005 雨足の速さで

「そーちゃん!!」
 雨空に環くんの大声が響いた。退勤ラッシュに重なる時間帯だったけれど、姿を見つけるのは簡単だった。ビニール傘をバトンのように握って疾走する環くんを、道行く人が皆振り返っていたからだ。
「どうして差さないんだ。濡れてるじゃないか」
「え、だって走りづらいじゃん」
「屋根の下で待ってるんだから急ぐことないだろ」
「でも寒いじゃん。冷えたら困る」
 行こ、と環くんが僕の手を引く。人前だから、と振り払うより先に、その冷たさにぎょっとして、思わず両手で掴んでしまった。
「馬鹿じゃないのか、君」
「なんだよ。せっかく迎えにきてやったのに」
「それで君がそんなに濡れてちゃ意味がないだろって言ってるの」
「……そりゃ悪かったな」
 傘の柄をぐいっと胸に押し付けられて、取り落としそうになりながらもそれを持ち直していると、環くんは僕の数歩先へ出てしまった。既にぺちゃんこの長髪から、ぽたぽたとしずくが滴っている。パーカーの下も大分濡れているだろう。追いついて背後から傘を傾けると、いかにも不満そうな顔で睨まれた。
「もう濡れてるからいい」
 環くんはフードを深く被り込むと、浅い水たまりを跳ね上げて帰路を駆けていった。
 寮に着き、まず環くんの外履きに新聞紙を丸めて突っ込んで、脱衣所で脱ぎ捨てられた衣服を確認し、一つ溜め息をつく。この程度の喧嘩ならよくある。原因の解決を図らずとも、翌朝にはのん気に「おはよー」「あと5分」「朝ご飯はプリンがいい」だ。
 それでもラビチャでおやすみくらいは言っておこうかなと思い、台所に食器が下げられていないのを見て大和さんに確認すると「眠いからもう寝るっつってた」とのこと。通知音で起こしでもしてこれ以上機嫌を損ねたくはないし、明日ゆっくり話せばいいかと、逃げてしまったのが良くなかった。

「環くん。入るよ」
 毎朝起こされるのを鬱陶しがりながらも鍵を締めずに寝てくれるのは、環くんのいいところだ。今朝も忘れずにノックをして、起床時刻のボーダーより早めに扉を開けた。昨晩は少し寒かっただろうか、普段なら毛布を蹴っ飛ばしている環くんが、珍しくミノムシみたいに包まっている。
「……ん、うー……今日、休みじゃ……」
「一度寝坊すると癖になるから。頑張って」
「やだー……」
「三月さんがホットココアを作ってくれたよ。好きだろ」
「んー……好き。起きる……」
「あ、目はこすらないで」
 起き上がってまぶしそうに顔を覆った環くんの両手を取って、至近距離ではたと目が合う。あ、近い――と慄いたのもつかの間、赤く潤んだ瞳に反して僕の顔は青ざめた。
「環くん、もしかして」
「あ? うわっ」
 大きな図体をばふっと押し倒して額に手のひらを当てる。熱い。やってしまった。
「そーちゃん、ココア冷める」
「ココアは持ってくる。寝て。布団をかけて。おもちゃは端に寄せるよ。何かテーブルを――あ、あと着替え」
 ダメもとで、部屋の隅に追いやられていた環くんの衣装ケース、というより単なるプラスチックの箱をひっくり返すが、ろくに使われていないハンカチくらいしか出てこない。当たり前だ。今日の休みにまとめて洗濯を済ませる予定だったんだから。
 ナギくんよりも大和さんのほうが体格が近いか。自分の寝間着を貸せないのは少々腹立たしいが、勝手なことを言っている場合じゃない。
「え、急になに。手伝おうか」
「いいから、寝て! 二度寝してかまわないから」
「なんだよ。気になるじゃん」
「ああ、もう」
 居間へ走ってとりあえずココアを渡す。冷めるまでに飲み切ることに集中してくれるだろうから、その間に世話の準備を整えなければ。気づかぬうちにドタドタと足音を立ててしまっていて、どうしたどうしたとあちこちからメンバーが顔を覗かせる。「環のことになるとホント人が変わるよなー」なんて三月さんに笑われた。不覚だ。
 さて不本意ながら大和さんのスウェットに身を包んだ環くんは、案外休むことに協力的だった。初めこそ「別に悪いところなんかないし」と鼻声で反抗していたのだが、さながら襲いかかるようにして熱を計らせた後は、納得した上で布団の中に戻ってくれた。聞けば、施設では他の子にうつさないように、風邪をひいた時は絶対安静を命じられていたらしい。
「卵粥、食べられるかい」
「ん」
 表情だけはけろりとしている環くんに声をかけると、鼻をぐすぐすと鳴らしながら上半身を起こして、ぱか、と大きく口を開けた。
「自分で食べられるだろ」
「食べられない」
「ここに置くよ」
「じゃあいい」
 ふて寝するみたいに潜り込まれた上、背を向けられてしまった。食べてくれないと薬を飲ませられない。分かってやっているんだろうか。
「……仕方ないな」
「食べさせてくれる?」
「今回だけだよ」
 ベッドに腰掛けようと膝を立てたところで、うつ伏せに寝返りを打った環くんが肘をついて、再度「あーん」の顔を向けた。憎いはずの可愛らしさが、今日は安堵の材料になる。
「その体勢、つらくない?」
「へーき。そーちゃんが腕上げるより楽だろ」
 行儀はよくないけれど、僕を思い遣ってしてくれたことなら受け取ろう。嬉しく思うだけで十分なはずなのに、胸の奥が少し痛んだ。
 匙を環くんの下唇に載せ、食むのに合わせて奥へ傾ける。環くんの口元ばかり見つめていなければならないのが落ち着かなくて、せめて沈黙を破るものがありはしないかと考えるけれど、気を逸らしたらこぼしそうで、やむなくそのままでいるしかなかった。
 僕が差し出した食べ物を、環くんが受け入れて飲み下す。とても不思議な時間だった。そのうち居心地の悪さも忘れて、自分が温かな液体を掬うさまと、繰り返し開閉する柔らかな唇に見入った。
「そーちゃん。そーちゃん?」
 思わず肩がびくっと震えて、それにまたびっくりした。いつの間にか器が空になっていて、環くんが僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「どうした、そーちゃんも風邪ひいた?」
「あ、ううん。大丈夫だよ」
「ん。ありがと、ごちそうさまでした」
 薬を渡そうとするとまた口を開けるので、いい加減にしてくれる、と睨んだらしぶしぶ手のひらを出してきた。何度もやっていられない。大体こんな小さな錠剤を指でぽいぽい放り込めというのか。
「そーちゃん、やっぱ具合悪いんじゃない」
「大丈夫だって」
「部屋で寝てたら」
「うん……いや」
 首をかしげる環くんを置いて、足早にキッチンへ向かい簡単に器を洗った。ついでに洗面所でハンガーとタオルを数枚拝借し、ささやかながら乾燥対策を整える。自分の部屋でマスクと読みかけの本を調達してようやく戻ると、環くんは先ほどと同じ腹這いのまま、相変わらず赤い鼻をすすっていた。
「咳が出なくてよかったね。念のため君もマスクをしておいて」
「わかった……けど、そーちゃん、まだ何かあんの」
 自分もきっちり鼻まで覆って、ベッドにもたれるように座り、特段続きが気になっていたわけでもない啓発本のページをめくった。環くんの顔は見えないけれど、こちらを伺っているのが気配で分かる。
「眠っていいよ。汗をかいた頃にまた起こすから」
「別に着替えくらい一人でできるけど」
「さっきまで甘えてたくせに何を言ってるの」
 君に任せていたら夜まで眠り込んで体を冷やしかねないし――とはもう説明しない。黙ると環くんも諦めたみたいで、もそもそと毛布を引っ張る音がした。
「……自分のせいだと思ってんだろ」
 突如向けられた遠慮のない物言いに、胸の奥の痛みが蘇ってくる。
 最近は僕も考えるようになった。環くんが言い出すことで、且つ僕が言い出しづらいことこそ、二人の間でするべき話なんじゃないかと。でも、本当に思ってることを言ったら環くんを悲しませることも、同時に分かるようになってきていた。
 心が通うほど言いたいことは言えなくなる。だから今でも時々、隣にいることに不安を覚える。それすら打ち明けないのは、不安定ながらも積み上げてきたものを自分の浅慮一つで崩したくないからだ。そんな壊れ物を扱うみたいな接し方をしながら築けるものなんて、結局脆いものにしかならないのは知っているのに。
「いいよ。気が済むまでいれば」
 あまつさえ環くんが寂しそうな声を出すことがあると、たまらなくなる。背を向けていてよかった。焦りで体温がどんどん上がる。なおも煮え切らずに身を固くしていたら、環くんがううん、と伸びながらあくびをした。眠たいのかな、と思いきやスマホでゲームをやり始めたので、僕はようやく本を閉じた。
「昨日……傘、ありがとう」
「ん」
 ピコピコ、チャリンチャリン、重たい雰囲気に似つかわしくない電子音がせわしなく響く。快活なメロディとともに、スマホが枕元へ伏せられた。
「また傘なかったら連絡して」
「うん」
「また走ってくから」
「……ありがとう」
「約束だからな」
 本を傍らに置く。深呼吸をする。出会ったばかりの頃、案外口うるさいやつだな、と文句を言われた僕は、今はここにいない。自分の気持ちばかりを主張する子供みたいな環くんも、いなかった。
 振り返ると同時に環くんもこちらを向いて身を起こした。ふわ、と温い空気に汗が香る。
「次、そーちゃんの言いたいことは?」
 僕の頬を包んだ両手がしっとりと心を柔くしていく。以前は、それが怖かったのに。
「……風邪、ひかせてごめん」
「いいよ。……これで終わりだからな」
 マスクがなければキスをしたかった。そのぶん、胸と両腕ありったけの力で環くんを抱き締める。僕の腰にしがみつくようにした環くんの耳がちょうど心臓のところに来て恥ずかしかったけれど、体勢を変えたりはしなかった。
「仲直りしよ」
 唇を噛んでいたから、代わりに首を何度も縦に振った。途端に、環くんから派手なくしゃみが二発飛び出す。
「ごめん、冷えたんだ……ええと」
「そこそこ。あのへん」
「どこだよ」
 主の指示でおもちゃの山からティッシュを見つけ出し、ぱぱぱと引っ張りながらマスクを剥いで、そのぼんやり顔に押し付ける。
「んぶ、それくらい自分でできる」
「あ、そう」
「マスク、汚したかも」
「いいから。早く鼻かんで」
 妙に山盛りになってしまったティッシュを怪訝な表情で使用するのを見ていたら、今度は笑いが込み上げてきた。ゴミ箱取ってよ、と指図する環くんの口元もゆったりと微笑んでいて、だからどこだよ、と悪態を返した。
 一人置いてったりはしないと君は言うだろうけど――強い大人になっていく君に、ついていかないといけないね。