020 きみという空を知る

「わっ」
 ぶわっとひときわ強い向かい風が吹いて、前を歩いていたそーちゃんが振り返った。さらわれたストールが龍のように宙を昇って、俺は見とれながらもそれをしっかりと捕まえる。
「ありがとう。よかった、君の背が高くて」
「そお? 低くてもジャンプすりゃいいじゃん」
「あはは。君ならきっと届くね」
 ひゅうひゅうと音を立てる空気は四月とは思えないくらい冷たい。お日様がないから余計にそう感じるんだろう。
「そーちゃん、あとどんぐらいで着く?」
「五分もないよ。頑張って」
 今月一日が誕生日だった俺は、みっきーの誕生日を過ぎた辺りから、やたらとテレビの仕事が入っていた。マネージャーがいつも以上に、内容の確認に手を焼いていたけれど、俺は自分の嫌いなもの――例えばお化け屋敷とか――が出てこないかどうかだけ念を押して、全部ありがたく出演させてもらった。
「まずいな。そろそろ消灯だ」
 そーちゃんは腕時計を確認するなりそう声を上げて、一日仕事をした後とは思えない勢いで走り出した。せっかく巻き直した布っきれが、するっとほどけて俺の手の中に戻る。
「そーちゃん、……もー!」
 なりふり構わなくなったそーちゃんを呼び止めたって聞くわけがないので、俺も必死に追いかけた。夜も遅いとはいえやっと予定が途切れたんだから、もう少しゆっくり、二人っきりを楽しんでくれたっていいんじゃねえの。心の中ではしっかり、そう文句を言う。口に出す回数が減ってきたのはいつからだったっけ。
 走って走って橋の袂に差しかかった時、思わず目をつむるほどの嵐に襲われた。顔を庇った腕をおそるおそる下げると、風の吹いてくる方角――無数のぼんぼりに照らされた河川敷の入り口で、そーちゃんが右手を差し出していた。
「おいで。綺麗だろ」
 吹き付けてくる花びらのようなものが本当に花びらだと理解するのに、少し時間がかかった。ひらひらと、煩わしいまでにちらつく白い光のかけらの向こうで、そーちゃんの輪郭がおぼろげになる。頭上も足元も明るいはずなのに、いや明るいからなんだろうか、そーちゃんが薄闇に消え入りそうに思えた。
「そーちゃん、これ」
 突き動かされるように駆け寄り、預かっていたストールをもう一度巻いてやると、そーちゃんは伸べていた手を下ろしてしまった。もったいないことをしたかなと思いつつ、すぐに俺から手をつなげばいいことに気付く。日頃好き勝手をさせてもらっているつもりだけれど、こういうことに限ってそーちゃんに任せきりにしてしまいがちなのは、結局そーちゃんに甘えているのと同じことなのかな。
 口元にかかったストールを避けるためにそーちゃんが顎を上げた隙に、露わになった唇に、ここぞとばかりに軽くキスをしてみた。
「…………」
 橋を通過する車から見られているかも、と思い至るのが少し遅かった。黙ったままのそーちゃんに、怒らせたかな、と不安になる。揺らめくぼんぼりはそう頼りなくはないけれど、俺の背のほうが高いから、そーちゃんの表情は影になる。
「……急がないと」
 動けないでいたらそーちゃんが俺の手を取って、明かりの続くほうへ歩き出した。そういえばそーちゃん、急いでたんだっけ。ヘンなことして悪かったな。
 桜並木の下をゆっくり歩き始めると、いつかライブの演出で使った花吹雪みたいだった。キレーだな、と素直に思ったところで、ようやくそーちゃんの目的に気付く。
「もしかして、桜見に連れてきてくれたの」
「そう言わなかったっけ……? ごめんね、誕生日もだいぶ過ぎてしまったもんね」
「そーいうことじゃ……」
 そーちゃんの謝りグセはいまだに慣れない。上手いことフォローもできないから、俺はいつも無理やり話をずらしてしまう。
「そーいや、最近俺の仕事が多かったのって、やっぱ誕生日だからなの」
「そうだよ。それに君、理ちゃんを探してるってあちこちで話してただろ。誕生日の話題に乗って、露出を増やせないかって働きかけてくれた人がいるみたいだよ」
「ほー。そーちゃんじゃねえよな」
「違うよ。なんでも僕だと思わないでくれるかい」
 去年から俺が何かしたり言われたりするたびに、そーちゃんが謝って回っているのが嫌で、せめて俺に知らせてくれって頼んだことがあるけれど、そーちゃんは一向に守ってくれない。出会ってからもうすぐ一年が経つし、ちょうどいい距離感も掴めてきたと思うのに、そんなそーちゃんを見るとやっぱりまだ遠いんじゃないかって心配になる。かといって近すぎるのも上手くいかないからこの距離でいるんだけど、握った手が冷たく感じるのは、夜風のせいだけじゃないと思う。
 でもきっと、こうして手をつないでいられるだけ幸せなんだろう。ぎゅっと力を込めるとそーちゃんがこちらを見たけれど、何も言わないままでいたら、そのうちまた前を向いた。
 昔、理とこんなふうに手をつないで、昼間の桜並木の下を散歩したことがある。もちろん施設の先生も一緒だったんだけど、理が俺からあまりに離れたがらないので、大人たちに見守られつつ、俺たちはずっと二人でくっついていた。
 あの日歩いた場所もこんな河川敷で、ヨモギやタンポポが伸び始めた土手を駆け下りて、川の浅瀬で水遊びをした。そのうち理がもっと桜を見たいと言い出して、抱っこしてまた上まで登ってやった。
 そこで俺は手を離してしまった。俺の隣にぴったりくっついている理よりも、少し離れたところで花びらに巻かれて「きれいだね」って笑う理のほうが、本当に本当にきれいだったからだ。
 当然と言っちゃ当然なのかもしれないけれど、ぼうっとしている間に俺は理とはぐれた。大人に頼るのも忘れて必死で探して、いよいよ泣きだしそうになった時、木陰に座り込んだ理を見つけた。俺はぎゅうっと理を抱き締めた後、一番近くのベンチに二人で座った。疲れ果てていたというのもあるけれど、その時は日差しがぽかぽか暖かくて、ずっとこのまま二人でいられたらなあって思ってたんだ。
「環くん?」
 そーちゃんが何か話しかけていたんだろうか、呼びかけられて思考が冷たい夜に引き戻される。冷えた手をそっと離して立ち止まると、そーちゃんも二、三歩歩いたところで、足を止めてこちらを振り返った。
「……どうしたの」
 風に揺らめく明かりと一緒に、そーちゃんの姿もゆらりとぼやける。それを取り巻いた花びらが絶えず散り散りになって、まるで何かを奪い去られているみたいだ。
 大人のそーちゃんはきっとどこかへ消えていってしまったりはしない。けれど、やっぱり理とおんなじように、俺の隣にいるよりも――。
「あ、環くんっ」
 そーちゃんが声を上げると同時に、ふっと視界が暗転した。今まで夢を見ていたのかな、と一瞬思ったけれど、さらさらと川が流れる音も、ざわざわと枝が荒らされる音も変わらず、むしろ今までよりずっと大きく聞こえてきて、川中のぼんぼりが消えてしまったことにやっと気が付いた。
「環くん」
「う、うわっ」
 いきなり腕を触られて飛び上がってしまった。部屋の中で真っ暗になることはよくあるし、嫌いだって自分で知ってるからいくらでも騒げるけれど、外で真っ暗になるのなんてほとんどないから、どうしたらいいのか分からない。
「ごめん、ライトアップは見せてあげられたけど、無茶しすぎたかな……。怖い?」
「わ、わかんない……どうしよう、そーちゃん」
 大体こんな真っ暗で歩いて帰るなんてできるんだろうか、混乱していたらふわっとそーちゃんの匂いがして、冷たい腕が首元に回った。
「大丈夫。目が慣れたら怖くないよ。……目、開けられる?」
「あ、あいてる」
「なら大丈夫。川のほうを見てみて」
 そーちゃんに頭を撫でられて体の力が少しだけ抜ける。言われた通りに首を動かすと、今まで闇の底みたいに見えてたその一筋が、不思議なくらいに輝いていた。
「綺麗だろ。川明かりって呼ぶんだよ」
 ほんとだ、という声が上手く出せなくて、代わりにそーちゃんの背中をぎゅっと抱いた。これをたどれば真っ暗な中でもきちんと街中へ帰れそうだ。ほっとしたらそーちゃんの顔もだんだんと見えるようになってきて、そこでようやく、そーちゃんの体が小刻みに震えていたことに気が付いた。
「ばか、寒かったなら言えよ!」
「え? 確かにちょっと肌寒いけど、大したことないよ」
「そーちゃんの大したことないはアテになんない!」
 腕を引っ張って来た道を戻ろうとしたけど、そーちゃんの脚は杭になったみたいに動かない。
「そーちゃんったら……」
 こんな頑固なそーちゃん、暗がりに消えてしまったりなんか絶対にしないな。安心したのと困ったのとで複雑な溜め息をつくと、そーちゃんが拗ねたような声で小さくつぶやいた。
「もう少しゆっくり、二人っきりを楽しんでくれたっていいじゃないか」
 ひゅう、と風が吹く。俺が乱暴に着せたストールが、俺の手の中へ三度目の旅をする。――あの日、理が迷子になってしまった春の日も、理はこんなふうに花の嵐に巻かれてしまったのかも。理、まだ小っちゃかったもんな。
「風邪ひいたらどうすんだよ」
「そこまで寒くないよ」
「嘘つけ。嘘ばっかり。嘘つくんなら、こんまま帰る」
 どっちにしたって帰ることになるな、なんて思ってたら、そーちゃんが黙って俺の腕を引いた。思いのほか力が強いのにびっくりして、よろけながらもついて行ってしまう。そもそもだんまりなんてずるい。怒ってるのかな、って思っちゃうじゃんか。
「静かにね」
 そーちゃんがそう声を潜めて、不意にしゃがみこんだ。いや、どちらかというと這いつくばってた。暗くてすぐには分からなかったけれど、目の前には白くて大きな屋根状のものが並んでいて、そーちゃんの体はその中の一つにするすると呑み込まれていった。
「ちょっ、ちょっと」
 夢中でそーちゃんの足首を掴んだら、そーちゃんも驚いたのか蹴っ飛ばされた。白い屋根をよく見ると、ナントカ会なんてこれまた大きな字で書いてある。そこでピンと来た。これ、理と昼間お花見をした時に同じものを見たことがある。
「そーちゃん、これ、屋台のやつだろ!」
「しーっ、静かにって言ったろ」
 脚を外したテントの屋根に、そーちゃんは潜り込んだらしい。仕方がないので、そーちゃんの数倍苦労しながら、俺もテントの骨組みの下に滑り込む。
「あー、なんかヘンな草だらけになった」
「結構暗いね。怖くない?」
「こええよ。そーちゃんの発想が意味わかんなくて怖い」
 普段はルールだのマナーだのってうるさいくらい注意するくせに、どうしてこんな突拍子もないことを思いつくんだか。
「見つかったら怒られんだろ、これ」
「静かにしていれば大丈夫だって言ってるだろ」
「そうかなあ……」
「君は案外肝が小さいよね」
「はあっ?」
 バカにされたような気がしてつい大声を上げてしまった。謝る前に何か大きなものに押し倒されて、俺の体がひっくり返る。何かってそーちゃんしかいないじゃんな、と気付いた時には、とっくに唇をふさがれていた。
「……っ、あ、熱っ」
 夜風で冷え切ってしまったせいだろうか、触れ合う舌の温度が火傷しそうなくらいに感じた。そういえばストール返してやんなきゃ。なんとか腕を延ばしてそれを首に戻してやると、そーちゃんの胸が俺の胸にくっついた。
「そ、そーちゃん。体起こしたい」
「……嫌だった?」
「嫌なことねえけど。首がちくちくする」
 そう頼むとそーちゃんはすっと俺の上からどいてくれた。けれど今度はなかなかこっちに戻ってきてくれない。
「嫌じゃないってば」
「わっ、わあ」
 ばふ、とそーちゃんが俺の胸の中に倒れ込む。ずりずりとお尻をそーちゃん側に寄せると、そーちゃんもちょっと協力してこっちに近づいてきてくれた。
「そーちゃん、頭いい」
「……何が」
「全然寒くない。風がないからかな」
 とくとく、そーちゃんの心臓が俺の胸を打ってる。たぶん俺の心臓も同じようにそーちゃんの胸を打ってるんだろうな。
「だから寒くないって言っただろ」
 ふてくされたみたいなそーちゃんの声も、もう俺を不安にしたりなんかしない。腕の中にすっぽり収まっている状況も相まって、そーちゃんがただただ可愛くって、たまらず今度は俺からキスをした。
「……っぁ、んっ、……」
「……そーちゃん」
 おとがいをくっと持ち上げて舌を差し入れると、そーちゃんの舌先が応えるみたいにちょんと触れた。そっと首筋に触れてきた指はやっぱり冷たくて、どうにかしてやれないかなあと距離を詰める。舌の裏を舐め上げると細い肩がふるっと震えて、すぐ諌めるように吸い付かれた。
「ふ……っ、あ、んまり……すると」
「やべえかな、……ここで下剥いだら怒る?」
「怒るよ……。さすがに」
 言い合いながら二人でくすくすと笑い出してしまった。体が揺れるたび鼻先がかすかに触れるのが気持ちいい。相変わらず真っ暗だけど、風の音が絶えることはないけど、ずっとこのまま二人でいられたらなあ。
「そーちゃん」
「なんだい」
「そーちゃんは迷子になったりなんかしねえよな。ちゃんと、帰ってこれるよな」
「……何言ってるの」
 闇の中でそーちゃんがふふっと吐息を漏らす。
「いつも迷子になってるのは君のほうだろ」
 抱き締められたのを感じる間もなく、そーちゃんから柔らかく口づけを落とされる。優しい声でささやいたそーちゃんの顔が見られなかったのは残念な気もしたけど、今の俺の顔もそーちゃんには見えてないんだから、これでいいか。
「違う?」
「ちがくないかも」
「ね。でも大丈夫だから」
 ちゃんと見つけてあげるからね。――ひとつだけこぼしてしまった涙が、そーちゃんにばれてないといいな。