023 夜をとりとめて

「あとでフルーツ牛乳飲みたい」
「分かった。販売機の近くで待ってるから」
「おー」
 湯船は好きだけれど、温度変化はあまり得意じゃない。思いのほか熱い湯にものの数分で息が切れて、用心深く洗い場へ上がったら、霞んだ視界が回り出してふうっと膝の力が抜けた。
 ロケ地近くにたまたま大きめの温浴施設があって、明日は午後からなのだし素泊まりしていこうかなんてついはしゃいだのがいけなかった。食堂のご飯も美味しそうで、汗を流してからのお楽しみにしようかなんて、自ら提案した自分を引っ叩きたい。
 せっかく環くんも嬉しそうだったのに。
「そーちゃん、歩ける? おんぶする?」
「し、しない……環くん、部屋……」
「分かった。分かってるから」
 自業自得と叱られそうだけれど、騒ぎにはしたくない。たくましい肩と腕に支えてもらって、なんとか脱衣所までたどり着いた。湿った床にへたり込む前に、環くんが椅子にタオルを敷いて、ロッカーに寄りかかれるように座らせてくれた。
 手当たり次第に髪や体を拭われた後、フロントで借りた甚平を着せられた。環くんの全身から水が滴って僕の膝を濡らす。何か言いたいのに言葉が出てこない。
「そーちゃん、腕貸して」
「ん……」
「下穿くから。ほら」
 従うより先に足元を見ると、いつの間にか両足に通されていた下着とズボンが、くるぶしのところで止まっていた。腰を上げろということか。かがんだ環くんの首に両腕を回すと、体が浮き上がると同時に手際よくそれらを引き上げられた。
「あんがと。しんどかったら目つぶってて。そーちゃん濡れちゃうから、俺も体拭く」
 気を失いかけているのか、環くんのそんな声も、ぼうっとした頭で聞き流していた。気を悪くさせたかな、また怒らせたかな、面と向かって聞けない不安ばかりが胸の奥に溜まっていく。
「階段あるし、抱えてもいいよな」
 軽く問うような口振りで話しかけられていた気もするが、応答する前に再び体が浮いた。負ぶわれるのかと思いきや横抱きにされて、環くんの髪が僕の頬を濡らした。
 元気があれば下ろしてくれと脚をバタつかせていたところだが、壊れ物を運ぶような歩調、あやすように肩を打つ鼓動、広い胸や手のひらの熱が心地よくて、部屋までのほんの数分の間、僕は眠っていたと思う。

「そーちゃん、起きれる? 起きれなくても食ってほしいんだけど」
 あまり食欲がない、なんて言ったら今度こそ怒られるだろう。ツインベッドの片方に横たわったまま出入り口のほうへ首を傾けると、環くんが持っている小さなお盆の上に、丼と小鉢が一つずつ載っていた。
「あ、これは俺んだかんな。そーちゃんはこっち」
 サイドテーブルに置かれたそれを改めて覗き込んだが、環くんが指差した小鉢より、おかずやサラダが所狭しと盛られている丼のほうが、別の意味で気になる。
「環くん、これ、何頼んだの?」
「あー、ハンバーグ定食だけど、皿多いからまとめてもらった」
「君はまたそんな無茶を言って……」
「しょうがねえじゃん、盆二つ持てなかったんだから」
 環くんはてんこ盛りの丼を脇に寄せると、小鉢のラップを外し、一口分をスプーンですくって僕の口もとへ持ってきた。
「ん」
「えっと……。自分で食べられるよ」
「いいよ。食欲ないんだろ。食わせてやるからちゃんと食べて」
 理屈がよく分からない。おかげで反論の言葉もまとまらなかった。腕を上げさせたままでいるのも申し訳ないので、観念して唇をゆっくりと開く。もたついているうちにで苛立たせたのではと危惧したが、手付きは幼子にお粥を与える母親のように優しかった。
「……美味しい。アサリが入ってる」
「ほー。よく分かんねえけど、連れが貧血なのに飯食ってくんないっつったら、なんか色々混ぜてくれた」
「そんな説明したの……」
「だってホントのことじゃん」
 ほら、と二口目を差し出されて、今度はためらわずにそれを食んだ。ひじきだの根菜だの煮魚を砕いたのだの、おかずを片っ端から混ぜたような料理だったけれど、豆乳を少し残した柔らかいおからがベースになっていて、舌から浸み込むみたいに食べやすかった。
「なんだ、食べれんじゃん。心配なかったな」
「うん……。美味しい。ごめんね」
「味わうか謝るかどっちかにしろよ」
 いつもは、謝んなよ、なんて言いながらしかめ面をしている環くんも、機嫌よくスプーンを動かしていた。僕もだんだん落ち込んだ気分が晴れてきた。反省しなくちゃいけないことはたくさんあったはずなのに。
「やっぱ酔っ払いに食べさせんのとは違うよな。こんなこと何度もあっちゃ困るけど」
 あっという間に空いた小鉢をお盆に据え、環くんは少し冷めたハンバーグ丼をかき込み始めた。会話は雑談のような軽快さで継がれたが、内容は予想以上に決まり悪いものだった。
「……いつも面倒かけてるんだよね。毎回ごめんね」
「別にいーけど。やってほしーんならやるし」
「やってほしいだなんて」
「ないわけないだろ」
 さっきのそーちゃん、すごく嬉しそーだったもん。米粒を頬張りながら、環くんが目を細める。
「毎朝死にたいってそーちゃん言うけどさ、悪くないって思ったろ」
 よく噛んでと注意する暇もなく、ごちそうさま、と環くんが両手を合わせた。食器は引き取りにきてもらえるのだろうか、環くんはお盆を持って一瞬だけ廊下へ出ると、すぐに手ぶらで戻ってきた。寝たほうがいいよな、とそのまま洗面所へ向かう。久しぶりにゆっくり過ごせると思っていた夜が終わってしまう。
「ほい、歯ブラシ。水こぼすなよ」
「環くん、あの」
「うん?」
 まだ起きていたいと言ったら叱られるだろう。だけど今夜は、自分の愚かさは見ないふりをして、体調不良に甘えたい。
「今晩、一緒に寝てもいいかな」
「……でも、狭いんじゃねえの」
「いい、狭くて。……狭いほうがいい」
 環くんは戸惑ったように、僕の座っているベッドと、その奥のもう一つを見比べる。そうしてもう一度僕の顔を覗き込んだ。もし寝付きが悪くなったら、と気遣ってくれているんだろう。今日の僕はそれをも無碍にする。
「酔っている時の自分がうらやましくなったんだ。さっき抱えてくれた時、気持ちよかったから」
 絞るように思いを吐露したら、また頭がくらくらとしてきた。環くんはおもむろに歯を磨き始めると、僕のベッドに腰掛けた。呆れたんだろうか、それとも今度こそ怒られるのだろうか。目を合わせられなくてうつむいた頬に、震える指先がそっと触れる。さっきと違ってひんやりと冷たい。思わず息を止めたら、環くんがふふっと肩を揺らした。
「そーちゃん、貧血じゃなくて、やっぱりのぼせたんじゃねえの」
 泡をこぼさないよう控えめに笑いながら、環くんが僕の頭に手を伸ばした。要領を得ない回答に駄々を重ねようか迷いながら、僕も歯ブラシを口へ含む。しゃくしゃく、二人から同じ音がリズム良く響く。一世一代のお願いは聞いてもらえるのだろうか。
 視線を背中に感じながら口をゆすいで、環くんが戻るまでの間に目覚ましをセットした。返事を催促するのも情けないので、既に乱れているベッドに黙って潜った。
 ベッドサイドのランプを残して部屋の照明を落とした環くんは、特に断ることもなく、枕を持って僕の隣へ滑り込んだ。いざそうされてみると、何も言わなくてもこうしてくれていたような気もしてくる。
 無口なのは、ずるい。口うるさいと環くんは僕によく文句を言うけれど、何も言わないよりはるかにいいと思う。風呂場で立てなくなってからずっと不安で仕方がない。環くんはいつから、どうして、人が倒れるのを怖がって泣いているだけの子供ではなくなってしまったんだろう。
「暑かったら言えよな」
 環くんがまた笑いながら、穏やかに僕の後頭部を撫でる。答えは簡単だ。僕がそうさせた。環くんにその認識がないから、いっそう切なくて遣る瀬無い。――頑張らなくちゃ、しっかりしなくちゃ、いつも簡単に口にしている台詞も、今は苦すぎてとても声にならない。ならない音を、環くんが初めからなかったみたいに唇でそっと潰していく。ランプが点いていなかったら、僕は環くんがまだたった十七歳の男の子なのだということを忘れていたと思う。
 反して僕は、自分が大人の男であることを忘れて、環くんの吐息から逃れるがまま、温かな胸に頬を擦り付ける。心音が優しく右耳を打って、子守唄のように眠気を誘う。逃げることすら許すこの子が僕を見放すとしたら何に因る? その結論を出せるまで、僕の恐れはきっと晴れない。
 晴れないけれど、それも全て包み込んで甘やかしてくれるこの腕が僕だけのものだと言うなら、答えは一生、知りたくない。