっていたことを思い出し、頭を抱えたら当然のごとく通行人にぶつかった。
「す、すみませ……」
「びびった。なんか突進してくるから」
 顔を上げると、汗だくの環くんが立っていた。首もとに熱がこもるだろうに、彼は夏でもフードをかぶり込んでいる。無論、変に日焼けするよりはいいけれど。
「駅から出なくてもよかったのに。暑かっただろう」
「夕方だしなんてことない。そーちゃん、そっちのでかい荷物貸して」
 大丈夫だから走って、と返答する前に、二人分の衣装が入ったボストンバッグを奪われた。こういう時、学生の時に運転免許を取っておけばよかったと後悔する。でも、そんなゆとりがあったならまず、家を出てまでアイドルをやってなんかいなかっただろうな。
「ていうか、あんたこそ暑そう」
「ああ、再来月の雑誌の撮影だったからね」
 私服では比較的柔らかな素材の服を選ぶことが多いけれど、今日はベージュのテーラードジャケットに詰襟のシャツ、黒のスキニーパンツという自分にしてはめずらしいコーディネートでの撮影だったので、思い切って買い取らせてもらった。我ながら気に入ってはいるけれど、仕事以外で慣れない格好をしているところをメンバーに見られるのは、なんとなく気恥ずかしい。
「似合ってんね」
 前を走る環くんが、息を切らしながらそう言った気がする。しかし環くんがそんな状態ということは、僕の息なんか当然上がり切っていて、可愛らしい猫耳が揺れる大きな後ろ姿についていくので精一杯だった。

 環くんとの仕事は放課後、つまり一日の終わりに入ることが多い。毎度それでよかったと心から思う。歌番組で詰まることはほぼないのだけれど、撮影やインタビューなど二人きりでの仕事は、いったん延び始めると本当にどこまでも延びる。最初のうちは謝り倒してばかりだったのに、最近はスタッフ側に「 MEZZO” との仕事はいつもこう」だと思われている節があるから困る。
「……うーん。まだ足りないかな。もっとこう、壮五くんが環くんと同じ強さで前に出てほしいんだよね」
「ごめん。そーちゃん、昼間ヤマさんとの撮影あったから、頭切り替わってねえんだと思う」
「なっ……、す、すみません」
「あはは。いいよね、大和くん。俺もファンだよ」
 アシスタントさんたちから、私もー、なんて声が上がる。「アイナナ学園」の保健医役でミステリアスな魅力を存分に発揮した彼は、今回のデビューアルバムではツノ付きパーカーに身を包み、コミカルでキュートな一面を見せてくれた。――と、先々週購入した雑誌に書いてあった。三月さんとナギくんがもともとバラエティでの活躍に定評があったこともあり、ユニットソングの評判は上々だった。
 陸くんと一織くんの曲への反響も凄まじかった。あの二人は寮どころかカメラの前でも時々言い合いになるけれど、僕らと違うのは、早くも確固たる信頼関係を築き上げつつあるところだ。当人の間にどんな思いがあるのか、ファンはもちろん僕たちも知らない。それにも関わらず互いが互いを理解し必要とし合っているのが分かる。マネージャーは陸くんについて「応援したくなる魅力がある」と言っていたけれど、彼らはまさにそんな二人組なのだと思う。
 なら、 MEZZO” には何があるのか。
「出すぎ出すぎ。難しいね、歌だと上手くいくのにね」
 デビュー当時からひたすらに声の相性ばかりを称賛されてきた。落雷による機材トラブルで偶然スポットが当たった僕たちは、単なるユニットとしての魅力だけではなく、誰にも代えがたい絆も、互いしかいないと言えるだけのストーリーも、何もかもが薄いように思えた。

 帰宅ラッシュのピークを越えた頃、僕たちはようやく一日の予定を終えて地下鉄に乗り込んだ。眠たがる環くんを座席の端に座らせその隣に腰を落ち着けてから、先日マネージャーに作ってもらったリハーサルの行程表を確認する。
 ツアー初日の会場の所在地は、プライベートでゆっくり訪れたことはないけれど、開発の中心地から少し歩いた港の空がとても広くて好きだった。大きな観覧車や国際客船のターミナルにも、いつか遊びにいってみたい。スケジュールに余裕があれば、環くんを連れていってあげられたんだけれど。
 ねえ、と口を開きかけて、そのまま息を呑んだ。ずる、と隣で動いた大柄な影が、僕の肩にのしかかってきたからだ。見ると、ぽか、と開いた色素の薄い唇が、いつも駄々や文句ばかりこぼしているだなんて信じられないくらいに可愛らしい。
「もう、不用心だな……」
 そっと腕を伸ばし、パーカーの下にかぶせたキャップを引っ張って、そのあどけない顔を隠しておいた。疲れているのだろうけど、万が一ファンに写真を撮られでもしたらどう拡散するか分からないのだから、メンバーが隣にいる時だけにしてほしい。
 そう眉間にしわを寄せたそばから、目的地の数駅手前で、四、五人の女子高生が元気よく乗り込んできた。こんな遅くまで大変だな、と驚きつつ僕もマスクの位置を調整し、半ば無意識に顔を伏せる。
「いいでしょ、フラウェ組!」
 思わず肩がびくついてしまった。間近で IDOLiSH7 の評判を立ち聞きするのは、路上で直接呼びかけられるのとは違った緊張感があって、自分の話でなくてもまだ慣れない。
「なんかユニット名とかないの?」
「さあ。ツアー中につけてくれるかなあ」
「ずっとこの組合せで歌作るとは限らないもんね」
「でもまた二人で歌ってほしいよね!」
 慣れないとはいえ聞き耳は立ててしまう。メンバーが褒められるのはどうしたって嬉しい。
 ――よくケンカしてるのにさ、こんなに合うなんて意外。 MEZZO” みたいに仲が良いわけじゃないもんね。でもさ、そこがいいよね。ライバルにもなれる二人だってことでしょ。
 なるほど、と感嘆する。グループ内ユニットができたことで、自分たちにないものが見えてくると同時に、自分たちの売りもはっきりしてくる。やっぱり世間が僕たちに求めるものは「仲の良さ」なのだろうか。いや、とてつもなく求められているからこそ、根底が嘘でも、ファンの目にそのように映るのだろうか。
「……俺らも負けてらんねえな」
「うわ、……なんだ、起きてたの」
「そーちゃんがビクビクすっからじゃん」
「悪かったよ。でも、次で降りるから」
 んー、と覇気のない返事をしながら環くんが立ち上がり、持たせたままの荷物をおもむろに担ぎ上げる。女の子たちに気付かれなかったことにほっとしつつ足を踏み出しかけた時、ひときわ大きなはしゃぎ声が聞こえた。
「――他の組合せも見てみたいよね!」

 オフィス街が近いからだろうか、ホームが妙に静かだった。そのおかげで余計に、心臓がどきどきと騒がしい。
「そーちゃん、こっちでいいの?」
「あ、……うん」
 前方を行く環くんは何も言わない。先ほどの言葉は聞こえていただろうか。そんなことに気を取られながら改札を抜けようとした時、ピンポーンとブザー音が鳴って太ももが通行止めのバーにぶつかった。
「もー。いつもチャージしとけって言うのそーちゃんじゃん」
「ごめん。少し待ってて」
 都心からだいぶ長距離を直通列車が走っているせいか、降車人数に対して精算機に並んでいる人の割合が多い。最後尾に着き、その隙になんとか肩の力を抜く。
「みっきー? 今どこ?」
 あと二人というところで屈託のない声が響き渡った。そういえば先ほど、大和さんから先に着いたメンバーで遅めの晩ご飯を食べていると連絡があった時に、到着時間を伝えておいたのだ。
「俺のプリン・ア・ラ・モード注文しといて。んー。わーってるよ。ハンバーグにする。もたれねーよ、おっさんじゃねえもん」
 クリーム食べたかったらちょっとやるっていおりんに言っといてー。言いながら環くんが笑っている。
「そーちゃあん、まだ? お腹空いたー」
「もうすぐだけど、先に行ってていいよ。お店分かる?」
「たぶんみっきーが途中まで来てくれる」
「分かった。気をつけてね」
 迷ったら連絡して、と言いかけて、その必要はないと気付いた。三月さんがすぐ近くまで来るのだから、三月さんにすればいい。
 僕が環くんと一緒に過ごす時間は他のメンバーより圧倒的に多い。それなのにいつまで経ってもぎこちなさが抜けないというか、ちょうどいい距離感が掴めない。今はその危うさがファンにウケているけれど、歌以外の相性の悪さはいずれ露呈する。
『お休みしよ』
 だだっ広い空の下で聞いた環くんの声がよみがえる。逃げてしまったその日の夜を思い出すと、今でもぎゅうと胸が痛む。「僕じゃなくてもいいんじゃないか」とは薄々思い続けてきた。だけどむしろ「僕じゃないほうがいい」のかもしれない。
 改札を出て少し歩いた頃、不意に携帯電話の呼び出し音が鳴った。相手の名前を確認するとともに時刻が目に入って、つい足取りが重くなってしまっていたことに気付く。
「はい、逢坂です」
「お疲れ! 今環と合流したけど、壮五もすぐ来る?」
 どうやら待っていてくれるつもりみたいだ。急がなければと意識を目的地に引き戻したところで、むわっと熱い空気が全身を取り巻いた。
「あ、――三月さん、お店、駅の中でしたよね」
「ん? そうだけど、迷った?」
「いえ。寄りたいところができたので、直接ホテルへ向かいます」
「おお、了解。ちゃんと晩飯は食えよ」
「はい、皆さんによろしくお伝えください」
 終話後、グループチャットにもその旨のメッセージを送っておいた。もちろん寄るところなんてない。うっかりエスカレーターで地上まで出てきてしまっただけだ。さてホテルはどちらだったかと辺りを見回すと、ビルの陰に覗いた観覧車の鉄骨が虹色に瞬いて、近くにいたカップルが歓声を上げた。
 海辺のほうへ寄り道をするのも悪くないけれど、やるべきことは山ほどある。大通りへ出て観覧車に背を向け、内陸側へ真っ直ぐ歩を進めた。
 途中、商業施設の白壁に映ったイルミネーションに見とれていたら、自転車にぶつかりそうになってよろけた。昼間からやたらとヘマが多い。睡眠不足のせいで注意力が落ちているのかもしれない。もういい大人だ。どこかで失態を演じる前に今日だけでも早く眠ろうと決めた。
 ホテルの部屋割りは、大和さんだけ差額を自腹で払ってシングルルームにしていたため、残りは綺麗にツインルームに収まった。せっかくグループ内ユニットを作ったのだから、とユニットごとに分かれたので、僕の隣はいつもと同じだ。
 環くんのバスタオルとバスローブ、歯ブラシや細々としたアメニティ一式を、出入り口側のベッドの上に揃えておいた。履かないだろうなと思いつつ、使い捨てのスリッパも一応袋から出しておく。さっとシャワーを済ませ明日のスケジュールを再確認してから、気にかかる資料は一生懸命見ないふりをして、薄い掛け布団の中へ潜り込んだ。
 ――衣装のバッグは窓際の椅子の上に置いてね。水音は気にしなくていいから、きちんとシャワーを浴びて歯磨きをするんだよ。電気は天井の豆電球だけ点けておいていいから、あまり遅くならないうちに寝てね。
 そう送ったラビチャの既読がつくのを少し待ったが、順当に睡魔が襲ってきて、マナーモードの設定もおぼつかないまま、いつも通り思考の海に溺れていった。

 差額を出すことを考えるとシングルルームにしてほしいとまでは思わないが、他人より広い家で一人っ子として育った僕は、集団生活に慣れていない自覚があった。そもそも大和さんが遠慮なく角部屋や一人部屋を希望するのは、大和さんが大和さんなりの人付き合いの方法を確立し切っているからだと思う。環くんも、口数は少ないけれど、子供時代を養護施設で過ごしているぶん、恐らく僕より他人と関わることは上手い。
 二十年間、誰と会話をする時も僕は「逢坂家の跡取り」だった。避けられる時すら例外ではなかった。親族は誰しも各家の興隆に命を懸けていたし、同じ業界に生きている人間は皆そうだった。当たり前だ。間違っているとは思わない。だけど――。
『あまり売れていないくせにって笑うかい』
 そう自嘲しながらも幸せそうにギターを奏でていた叔父の顔を思い出す。もしも叔父の教えてくれたものが音楽ではなく写真だったら、僕は写真家を目指していたかもしれない。叔父がいなければきっと、人に心があるなんて知らないままだった。
 別に、父や親戚たちに心がなかったなどとは思っていない。人の心を傷つけるのはいつだって人の心だ。二十年間父の教えに従ってきた僕もまた、音楽の道へ進みたいと告白したあの時、父の心を傷つけていたんだろう。
『これ以上逢坂の名に泥を塗ってくれるな』
『成功なんかするものか、今に見ていろ』
『この家を貶める人間は出ていけ』
「僕こそ、こんな家――!」
 意識が覚醒するより早く飛び起きていた。走った後のように心臓がばくばくと鳴っている。
「はっ……あ、もう……まただ、くそっ」
 一気に脱力感に襲われ柄にもなく悪態をついた。荒く息を吐くたび顔中から汗が滴る。はだけたバスローブもびしょびしょで、着替えなければとても寝直せそうにない。
 隣のベッドに目をやると、うつ伏せに寝そべった背中が安らかに上下していた。消したはずの枕元のライトが点灯していたけれど、ラビチャで言及しなかったお菓子の持ち込みは、今日はしないでいてくれたみたいだ。
 携帯電話を確認すると、ちょうど四時を回った頃だった。ベッドに入った時間を考えれば、普段よりは眠れたほうだ。少しだけ安堵してラビチャの通知をタップする。リーダーからの事務連絡に連なる労わりの言葉に頭を下げ、続けて環くんの個人ページへ遷移した。
『今からホテル帰る。起こしたらごめん』
『あ、これの通知で起こすかも。起きたらごめん』
『起きてない?』
 気を遣っているのかいないのか分からないメッセージに頬が緩んだ。本当にこういうところが可愛いし、憎めないと思う。スクロールを続けると、様々なアクションを取る王様プリンのスタンプが連投されている。その末尾にもう一つメッセージが付け加えられていて、思わずふふっと声を洩らしてしまった。
『電気つけて寝るけど怒んないで』
 気持ちの半分は、僕が起きてくれないかなって思ってたんだろうな。笑ったことでなんだかかえって切なくなって、ラビチャのウインドウを全て閉じた。額の汗を拭いながら、先ほどの夢をゆっくりと思い出す。
 父や親戚たちに心がなかったなどとは思わない。それが一度生じた不安をどんどん強く確固たるものにする。――僕は家族の考え方を間違っていると否定し切り捨てたけれど、本当に捨てられたのは僕のほうなのかもしれない。
 もちろん、自分が音楽の道を選んだことは間違いだとは思っていない。だからこそ、偶然に押されて僕が環くんと組んだという過ちが浮き彫りになる。いつか改めて「やめたい」と言わせてしまう日が来る前に、環くんとは適切な距離を置くべきなのかもしれない。
 でも、諦めたりしたくない。
『俺、施設育ち』
『俺のこと嫌いだろ』
 なんの感情も絡めずただ事実を述べるみたいにそう言った環くんに、僕のほうから「離れよう」などとは言いたくない。環くんから「休もう」と言ったあの時が、彼を必要以上に傷つけずに離れる最後のチャンスだったのかもしれないけれど、それを逃してしまった今、僕にできることは、君のそばにい続けることしかない。
 そして、できることなら確かめたい。こんな僕でも、心から誰かと分かり合えると。

***

 ツアー二か所目は東北、三か所目は九州へ直行。それ以降はファイナルの東京へ徐々に近づいていく会場設定になっているが、通常の仕事をこなしながら東京と開催地を行き来するので、特に楽ということはない。ともかく、序盤のハードなスケジューリングに IDOLiSH7と併せて MEZZO” の仕事も入る環くんはまいってしまうのではないかと心配になったが、仙台行きの新幹線で「沖縄行ったから北海道にも行ってみたい」なんて愚痴をこぼしていて、杞憂だったかと苦笑した。
「そーちゃん、カミ……これ、なんて読むの」
「うん? ああ、『コウベ』だね」
「ほー。福岡から近い?」
「ちょっと遠いかな。でも、京都へは一時間くらいで着くよ」
 ツアーであちこち行くようになってから、環くんが以前よりも地名や移動距離を気にするようになった。体力があるとはいえ肉体的にはやっぱり疲れているのかもしれない。
「あっ、りっくんたち牛タン食ったって。くそー」
「お弁当くらいなら買えるかなあ」
「あったかいのがいい……」
「僕もお店で食べたいけどね。でも確か駅弁の箱って……」
 ゴトン、と話の途中で硬い物の落ちる音がした。番組の企画書から窓側の席に視線を移すと、環くんが意識と一緒に携帯電話も手放したようだった。拾い上げたそれにヒビが入っていないことを確認し、起こしても申し訳ないので、環くんの鞄ではなく自分の鞄にしまう。
 ここ数週間、もともと二人での仕事が多かったのに加え皆と別々に現地入りするのが常になっていたため、他愛ない会話も多少はするようになった。もう少し時間があればまともに親睦を深められるのにとは思うが、時間があればそもそも他のメンバーたちと一緒に行動していただろうから、無駄な悩みだろうか。
「……あ」
 スケジュール帳と睨み合っていたら、神戸でのリハーサルの直前にゆとりがあることに気付いた。せっかくだからゆっくり食事でもしつつ雑談を振ってみようか。たまに好きなものを尋ねても「王様プリン」と「ゲーム」ばかりだけれど、どこへ行ったことがあるのかだとか、ツアーで何が面白かったかだとか、ツアーにまつわる会話なら少しは弾むだろう。

「そーちゃんさあ、具合でも悪いの?」
 気分が前向きになれば物事もいくらか上手くいくようになる――というのは甘い考えなんだろうか。僕が鈍くさいのかもしれないが、改めて「ゆっくり話そう」だなんてどう切り出したらいいものか分からなくて、意識すればするほど環くんへの接し方がぎこちなくなっていった。今日なんかいつもは比較的難なく終わる歌番組の収録だったというのに、踊りながら二回もぶつかってしまった。
「そんなことないよ。ごめんね、次はきちんとするから」
「別に俺は気にしてねえけど。そーちゃんが気になんだろ。しっかりしろよ」
 遊びにいくよりレッスンに付き合ってもらったほうがいいのかもしれない。楽屋の鏡台で頭を抱えかけたところで、どこかにマスクを置き忘れてきたことに気付いた。使い捨てのものだからなくしてもかまわないのだけれど、口がついたものをわざわざ他人に処分してもらうのも申し訳ない。
「ちょっとお手洗いに行ってくるね」
「おー」
 早足で一番近くのトイレに向かい、鏡に備え付けられた棚を確認すると、案の定そこに置きっぱなしになっていた。収録前に歯磨きをした時、ちょうどここで外したのだ。ついでだから捨ててしまおうとゴミ箱を探していたら、扉の向こうを男性の集団が通り過ぎていく気配がした。
「四葉くんはそうでもなかったけど、逢坂くんがね」
「ツアー真っ只中だし仕方ないんじゃない」
「まあ本命は IDOLiSH7 だもんな」
 ああ、やっぱり今日の出来について言われてしまっている。しかしそんなふうに思われていたのか。いかに多忙とはいえおざなりになる仕事があってはいけない。今からでも謝りにいこうと扉を開けたところ、聞こえてきた言葉に一瞬足が止まった。
「もともと歌手向きじゃないでしょ、彼は」
 胃がキリ、と痛むのを感じた。「 miss you… 」を練習していた頃からずっと気にかかっていたことだった。録音当日は環くんのアイディアでなんとか乗り越えられたけれど、デビューから数か月経った今でも解決し切れていない課題だ。
 トイレの出入り口をそうっと抜け、噂話の後をつける。機材を担いでいるところを見ると、ADさんの集まりだろうか。
「四葉くんのほうが荒削りだけど、歌そのものはいいよ」
「逢坂くんはカタイんだよな。下手ではないけど」
「まあ俺らがとやかく言っても、ファンの評価が全てだって」
 気付けば謝罪しようと思っていたことを忘れ、完全に盗み聞きの態勢に入っていた。倉庫のような狭い部屋に彼らの無遠慮な声が響く。
「つっても、すぐ追い抜かれるかもな」
「ああ、よかったよね。アルバム曲」
「いいんじゃないの。そういうのあんま気にしなさそう」
 ――確かに、気にしないけど。デビュー前から分不相応の持ち上げられ方をしているような気分は拭えないし、でもだからといって周囲の期待を裏切りたくないから、こういう評価に過敏になってしまうだけだ。
「そーちゃん、いた」
「あ、しっ、静かに、……環くん」
 階段の方角から走ってこようとする環くんを身振り手振りで制しながら、倉庫のほうをちらっと振り返る。片付けをしているんだろうか、幸いガタガタと騒がしいおかげで、僕らの声には誰も気付いていないようだった。
「全然帰ってこないからびびった。やっぱ具合悪い?」
「いや……、特に何も。大丈夫だよ」
「ならいいけど」
 そう言いつつ環くんは怪訝そうな顔をする。とりあえずさっさと立ち去るよう努めたけれど、今の今では表情まで隠すのは無理か。こういう時すぐに話題を切り替えられればいいのに、環くん相手だと何を切り出しても不自然になってしまいそうで困る。
「そういえば明後日さ」
 結局黙っているのが得策か、と情けないことを考え始めた辺りで、環くんのほうが口を開いた。
「カミ……えーと? 次んとこ行く前に、ちょっと時間あんだろ」
「神戸ね。何か用事がある?」
「ねえけど、そーちゃん、やっぱヤコーとか苦手?」
「……夜行バスのこと?」
 うん、と頷きながら、環くんが玄関口のドアを押さえてくれた。そういえばマスクを握り締めたままだった。鞄にしまうついでにスケジュール帳を取り出す。クリーム色の紙に反射する西日がまぶしい。
「予定を一日早めて、夜行バスで神戸入りするってこと?」
「だからそー言ってんじゃん。ヤダ?」
「そんなことはないけど。寄りたいところがあるなら下調べしていこう」
「寄りたいっつーか……海行きたい」
 意外な提案にしばらく首をかしげた。まさか朝から海水浴がしたいというわけでもないだろう。できることなら大橋を見せてあげたいが、当日の予定を考えると海浜公園まで行くのがせいぜいだろうか。唸っていたらトントンと肩を叩かれた。ちょっと今考えているから静かにしてくれ。
「海、好きじゃない?」
「えっ……」
 好きか嫌いかと訊かれたらまあ、好きだと思う。街なかで育ったから、大した思い入れがないと言ってしまえばそれまでだが。
「そーちゃん、沖縄ロケの時なんとなく元気だったから」
 ぽつり、と環くんがつぶやいた。横顔が少し残念そうにも見えた。ぼんやりとだが合点がいった。僕の調子の悪さを環くんなりに解消しようとしてくれているのだ。
「いいよ、行こうか。でも無理をしないで、始発でもいいんだよ」
「ううん。そーちゃん絶対、俺のこと起こすの諦めんだろ」
 確かに、と思ったらちょっと笑えた。当初の目論見とはずいぶん異なってしまったけれど、環くんとの時間を作れることには変わりないし、環くんから言い出してくれたことが嬉しかった。

 しかし結局、なぜこうも上手くいかないのだろうと首を捻る羽目になった。その日の朝マネージャー経由で、先日出演した歌番組の制作グループから懇親会への誘いが来ていると連絡があったのだ。開始時間は午後八時。一次会だけでおいとますることができたとしても、予約している夜行バスの時間にはとても間に合いそうにない。もちろん乗る便を一時間、二時間遅らせることだって可能ではある。けれども、そこまで環くんに待ってもらうのは忍びない。
「いーよ、別に」
「う、うん。ごめんね」
「謝るこたねーだろ。仕事みたいなもんだし」
 気を悪くしていないだろうかと顔色を伺ったが、電車に乗る時は必ずと言っていいほどまず携帯電話でゲームを始める環くんが、今日はなぜかぼーっと外を見つめていて、何を考えているのか余計に分からなかった。諦めてマネージャーに出席の旨を伝え、僕も車窓に流れる曇り空を眺めながら了解の返事を待った。
 立秋とともに始まったアルバムツアーは今週が折り返し地点、気付けば残暑見舞いの時期もとうに過ぎていた。どこかでもう一度時間を取れないだろうかと脳内で残りの行程を追ったが、特に不満げな様子もない環くんを見ていたら、埋め合わせをするのもおこがましいように思えて気分が沈んでしまった。
 これで不調の悪循環に入るのは避けたい。気分を切り替えようと鞄の資料を漁る。とにかく仕事に集中しよう。それが一番、何も考えなくて済む。そう自分に言い聞かせつつも、一文字目を視界に入れる前に再び環くんの横顔を見やった。相変わらず機嫌の良し悪しすら読み取れなかったけれど、伏せられたまつげに少しだけ胸がちくりとした。――こうやって結局、なんでも先送りにしてしまうんだ、僕は。

 懇親会は定例的な打ち上げというよりは交流を重視した簡易な立食パーティーで、若いスタッフも多く来ていた。先日収録現場にいた面々を探していると、乾杯の一口をつけたきりになっていたグラスがカツンと音を立てた。
「逢坂くん、さすがに疲れてるかな」
 見ると、探していたスタッフの一人――統括ディレクターさんだった。僕が二回目のミスをした時、苛立つこともなく「深呼吸して」と呼びかけてくれた人だ。頭を下げつつ慌ててグラスを差し出すと、いいよと手だけで制された。
「先日は申し訳ありませんでした。僕たちのために何度も――」
「言いっこなし。無事に終わったんだから。デビューしてまだ数か月でしょ、色々あるよ」
「……精進します」
 居心地の悪さを紛らわそうとビールに口をつけるが、なんだかいつもより苦く感じる。ちびちび飲んでいるのもみっともないので、まだ半分ほど残っていたそれを一気に飲み干すと、周囲にいた数人がおお、と声を上げた。
「明日も早いんでしょ。これ以上はやめておく?」
「いえ、大丈夫です。飲みます」
 疲労を何かの理由にするなんて、プロとして、大人として恥ずかしいことだ。全く疲れていないと言えば嘘になるが、せめて例の歌番組――もちろんこの懇親会も含めて――に関する仕事が終わるまでは、忙しいからと甘やかされるのではなく、正当に咎めてもらいたかった。
 しかし謝罪に回るなら収録当日のうちにしておくべきだった。華やかな席で、あまつさえ自分自身もアルコールが入っている状態でだなんて、かえって非常識だともいえる。かといって今さら嘆いても仕方がないし、あいさつだけでもして帰ろう。そう決めて会場を見渡すと、やはり例のADさんたちの姿は、あまりバラけず盛り上がっていたということもあってよく目立っていた。
「そういや四葉くんのあのハナシって本当なの」
「誰が言い出したのか知らないけど、気の毒にねえ」
 すぐさま飛び込んできた声に胃がムカつき始めた。こないだといい、噂話が好きな人たちなんだろうか。銘柄の説明を聞くのもそこそこに、ディレクターのお酌を受けながら耳をそばだててしまう。なんだか善くない癖がついた気がする。
「でも『 miss you… 』のインタビューはさ……さすがに」
「ああ、ちょっとやりすぎかな?」
「やめとけって。今日、相方も来てんだから」
 グラスの中で赤い水面が大きく揺らめいた。頭にカァッと血が上ったのは、お酒のせいだけではないと思う。
 夏が本格的に始まる前、 MEZZO” のデビュー曲が発表されてからしばらくの間、僕たちは出版社からもテレビ局からも様々な質問をぶつけられた。その中で環くんが一度だけ、妹さんについて答えている。「誰を想いながら歌っていますか」という質問に対してだ。
レッスンの際、大和さんの指導を受けた後、環くんは練習用ノートの表紙にその教えを書き留めた。世界で一番大事な人を想い始めた瞬間、環くんの歌は、一度は僕を置いていってしまったほどに、痛みと愛おしさを訴えた。
 環くんの「妹探し」が一部で大袈裟に盛り立てられているのは彼も承知済みである。「ヤラセ」や「ネタ」だといった中傷が彼の耳に入るのも時間の問題だ。僕からも何度か、インタビューで妹さんの話はしないほうがいいのではと説得している。けれど環くんは真実を貫きたいと主張した。本当のことはきちんと話したい、だいいち俺の言ってることが本当かどうかなんて俺にしか分からないのに、俺まで嘘をついてどうするんだ、と。
 何らかの覚悟を伴った様子もなく、食べていたプリンから目を離すこともなく言い放った環くんの声と、その時僕を襲った静かな焦燥が、背後から覆うようによみがえる。追い立てられるがままに足を踏み出した途端、右肩を強く引かれて、視界が一瞬ぐわんと揺らいだ。
「逢坂くん。気持ちは分かるけれど、君が口を出す筋合いはないよ」
 ぐらぐらと床が揺れるのをこらえている間に、ディレクターから言われたことを理解していた。単なる相方でしかない――むしろ相方であるからこそ、家族でもなんでもない僕が口を出したところで、悪評を煽るだけなのだ。
「でも……、僕、ごあいさつに」
「私から話しておくから。申し訳なかったね」
 この場はいいから一度お手洗いに行ってきなさい。そう促されるや否や、僕は壁際に預けていた手荷物を引っ掴んで宴会場の外へ飛び出していた。

「……っ、う、わっ」
 思っていた以上に身体の自由が利かなくて、毛足の長い絨毯に足を取られ正面から倒れるように転んでしまった。意識ではすぐ身を起こそうとするが、視界が脳みそごと揺さぶられているような感覚で、喉へせり上がる何かに思わず口を固く塞ぐ。――胃が痛い。
 恐らく寝不足のせいだ。今まで記憶を飛ばすことはあれど体調に支障を来したとは聞いたことがなかったから油断していた。とりあえず廊下で醜態は晒すまいと、転がり込むように便所へ避難する。吐けば楽になると大和さんが言っていたような気がするが、そんな方法、やったことがないから分からない。
 一度便座にもたれてへたり込むともう身動きが取れなかった。ドクドクと疾走し始めた動悸が落ち着く気配はなく、息を切らしながら絶えず唾液を飲み込み続けているしかない。思えば昼も夜もろくに食べていなかった。それだけでこんなにも変わるものかと後悔した。
「大和さ……、あ、そうか……神戸に……」
 三月さんもそうだ。リハーサルは明日の午後からだから、僕たち以外のメンバーは皆、先に行ってしまっている。東京に残っているのは――。
「……たまきくん」
 震える指でラビチャの通話ボタンをタップした。声を出さぬ間にも喉がぜいぜいと音を立てて、上手く話せるか不安になる。しかし呼び出し音を数える前に、傍らに放った鞄から、ゲームのエフェクト音に似たメロディが鳴り響いた。
「……なんで……」
 片手で音源を探し当てるより先に絶望感が襲った。どうして環くんの携帯電話が、僕の鞄に入っているんだ。――そういえば、こないだ新幹線での移動中、眠り込んだ環くんが落とした携帯電話を、確かに僕の鞄に入れた。だから最近ゲームをしていなかったんだ、と今はどうでもいいような謎まで一緒に解き明かされる。
 既に関西にいるメンバーに余計な心配はかけられない。ダメ元で事務所にかけてみようか。しかし僕の自業自得で万理さんに頭を下げさせるわけにはやはりいかない。なんとか会場に戻ってほんの一言だけ声をかけて、建物の外に出られさえすれば――。そう自分に鞭を打った瞬間、個室の扉の向こうで、バターンと壁に何かを叩きつけるような音がした。
「――そーちゃん!」
「た、……、……うそ」
 必死に腕を伸ばして鍵を外す。無理な体勢を取った弾みで、開いた扉とともに後ろへ倒れ込んだ僕の背中を、力強い手がしっかりと支えた。
「ばか、もー、ほんと、どうせこんなことだと」
「どうして……、君、携帯電話……」
「話はあと! そーちゃん、一回吐いた?」
「は、吐いてない……いい、吐きたくない……」
「分かった、いちおータオル当てときな。ちょっと揺らすよ」
 揺れているのか揺さぶられているのかもう判別つかないような意識の中で、環くんに負ぶわれたのだということだけが分かった。
「あ、あいさつ……」
「してきた。めんどそうな空気だったからテキトーに」
 テキトーってなんだよ、といつも通りこめかみが引きつったところで、強張っていた全身から急に力が抜けて、僕はそのまま環くんの背に沈み込むように気を失った。

 こんな時でも変わらず夢を見るのだから、本当に眠るのは苦手だ。さっきまでいたような宴会場で、親族や取引先の重役たちがせっせと「挨拶」をこなす中、叔父がくたびれたスーツで背中を丸め、曖昧な笑顔を浮かべている。
 父のそばに侍る僕が、叔父と言葉を交わせる距離に立つことは決してない。そうしろと叔父本人が僕に言ったからだ。僕はそれを固く守った。そうすることが家のためでも、もちろん叔父のためでもあると分かっていた。
 僕はいつものようになじられる叔父を見ていた。後日「言わせとけ」と笑い飛ばして新しい曲を聴かせてくれる彼を知っていた。しかし父に続いて頭を下げた時、自分自身への違和感に気付いた。僕だけ、黒ネクタイをつけている。
 背を伸ばす前に、グラスの割れる音が会場に響いた。顔を上げると、叔父が酒を浴びせられた直後だった。弱いからと日頃あまり飲まないあの人が、めずらしく足をふらつかせながら会場を後にする。夢だと判っているのに、体が動かない。
「叔父さ――」
 引きつれそうに渇いた喉でなんとかそう叫んだ時、隣に立つ父が口を開いた。
『口を出す筋合いはないよ』
 途端、僕は走り出した。筋合いならある。たどれば僕にもあの人にも同じ血が流れている、この感情は正しい――。
 そう自らに言い聞かせ息を切らしながらたどり着いた場所は、叔父の住む古アパートではなく、「逢坂家」の看板が掛けられた斎場の入口だった。

 真っ暗になった視界で一度ゆっくりと瞬きをすれば、目の前には見慣れた寮の天井があった。いつもなら昔の夢を見た日は汗だくで飛び起きるのに、今日は不気味なほど冷静な状態で目を覚ました。
 寝転がったままで首を傾けると、環くんが僕のベッドに突っ伏して、背中をゆっくり上下させていた。寝癖のついた前髪を撫でると、張りつめていた気持ちが少しだけ和らいだ。枕にしている腕の先には、ビニール袋とタオルが握られている。服も恐らく夕べ着ていた物のままだ。
「環くん、起きて。支度しないと」
「……ぅん……、あ、……あれ、朝……?」
 おもむろに顔を上げた環くんが、寝ぼけまなこをきょろきょろさせながら床をあちこち叩く。そういえば、環くんは物を床に置く習慣があったんだっけ。
「ごめん、携帯電話だよね。僕の鞄の内ポケットに入っているから」
「あ、あー……そっか。そうだった」
 そう相槌を打ちながらも、環くんは今にも二度寝してしまいそうな表情で頭を掻くだけで、僕の荷物から目的の物を取り返そうとはしない。立ち上がるのも億劫なのかと結局僕が先に腰を上げ、鞄を漁ってだいぶ電池の少なくなったそれを差し出すと、環くんはきょとんとした顔で僕を見つめた。
「いいの?」
「いいのって、だって君のだろ」
「だってって、そーちゃんが持ってったんだろ」
「そうだけど、ないと困るじゃないか。はい」
 いかにも腑に落ちないといった表情で環くんはそれを受け取ったが、気にかかっていることなら僕にもいくつかある。しかし時計を見ればもう八時近くだ。今から環くんを浴室まで引っ張って着替えさせて荷造りをして……と考えると、話し合っている暇はない。
「電車で話そう。とりあえずシャワー浴びて、服は確かマネージャーが……」
「いい。自分で分かる。そーちゃんどうせ二日酔いだろ」
 やっと立ち上がった環くんの眉間には、深いしわが刻まれていた。
「待っ……」
 つい声が漏れていた。自分で自分の行動に驚いた僕に、環くんも似たような表情を返す。
「ゆ、夕べ迷惑をかけたことなら謝るよ」
「別に頼まれてやったわけじゃねえし」
「でももともとは君と出かける予定だったのに」
「……そーちゃんさあ」
 ワントーン低い声に身構えたが、続いた言葉は思いもよらず穏やかなものだった。
「二日酔い、へーきそうだな」
「う、うん」
 言われてみれば、飲んだ量自体は多くなかったおかげで体調は心配なさそうだった。久しぶりに朝まで目覚めることなく眠れたからというのもある。もちろん環くんが来てくれなかったらと考えるとぞっとするし、反省はしなくちゃいけないけれど。
「ならいいだろ。電車いつ?」
「ええと、十時半の新幹線に乗れれば」
「んー。遅刻しそうだったら言って」
「あ、まずいっ」
 喧嘩もままならないほど忙しいのだから、二人で出かけるチャンスなんてもうないかもしれない。落胆を押し込めながら飛び乗った自由席で、環くんは今日もやっぱり寝ていた。

「……よく眠るなあ」
 車窓にコテンともたれかかった顔を覗き込むと、いつぞや眠れなかったと目をしばたたかせていた朝に比べて、顔色はずっと良いものだった。授業中も起きていることのほうが少ないと一織くんに聞いていたから、環くんも睡眠に不自由する夜が続いているのかと案じていたけれど、学業はともかく健康に支障がないなら今は十分だ。
 しかしこう毎日寝顔を見せつけられると、ゆっくり会話をしたいなんて思っているのは自分のほうだけなのだと実感する。自分が不眠気味になっていることを考えるとこれはむしろ環くんが気を許してくれている証であるかもしれないのに、どうしてかネガティブな方向ばかりに思考が傾く。
「あ」
 する、と環くんの手の中からまた携帯電話が抜けかけた。今朝これを渡した時、何か言いたげな顔をしていたけれど、その矢先にまた落っことすのだから世話がない。
 今度こそ忘れずに返そう。そう誓って消灯ボタンに指を掛けた時、点いていた画面がゲームではなくラビチャの個人ページだったことに気付いた。アプリを落とすべきか考えあぐねている間に、タイミングよくピコピコ、と着信音が鳴る。
『新幹線乗ったか? ゲームばっかしてんなよ』
 マナーモードのやり方を教えたのに、と内心小言をこぼしながら通知ウインドウを確認すると、数日顔を見ていないリーダーからだった。
『お疲れ様です。無事に乗りました。環くんは眠っています。壮五』
『あれ? またソウが携帯預かってんの?』
『いえ、今朝返しました』
 返信しながら違和感に気付く。重ねてメッセージを送る手を寸でのところで止め、環くんの寝息を確認してから、ラビチャのログを勢いよく遡った。
『今そーちゃんがスマホ持ってる』
 やっぱり。先ほどは確認をなおざりにしたが、環くんは携帯電話の在りかに気付いていた。どうして言ってくれないんだ、緊急時に困るじゃないかとまた脳内で一人芝居が始まる。それでも夕べ自分のところへ駆けつけてくれたことを思い出し、当時の醜態を省みてはーっと深く溜め息をついた。
 ページを順方向に流してみると、次のやり取りは僕が酔い潰れてしまっていた時、ちょうど昨夜のことだった。
『使ってんのバレない?』
『たぶんへーき。人のスマホとか見なそうだし』
『そうかね』
 環くんからの思わぬ印象に青ざめた後、対する大和さんの発言に妙な安堵を覚えて恥ずかしくなった。こないだといい最近盗み聞きだの盗み見だの、人道に反した行いを働いてばかりだ。
 先ほど打ったメッセージを削除しておくべきか、それはそれで罪の上塗りになるかと悩みつつ、スクロールバーを元の位置へ戻していく。やり取りの内容は気に留めないよう心掛けてはみるが、活字を読み慣れているせいか、意図せずとも会話の概要が掴めてしまった。
『酔っぱらいの心配もいいけど、タマもちゃんと寝なさいよ』
『へーき。どうせ一人じゃあんま寝れないし』
 肩を落とすより先に、呼ばれ慣れたあだ名がフレーム内に飛び込んできた。
『そーちゃんの横のほうが眠れる』
「……そうなの?」
 思わず声をかけた後、はたと気付いて携帯のやり場に困ってしまった。なおも赤子のように眠りこけている環くんに呆れなくもなかったが、それ以上に自分自身の挙動が無様だ。
『環くんの携帯電話を僕が持っていたのは、単なる僕の不注意です。後で謝っておきます。大和さんにもご迷惑をお掛けしました』
 かえって鬱陶しいかもしれないけれど、突っぱねられてもちゃんと謝ろう。環くんの携帯電話を自分のものと併せて鞄にしまってから、知らず浮いていた汗を拭うため、出がけに掴んで放り込んだハンカチを探った。暑がってないかな、と環くんを再度見やったけれど、額の汗より口元の涎が気にかかる。起こさないよう布の端をそっと押し当てると、空調の風に人肌の匂いがふわと香って、途端自分でも驚くほどの眠気を催した。
 そういえば、最近は眠りが浅いのを悟られたくないからとひたすら同じベッドに寝るのを避けていたけれど、 MEZZO” がデビューしたての頃、夏の盛りもまだまだの季節、初めてベッドに潜り込まれた時の慣れがたい生温かさを思い出した。
 胸ポケットから切符を取り出し、新幹線が新大阪駅止まりであることを確認した。シートを隣に合わせて倒し、昨夜僕を担ぎ上げてくれた腕に思い切ってもたれてみる。親の胸すらろくに知らないのに、規則的に上下する温もりに、あやされているようでひどく安心した。
 後日、まんまと鈍行列車で寝過ごしてしまったから環くんには当分内緒だけれど、こんなに他人に近いところでも、この日は本当によく眠れた。