014 また明日

 商店街を抜け、小学校を横切って、――そんな見慣れた道を俺は走っていた。
 なんで走ってるんだっけ。思い出すより先に、たどり着いた病院の自動ドアをくぐる。
『四葉環です。理の、兄の』
 俺の口が息を切らして勝手にしゃべる。そっか、俺、理に会いにきたんだ。
 通された部屋は建物のずっと奥、明らかに病室ではない様相で、胸が爆発しそうになるのに進む足は止まらない。そっか、俺、間に合わなかったんだ。でも、おふくろの時と違って、いきなりソーシキってわけじゃあないから、ずっとずっとマシなのかも。
『顔だけ見てもいいですか』
 大人たちが頷いてそれを露わにする。ねえ、どんなふうに大きくなったのかな。理は覚えていないと思うけど、おまえ、おふくろ似だったんだぜ。
 だけど、そこにあったのは女の子の顔なんかじゃなくて、もっとよく知っている――。
『……そーちゃん』
 名前を呼ぶと同時に目の前が真っ暗になって、そっから俺がどうしたのかは、よく分かんない。

「……環くん、環くん!」
「んあ」
 がばっと体を起こすと、そーちゃんのベッドの上だった。あれ、もしかしてそーちゃん、寝てただけ? とんちんかんな推理で余計に混乱していたら、ふわっと嗅ぎ慣れたアルコールが香って思わず顔をしかめた。
「……っ」
「た、環くん。あ、ビニールっ……」
「ん、っう、……うえっ」
 俺がビニール袋置いといたなんてよく気づいたな、と、頭の隅っこで考える。あーあ、しくった。酔っぱらったそーちゃんが寝たまんま吐いたら危ないから、一晩中起きているつもりでいたのに、このざま。
「大丈夫? 苦しい?」
「ん……へーき。昔よく吐いてたし」
 そーちゃんが心配そうに背中をさすってくれるけれど、そんな非常事態ってわけでもない。俺だけじゃなくて、施設のガキって小さい頃は皆、なぜかよく吐いてた気がする。それも大体、決まって夜中。もしかしたら俺が知らないだけで、施設に住んでない奴らもそうだったのかもしれないけれど。
 といっても不快なもんは不快だ。喉が痛いし、かといってそーちゃんのために用意した水に口をつけるのも申し訳なかったので、片付けがてら飲み物を取ってこようと立ち上がる。それに続いて、そーちゃんも。
「そーちゃん、寝てなよ」
「どうしてっ……僕も行くよ」
「なんで? 別にへーきだってば。そーちゃんこそ、体だるいんじゃないの」
「それはいい、気にしなくて。寝かせてもらってすっきりしたから」
 このやり取りがかったるくて、素直に二人でトイレに向かった。慣れっこなのは本当で、ハラハラした面持ちのそーちゃんを尻目にちゃっちゃと物を始末しながら、手早く口をゆすいでキッチンへと移る。
 口直しに王様プリン、食べたいけど。そーちゃんの見ているところでそんなものに手を延ばしたら、すごい剣幕で叱られるだろうな。優しいたまご色を朝ご飯へ見送り、作り置きの麦茶をコップに注いで一気飲みする。
「はー、落ち着いた」
「……あの、答えたくなかったら答えなくてかまわないけど」
「ん? んー」
 そう相づちは打つけれど、俺が困るような質問なんて思いつかない。
「嫌な夢を見たの?」
 聞かれているのは俺のほうなのに、そーちゃんのほうが悪夢を見たような顔してる。寝言で何か言ったんかなあ。それで起こしたんだとしたら、悪かったな。
「そーかも。まあでも、たまにあるし。大したことない」
 それより、そーちゃんのほうこそ二日酔いになんかならないでよ。いつもとは逆に俺から説教してやって、そーちゃんをベッドへ戻し、廊下を少し戻って俺も自分の部屋の扉を開けた。
 今夜は好きなだけ電気を点けて寝直そう。そう意気込んだのに、節電のためにきっちり消灯してあったその空間が、なんだかとても――。
「……っ、やば」
 とっさに口に手を当てて部屋を飛び出す。トイレの扉がバタンと大きな音を立てて、案の定そーちゃんがすっ飛んできた。
「環くん、やっぱり一緒に寝よう」
 さっきまでなんてことないと思っていたそーちゃんの手のひらにひどく安心する。本音を言うならこんなふうに、背中をあっためてもらいながら眠りたい。
「でも、そーちゃんの布団、汚すかも」
「そんなことかまわないよ。気になるんだったら、君の部屋でもいい」
「俺の部屋……」
 さっき見たばかりの真っ暗な自分の部屋がフラッシュバックする。いや、もっと違うものが思い浮かんでいたような気もするけれど、とにかく、今はあまり思い出したくない光景だ。
 でも、どうしよう。このまま自分のベッドで眠れなくなってしまうんじゃこの先困る。
「そーちゃん、やっぱ俺のベッドでいい?」
「いいよ。気にしないでって言ってるだろう」
「だって、ごめん。本当はまだちょっとしんどいんだろ」
 日中、俺はソロの仕事で遠くに出ていた。いつもはあまり遅くならないうちに寮へ帰れるのだけど、今日は運悪く電車に乗っている途中、人身事故による運転見合わせに巻き込まれてしまったのだ。夜9時を過ぎた頃から、ヤマさんとみっきーが俺にSOSのラビチャを何度も飛ばしてきていた。俺が寮に着いた時、そーちゃんはソファで寝かしつけられた後だった。
 いつもと違うのはそーちゃんがもう眠っていたことだけだ。俺は普段通りだらしない大人たちからそーちゃんを引き取り、水とビニール袋を用意して、そーちゃんをそーちゃんのベッドに横たわらせた。俺までうっかり寝てしまったのは誤算だったけど。
「こんな時まで優しくしてくれなくていいんだよ」
「こんな時ってなんだよ。てか、優しくねえし。反省しろよな、ちょっとは」
「はは、ごめん」
 苦笑したそーちゃんに胸が少しだけ癒される。もう一回だけ口をゆすいで、麦茶とコップを拝借して、改めて俺の部屋へ二人で戻った。電気を点けるか迷っていると、そーちゃんがパチパチとスイッチを瞬かせて、赤ちゃん電気だけを灯してくれた。
「あ、そういやこれ。後でそーちゃんに直させろって、みっきーが」
 そーちゃんを運ぶ時に自室へ放り込んだオレンジ色の布が、そのまま床に転がっている。そーちゃんの部屋に持っていったらそのまま言うのを忘れそうだと思ったんだ。
「三月さんのシャツじゃないか」
「そのとーり。ボタンぶっちぎって脱がせたっつってた。明日修理してあげて」
「……うそ」
「ヤマさんもいろいろされてたよ。見る?」
 みっきーのシャツと一緒に転がしてあったスマホを手に取り、阿鼻叫喚で埋め尽くされたグルチャのページを開く。ヤマさんとみっきーいわく、俺の帰りが遅いせいで、今日のそーちゃんはいつもより荒れていたらしい。
 ベッドに寝転がって落ち着いてから証拠を示してやると、そーちゃんが見たこともないような顔で嫌悪感を露わにする。
「ジョッキ一個だめにしたって。あれ、ヤマさん、ビール飲むためだけに買ったのに」
「ああ、明日謝らなきゃ……。ねえ、画像を見るにだいぶ暴れてるけど、ケガとかさせてないかな」
「暴れてるというか、襲いかかってた。みっきー、キスマークつけられまくったって」
「なんだよそれ、死にたい……」
 両手で覆った顔を俺の胸に埋めてきたそーちゃんに、はは、と笑いが漏れた。そーちゃんが弱っている今なら、俺の弱音も、どさくさに紛れて吐き出せそうな気がした。
「ねえ、そーちゃん」
「……なんだい」
「『死にたい』って言うの、やめない?」
 そーちゃんが弾かれたように顔を上げる。あんまり深刻に捉えてほしくなくて、俺はなるべく笑顔を崩さないように努める。けれどそーちゃんの顔が泣きそうだったから、つられてやっぱり上手くいかない。でも泣くのは絶対嫌だったから、心置きなく我慢できるよう、そーちゃんの頭を抱え込んでもう一度自分の胸に押し付けた。
「そーちゃん、二日酔いの朝とかによく言ってんじゃん。でもさ」
「あの、環くん。僕は」
「知ってる。別に本当に死にたかねえだろ。だからそんなこと言うのヘンじゃんって話」
 頼むから、俺が傷ついているだなんて思わないで。そうだね、ヘンだよね、笑ってただやめるよって言ってほしいだけ。
 だって、死ぬってどういうことなのか、そーちゃんだってよく分かってんだろ。人間、死ぬ時っていうのは、こんなふうにどんなに強く抱きしめていたって絶対に届かないどっかに行って、永遠に帰ってこないってことだ。すぐそこにいるのに「いない」っていうあの気持ち悪さを、そーちゃんもよく知っているはずなのに。
「……僕もね」
 そーちゃんが静かに口を開く。喉に何かが込み上げてくることはなかったけれど、いっそそうなってトイレに逃げ込めたほうがマシかもしれなかった。俺は基本的に嫌なことは嫌って言うし、やめてほしいことはやめてって言う。この話をするのだけがずっと怖かったのは、その言葉を俺の口から言いたくなかったから。
「僕も、叔父さんが亡くなってから、その言葉が極端に苦手になった」
 温かな吐息で俺の胸元がほわ、と湿る。二人の間にあるそーちゃんの手が、小刻みに震えているのが触れなくても感じ取れる。
「でも、冗談で皆よく口にするよね。教室で誰かがそう言うのを聞くたび、頭が真っ白になったり、動けなくなったりしたよ」
 学校に通ってたそーちゃんの話を聞き慣れていなくて、いっそう鼓動が早足になった。俺は学校には真面目に行っていなかったし、登校したとしても教室にいる時間なんて最近までほとんどなかったから、そーちゃんがそんな思いをしたことがあるなんてまったく予想できなかった。
「黙ってじっと耐えていれば周りに変に思われることもないからよかったんだけど、一度だけタイミングが悪くて、パニックになってしまったことがあって。――人前であんなみっともないざまを晒すなんてもうごめんだと思った」
 予想できなかったけれど、聞けばやっぱり、そーちゃんらしいなあ、と思った。先に続く内容はもう大体分かる。
「対策はいろいろ考えたけれど、結局、僕自身がその言葉に慣れるしかなかったんだよね」
「だから自分でも使うようになったの?」
「そうだよ」
 そーちゃんっていっつもこう。いや、昔からこうなんだな。何があっても抵抗しないで、自分が合わせる方法を考える。
「でも、あまり品のいい言葉ではないよね、ごめん」
「いい。謝んなよ」
「環くんが苦手ならやめるよ」
「へーきだって。理由あったんだし」
 それに、そーちゃんが言ってること、分かる。言葉って力がある。俺はずっと、そーちゃんが「死にたい」って口に出すたび、いつか本当にそうなっちゃうんじゃないかって思えて嫌だった。嫌だと思うことすら受け入れられなくて、逃げて逃げて今日まで来たけど、そーちゃんはその言葉の力ってやつを、逆に乗り越えてやろうと頑張っていたんだな。
「そーちゃん。俺の話もしていい?」
「いいよ。なんだい、環くん」
「あのさ、俺さ、朝起きれねーし遅刻するし部屋も汚いのに、あいさつはよくするって褒められんの」
 意外な内容だったのかもしれない。思い詰めたみたいな顔をしていたそーちゃんが、面食らったみたいに口をぽかんと空けた。笑った顔の次に、びっくりしてる顔が好きだな。内緒でそんな発見をしながら、少し穏やかになった気持ちで、相変わらず口数の多いそーちゃんの返事を聞く。
「そうだね。僕も驚いた。もしかしたら僕たちよりもしっかりしているんじゃないかな」
「だろ。そんでさ、俺が一番最初に覚えたあいさつ、『おやすみなさい』だった」
 そーちゃんは今度はくすくすと笑う。子供みたいって思ったんだろうな。どうせ「いただきます」だったって同じ反応をするくせに。内心文句でいっぱいだけど、不思議と腹は立ったりしない。
「赤ちゃん電気ないと寝れないって言ったろ」
「うん」
「寝息が聞こえないのもほんとは、怖い」
「言ってたね。静かなのが嫌だって」
「ん。おふくろが死んでから、俺が寝てる間に誰かいなくなっちゃってるんじゃないか、皆このまま起きないんじゃないかって、毎日ろくに寝らんなかった」
「……うん」
 暗い話じゃない。そーちゃんも分かってる。よかった。今度はそーちゃん、ちゃんとずっと笑ってる。
「園長のばあさんに泣きついたら、そん時から毎晩、『おやすみなさい』『また明日ね』って言ってくれるようになった。だから……」
「だから、きちんと挨拶をするようになったんだ」
「うん、だけど」
 今日はそーちゃん、おやすみなさい言う前に寝ちゃってたから。そう言うと、そーちゃんがきゅっと唇を噛んだ。この、俺が傷ついたんじゃないかって気持ちでそーちゃんのほうが傷ついてしまう時のこの瞬間の顔が、俺はたまらなく苦手なんだけど。でも今回はほんの少し、ほんの今だけの辛抱だ。
「そーちゃん、約束して。俺に毎日、おやすみなさいって言って。酔っぱらっててもいいから」
 それだけで俺はいつもより上手に眠ることができる。本当に、たったこれだけで大丈夫なんだ。言葉の力を知ってるそーちゃんなら、分かるだろ。
「……うん。約束するよ。お酒を飲むのも、君の帰りを待ってからにする」
「あ、そういうのはいい。なんか変えられると面倒くさい」
「ええ……? わがままだな……。じゃあ、できる範囲で努力するよ」
「うん、そのくらいにして」
 手のかかる子だな、そーちゃんが笑う。そうだよ、そーちゃんがいつも思っているとおり、俺はきっとまだまだ子供なんだ。
「じゃあ、おやすみなさい、環くん」
「うん、そーちゃん、おやすみなさい」
 でも、眠りたくない夜にお酒を飲んでしまうそーちゃんにもいつかきっと、このおまじないの本当の効果が分かるよ。