043 あかぎれ

 真冬のホームって、どうしてこんなに寒々しく感じるんだろう。
「電車で三十分くらいだったよね。近いようで遠いから、寝過ごさないようにね。そこからはどのくらい歩くんだっけ、寒いからちゃんと手袋を……」
「あーもー、うっさい。初めて行くんじゃねえんだから」
 荷物あんがと、と環くんは僕から手土産のお菓子を受け取り、電光掲示板を見上げながら白い息を吐いた。電車が来るまであと七分。長くはないが短くもない微妙な時間だ。
「わざわざ入場券買うことなかっただろ」
「迷惑だったならごめんね。一人のほうが落ち着くかな」
「そーいうことを言ってるんじゃなくて」
 見送りの時までケンカになるのか、と落胆しかけたところ、環くんが言い合いの途中でホームの端へと歩き出した。そういうことじゃないと言いつつやっぱり一人のほうがマシだったんだろうか、後ろ姿を見つめることしかできなくなっていたら思いのほかすぐに戻ってきて、熱い缶コーヒーを手渡された。
「お礼。入場券ぶんの。なんかちょっとイイやつ」
「あ、ありがとう……」
「ちゃんとそれ、好き?」
 僕の顔を覗き込んだ瞳は怒ってはいないようだった。距離の近さに慄きつつもなんとか頷くと、環くんはよかった、と笑ってまた背筋を伸ばした。もうなんの言葉も継げなかった。開けるのがもったいなくて抱え込んだスチール缶が、どんどん冷えていくのが手袋越しにも分かる。
「そーちゃんも来る?」
「えっ」
 あからさまに驚いたような声が出て、環くんも少し目を丸くしていた。
「あー、うーんと、そーちゃん来たことないじゃん、皆は結構来てるけど」
 確かに陸くんやナギくん、三月さんにも話は聞いていた。環くんの暮らしていた施設を訪問して、子供たちと一緒に遊んだって。僕もいつかご挨拶に行かせてほしいと話題に出してはいた。けれど実際いつにするか、きちんと計画を立ててはいなかった。
「今日は家族水入らずで楽しんできなよ」
「いつもミズイラズ? だと思うけど」
「ちゃんと準備して行きたいからね。ほら、電車が来るよ」
 パァン、と警笛が鳴って、環くんのフードが翻った。乱れた髪を直してそれをもう一度かぶせてやって、乗り遅れないようにと大きな体を叩いて急かす。
「園長先生によろしくお伝えください」
「そーちゃんのばか」
 扉が閉まる間際、理不尽な悪態をつかれた気もするけれど、ともかく無事に出発してくれたからよかった。寮に住み始めて間もない頃は、寝坊したり、お土産をトイレに忘れて来られたりで散々だったから。
 思えば出会ってからの半年間、色々あったし、それだけに彼も成長した。そんなことを考え始めたら、ポケットにしまい込んだ入場券を出すのが億劫になって、なんとなくホームのベンチに腰掛けた。当然だがものすごく冷たい。それに比べたら、受け取ってだいぶ経つ缶コーヒーなんかまだまだ温かくて、ようやくプルタブを起こす気になった。
 結局、環くんから「ちゃんと降りた」とラビチャが来るまで三十分、何をするでもなくその場に居座ってしまった。これから何度こんな日がやってくるのだろうか、そう思うと、ただ「気を付けてね」と返信するだけの指さえ重たかった。

「園のやつ、そーちゃん好きだってよ」
「好き? って?」
「ガッコーで友達に雑誌見してもらったって。キャーキャーゆってた」
 その日のうちに寮へ帰ってきた環くんは、ガキなのになー、なんて言いながら口元を緩ませていた。環くんだってまだ高校生なのに、子供たちの話をする時はやっぱり「お兄さん」の顔をするから可愛い。僕は洗い物をしながら環くんの話をうんうんと聞いていた。環くんがリビングに一人残っている理由はなんとなく察していた。
「なあ、いつなら遊びに行ける? あいつら、会いたいって」
「後で予定を確認してみるよ」
「さっきした。再来週オフあんだろ、行ける?」
「ええと、やることを少し整頓しないと……」
 手からコップが滑り落ちて、ゴト、とシンクの底を鳴らした。少しよそ見をしすぎた。手元に視線を移すと、遅れてそこに大きな影が落ちる。
「割れた?」
「大丈夫だよ」
 実際に大丈夫だったのに、環くんは見張りでもしているかのように、僕の横から動かない。沈黙を貫くのにもいい加減無理が出てきた。僕は彼のことになるとどうにも辛抱がきかない気がする。
「あのね、行きたくないわけじゃないんだ。誤解しないでほしい」
「……うん」
 僕を見つめ返した環くんの目は、心なしか寂しそうではあったけれど、特別不思議そうではなかった。分かってくれ、というのはわがままかもしれないが、大切なことだから嘘はつきたくなくて、一生懸命に言葉を選んだ。
「小さい子と遊ぶの、得意じゃないんだよ」
「うん。そーかなとは思った」
「練習するものでもないから、気に病んだって仕方がないのは分かっているんだけど」
 洗い物を終えて水を止めると、不意に右手を取られた。小指が見えるように裏返されて、よく観察すると、付け根にあかぎれができていた。
「朝なかったよな」
「よく見てるね。今日は寒かったから」
「手袋してたのに」
「そうだね……長居しすぎたかな」
 支障が出るような撮影はあったかな、と空でスケジュールを確認していたら、そのまま右腕を掴まれて、僕の部屋まで引っ立てられた。さっさと手当てしろということだ。素直に軟膏を塗り込むと、環くんが絆創膏の台紙を剥がして渡してくれた。
「どんくらいいたの」
 問いながら優しく患部をさすられて、じんわりと痛いはずなのに胸の奥の何かが癒えた。仮に寄り道をしただけだよと言ったって彼には分からないのに、僕はどうして、いつから、自分のことをごまかせなくなったんだろう。
「君がラビチャをくれるまでかな」
「そっか」
 うつむいた僕の頭を大きな手がよしよしと撫でる。僕は寂しいわけではないし、慰められるような思いもない。環くんのこの動作だって、妹を持つ彼にとって一番慣れたものだから自然に出てきたというだけだろう。とり立てて何か起こっているわけじゃない。強いて何が問題かといえば、僕がうっかりあかぎれをこさえてしまったことくらいだ。
「あ、でも……」
「うん?」
「コーヒー、温かかったよ。ありがとう」
「おー」
 味とかよく分かんねえから適当にボタン押したけど、と環くんが茶化す。それなら安心かな、と僕はこっそり胸を撫で下ろす。――机の端に飾った空き缶が、彼に見つかりませんように。そして、見つかる前に、彼の故郷を訪れる決意を固められますように。