017 さらって

 電車の扉を挟んで向かい側の手すりに寄りかかる環くんは、スタジオを後にした辺りからずっとしかめ面をしている。車内ではいつも通りゲームをしていたから沈黙を重たく感じることもなかったけれど、電波状況が悪くなったんだろうか、小さく舌打ちをして携帯電話をポケットにしまった。
 環くんが急に機嫌を損ねることは珍しくはないから、仕事の前や最中でなければ、僕はいちいち困ったり呆れたり、ましてや咎めたりすることはもうほとんどない。
 以前は晩ご飯の後にプリンを与えてみたりだとか、甘やかしていたけれど。そんなふうに機嫌を取るのも正しい関係ではない気がして、じっと待ってみるということを覚えた。
 文庫本を読むふりをしながら、車窓に映る表情を伺い見る。環くんが瞬きをするたびそれは怒りとも悲しみともとれるような複雑なものに変わっていって、すっかり意識を持っていかれていた僕は、環くんのとっさの行動に反応するのが遅れてしまった。
 環くんが、目的の駅より二つも手前で降車した。僕に対しての不満だったのか? 胸がぎくりとしたが、呼び止めないわけにもいかない。
「……環くん、降りるのはまだ先だよ!」
 顔だけ出して声をかけるが、聞こえているのかいないのか、環くんは黙ってホームの階段を目指す。駅を間違えたということでもないだろう。追いかけてどうするのかなんて何も思いつきはしなかったけれど、扉が閉まる直前で、僕も一緒に降りることを決めた。
「環くん、待って」
 階段の下でもう一度そう呼ぶと、ポケットに手を突っ込んだ環くんが、億劫そうに振り向いた。
「そーちゃんまで降りなくたっていいのに」
「だって……。歩いて帰るのか」
「うん」
「何か用事があるの?」
 ない、と答える代わりに、環くんは背を向けて階段を上がり始めた。諦めて僕もそれに続く。用事なんてないことを分かっている。分かっているということを、たぶん環くんも分かっている。自分の浅はかさが恥ずかしくなった。
 駅を出た途端ぶあっと砂埃が舞い上がって、一瞬足が止まる。いくらか日が延びたと思っていたのに、既に夕焼けの色は見えなかった。
 荒々しい南風にかき乱される長い髪を追いかけながら、戸惑いに混じって寂しさが痛む。こんなことがなければ、シャワーを浴びる前に梳いてあげたのに。
「環くん、怒ってる?」
「……何を」
「待機中に、スタッフさんと話してたこと……」
 今日、僕たちのファンだという女性スタッフが現場にいた。こういうことはよくある。今までにもあった。上手い距離の取り方が分からなくて、後々環くんをなだめなくてはいけなくなったことは、一度や二度じゃない。
 環くんのやきもちは可愛かった。こう言うと、人の気も知らないでと余計に怒られてしまうかもしれないが、たとえば僕が共演者と意気投合したりだとか、たまたま同い年だったりだとか、環くんはそんなことですぐにむくれる。だけどそんなことは仕事をしていく上ではどうしようもないし、どうしようもないからこそ可愛かった。
 環くんもある程度そのことを理解している。甘え方を知っているのか、単なる駄々と、相手を苦しめる無茶の区別を無意識につけている。――本当に大切なものが絡まない限りは。
「別に仕事のヒトと話すなんていつものことだろ」
「……うん」
 それが原因じゃないのは分かる。だけど間違いなく僕に関して環くんが苛立っていることも分かる。追ってきたくせに、どうしたんだい、と言い出せない。もしも環くんが話したいなら、とっくに話し出しているだろうから。
「そーちゃんは電車で帰んなよ」
「でも」
「俺、ちょっと走るし。ついてくんの大変だろ」
「でも、環くん……」
 急に機嫌を損ねることは珍しくはない。いちいち困ったり呆れたり、咎めたりすることはもうほとんどない。だけど、お互い黙りこくったまま帰宅して、おやすみも言い合わずに、僕が翌朝君を起こさなかったとしても、ラビチャで送られてくるおはようだとか、ちょっとした家事のお手伝いだとか、そんなあどけない振る舞いで僕は癒されて、今日までなんとか乗り越えてきた。
 今回も、そうなのか。このまま別々に帰宅して、口も利かずに眠っても、明日には君の甘え上手で、もとの二人に戻るのか。僕を置いて帰るほどのその感情に触れることを、この先、タブーにしてしまうんだろうか。
「……環くん」
 振り払われないかと怯えつつ、七分袖から覗いた手首を掴む。震えているのが僕の指なのか、環くんの腕なのか、判別がつかない。
「……そーちゃんってホント、ヤキモチとか焼かねーよな」
 とっくに絡み切っていそうな髪を、環くんがくしゃくしゃと搔きむしる。フードが翻ったままになっているおかげでいつもより表情が見やすいはずなのに、なぜだか思考に結びつかない。
「あのスタッフ、王様プリン好きなんだって」
「うん……、聞いてたよ」
「俺が好きだから、好きになったんだって」
 知ってる。聞いてた。環くんもはしゃいでた。ハイタッチをして、手帳に王様プリンを描いてあげて、環くんに似てるって笑われていた。
 王様プリン大使にしてくんねえかな、って緩んだ頬が愛おしくって。本当にそんな仕事が来たら、終始笑顔だろうから驚かれるだろうなって、頭の中で勝手に、環くんの衣装を考えてみたりして。
 やきもちなんか焼かないよ。僕は君をあんなに喜ばせてあげられない。
「俺だけなの分かってっから。ちゃんと話したから、一人にして」
「環くん、僕は」
「ゴメン。頼むから。……大丈夫だから」
 手首がすり抜けるほんの数秒、向き合った環くんの顔に言葉を無くす。泣きそうだった。――泣いてなかった。いつもはためらいもなく、素直に涙をこぼすのに。
 遅れて駆け出すけれどその弾みで、買ったばかりのストールが夜空へさらわれた。右往左往しているうちに、環くんの姿がオレンジ色の街路灯の向こうに霞む。同時にストールも見失ってしまって、大した愛着もなかったのに肩を落とした。駅へ戻る気など到底起きずに、環くんが走っていった道を、それ以上の意味を見出せないまま仕方なくたどる。
 心もとなくなった首元に手を延ばして、ようやく指先の震えに気づいた。
 望んだら、君の一番になれるのか?