029 風とかざぐるま

 コンコンコン、とドアが鳴った。その前に隣室のドアを開閉する音が聞こえたから、ノックの主は、もう誰だか分かっているんだけど。
「そーちゃーん、かざぐるま壊れた」
 分かっているんだけど、用件はいつも予想を外す。少し間を置いて部屋に侵入してきた大きな手には、プラスチックで作られた、可愛らしい水色のプロペラが収まっていた。
「入っていい?」
「もう入ってるようなものだろ。どうぞ」
「んー」
 もう片方の手には、持ち手の部分なのだろう、ストロー状の棒が一つ。プロペラが小さいからか、環くんが勢い余って握りでもしたら本当に壊してしまいそうな細さだ。本人もそれを分かっているのか、指でそっとつまむように包んでいる。
「かざぐるまなんて久々に見たな」
「直る? これ部品」
「うーん……ちょっと待ってね」
 ひとまず環くんをベッドに座らせ、机の引出しの最下層を開ける。普段あまり使わないツールの類は、まとめてここに入れてある。
「留め具が外れてしまったんだね」
「な、なんでペンチなんて持ってんの」
「オーディオの調子が悪かった時、万理さんに借りたのが使いやすかったから買ったんだよ」
「修理にペンチなんて使う……?」
 今度修理する時君を呼ぼうか、そう問いかけると無言で首を振られた。何を想像しているんだか。
 潰さないよう用心しながらプロペラの形を整えて、持ち手となる筒の先に当てがう。留め具の針金を伸ばして通し、丸い銀色のビーズを重ねてから、針金の先をペンチで巻いて固定した。首となる部分を曲げて傾け、試しにふうっと息を吹きかけると、喜ばしげにくるくると回って、まるで踊っている時の環くんみたいだ。
「はい、直った」
「すげー。ありがと」
 受け取った環くんは、僕より長くプロペラを回した。飽きることなくそうしているので、見ているこっちが息切れしそうだ。
「かざぐるま、好きなの?」
「……好きっつーか……」
 話しかけると、環くんはそれに構うのをやめて、僕の声に耳を傾ける。視線は手の先に落とされたまま、空から掬い上げたような色のプロペラを見つめている。
「いーなとは思う。ゲームのデータと違って消えないし、シャボン玉と違って元通りにできるし」
 環くんがごろん、と仰向けになる。音響機器が傷むからと窓を閉め切っている僕の部屋には、一切の風もそよぐことはない。
「風ってなんで吹くんだっけ」
「ええと、気圧の高低差が」
「やっぱいい。わからん。人がいなくても吹く?」
「……吹くと思うよ」
「そっか」
 じゃあ壊れないようにそっと立てておけば、ずっと回ってんだな。言いながら、環くんは身を起こした。一瞬、かざぐるまに口づけたようにも見えたけれど、風の行方に心を飛ばしていた僕には、本当のところは分からない。
 その日、夜が更けないうちに僕の部屋を再びノックした環くんは、既にお風呂に入った後で、王様プリンのパジャマに身を包んでいた。
「まだ服着てたんかよ。忙しいの?」
「大丈夫だよ。やっぱり壊れちゃった?」
「ううん。窓が開かない」
「ああ」
 ピンときた。カーテンの開閉を忘れがちな環くんも、もともと窓を開けたがらない。恐らく鍵のストッパーの仕組みが分からないのだ。隣室へ移り望みの通りにすると、環くんは王様プリンの空き瓶にかざぐるまを差し、夜風の入り口にそれを据えた。暗がりに浮いた空色が、命を得るように回り出す。
「……本当は、あまり好きじゃないんだろう」
 前置きもなく指摘すると、くせ毛のしょげた頭がこちらを見ないままゆっくりと頷いた。
「俺が何かしなくても大丈夫なところがやだ。でも、そのほうがいいんだろーな」
 カラカラカラ、プロペラが時折強く揺れて、笑うような音を鳴らす。金属でできた機械とは違ってとてもシンプルな作りのおもちゃだから、バラバラになるほんの手前まで、おかしな声は立てないだろう。
「『君がいなくても大丈夫なもの』は、いつか君を支えてくれるよ」
「……そうかな」
「大丈夫だよ。君のそばにいなくても、君を置いていったりなんかしない」
 今日まで環くんを導き続けた、小さな女の子を思い出す。彼女が環くんのもとから旅立つことを、環くんも受け入れなくてはいけない。
「俺が置いていかなきゃいけなくなったら?」
 ようやく僕を見た瞳は揺れてはいなかった。まだ十七歳の彼もまた、たくさんの別れを知らなくちゃいけない。その覚悟を決めさせたのは他でもない、彼の心を最も痛めた「別れ」そのものだ。
「もし、その時が来たら……」
「来たら?」
「……僕は、心の中で、ずっと覚えていて、誰にも傷つけさせない」
 仮初めの凪が訪れて静寂が走る。月みたいにまん丸な虹彩が僕の目の前で光っている。
「それは、おじさんのこと?」
 あどけない問いに、笑顔を返せた。
「どうだろうね」
「ごまかしてどーすんだよ」
「ごまかしてないよ」
 今夜はおやすみ、流れ始めた風に背を向けて、環くんの部屋を後にした。一緒に、と言っても悪くない空気ではあったけれど、今日は閉め切った自室で息を止めるように眠りたい。
 扉を閉ざしてもなお、カラカラカラ、と軽やかな音色が脳裏にこだまする。布団に潜り込んで照明を落とす直前、振り切れなかった思いが言葉になった。――君は、僕のことをそんなふうにしてくれる?