1.真昼のビッグバン

 環くんのことは「嫌い」ではない。根拠は感覚だけれど、間違いなく断言できる。ただ、人の言うことを聞きすぎ、という言葉に怯んだ時に分かった。僕は彼のことが「苦手」だ。

「環くん、おはよう。はい、起きて」
 さて楽しいバーベキューを終えてから最初の朝、いちいち怒るのもくたびれるので、穏やかに布団をはがしてやった。いかにも意外だという顔で僕を見上げた環くんは、枕元の携帯電話に視線を移した後、あからさまに眉をしかめる。
「……まだ六時じゃん。ギリギリまで寝かせてよ」
「ギリギリまで叱り続けたくないんだよ。分かるだろ」
「ていうか……どうやってカギ開けたの」
「マネージャーに頼んだら貸してくれたよ」
 不満なら日頃の行いに気をつけて、と嫌味を垂れると、環くんもだんだん腹が立ってきたようで、もともと眠そうなまぶたがなんとなく開いた。
「マネージャーの良心に付け込んだってわけ」
「背に腹は代えられないからね。レコーディングは予定通り来週末だって聞いてただろ。時間ないんだから」
 七人が二人になっただけで、録音も告知もスケジュールは変わらないのに、やることがひたすら増えた。パートを分けて、振り付けも見直して、ミュージックビデオだってある程度僕たちに任されるみたいだし、仲の良くない二人きりでも、みっともなくない形に仕上げなければならない。
「とにかくさっさと起きて。朝食済ませて」
「そーちゃんのご飯、からいから嫌だ」
「プリンもあるから」
「……はい」
 苦手なものや怖いものから逃げ続けると、そのうち本当に近寄れなくなる。険悪な雰囲気を作り出さないことも大切だけれど、何より他人の前で動揺する姿を晒したくない。だから例のカレー作りの場では死ぬ気で強がった。そのおかげで、と言ってもいいのか、環くんは前よりほんのわずか、僕の言うことを聞いてくれるようになった。
「はい、いい子」
 図体は一人前のくせに、背を丸めて渋々と起き上がる姿は、やっぱり年齢の通り、子供みたいだ。

 二人でデビューする、と決まった時から、不安なことはたくさんあった。勝手で奔放なパートナーを止めたり引っ張ったりしていかざるを得ないことは言うまでもない。単に動き回る癖があるとか、逆に全く動いてくれないとか、それだけならまだ楽だった。奇想天外だから困る。
 食卓に向かい合って食事をしている今だって、ほら、どうしてせっかく買ってきたプリンに醤油をかけるかな!
「そーちゃん、これ知ってる?」
「ウニの味になるってやつだろ。食べてみなよ」
「……そーちゃん」
「なんだい」
「そーちゃんのと俺の、交換しよ」
 十七歳、ってこんな感じだっただろうか。自分はともかく、同じ高校に通っていた同級生たちもこんなふうに無邪気に悪ふざけをしたりしていただろうか。昔のこと、というほど前のことでもないと思うのだけれど、学生だった頃のことは、実はあまりはっきりと覚えていない。
「怒んなよ」
「怒ってないよ」
「溜め息ついたじゃん」
「ああ、ごめん。僕はプリンは食べないから」
 だからそれは自分で始末してくれる、ともう一度溜め息をつくと、環くんはしょげるかと思いきや、感激したみたいに、やはり相変わらず眠そうなたれ目を輝かせた。
「俺のだけなのに買ってきてくれたの?」
「うん」
「やさしーな。あんがと」
 つまらないことに限って思い出すものだ。優しい優しいとはよく言われる。それが苦痛や重荷だと思ったことは特にない。ないけれど、環くんに言われると、なんだか違う。
「大袈裟だよ。エサみたいなものじゃないか」
「俺、猫じゃないんだけど」
「当然だろ。ちゃんと人間的な生活をしてくれ」
 そうは言っても、言葉で分かり合えない動物くらいに思っていないと、いつかめげそうな気がしている。

 しかも、世間ではこういうのは案外、ウケがいいんだ。芸で仕事をしている以上、常識程度の社会性を身につけていることが前提にはなるけど。
 正直、環くんと一緒に僕の人気が上がったのだって、七人の中でたまたま特別に目立ったからだ。雷が落ちたあのライブの時、出だしのソロがもしも一織くんだったら、大和さんだったら、三月さんだったら……どうしてもそう考えてしまうし、そのたび気が滅入る。他のメンバーだったら、環くんと二人きりになっても見栄えがしたんじゃないか。自分が彼に見劣りする、というのではなく、なんとなくぱっとしない気がするのだ。
 なんとなく、というのは一番恐ろしい。明確な理由がないと、解決しようがない。僕はこのまま彼とデビューをしてしまって本当に大丈夫なのか。そう心配しても
デビューは決定しているのだから覆しようがないのだけれど、シングルがコケたら、ファンの期待を裏切ったら、 IDOLiSH7 の歩く道を僕が狭めてしまったら――そんな気持ちに取り憑かれて、本当は毎晩、よく眠れない。
「そーちゃん、そんな考えなくてもいいんじゃない」
「……えっ」
 はっと我に返ると、そうだった、まずパートを割り振ろうということで、レッスン場に環くんを連れてきたんだった。とても息が合うとは思えない彼との練習時間を、一分でも多く確保しないと。
「とりあえず最初、俺でいい?」
「ああ、うん。いいよ。歌ってみないと分からないし」
「じゃ、交互にこう、こう、こうで」
 噛みあとのついた鉛筆が軽快に滑るA4サイズのノートは、 MEZZO” としてデビューすることが決まった時、僕が環くんのために買ってきたものだ。僕と同じものを同じ時期に使い始めたはずなのに、既にページは反り返り、表紙に折れ目がついている。扱いは乱暴だけれど持ち歩いてくれてはいるのかな、と、横目で見ながら僕も遅れて、決めたばかりのパート振りを自分のノートに書き写した。
 環くんは僕と違ってあまり考え込むことがなさそう、というと悪口になるかな。環くんが僕に放った「悩みがなさそう」という台詞と同じだ。気が短い、も似たようなものか。要するに決断力と行動力がないわけじゃないから、上手いこときちんと仕事をしてくれるようになると、頼もしくなると思うんだけど。
「ほんとに、俺らの曲になるんだな」
「そうだね……」
 もしもミュージックフェスタが成功していたら、この曲が IDOLiSH7 のデビュー曲になる予定だった。ずっと元気ではつらつとした曲ばかり歌っていたから、ファンを驚かせようって、曲の解釈を何度も話し合って、歌い方もハモり方も工夫したし、振付も研究に研究を重ねた。
 一織くんが何をやっても様になることを知ったし、大和さんの表現の幅広さに改めて驚いた。自分のキャラクターは曲に合わないんじゃないかと悩んでいた三月さんが、往生際が悪いと一織くんに叱られてしょんぼりしながら歌った時、雰囲気出てるって皆で笑い合ったのはおかしかったな。ナギくんは普段のにこやかな調子を崩さないんだけれど、それがかえって切なさを誘ったし、陸くんはきっと誰かのことを考えながら歌ったんだろう、まさにセンターは彼というほどの迫力があった。
「環くんは、見た目と歌声にギャップがあるのがいいんだよね……」
「え、なに、気持ち悪い。褒めてんの?」
「いや」
「違うのかよ。見た目をけなしてんの?」
 さして不機嫌そうにするでもなく環くんは訊いたが、それも違う。人気出るんだろうな、と思ったんだ。僕が隣にいたらそれがどう影響するのかまでは、分析できていないけれど。
「なんだか寂しいなと思って」
「七人で歌いたかったってこと?」
「……まあね」
 それには違いない。言葉少なにごまかすと、環くんの人より長い指が、ノートに書き散らされたAメロの一節をたどった。
「でも、いおりん、この曲聴くたびに、絶対ミューフェスのこと思い出すよ」
 低くかすれた声に、あの日の戦慄がよみがえった。同時に、一織くんのことを思い遣った環くんの横顔が、俯いているせいでもあるのだろうが、初めて見るような新鮮さを帯びる。
「ボスの言うとおり『二人だけのもの』にしよ。この曲」
 瞳がこちらを向いた時、思わず顔を背けそうになったが、こらえた。

 二人だけのものにしよう。せっかくミュージックビデオも作ってくれるんだし、二人にしか歌えないすごい曲にしてやろう。
 いつになく饒舌に語った環くんは、この曲の練習に関してはいつもより熱心だった。それは助かるのだけど、「すごい曲」って一体なんだ。具体的になんなんだ、「すごい」って。
「すごみのある、ってことじゃねーの」
「それは答えのつもりですか、三月さん……」
 レコーディングまであと四日。環くんがやる気を出してくれているおかげで、なんとか期日までに及第点には届きそうだ。が、もともとの曲が素晴らしいだけに、ダンスやミュージックビデオの出来に歌唱力のほうがついてこなかった。
「そうは言ったって、直すとこなんてないよね」
 今朝がた、練習見ましょうか、と提案してくれた陸くんが、腕組みをして首をかしげる。仕事の合間を縫ってアドバイスに来てくれた他のメンバーたちも次々に頭を捻った。
「思うに、情感が足りないんじゃないですか」
「ジョウカン? なにそれ」
「この曲を七人で歌うことになった時、解釈について話し合ったでしょう。曲に込められた思いだけではなく、込めるべき思いのことも。私たちはそれを理解するだけではなく、聴き手に訴えなければならない」
 一織くんが説明するのを、環くんはウンウンと頷いて聞いている。同い年なのに先生と生徒みたいだ。
「要は、七瀬さんみたいな『すごみ』が必要なんですよ」
「やだなあ、褒めないでよ」
「まだ褒めてません。お手本、できますか」
「え、今?」
 ちょっと待ってよ、と陸くんは慌てるけれど、無理もない。
「ヤマト、できますね」
「あー」
 ナギくんに肩を叩かれて、大和さんが仕方ないといったふうに苦笑いをする。やる気あんじゃん、と茶化した三月さんに、まあイチの言いたいことは分かるから、と、もう一言。
「俺たち七人のためでもあるしな。ひと肌脱ぎますよ」
 はいはい恥ずかしいから離れてー、と大和さんは六人をレッスン場の扉付近に追いやった後、ピアノの上のメトロノームをセットすると、僕らの対面の鏡の前に立って、大きく息を吸った。
 アカペラでのフルコーラス。録音しておけばよかったと思った時にはもう遅く、数分の間、一切目が離せなかった。マイクなしでもよく通る声、歌詞に乗せ切れなかった言葉を語り尽くす表情。振付は踊らず、時折手振りを交えるだけなのに、指先が、佇まいが、僕たちの知らない大和さんの世界観を、ほんの少しだけ見せてくれる。
「陸ー、この曲歌う時、何考えてた?」
 いつの間にか歌い終わっていた大和さんが、向こう側に立ったまま、やまびこを誘うみたいに呼びかけた。
「なんでオレに聞くんですか!」
「参考になりそうだと思ってさー」
「嫌ですよ、恥ずかしいし!」
 大和さんがこちらへ歩いてくるのに従って、陸くんは皆の後ろに姿を隠そうとする。一番身長の高い環くんが盾に選ばれた時、その盾から「あ」と声が上がった。
「りっくん、てんてんのことでしょ」
「てん……、は?」
 陸くん本人すら一瞬なんのことか分からないという反応をする。お兄さんのことですね、と一織くんが補足すると、陸くんの頬が大きな瞳に負けないくらいの色に染まった。
「う、うるさいな、もう」
「タマ、ソウ。そういうことだ」
 大事な人のことを思い浮かべてみろ。
 リーダーからのアドバイスに、環くんは合点がいったように頷いた。僕も――陸くんに気を遣わせるかなと思ったから、一緒に。

 その日から、環くんの歌は格段に良くなった。一織くんの言う「情感」というものが備わり始めたのだ。
 歌を交代で確認し合って聴いていると、自分の持てる語彙では言い表し得ぬ感覚に引きずり込まれた。出で立ちは大雑把でゆったりとしたいつもの環くんなのに、泣き叫ぶように高音を解き放つかと思えば、時に耐えるように喉を詰まらせる。大和さんとはまた違う魅力だ。 IDOLiSH7 が目指していた「応援したくなる」姿とも別の要素を持っていた。簡単にいえば、感情移入をしてしまうのだ。彼自身に対して特段思うところはないのに、胸が苦しくなってしまう。
「……すごい。いいね。ダンスだけじゃなくて、歌の才能もあるなんて知らなかったよ」
「俺も知らなかった」
 楽しい、とこぼしながらノートにまだまだ改善点を書き殴る環くんは、一度のめり込むと、意外にも一途で貪欲な質のようだ。
「ねえ」
「ん」
「環くんは、歌いながら誰のことを考えてる?」
 まだ十七歳の環くんは高校に通っている。僕と違って、仕事以外の時間が日々の多くを占めているんだ。僕の知らない環くんには、あんなに熱っぽく歌えるくらい好きな子がいるのかな、と、興味本位で尋ねたつもりだった。
 環くんはぽりぽりと頬を掻いた後、照れくさそうに唇を尖らせて、ぽつりとつぶやいた。
「理のこと」
 僕が目を見開いている隙に、環くんがパタッとノートを閉じる。
「俺、恋愛とか柄じゃねーし」
 閉じたノートの上に手をついたまま座るようにして、す、す、す、とそれを少しずつ背後へ動かしていく。別に見せろだなんて言うつもりはない。歌う時のポイントや弱点などの他に、妹さんのことも書いてあるんだな、きっと。かわいいな、と思ったら笑みが漏れた。しまったと思った時には遅かったようで、環くんが面白くなさそうな声を出す。
「あんたは」
 本当にしまった。
「彼女の一人くらいいるんだろ」
「いないよ」
「ふーん。昔は?」
 環くんが僕のプライベートに興味を持つとは想定外だった。といっても、ごまかすような事実もなくて、僕はただ否の答えを返す。
「いなかったこともないけど。めずらしい話は特にないから」
「めずらしさなんか期待してないし。ね、どんな奴だったの」
 自分より大きな動物に身を乗り出されると、威嚇されているようにも感じる。そんなに聞きたいか。しかし本当に語って聞かせるほどの話はない。優しいと言われて、好かれて、付き合って、その後のパターンは色々あったけれど、結果は全部同じ。
「歌に込めるほどの思い入れはないんだ」
「ふーん。じゃあ、そーちゃんも俺とかりっくんみたいに、家族のこと考えながら歌うのか」
 環くんが再びノートを開いて何かを書き留める。僕の頭には視界の端に映り込む文字など一つも入ってこなくて、いつか陸くんに両親を捨てたと告白し悲しそうな顔をさせた日のことが思い浮かんでいた。
「……そうだね」
 環くんが僕の話に悲しんだりすることがあるかどうかは分からない。けれど、そのまたいつか、環くんに「悩みがなさそう」と言われた時に言い返せなかった自分が、自分でも気がつかないうちに傷ついていたことを知ってしまった。ここで「もうそんな家族はいないんだよ」とは打ち明けたくない。僕にも悩みがあるんです、と弱がってみせるみたいじゃないか。
 一方の環くんは安心したような顔で、「そーちゃんも一緒なんだ」なんて笑っていた。

「タマはもうちょっと声量出そうなー。サビでソウに負けんぞ」
「うす」
 本番は明日。時間がなかった。何かが足りないとは誰も言わなかったけれど、明らかな未完成に僕は焦っていた。
「八時を回りましたし、そろそろ切り上げましょう」
「おー。いおりん、後で宿題見して。そーちゃん、帰ったら先に風呂もらっていい?」
「ああ、僕は……」
 もう少し練習していくよ、と言いかけた時、レッスン場の扉が開き、マネージャーが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「すみません、スケジュールの調整ができましたので……」
「調整?」
 ああ、明日の行程に変更が生じたのか。マネージャーは、当日の連絡になるのは避けたいと急いでくれたのだろう。切らした息に頭を下げつつ、丁寧にワープロ打ちされたメモを受け取る。
「スタジオ入り、二時間早められます。二曲増やすには少々厳しいスケジュールですが……」
「……ちょっと待って」
 なんだって? マネージャーに問う前に、相方から「ごめん」と声が上がる。
「言うの忘れてた」
「わ、忘れてたって……、第一なんで君が、マネージャーは……」
「マネージャーは悪くない。そーちゃん仕事でいなかったから、俺が直接言うって言ったの」
「そんなこと君は一言も」
「だから忘れてたんだってば」
 要領を得ない――。苛立ちが顔に出ていたのだろうか、黙りこくってしまったマネージャーを、陸くんが庇うように一歩後ろへ下がらせた。
「マネージャー」
「は、はい」
「時間は大丈夫。元のスケジュールを考えたら、十分すぎるくらいだよ。ありがとう」
「はい……」
 精一杯の笑顔を作ったが、マネージャーは戸惑うばかりだった。見かねた一織くんが、鍵は私たちが閉めるからいいですよ、と先に帰るよう促してくれた。
「それで……環くん」
「ごめんって。でもいいでしょ、一人ずつ全部歌うだけだし」
 本来のデュオに加え、僕のソロと環くんのソロ、二曲を新たに収録することになったというわけか。状況は分かった。
「でも、どうして僕に相談しなかったの」
「だから、それはごめんってば」
 ごめんなさい、ともう一度念を押してめずらしく首を垂れた彼は、本当に謝るしかなくなっているんだろう。良かれと思ってやったことについて、悪意なくただ相談しそびれただけ、と察するほかない。
「でも、そーちゃんもうなずいてたじゃん」
「……何をだよ」
「この曲だけじゃちょっとなって話、したじゃん」
 だから、カップリング曲を増やせないかってマネージャーに掛け合ったんだけど、ボスが今からじゃ無理だって。でも、理由を聞いてくれて、それならこういう形はどうかって。
 説明下手な環くんが、一生懸命に話している。
「それを……」
 相談してくれたら、という言葉が胸にだけ響く。もし相談してくれていたら、止められたとでも思っているのか、僕は。あり得ない。誰がどう見たって反対する理由がないじゃないか。
「……いいよ。分かった。万一のために全パート歌えるようにしてあるしね」
「よっしゃ」
 項垂れていた環くんが姿勢を正す。他のメンバーは各々、胸を撫で下ろしつつも複雑な顔をしていた。僕が平静を保ち切れていないことを、環くん以外には気づかれていた。でも、相変わらず自分勝手な相方に振り回されて虫の居所が悪くなっているだけだと思われているだろうから、幸いだ。
「皆、先に帰ってて。僕はもう少し練習していくよ」
 その場をやり過ごした僕は、予定通りの台詞を吐いた。
 皆を見送って静まりかえったレッスン場に、コチコチと秒針の音が響く。翌朝の起床時刻を考えるとそうそう長居できないことは理解していたが、このままベッドに入っても本番当日への恐怖に潰されるだけだろう。しかし、あと一晩でできあがるのか。完成形など自分でも見失っている有様なのに。
 とりあえずソロのつもりで歌おうと、改めて胸を開き、呼吸を整える。が、ためらって扉の方向へ回れ右をし、パチンと照明のスイッチを切った。最早、鏡に映った自分の姿を見ることすら嫌になっていた。

 ――環くんは優しい。まあ、少し軽率というか、だいぶ不注意が過ぎるというか、困ったところもあるけれど、根は優しい。僕は環くんを誤解していたと思う。もっといい加減な人間なのだと。でも違った。二週間近く共に歌って、話し合って、君の思いやりの深さや芯の強さに気がつかないわけはない。
 けれど、君は僕の心の虚ろに気がつかない。皆が言うように「優しい」僕を信じている。「一緒だ」なんて笑っている。あんなに僕に嫌われていると言い張っていたのに。
 そういう純真な性格こそが環くんの本質なんだって、僕はもう分かっている。だから苦しい。君の隣に並んで、僕の本質が暴かれることも、暴かれずに笑い続けていかなければならないことも。
「……っ」
 思わず無理な歌い方をしていて、げほ、と息が引っかかった。喉を痛めないよう上半身の力をふっと抜き、完走は諦めてその場に膝をつくように座り込む。途端、バンッとやかましく背後の鉄扉が開け放された。
「君……いたの」
「一時間したら声かけようと思って」
「まだ経ってないけど」
「……そーちゃん、咳してたから」
 はい、と差し出されるがままに受け取ったのはホットティーの缶だった。もううんざりする。叔父が亡くなった日だって、家を出た日だって、こんな惨めな気持ちにはならなかったのに。
「ありがとう。心配いらないから、帰りなさい」
「一緒に帰ろ」
「僕は……」
「これ以上やったら明日に響くって」
 座ったままの僕の目線に合わせて、環くんもしゃがみ込む。まだ目が慣れていないのか、振付を踊った時よりもずっと近くに環くんの顔が来る。
「思うように歌えないって、気にしてんの」
 率直なあまり無責任にも思える物言いに、みぞおちの奥がぎゅうっと痛んで、熱いスチール缶を握る両手に力がこもった。
「いいから。すぐに僕も帰るから」
「よくねえよ。根詰めて喉壊したら意味ないだろ。ヤマさんも言ってたじゃん、大丈夫――」
 刹那、ガァン! と金属を叩きつけた音に自分自身すら驚いていた。ずっと真っ暗なレッスン場にいた僕には、目を瞬かせる環くんの表情がよく見える。
「練習したって僕には歌えないこと……分かってるんだよっ」
 怒鳴るようなつもりで放った声が、闇の中に消え入っていく。環くんからの差入れは床に放ったままで、僕はレッスン場を飛び出していた。

「ひっでー顔」
 環くんは怒ったのかもしれない。夜が明けて、食事やシャワーが皆とかぶらないようだいぶ早めに準備をして先にスタジオへ向かったのに、更衣室でわざわざ僕の顔を覗き込んできて無遠慮にそう言い放った。
「ていうか、あんた、こんな大事な日に俺のこと起こしに来ないなんてどうしたの」
「ああ、ごめん……忘れてた」
 そもそも自分がきちんと寝付かなかったので、起きる起きないという発想に至らなかった。ここへ来るまで腹をくくるのに必死だったのだ。環くんが遅刻をしてこなくて本当によかった。
「いおりんが叩き起こしてくれたからよかったものの」
「あのね……僕も悪かったけれど、皆のこれからがかかってる日にまで、皆に迷惑をかけるのはやめなさい」
「あんただってそうじゃん」
 ためらいもなく咎められて胸がちくりとした。が、続いたのは全く予想外の言葉だった。
「レッスン場の床、ちょっとへこんでた」
「え、本当?」
「ほんと」
 やってしまった。帰ったら社長に平謝りして、補修費は給料から天引き、額によっては分割払いだ。
「そーちゃん」
「なんだよ」
「んなぷりぷりすんなよ」
「してない。なに」
「ん、俺さ……」
 彼にしては神妙な面持ちで話し出したので、ついわだかまりも忘れ耳を傾けた。しかし、言葉を継がれる前に出入り口のドアがトントンと鳴り、早く出てこいと急かされる。
「そうだ、時間ないんだった」
「そーちゃん、俺さ」
「分かった、走りながら聞くから」
 音を録るだけだから大した準備は必要ない。身一つで駆け出した彼を止め、忘れ物、と鞄を指差す。
「練習ノート。ちゃんと持ってきてるよね」
「あ。あっぶね」
 僕も鞄を開け同じものを探したが、指を触れかけてやめた。読んでも仕方ないと思った。テクニックとして押さえるべきところは何百回と体に叩き込んである。平常心を装ってなんとかここまで来たから、もう気持ちを引きずられたくなかった。

 音合わせを済ませて、コーラスの確認をして、環くんのソロから録ろうということになった。雰囲気に呑まれてしまいそうだからできれば最初に歌いたかったが、環くんの素早い立候補に負けた。
「そーちゃん、そこで聴いてて」
「あ……うん」
 適当に相槌を打つ。もうヤケだった。そんなことより早くスタンバイしてくれ。スタッフの視線が痛い。
「そーちゃん、あのさ」
「いや、後にしなよ」
「今言わないと意味ない。俺さ、俺」
 彼の水色の眼が泳ぐ。代わりに大きな手が、決してたくましいとは言えない僕の肩を掴む。
「俺、そーちゃんのこと、好きだから」
「――は?」
「そーちゃんのこと考えて歌うから。好きってそーいう意味だから。あと、これ、俺のノート持ってて。落とすなよ」
 矢継ぎ早に言い放つと、環くんはようやくマイクの前に立った。ほぼ同時に、痺れを切らしたようにイントロが流れ始める。
 早くもギターがいつもより切なく聞こえた。歌い出し、僕が時々注意していた彼の鼻にかかる声が、確固たる存在感を持って響く。たまらなくなって手元のノートに視線を落とした。その表紙にマジックで書かれていたのは、今や聞いたのが遠い昔にも思えるような、僕の胸をえぐるアドバイス。
『大事な人を思い浮かべながら歌うこと』
 襲いかかる緊張を振り払うように再び顔を上げると、ガラスの向こうの彼と瞳がぶつかって、まるで逃げるなと言われているみたいだった。

「そーちゃん、どうだった」
「……どうも、何も……」
 わけがわからなかった、としか。
「ノート返して。次、そーちゃんだよ」
 ほとんど力の入っていなかった両手からそれを抜き取られ、ポンと背中を叩かれる。時間ないよー、とスタッフから急き立てられて、なんとか所定の位置に着くも、刺さるような環くんの視線が痛い。
 ――あ、歌い出しが遅れた。
「すみません」
 一度失敗をすると、確かになかなか立て直せない。今度は自分でも聞いたことのない上ずり方をした声に驚いて、歌うのを止めてしまった。
「申し訳ありません、もう一度……」
 なんだかもう恥ずかしい、消えたい。何度もリテイクを喰らっていることだけじゃなくて、もう全部が。
 あまりにいたたまれなくて目を移したのが、なぜかよりによって環くんのいる方向だった。情けないくらい不安にしぼんだ僕の横顔がガラスに反射して、その向こうで環くんが、右手で口元を囲んで唇をぱくぱくとさせている。が、ん、ば、れ、だって。誰のおかげで取り乱してると思ってるんだ。
 憎たらしさに腹を立てたことが結果的に功を奏して、少し冷静さを取り戻すことができた。いつまでも振り回されてばかりでは困る。こんな大切な仕事の直前に、あんなふざけたことを言い出す相方なんかに。そんなふうに強がったのに、何十何百と口ずさんできた「ごめんね」の歌詞が、僕の心の底を突く。
 何度尋ねられても思う。僕は環くんのことは「嫌い」ではない。代わりに「好き」でもない。環くんに対してだけではなく、僕の中には初めから他者に対して「好き」も「嫌い」も、そのどちらの感情も存在しなかった。聞き分けがいいのはそのためだ。拒む理由がないのと同時に、そうすることでしか他人と関わることができない。
 練習を重ねてもこの歌は歌えない。大事な人なんか僕にはいない。両親を捨てたからでも、叔父が亡くなったからでもない。最初から僕はそうだった。
 不思議と吹っ切れたように僕は歌い続けた。――本番が終わったら、教えてもらおう。
『ごめんね、好きなんだ』
 君が僕のことを考えながらこの言葉を歌った時、どんな気持ちだったのか。

「そーちゃん、よかった!」
 録音室から出た瞬間、ちょっと引くくらいに顔を綻ばせた環くんが、僕を押し倒しそうな勢いで飛びついてきた。周りのスタッフも絶句している。
 正直、どんなふうに歌ったのかよく覚えていなかった。本番中にあるまじきことだろうが、彼の様子を見るにいつもより格段にマシだったんだろうから、いいか。
「そーちゃん、Cメロのところ、考え事してただろ」
「えっ」
 あんまり嬉しそうにしているものだから褒められるのかと思いきや、いきなりダメ出しだ。
「声、裏返ってた」
「まずい。うわの空だったかも……」
「まずいことない。えろくてよかった」
「はあ?」
 不機嫌でも上機嫌でもこういう調子なのは変わらないんだな。呆れて物も言えないでいると、今度はいたずらっぽい顔で微笑まれる。仏頂面を解くと案外表情の多い子だな、なんて、こんなところで妙な発見をした。
「あんた、歌ってる時のほうが分かりやすいな」
「……何のことだよ」
「あのさ、好きって嘘だから」
「はあっ?」
 なんだそれ! 思いっ切り叫びたかったが、仕事中なので耐え切った。信じられない、バカにしてるのか、まだ言いたいことは続々とあふれてくる。
「環くん、まだあと一曲あるの分かってる?」
「あんま怒らせんなってこと?」
「当たり前だろ!」
 しーっ、とわざとらしく唇に人差し指を当てたあどけない顔を、ものすごく引っぱたきたい。
「でも、うまく歌えたろ」
「せめてデュオを録り終わってからネタばらししてくれ」
「だって、そーちゃん真っ赤になって震えちゃって、かわいそーだったんだもん」
 やっぱり腕くらいつねってやろうかと思ったところで、マイクの準備が整って、本日最後のスタンバイを促される。今度こそ、僕から録らせてもらおう。
「ね、そーちゃん」
「うるさい。当分君の話は聞かない」
「俺の歌も良かったろ」
「聞かないってば」
 そう突き放したけれど、あの時一人で歌った君が僕のことを考えていたのかどうかを知りたくて、デュオは君のことを考えながら歌った。