019 この世界を出ていく

 「ごめんね」と口にするつもりはない。別れを告げるその時にすら。それが誠意であり、僕なりの愛だと思う。夜ごとそう唇を噛んでは君の隣で眠りについた。
「……そーちゃん」
 さら、と前髪の流れる感触で覚醒する。焦点を合わせる前に大きな手が視界を覆ってくれて、まぶしさに瞳を貫かれることはなかった。
「めずらしいな……」
「寝ぼけてんね。あんた、夕べへろへろだったじゃん」
 だからめずらしいことなんてねーよ、と苦笑いする声が聞こえる。思いがけず胸がぎゅうっとして、瞼の上から環くんの手を取り払う。
「おはよ、そーちゃん」
「……うん。環くん、おはよう」
 さらさらさら、なおもしきりに聴き慣れない音が鳴る。もしかして僕が目を覚ます前から、ずっとこうしていたんだろうか。にじんだ涙をあくびでやり過ごし、寝返りを打って背中を丸めた。
 たまたま視線を移した鏡台の上で、僕の携帯電話が音を立てずにぴかぴかと光っている。考えるより先に飛び起きたところで、自分が何も着ていないことに気が付いたけれど、そんなことを言っている場合じゃない。
「――環くん! 君、もう出ないと学校に間に合わないだろう!」
「あー、あの静かなアラーム、それか」
「もう少し自分で気をつけてくれ……! 早く服着て!」
「いいよ、それより……んぶ」
 いいわけあるか! とりあえず自分の鞄からTシャツを一枚引っ掴んで着せてやる。下着も一応持ってきたけれど、さすがに制服もとまではいかなかったから、寮にいったん帰らせるつもりだったのに。
「そーちゃん」
「何、適当に荷物まとめるよ? だから先に片づけておこうってあれほど」
「そーちゃんったら」
「いいから顔を洗っておいで! 寝癖は仕方ないからそのまま……」
「そーちゃん、俺、そーちゃんとちょっと離れたい」
 ゴン、って音がした。僕が自分の鞄を落とした音だ。底に空の水筒が入っていたんだっけ、水筒も床も無事だといいな――環くんの言葉を理解しなくてはいけないのに、くだらないことばかりが頭に浮かんでくる。
「この話したくて。だから起きるまで待ってた。……がっこー行くわ」
 力が抜けて、へた、とその場にしゃがみ込んだ。ちょうど胸のところに来た左膝を爆発しそうな心臓が打って、悪寒が身体中を駆け巡るのに汗がとまらない。環くんが出ていく前に何か返事をしたいのに、指先ひとつすら動かすことができない。
「そーちゃん」
 びく、と肩が震えた。なおさら顔を見ることが怖くなって、全身を硬直させたまま環くんの次の言葉を待つ。ほんの短い沈黙の後、ふわ、と頭から掛けられたのは、環くんがいつも着ているグレーのパーカーだった。
「裸で走り回んなよ。ほんと、あんたって時々マヌケっつーか……かわいーの」
 荷物ごめんな、ありがと、そう言って環くんは静かに出ていった。つい五、六時間前まで睦み合っていたツインルームに、小さくなった僕と、中身の乱れた鞄と、服と、嗅ぎ慣れた匂いが残される。
 ようやくゆっくり振り返ると、わずかな温もりを宿したそれが滑り落ちた。さら、と髪がまた柔らかな音を立てて、ベッドの虚ろがじわ、とぼやける。――僕の頭を撫でながら、君はそんなことを考えていたのか。

 今日の仕事は午後から一つ、大和さんとのグラビア撮影だった。午前中に内々で打ち合わせをしようと約束していたのに、どうしてもまともな顔で行ける気がしなくて、急きょ現地集合にしてもらった。
「体調平気か? ずっとホテルで寝てたんだろ」
「ええ、お陰様で……。本当にすみませんでした」
「気にしなさんな。俺たち二人だし何とかなるっしょ。タマならともかく」
 ずき、と痛んだのが胸なのか胃なのかもう分からない。拳を握って手足の震えを必死に抑え込む。大和さんが訝しげにこちらを見たけれど、焦ってはいけない。自分にそう言い聞かせる。
「ん、タマとなんかあった? そもそもアイツちゃんと学校行ったのかね」
「あ……、行きましたよ。大丈夫です。行かせましたから……」
「ならいいけどな」
 大和さんに悟られてはいけない。大和さんにだけではなく寮にいるみんな、マネージャーにだって、誰にも。
「大和さん、五分前です。行きましょう」
「はいよ。相変わらずキッチリしてんな」
 当たり前だ。いつも通りでいたい。大和さんより先に廊下へ出て、唇を引き結び胸を張った。鋭い視線を感じる背中に汗が伝うけれど、気づかないふりをすれば何も起きていないのと同じはずだ。
 ただ平静を装うほどの精神力は残っていなくて、なるべく口数を減らせるよう画策しながら、声を出す瞬間だけは口角を上げるよう努めた。カメラの前に立つ頃にはもう動悸が苦しくて仕方なかった。
「壮五くん、なんか今日迫力あるねえ」
「コイツ、朝から具合悪いんすよ」
「そんな鬼気迫るほど? ちょっと休憩入れようか」
「……あー、いえ、早く終わらせられるよう頑張りますんで」
 カメラマンと大和さんの会話は耳には入っていたけれど、返答するほどの余裕がなかった。感覚的にポーズや立ち位置を切り替えながら、気持ちの整理に集中していた。
 今までどんなにひどい喧嘩をしても、君を泣かせることがあっても、君の言葉に傷つけられても、「いつものこと」でごまかしてきた。そういう意味では、よりによって相性の悪い二人がコンビを組むことになったという事情が元からあったことは幸いだったかもしれない。
 僕と環くんがいつから好き合っていたのかはよく分からない。始まりは環くんのほうからだったのかな、と思ってはいる。しかし、正式に付き合おうと口に出したのは僕だ。けじめをつけたかったからじゃない。こういう関係にあることを誰にも言ってはいけないとはっきり口止めするためだった。
 そーちゃんがそう言うならいいよ。環くんはそう言ってくれた。そして僕も、誰にも僕たちのことを知らせたりしない。
 僕たちが「何もない」と言えば本当に「何もない」ことになる。そうやって君を――君の将来を守ってきたつもりだ。

「ソウ、マネージャーに連絡するけど、来るまで待てるか」
 スタジオを出ると、予報で聞いていたより冷たい風が吹いていて、大和さんは真っ先に僕の心配をしてくれた。
「大丈夫です。あの……」
「タクシーのほうがいいか?」
「いえ。僕、寄りたいところがあるので……お先に失礼します」
 引き止められたら振り払う自信はないけれど、走り去っても怪しまれる。迷った挙句、ぺこりと小さくお辞儀をして、行きにたどった道とは逆方向へ歩き出すことにした。案の定大和さんは放っておいてくれるわけもなく、かといって制止することもせずに、なぜか黙って僕の後ろをついてくる。
「……あの、先に帰っていていいんですよ」
「いや、心配だからさ。ソウが約束を断るなんて普通じゃないだろ」
「それは……」
 失敗だった。いかに動揺していたとはいえ、それを言われてしまったら今さら一人にしてくれとも言い出しがたい。ともかく今は歩き続けるしかない。寄りたいところがある、と僕が言い張れば、僕は寄りたいところがあることになる。
「寮に帰りたくない?」
 図星をつかれて思わず足を止めてしまった。けれどすぐに間違った行動ではないと自分に言い聞かせる。立ち止まったのは否定の言葉を継ぐためだ。そうは思うのに喉がひりひりとして大和さんの名前すら呼べない。
「悪く思うなよ。お兄さん、面倒事は嫌いだけど、まどろっこしいのも嫌いなんだわ」
 大和さんが隙をついて僕の肩を掴み体を反転させる。うつむいていてもほんのすぐそばに顔が近づいて、ああ環くんって本当に背が高かったんだな、などとどうでもいいことを思い出してしまった。
「は、離してくれませんか」
「タマと何があったのか白状してくれたらな」
「いつもの喧嘩ですよ、ただ今回はちょっと激しかっただけで……」
「ふうん。何言われたの?」
 言いたくない、そう口にしかけて首を振った。そうじゃない。僕はもう誰にも何も言わないで済む。環くんから「離れたい」と言い出したことで、僕が今まで想像していたよりもずっと穏やかに、僕たちの関係は終わるのだから。
「……なんでもないです」
「あ、そう。じゃあタマに聞くからいい」
「! やめてくださいっ」
 ポケットから携帯電話を取り出しかけた大和さんの腕を、力任せに引っ掴んだ。つい爪を立ててしまったようで、プライベートではあまり表情を変えない三白眼が少しだけ歪む。
「す、すみません」
「いや、平気だけどさ。そんなんでどうすんの、このまま解散でもすんの?」
「しません。解散は」
 それだけはない。今度ははっきりと声が出た。出た後で、ふうっと視界が暗くなって膝の力が抜けかけた。大和さんが両肩をがっちりと支えてくれたおかげで、くずおれずには済んだけれど。
「なら、なんで一日中この世の終わりみたいな顔してんのよ。言ってみ」
 忘れかけていた春風がひゅうと通り抜けていく。さらさらと髪が優しく流される。環くんの髪は僕よりずっと長いのに、少し硬いからこんなふうにはなびかないんだ。――そういう、ささいな秘密を知るたびに少しずつ少しずつ、自分でも気がつかないうちに狂い始めてしまっていたんだ。
「終わらないです……何も」
 今朝、別れる間際に環くんの置いていったパーカーを鞄にしまいながら、僕を嫌いになったわけではないのだろうか、と考えてしまった自分が、今殺してしまいたいくらいに憎い。
「大和さん、今から話すことは、絶対に墓まで持っていってください」
「おう。場所変えるか?」
「いいえ、手短に話します」
 息を一度吸う。そして吐く。特別深呼吸をしたというわけじゃない。行き交う喧騒の中で、車のクラクションの陰で、なんでもなかったことのように話したい。
「僕は、あの子と恋人同士でした」
 こめかみから汗が落ちた。肩を掴まれたままでいたから、大和さんが息を呑んだのが分かった。
「今朝、『離れたい』と言われました。いずれ僕から離れるつもりだったので、少し驚いたんです。日付が変わるまでには帰りますから……」
 だから解放してください、そう伝えたかったのに大和さんは何か思案している。確かに無理もないとは思うけれど、事後報告なんだから黙って流してくれればいいのに。勝手な言い草だと分かってはいたが、僕は大和さんに少しずつ苛立ち始めていた。
「なるほどね。分かりました。で、ソウはどうしたい?」
「えっ……どうも、何も……。普通にしていたいです」
「今まで通りあの寮で寝起きして、MEZZO”としても隣で歌って、か。できると思う?」
「……大和さんっ」
 対面して初めて顔を上げた。レンズの向こうの、何を考えているのか分からない瞳を睨みつける。
「それができるなら、こんなことは言いません!」
 一言叫んだだけで息が切れた。またくらくらとしかけて倒れ込みそうになった大和さんの胸を力いっぱい押し返して、何とか固い歩道を蹴る。当然のごとく大和さんが追い掛けてきて、どこなら撒けるかと策略をめぐらしていたら、とんでもない台詞が聞こえた。
「タマ、そっち行った」
 反射的に立ち止まって振り返ると、大和さんが携帯電話を耳にあてていた。ぞっとした。環くんが大和さんに何か話していたのか。なら僕が今まで考えていたことはなんだったのか。
 混乱している間に大和さんに追いつかれて、拘束された腕を振りほどこうともがいていたら、背中にドン、と何かがぶつかった。目視するより早く顔が青ざめるのが分かった。
「……環くん」
「あんた、キスもエッチもしたくせになかったことにしようなんて甘い!!」
 いきなり叱責されて思考がいっそう停止した。そもそも往来でそんな単語を叫ばないでほしいという思いが先に浮かぶ。大和さんはうんざりした顔で溜め息をつき、僕の体を環くんのほうへパスした。
「ヤマさんあんがと。仕事の後にゴメン」
「いやもう、ほんと……。久々にこんな走ったわ」
「なっ……たまっ……、君は」
 環くんは口をぱくぱくさせるだけの僕の顔を覗き込むと、冷えた手の甲を頬へ押し当てた。
「だいじょーぶ、ヤマさんには何も言ってない」
「ならどうしてっ……」
「ほんとほんと。ソウが変わったこと言ってきたら、様子見て連絡くれって言われてただけ」
 じゃあお兄さんは帰りますわね、そう冗談めかした大和さんがきびすを返す。
「大和さん! そんな軽いことみたいにっ」
「んー? そういうふうに考えたかったのはソウのほうじゃないの? まあ今一度話し合ってみなさいよ」
 残された僕の腕を、今度は環くんががっちりと掴んでいる。話し合いならする、するつもりだったけれど、これからも「今まで通り」でいようという合意形成をするための話し合いだから、頭の中に台本を準備するだけの時間がほしかったのに。
「そーちゃん、どっか入る?」
「いい、もういい……ここで。その前に、これ……」
 鞄の隅に畳んで入れておいたパーカーを突き返す。間違っても部屋に持って帰りたくなんかない。
「おー、あんがと」
「寒かったろ。考えなしに置いていくんだから」
「別に。ジャージあったし」
「……そうかい」
 沈黙の傍らを、排気音が通り過ぎていく。街は明るくて道行く人も減る気配はないのに、街灯が二人だけを照らしているように思えるほど、環くんの姿しか目に映らない。
 僕は思い出した。この世界が好きだった。いつもと何ら変わらない日常に存在する、二人だけしか知らない秘密を、小さなものも大きなものも余すことなくかき集めて、一生懸命作り上げたのだ。
「そーちゃん、ヤマさんになんて話したの」
「……君と恋人同士だったって」
「それから? 他にもあんでしょ」
「僕のほうから離れるつもりだったって、言ったよ」
 君の将来を守ると誓いながら、僕は僕の心を守っていた。この世界にいれば幸せでいられた。いつか離れなくてはならないと覚悟を決めながら、君が生まれて初めて抱いた感情全部を閉じ込めて、僕も一緒に閉じこもって、それでわずかに救われることができていた。
「環くんは、それを知ってたんだね……」
「……うん」
 ぱた、と二人の間にしずくが落ちた。見上げると環くんが泣いていた。頬の一筋を親指で横切ると環くんがしゃくりあげて、結局両手でまぶたの端を拭った。
「いつも泣かせてごめんね」
「なんで謝んの……悪いの俺じゃん」
「どうして?」
「嘘ついた。今朝の……」
 少しでもほっとしてしまった自分への嫌悪感で涙が出そうになって、環くんに触れたままの手がぴくっと強張る。退くより早く環くんが僕の腰を引き寄せて、震える腕の中に抱きすくめられた。
「そーちゃんはダメ。あんなこと言っちゃ……あんな思いしたら、絶対やだ」
 環くんの腕に、痛いくらいの力がこもる。付き合おうと言った夜も、初めて結ばれた後の朝も、こんなに強く抱き締められたことはなかった。
「つらかった?」
「死ぬかと思った」
「冷静にしてたのに」
「超命かけた……」
 公衆の面前だと分かっていながらも、広い肩にゆっくりと腕を回した。初めてはっきり、離したくないと思った。もしもこれでゴシップ沙汰になっても、カメラの前では「何もないですよ」って嘘をつける。きっと二人で笑って言える。もう自分の信心だけを拠り所にしなくてもいい。
「環くん。僕たちのこと、他の皆にも言おう」
 環くんは何も言わないまま、僕の背中を優しく撫でた。春風がビルの間を抜けてしたたかに吹き付けたけれど、抱き合っているおかげで寒くなかった。
 君の涙がとまったら、今夜は手をつないで帰りたい。環くんはもしかしたら、驚くかもしれないけど。