045 サテライト

 ルームランプで読書をしていたら、携帯の呼び出し音がピロンと鳴った。
『そーちゃん、外見て』
 パジャマに上着を羽織ってドアを開けたけれど、そこには誰もいない。不思議に思っていると背後から「そーちゃん、こっち」と声がした。慌ててベッドに上がってカーテンを開ける。窓から首を伸ばすと、隣室の環くんが同じようにして笑っていた。
「寝るとこだった?」
「ううん。どうしたの?」
「上見てみ」
 環くんの指の先には、宝石みたいな満月が一つ。そういえば、月が昇り切ってしまう前に自分の時間を作れるなんて久しぶりだった。
「環くん、時間ある?」
「あ、ある。あるある。おやつ持ってっていい?」
「だめ。代わりにホットミルクを持ってきてあげるから」
 せっかくだからゆっくりお月見をしよう。環くんも似たようなアイディアを思い浮かべていたようなのが嬉しくて、王様プリン一つならいいかな、なんて気分になってしまった。
 窓辺にマグカップ二つとプリンの瓶一つを並べて、改めてひたすら月を眺めた。
「結構昇るのはえーのな」
「そうだね。眠くなる頃には、屋根の上に行ってしまってるかも」
「でも、夜でも明るいのっていいな。なんか安心する」
 月明かりだけを楽しみたいと提案したら、環くんはあっさり了承してくれた。ルームランプの助けがなくても、気を抜いたように目を細める環くんの顔がぼんやり見える。
「なー、俺らが見てる月の光って」
「一.三秒前の光なんだろ」
「うん。そーちゃんも習った?」
「君が話してくれたんだよ」
 ヒリヒリヒリ、僕らの声に虫の音が重なる。環くんが大人しくしていると、この部屋はとても静かだ。
「でもあの光って、太陽の光なんだよな」
「そうだよ。鏡みたいに反射してるんだ」
「月が光ってるわけじゃないんだよな」
 環くんは窓の桟に重ねた腕にもたれかかって、切なそうに、あるいは愛おしそうに瞬きをした。夜風がそよそよと雲を散らし、生乾きで波打つ環くんの髪を、流すように撫でていく。
「小さい頃さ、月ってトクベツなんだと思ってた。昼でも見えるし、星よりでっかいし、星なのに月って名前がついてるし」
 環くんが天体に興味を持っていると知った時、初めは意外だったけれど、考えれば自然なことであるような気もした。もともとこの世で一番の好物が「食べ物」の子だ。物心ついてからもしばらく、食べることの他に意識を向ける余裕がなかったのかもしれない。
 生きることだけで精一杯だった幼い頃、大人にも満足に頼れなかった日々の中で、彼の心を癒し真っ直ぐに支えてくれたのが、夜の闇に輝く月や星だったのだろうか。
「月が欠けるのって、地球の影なんだよな。……太陽の光が届かない時、月は寂しくねえのかな」
「いろんなことを習ったんだね」
 プリンの空き瓶を机に避けて、環くんとの距離を詰めた。冷めたミルクの水面が揺れて、環くんの視線がこちらを向いた。
「あの影もよく見ると、薄明るく光ってるんだよ。地球が反射した太陽の光でね」
「地球も光んの?」
「そうだよ。地球の空で月が光ってるように、月の空ではちゃんと地球が光ってるんだ」
「そっか……」
 こく、と喉を鳴らして、環くんがミルクを飲み干した。そろそろいい時間だ。おかわりはいらないだろう。
「寂しくなくなった?」
「……うん」
「よかった」
 僕も遅れてマグカップを空にして、環くんの肩を叩いた。環くんはしぶしぶながらも立ち上がって、ちゃんと洗面所までついて来た。歯磨きをして、隠れて軽くキスをして、特に話し合うでもなく、僕の部屋へ二人で戻る。
「窓閉めなきゃダメだよな」
「うん。喉を痛めてしまうからね」
「ちっちゃい電気つけてもいい?」
「いいけど、君が寝たら消すからね」
 いったんは絞った明かりを残して、けれどすぐに環くんが起き上がって消した。いいの、と小声で尋ねると、黙って胸に顔を埋めてきた。きっと足が布団からはみ出てる。
「月については、他に何を習ったの?」
「んーと、月のおかげで季節があるとか、朝と夜が分かれてるとか」
「月が少しずつ遠ざかってるって知ってる?」
「何それ。さっき寂しくない話したばっかなのに」
 バカ、と膨れた環くんが結局ランプのスイッチを入れ直す。次のお給料が入ったら、家庭用プラネタリウムでも買おうかな。
「月があるから海が動くし、地軸も傾いているんだけど……」
「ないとめちゃくちゃ荒れるんだろ」
「そう。あることで起きる変化も多いけど、今のほうがバランスを取れてるんだ」
 ちゃんとランプは点いているのに、環くんが僕にしがみつく。このまま眠ってしまったら困るな。いたずら心で首をくすぐると、まんまとこっちを睨んでくれた。
「少し、僕たちみたいかな」
「……そーちゃんって時々ヘンなこと言うよな」
「そう思わない?」
 そうかな、どうだろ、つぶやく環くんの声はいよいよ眠そうだ。環くんを胸に抱えたままじゃランプを消しにくいな、と悩んでいたら、さすがにつま先が冷えたんだろうか、大きな体が枕の真下までずりずりと上がってきた。
「そんなら、太陽はスポットライトだな」
「そうだね。時々曇ってしまう時もあるけど」
「そーちゃんがへこんで閉じこもっちゃう時とかな」
「そんなつもりないけどな……。心配させてるかな?」
「別に、ヤバかったらぶち破ってでもそっち行くし。それに、そこにいるって分かってるから俺はへーきでいられんの」
 そーちゃんもそう思わない? 環くんが滅多に見れない上目遣いで僕の顔を覗き込む。
「あ、でも壁壊すのとかはやめろよな」
「人聞きが悪いな……。非常事態でもない限りしないよ」
「非常事態だって判断したらするんだろ」
「君だって壁に穴を空けたことあるくせに」
「ずりーぞ、そういうの」
いつもの調子で言い返す代わりに、それこそ月みたいに白い環くんのおでこに唇を押し当てて、今日はそろそろおやすみ、と告げた。ヒートアップしかけていた環くんの息遣いが、ふっと緩やかさを取り戻す。
「なあ、離れないようにはできねーの」
「どうかな。きっと研究中だよ。いつか力が釣り合って、収まるっていう説もある」
「それなら、いいな……。けんきゅーも頑張る」
 ほわあっと大あくびをして閉じたまぶたから、涙がきらっと一滴こぼれた。それも同じく唇で拭って、僕も呼吸を深くする。
 僕たちはアイドルであって、アーティストじゃない。たくさんの力を借りなければ、輝くことはできないのかもしれない。今いる場所で回り続けるたびに、互いの距離は開いていくのかもしれないし、いつか離れ離れになるのかもしれない。
 それでも、どちらかが己の軌道を外れるまで、互いの姿を見つめていられる。その最後の一瞬まで、心を優しく揺らしてほしい。