030 猫

 橋のたもとを横切ったところで、にゃーんと可愛らしい声がした。
「お。猫」
「本当? どこ?」
 近所ではあまり見ないからか、そーちゃんも興味津々に首を伸ばす。ほこりで少し白茶けた黒猫を指差すと、そーちゃんはわあ、と声を上げて俺よりも先にその場にしゃがんだ。隣に並んでちちち、と舌を鳴らすと、しなやかな背が川辺の草むらをかき分けて寄ってくる。手始めにあごを掻いてやろうとしたら、気に入らなかったのか額を擦り付けられた。
「環くんってやっぱり猫に似てるよね」
「そんなに?」
「うん」
 気まぐれだけれど自分の気持ちには正直なところとか、自由奔放でどこへでも行けそうなところとか。聞けば聞くほどそーちゃんとは正反対の「俺の印象」が飛び出してくる。実際にそうかなんて自分じゃよく分からないけれど、そーちゃんと正反対だとは思うのだから、少なからず俺に当てはまるんだろう。
「時々何を考えているのか分からないところとか」
「そお? ヤマさんとかみっきーとかは、俺のこと分かりやすいってよく言うけど。いおりんにも言われんな」
 あんたがドンカンなだけじゃねえの、と返すと、そーちゃんは黙り込んでしまった。つまらなかったんだろうか、ムカついたんだろうか、表情を強張らせた横顔からは何も察せない。仕方ないので猫に集中する。親指で頭をこすってやると、目をうっとりと細めて気持ちよさそうだ。
「砂だらけだけどあったけーな。日向ぼっこしてた? ん?」
 いいな、俺も昼寝してえな、冗談を言うと黒猫がみゃあと相槌を打った。置いてけぼりになっているそーちゃんを振り返ると、そーちゃんのほうこそ何を考えているんだろうか、俺の顔をじっと見ていた。目が合うとぱっと逸らされて、そーちゃんのほうこそ猫みたいだ。
「そーちゃんも撫でてみる?」
「えっ」
 いいよ、と動きかけた唇がふっと緩んで、細い喉が好奇心をなだめるみたいに鳴った。そーちゃんがおそるおそる右手を伸ばす。途端、黒猫はニャッと叫んで、そーちゃんに鋭いパンチを繰り出した。
「わっ」
「あー、無理に手ぇ引くから」
 猫に引っ掻かれるのは初めてだったんだろうか、そーちゃんは目を丸くして、ぽかんと口を開けていた。対する猫は悪びれもせず、俺のすねに擦り寄ってくる。
「そーちゃん、見せて」
 逃げ切れなかった中指の背から見事に血が出ていた。大した傷じゃないけれど、放っておくと痒くなるから可哀想だ。そーちゃんが傷薬とバンソーコーを持ってたはずだ。そーちゃんは利き手のほうをケガしてたから、俺がカバンの中を探った。
 そーちゃんの荷物はきっちり整頓されているけれど、念のためといろんなものを持ち歩いているから、目的のものはかえって見付けにくい。そうしている間にも猫はごろごろと喉を鳴らして俺の手をねだってくる。
「俺、そーちゃんの手当てすっから。今日はまたな」
 猫はしばらく体を押し付けたり、ズボンにパリパリと爪を立てたりしていたけれど、やがて諦めたのか尻尾を揺らして、土手のほうへと帰っていった。
「環くんにはなついたのに」
「目合わせちゃだめなんだって。ケンカ売られてるって思うんだってさ。あ、あった」
 ようやく救急セットを探し当ててそーちゃんに向き直ると、そーちゃんはまたこっちを見つめていた。けれど今度は目を逸らされることはなくて、俺はしばらく首を傾げた。
「……あ」
 俺が声を上げるとそーちゃんの肩がぴくっと揺れる。そーちゃんのほうこそ何を考えているのか分からないから、確かめたいことはちゃんと尋ねる。
「ケンカ売りたいの?」
「……だって」
 唇を尖らせたそーちゃんがうつむいて、癖毛も同じように傾いた。それを見ながら言葉を待てば、そーちゃんはちゃんと説明してくれる。
「環くんが猫ばっかり撫でるから」
「撫でてほしいなら言えばいいじゃん」
「撫でてほしいわけじゃない」
 低い声は拗ねているようにも聞こえる。そーちゃんは再び顔を上げ、細い指を俺に突きつけると、ガラス玉みたいな眼をすっと細めた。
「引っかいて。噛んで」
 挑戦的な態度を取られると、受けて立たないわけにはいかなくなる。言われたとおりそーちゃんの手を掬い上げて、猫にやられた指先を唇で食んでやった。
「意地っ張り。引っかいたり噛んだりしたいのはそーちゃんのほうだろ」
 消毒がてら舌を押し当てて、ちゅ、と鉄の味を舐めとる。そーちゃんは身じろぎひとつしないで、俺の口元をずっと見ていた。
 俺にしてみたらそーちゃんのほうが猫みたいだ。自分のテリトリーは譲らないところとか、どんなに心を開いても奥底は絶対に許さないところとか、そのくせ寂しがりで、なのに甘えベタなところとか、考えれば考えるほどそのままじゃんか。
「今晩いっぱい噛んでいーよ」
 軟膏を塗りバンソーコーでフタをしてやると、隙をついてそーちゃんがキスをしてきた。いつもなら外だろって怒るくせに、時々自暴自棄になるから困る。相手してるほうは振り回されっぱなしだけど、でも、悪い気はしないんだよな。一人で苦笑いをかみ殺していると、そーちゃんはそれすら寂しいみたいに、上目遣いで俺を見上げた。