038 観覧車

 そーちゃんが出がけに言ってたとおり、海辺の街は日が暮れかけると、木枯らしがいっそう冷たかった。コートのボタンを全部閉めたそーちゃんが、めずらしく肩を縮こまらせて帰りたそうにしていたけれど、俺の目に飛び込んできた景色は、そんなことを一瞬で忘れさせてしまった。
「そーちゃん! 見て、光った、虹色!」
 大きな観覧車の真ん中から花が開くように、色とりどりのライトが瞬いては消えた。夏の仕事の帰り道に見た花火みたいだ。
「あんな光る観覧車見たことない」
「本当? 乗ってみる?」
「え」
 いーの? と訊く前に顔に出ていたのかもしれない。そーちゃんが、行こうか、と笑ってくれた。いいのかな、寒そうだったのに。
 街中に造られた遊園地は見た目以上にごちゃごちゃしていて、道順なんかまったく分からないまま、導かれるままにそーちゃんについて行く。やがて入場券の販売機にたどり着いて、そーちゃんが二人分のお金を出してくれて、カップルや家族連ればかりが集っている待機列に、変装フル装備で加わった。
「お金あんがと」
「いいえ。僕が言い出したことだからね」
「でも、十五分ぽっちなのに高ぇのな」
「そう? 乗れば納得するよ」
 王様プリンみっつくらいは買えそうだったな。みっつもあったら、俺は一時間はもたせる自信がある。プリンのことばかり考えていたら、平日だからだろうか、思いのほかすぐに順番が来た。
 記念撮影のサービスをそーちゃんはテイチョーに断っていた。ちょっと残念だったけれど、帽子にマスクにダテ眼鏡で写るのも、確かに怪しいか。
「そ、そーちゃん。ちょー動いてんだけど。どうやって乗んの」
「エスカレーターと一緒だよ」
「おおおおおお」
 ヨコに動くエスカレーターになんか乗ったことないし。乗り場で右足を上げるだけ上げてよろよろしていたら、ゴンドラがすーっと昇っていってしまって、そーちゃんにもスタッフさんにも笑われた。
「……っ、くく、運動神経は抜群なのにどうして乗れないの」
「うっせー! こんなん初めてだし!」
「しょうがないなあ……」
 容赦なくやって来た次のゴンドラに、先にそーちゃんが乗り込んで、ほら、と右手を差し出してくれた。これでそーちゃんだけ上に行ってしまったらサイアクすぎる。なんとか手をつないで、片足だけでもと必死に足を伸ばしたら、そーちゃんがぐいっと引っ張ってくれて、後の足もちゃんと地面を離れた。
「うおー。上がるのはえー」
「低いと余計にそう感じるよね」
 乗ろうと言い出したくせにそーちゃんの感動は薄い。乗り慣れてるんだろうか、思い出を聞いてみたかったけれど、話し始める前に、クリスマスツリーみたいなビルの明かりが窓を輝かせた。
「わっ、……きれい」
「きれいだね」
 二人きりだから変装はオフにした。いつもは紫色をしているそーちゃんの瞳も、夜景を映していろんな色に光ってる。けれど、向かいに座って横顔ばかりを見ていたら、二人きりの割にイスが離れていることに気付いて、もっとくっつきたくなった。
「並んで座ったら危ねえかな」
「大丈夫だと思うよ」
「でも、ちょー傾くと思う」
「君、存外値が張るって言ってただろ。それだけ丈夫に造ってあるんだよ」
 そうなのか。よく分からないけど、隣に行きたいから信じることにした。海の方角に膝を向けたそーちゃんの後ろに、揺らさないよう用心深く腰を下ろす。腕をそーちゃんのお腹に回すと、二人の太ももがコートを挟んでひたりと触れた。
「外見えるかい?」
「そーちゃん肩低いからへーき」
「そう」
 こちらを振り向きもせず相づちで終わらせたそーちゃんに、体格の話は禁句だったかな、と舌を出した。そうしている間にもどんどん街が遠ざかって、空に二人きりとなる瞬間が近づく。
「てっぺんっていつ?」
「この鉄骨が垂直になった時だよ」
 そうか、見逃さないようにしておかなくちゃ。俺は景色をそっちのけにして、お昼のチャイムを待つみたいに、時計の針のような鉄の棒に意識を集めた。もうちょっと、もうちょっと、さん、に、いち。
「環くん」
 そーちゃんがふっと振り向いて、唇と唇がくっついた。木枯らしで乾燥していたはずなのに、ちゅ、と可愛い音がした。
「……えっ」
 そーちゃんがキスした。そう理解する頃には、そーちゃんはもう海を見ていた。俺の腕の下にある、細い手首が震えてる。
「そ、そーちゃん」
「ん」
「こっち向いて」
「今景色見てるから」
 左の肩越しに顔を覗き込むと、頬に触れた小さな耳が熱かった。そーちゃんはぎゅっと目をつむっている。景色なんか全然見てないじゃん。
「そー、ちゃん」
 右手を柔らかなほっぺたに移して、首をゆっくりこちらに向かせる。鼻先が触れる距離まで近づくと、そーちゃんは観念したのかわずかにまぶたを開いた。濡れたところをそっと食むと、そーちゃんの左手が俺の胸をさまよう。
「……っ、ん、ぁっ」
 息が漏れた隙を逃さず、舌を伸ばして同じものを探った。一度吸い付けば頑なさは解けて、胸の左手が背中に回る。そーちゃんの背はもう夜景に向いてる。地上に帰るまでの残り数分、「二人きり」を味わい尽くしたい。
「べろ出して」
「っ、ん」
「出してって」
「ぅ……」
 窓に追い詰めて、それを捕らえて、裏側をなぞるとそーちゃんが跳ねた。縮こまられても深追いはせず、歯茎をつたって唾液を舐めとり、口角の際を小刻みにくすぐる。
「ぁ、ん……、っや」
「や?」
「……や、だ」
 はあっと熱く息をついて、そーちゃんの顔が肩に逃れた。コート着てるから大丈夫、とか、言ったらそういう問題じゃないって怒られるかな。
「ごめんー」
 俺に突っ伏してしまったそーちゃんの頭を、あやすみたいにふわふわ撫でる。そーちゃんは俺にしがみついてこそいるけど、顔を上げてくれそうな気配はない。
「機嫌直してって」
「……」
「もうすぐ着くよ」
 ほら、とコートのポケットを叩く。そろそろ変装し直さないとまずい。そうでなくともそーちゃんの表情がまずい。半分は俺のせいなんだけど。
 しぶしぶ顔を上げたそーちゃんは、恥ずかしいのと拗ねてるのと、気持ちいいのと弱ってるのと、いろんな思いがごちゃごちゃになってるようで、なんだかものすごく可愛かった。キスだけで瞳が潤んじゃうなんて、こんなそーちゃん、初めて見た。
「……先降りて」
「え、自信ねえんだけど」
「知らない。先行って」
「ハイ」
 扉が開くと同時に気合いで飛び降りて、そーちゃんが乗る時にしてくれたみたいに手を差し出したら、意外にちゃんと取ってくれた。うつむくそーちゃんの具合が悪いふりをして、そのまま手をつないで出口へ向かう。風は乗る前よりも冷たくなかった。
「ちょー楽しかったー。また乗りてえな」
 黙ったまんまのそーちゃんは、当分ごめんだって思ってるのかな。そーちゃんは忘れてるのかもしんないけど、仕掛けてきたのはそーちゃんなんだからな。そういうことを口に出さずに呑み込めるようになった俺は、少しずつオトナになってきてると思う。
「えーと、駅は」
「あっち」
「あっち? そーだっけ?」
 急に早足になったそーちゃんが、まごつく俺の手を一生懸命引いて、見覚えのあるビルの脇をずんずん通り過ぎていく。そういえば、明日の仕事の予定はなんだったっけ? 相変わらず俺のこーいうところは成長しないし、どのみち訊くのもヤボだと思った。
 今夜はもうちょっといじめてやろ。