025 笑顔の魔法

「ただい……、……?」
 寮の扉を開けたら、環くんがテレビの前のソファで割り箸をかじっていた。しかも縦じゃなくて横。一体何があったんだ。
「ほはえいー、ほーはん」
「咥えたまま歩かないで! 危ないだろ!」
「ほー、……確かにそうな」
 長いことそうしてたんだろうか、環くんの唇の両端が、擦れて赤くなっている。
「ヘンな痕がついたらどうするんだよ」
「そーちゃん、ほっぺマッサージして」
「ええ……? はいはい」
 仕事を終えた後だからか判断力が鈍っている。玄関先で立ったまま、桃饅頭みたいな頬を包み込んでぐにぐにと揉むと、強張った筋肉と一緒に環くんの表情も和らいでいく。
「あー、気持ちい」
「なんだってわざわざあんなこと……」
「練習してた」
「練習? 一発芸でもやるの?」
「ちっがう。笑顔の」
 環くんは唇を尖らせるや否や、さっき割り箸を咥えていた時のように、口をいーっとして見せた。そういえば、本人の無秩序な行動に反して綺麗に並んだ白い歯を、食事の時以外にあまり見たことがない。
「今度の二時間ドラマの役、キャラがちげーってわけじゃねえんだけど、笑うシーン多くて」
「主人公の先輩役だよね。飄々としてるけれど面倒見が良くて、君にぴったりだと思うよ」
「そーかなあ。でもなんか、上手くいかない。顔が違うって」
 そこまで言われたのか。改めて環くんと目を合わせると、いつもより元気がない。
 環くんは他のメンバーに比べて無口だし、ただ人前だという理由だけでにこにこしているような性格でもない。きっと表情筋が人より弱いのだ。
「でも、顔に傷がついたら困るよ」
「じゃーどーすりゃいいの。自力で一人で笑ってんのしんどいんだもん」
「僕も付き合おうか」
 試しに口をいーっとして見せると、環くんは目をぱちくりとしてから、また悩むように首を傾げた。
「かわいくていーけど、そーちゃんは楽しくもないのに笑うのやめて」
「そんなこと……、うん? かわいい?」
「あー、なんかいい方法ねえかな」
 今夜の環くんはいつも以上に話を聞かない。僕を置いてのそのそとソファへ戻ると、仕方なさそうにまたいーいー言っている。トレーニングとしては理にかなっているし、割り箸を噛むよりはずっといいと思うけれど、これで笑顔に苦手意識が芽生えでもしたら大変だ。
「環く……、あ」
 後先考えず呼びかけたところでピンときた。
「……た、ま、き」
「なに?」
「たー、まー、き」
 唱えながら靴を脱いで共用スペースに上がると、顔を引きつらせた環くんが怯えたように少し身を退く。ちょっと不気味だったかな。
「な、なになに。怒ってんの」
「たまき、って言ってみて」
「た、たまき? なに? なんで笑ってんの、そーちゃん」
「イ段の言葉だよ、環くん」
 環くんはきょとんとしながら、小さくまた、い、と頬を引き延ばした。次いで合点のいった唇がゆるゆると開いて、音を出さずに「たまき」と紡ぐ。
「そーちゃん、もう一回言って」
「うん? た、ま、き」
「もっかい」
「僕は笑っちゃダメなんじゃなかったの」
「もーとっくに笑ってんじゃん」
 やっぱりそうか。我ながら良いアイディアだと思ったんだ。環くんにとっても僕にとっても。
「そーちゃんの名前にも、いーって入ってればよかったのにな」
「た、ま、き、に慣れたら、そ、う、ご、でも笑えるように練習しようか」
「おー。なるほど」
「じゃあ、もう一回。僕と一緒に」
 た、ま、き。君が嬉しそうに君自身の名前を呼ぶ。僕はしばらく、今夜のことを思い出すだけで自然と笑ってしまうかも。