021 ROSY

 点火スイッチは長兄だった父が押した。誰も言葉を発さなかったし、涙をこぼすこともなかった。
 皆が控え室へと戻る中、僕は一人で外へ出た。一向に晴れそうにない割には雨を降らせそうな気配もない、半端に明るい曇天が、心をいっそう曖昧にした。
 煙突など、見たことがなかった。それでもその存在や姿形を知っているのは、幼い頃に周りの大人が、本や何かで教えて聞かせてくれたからだろう。
 灯台のように伸びた筒の先が黒い煙を絶えず吐いて、鈍色の空を重くしていく。何の音もしないし、何の音も聴こえない。ただただ、文字通り果てない空の彼方で、陽炎に姿を変えたあの人が、歌のひとつも口ずさむことなく消えていく。
 あの煙突の高さを決めたのは誰なんだろうか。

 気付くと、雲ではなく暗い天井を見つめていた。温かな気配に左側を見やると、うつ伏せの環くんが口をぽかと開けて寝息を立てていた。僕たちの頬と頬の間で、大きさも厚さも違う二つの手が、つないだように重なっていた。
 ――今晩は、寂しがりのあんたのために一緒に寝てやる。誕生日の企画は結局、はらはらさせてばっかになっちまったから。
 環くんはそう言って、僕より先に僕のベッドへ潜り込んだ。寝相の悪い環くんを壁側にやったのは僕だけれど、そーちゃんが落っこちたら困るからと僕の脇腹を抱えようとしてくるのがくすぐったくて、必死で断っていたら、こんなふうに手だけを取られたんだ。
 右腕を伸ばして、長い髪の先に絡まったヘアゴムを解いてやった。寝癖がつくからと毎晩きちんと結んでいるのに、朝には大抵ぐちゃぐちゃになっているんだ。かわいいなあ、と思ったら、後頭部に触れた指を離し難くなってしまった。環くんの表情を伺い見ながら、なるべくゆっくり、髪の奥のうなじを撫でる。
 環くんがこういった気配に敏感なのは、よく知っているんだけれど。
「……んあ、そーちゃん……起きちゃった……?」
「環くんこそ。ごめんね」
「いーよ……。トイレ行く?」
「大丈夫だよ」
「んー……」
 環くんはまだ覚め切っていない目をぎゅうぎゅうとつむってから、またそっと瞼を開けた。暗闇の中こちらを見つめる瞳が、雲間に覗く青空のようにきらっと光る。時々、お天気雨を降らせることもあるけれど、淀むことは絶対にない。
「環くん、今朝はごめんね」
「謝んの俺のほうじゃねーの。謝んねーけど」
「ちゃんと聞いて。ちゃんと嬉しいと思ってる。僕が寂しがってるからって、考えて呼んでくれたんだろ」
 絡んだ指をきゅっと握ると、環くんの指もおずおずとそれに応えた。
「……少しは、まぎれた?」
「楽しかったよ。一生の思い出になった。寂しさについては、……自覚したことがなかったから、よく分からないけど」
 釈然としないんだろう、環くんが眉を寄せる。反して僕は自然と笑った。僕のことを思い遣ってくれているのが単純に嬉しい。
「そーちゃんはさ、泣けねえの?」
「そんなことないよ。ブラホワの時は、笑ってても涙が出てきた。……今朝、かわいそうって、言ってたね」
「だってそーじゃん。幸せな時に泣くと、胸がぎゅーってなって、あー俺幸せだ! って思うもん。そーちゃんは『大人』だから、ヤマさんみたいに、あんま見られたくねえもんなの?」
「……どうかな」
 当然みっともないところを見られたくはない。そもそも悲しい時や悔しい時に、今まさに自分が悲しいということ、悔しいということを他人に知られるのが苦手だ。もともと泣く習慣はなかったけれど、大切な人を亡くした時にそんなふうに感じた。
「泣きたくないのかな」
「なんで?」
「叔父さんのお葬式でも泣かなかったから」
 僕はあの日、僕の夢の拠りどころ、心ある生き物として生きるための道しるべを、あの人と一緒になくしてしまったのだと思った。あの人のいない世界で迎える初めての朝は、言葉にできないほど寒々しく恐ろしいものに思えていた。
 しかしそれも過去のことだ。彼を亡くして感情までもを失ったわけではない。今でも誰かと笑い合うたび、あの人に育まれた心が揺れる。だからこそ、動かしたくないものがある。
 あの人に伝えられなかった気持ちは全部、あの煙突の先から空へ還した。
「環くんは、お母さんが亡くなった時のことを覚えてる?」
「ちょっとは。でも泣いたかどうか分かんない」
「そうか、まだやっと物心がついたくらいの頃だものね」
「うん。なんか花ちぎってた記憶だけある」
 環くんが手に力を込めて、秋風みたいに優しく笑う。
「帰ってこなかったおふくろのことちゃんと見送りたくて、大人のマネして、必死だった」
 笑った環くんの瞳がきら、と光る。次いで、温かなしずくがぽろ、とこぼれる。鼻の根を横切って落ちていったそれを、シーツが音を立てずに受け止める。
 環くんの目を見ると、晴れた空が恋しくなる。届かないと分かっていながら彼方に手を伸ばす、ひたむきな気持ちに憧れる。――憧れたまま、もう一年も経ってしまった。あの日々から僕は確実に歩き出しているのに、向き合う勇気も背を向ける勇気も未だ無い。
「もし、僕が開けっ広げに泣く日が来たら……」
「うん? いつでもいーよ」
「あはは。そうだね、君がそばにいたらいいなって思うよ」
「ずっといるじゃん」
 環くんが、つないだ手を額に引き寄せて目を閉じる。帳を縁取るまつげのひとつひとつが、薄明光線みたいに透き通ってきれいだ。
 あの人が預かってくれている気持ちがきっと、この光の源にある。
「ずっといるじゃんな」
 僕はそれにもう一度、この手を伸ばすだけでいいのだ。