035 エレベーター

 今日の一番最初の仕事は、地方の出版社の会議室にて。例えば五階まで行くのにわざわざ階段は使わないけれど、あまり大きくないビルの狭いエレベーターが、僕はあんまり得意じゃない。寮で暮らすようになって気付いたことだが、僕のパーソナルスペースはどうやら他人より広いらしい。だからだろうと思ってはいるけれど、不思議なのは、四、五人で気を遣い合いながら乗っている時より、環くんと二人きりで乗っている時のほうが、なんだかストレスを感じるという点だ。
「慣れる?」
「へ?」
 いきなり意味不明な言葉を吐かれるなり、ちゅ、と口をつけられた。思わず隅に飛び退くと、小さな箱がガタッと揺れる。
「暴れると止まんよ」
「だ、だ、だって、君が」
「だってあんたいつまで経っても……」
 会話の途中でピンポーンとベルが鳴る。目的の階で扉が開いた。控えていた社員さんに奥へ案内されて、赤い顔をどうにかする間もなく、予定していたインタビューが始まる。悔しいことに環くんは涼しい顔をしてる。時々言葉に詰まる僕に、何度か助け舟まで出してくれた。
「そーちゃん、今日ボロボロだったな」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
 予定通りに仕事を終えて、小声で環くんと言い争う。そうしているうちにエレベーターが到着する。無人のそれに乗り込むと、なぜか途端に会話が終わる。下りくらい階段を使えばよかった。
「そーちゃん」
「ん」
 ちゅっ。また環くんに口づけられた。恥ずかしさよりも訝しさが勝って、真顔で環くんの顔を見つめてしまう。
「慣れた?」
「慣れたって……何が」
 またしても話し終わる前に扉が開いた。ぼけっとしている僕を置いて、環くんはどんどん歩き出す。その後の仕事でも同じことが続いた。地方テレビ局での番組収録、本日二社目の雑誌のインタビュー、駅前のデパートでのトークイベント。
 日が暮れると風が冷たくて、手をつなげたらなあと思いながら手袋をはめた。環くんも人肌恋しい季節なんだろうか。次のオフはいつだったかなと思い出しながら、車のない裏通りの信号を律儀に待つ。
「そーちゃん」
「なに……、んっ」
 油断していた。まさか表でされるとは。
「ばか、誰かに見られたらどうするんだっ」
「マスクの上からだし別にいいじゃん」
「マスクの上でもキスはキス!」
「なんのための変装だって言ってんの」
 寒露の空気に顔中が火照る。そういえば今日のいつか、慣れたかって尋ねられたような気がするけれど、不意打ちでされるものに慣れるも何もあるはずがない。動揺を鎮められない僕に、環くんが見かねたように口を開いた。
「そーちゃんがキンチョーしてる時って、準備ができない時っていうか、何が起こるか分かんない時だろ。だったら実際いつも何かしてやれば、ちょっとは気が楽になるかと思って」
「そ、そんな気遣いいらないよ」
「でも今日の夕方になる頃には、エレベーター苦手じゃなくなってたろ」
 そりゃ、キスするのかなって考えてたら、それだけに意識が集中する。そう思い至ったところで環くんの作戦の成功に気付いて、余計に居たたまれなくなった。
「そーちゃん、赤信号」
「もう青になる」
「えー、危ねえの……」
 だって、されるようになる前も、されるようになった後も、たぶん考えていたことは大して変わらない。それだけは絶対に悟られないよう、寒い肩を我慢して、寮までの乾いた歩道を走った。