027 この星の水

 水平線を抱く空が、君の瞳と同じまばゆさで光ってる。そんなことに気付いたら炎天下に出るのも悪くないかと思えて、腕を引かれるがまま波間をかき分け、まるで二人きりというところまで来てしまった。
「ちょ……ちょっと」
「んー?」
 止まってくれ、と呼びかける前に藍色の水面が大きく揺らめいて、僕を頭から飲み込んだ。
「わぷっ……ちょっと、環く……んぶっ」
「はは、そーちゃん、髪の毛寝てる」
「……っ、笑い事じゃない! 君はどうして足が届くの!?」
「背伸びしてっから」
「僕だってしてるよ!」
 姿勢を安定させようと脚をバタつかせてみるが、つま先は冷たい空間を切るばかりだ。そうしている間にも、環くんは後ろ向きにゆっくりと歩を進める。僕は環くんに捕らえられた腕を頼りに、胴を浮かせるしかなくなってくる。
「そーちゃん、身長いくつだっけ」
「最後に測った時は一七五センチだったけど……」
「ほー。俺、春に測ったら一八三だった。にー、いち、ぜろ、きゅー……」
「八センチだよ」
「……八センチってどんぐらい?」
 僕の跳ねた髪の二倍の高さ。環くんの頭頂部から眠たそうなまぶたの辺りまで。MEZZO”でのグラビア撮影のために覚えた、いくつかの物差しが頭に浮かぶ。
「ええと、親指と人差し指を開いて、ちょうどその半分くらいかな」
「ほー」
「わっ……、いきなり離さないでくれ!」
 支えられていた腕の片方を放り出されてバランスを崩した僕は、とっさに環くんの肩にしがみついた。水が苦手なわけでもないし、泳いで帰れないわけでもないけど、ここに留まったままでいるなら、頼れるのは環くんしかいない。
「そーちゃんが指見てって言ったんじゃん」
「見てとは言ってないよ!」
「見てって言ったようなもんじゃん!」
 慣れない事態につい声がどんどん大きくなる。それに従って環くんの鼻息も荒くなってきた。怒らせただろうかと我に返った時には、環くんは既に背中を向け始めていた。このまま置いていかれるのかと思ったが――環くんは僕の体を、波のゆらめきに乗せるようにすいっと引いて、その背に負った。
「文句言うなら自分で掴まってろよ、ほら」
 繋ぎ止めてもらっていた腕を、厚い肩の向こうで解放された。そのまま環くんの首元に絡めると、僕の背が波間に浮き上がった。
「環くん、もしかして……環くんも足、ついてない?」
 嫌な予感がした。環くんの体がせわしなく、波よりも速いリズムで揺れている。
「水蹴ってれば沈まねえよ」
「け、蹴る……!? どうやってっ……だいたい足が攣りでもしたら」
「あーもー、そーちゃんヒステリックすぎ。もしかして海怖い?」
「そういう問題じゃない! 僕は危機管理意識の話を」
「分かった分かった。やってみりゃ分かっから」
 環くんが体を再び反転させて、僕と向き合う形になる。反論の言葉を考えている間に、ほれ、と今度こそ水底へ放り出された。おかげで息を吸うのが遅れた。しまった、と後悔したことで、逆に脳天がいくらか冷えた。
 ネイビーブルーの波の下は想像以上に無防備で、余すことなく差す陽光のおかげで、ぼんやりと青白く明るかった。環くんの脚の動きも、幸いはっきりと確認できる。しかし自分の持てる知識で表現できるようなそれではない。基本的な泳ぎ方は学んでいたつもりだったが、直立した姿勢のままだと、そのどれを組み合わせても頭が海面に出ることはなかった。
 空気を蓄え損ねた僕の体はゆっくりと沈んで、やがてつま先が砂地に触れた。辺りを見渡せば果てはやはりどこも薄暗かったが、次第に体温と調和していく水の冷たさも、絶えず泡が湧き起こる音も、人の体液に似た潮の辛さも、慣れれば心地よく僕を安らがせた。
 当然といえば当然なのだけれど、ぼんやりとしていたら不意に脇を掴まれ、体が急激に上昇した。突然照明を点けられたようなまぶしさに思わず目をつむる。飛んでくるのは怒号だろうなとしばらく瞑目していたら、冷えた肩を温いものが包んだ。
「びびらせんなよ……」
 思いのほか弱った声にまぶたを開くと、酸欠で頭がぼうっとした。息が切れたのに伴って胸もどくどくと足を速めていたが、触れた環くんの同じ場所も、同じリズムで拍動している。そんなに驚くなら初めからしなきゃいいのに。
 抱き締められて気付いたけれど、いつの間にか環くんだけつま先の届く、絶妙な場所に引き戻されていた。雫が転がる腕の中で、僕の体がゆっくりとたゆたう。
「環くん」
「なんだよ」
「怒るなよ。海の中も気持ちよかったよ」
「ええ……? しょっぱいだけじゃねえの」
「僕を落っことしたくせによく言うよね……」
 行こうよ、と合図するつもりで環くんの胸を離す。むすっとしたまま動いてくれなかったから、沖のほうへと水を掻きながら、力の抜けた手を引っ張った。そのままとぷん、と頭の先まで沈めば、環くんもついて来てくれる。天国みたいな淡い光の中で、よく似た色の長髪がふわっと翻った。
 口づけたのは、どちらともなくだった。前からここに住んでた生き物みたいにぷくぷくと泡を吐きながら、冷たいのか温いのかも分からない唇を慎重に捕らえ合った。波に揺られて狙いが定まらないのがもどかしい。先にしびれを切らしたのは案の定環くんで、僕の首の後ろを両手で掬い上げると、何かを伝えるように、あるいは受け取るように、らしくないほど丁寧にやわらかな皮膚をついばんだ。
「……ぷはっ、はあ、そーちゃん、すげえ」
 限界まで触れ合って一緒に砂を蹴った。冷えた吐息がはふ、とぶつかる。
「綺麗だろ。目は痛くない?」
「へーき、なあそれより、生き物が海から生まれたって本当かも」
「はは、どうして?」
 突拍子のない物言いに反射的に笑ったら、環くんがまた唇を尖らせた。そうだね、と言えるまでには時間がかかりそうだけれど、たぶん僕も同じことを考えてる。
「もっかい潜れば分かんだろ」
 早く、とめずらしく環くんが急かす。言われるがまま僕は深く息を吸う。今度は、一足先に準備を済ませた環くんが、波の下で僕を待っていた。
 手をつないで、腕をたどり、胸を重ねて、互いの体の入口をそっと合わせる。この星の有する水という水が僕たちの間に満ち満ちて、一切の隙間を許さない。波に揺られてしまうのも、慣れれば二人同じリズムを刻めるようになって、まるで今この瞬間だけ、僕たちが一つになったみたいだった。