004 片袖の報い

「ばか!!」
 ふわん、と、俺の声が四方に響いた。いつもなら、夜だろ、静かにしろ、ってそーちゃんが叱ってくれるところだった。
 もともと知ってるような知らないような、何度か来たことがある程度の街だったから、そーちゃんを探して走り回ってたら、あっという間に迷子になった。
「環くん……」
「俺の顔わかってて離れたのかよ、ばか」
 飲み会の席であんなにさみしいさみしい言ってたそーちゃんが、俺――誰かのそばから進んで離れるくらいだから、どうせ行くなら人気のないところだと思った。勘は当たった。大きなビルの裏と裏の間を走る、線路だけの殺風景な道にそっとまたがる、細い歩道橋の上にそーちゃんはいた。
 誰もが名を知るような駅のやかましさも遠くに聞こえる。少し歩けばすぐに都心らしい景色が戻るだろうに、夜風が余計に冷たく感じる。
「そーちゃん、寒くない?」
 顔をずいぶんと赤くしていたそーちゃんの腕は、そういえばびっくりするくらい熱かった。あんまり強く掴むと痛いかもって、怯んだ隙に逃げられたんだ。
「さむい、かも」
「じゃあ早く帰ろ」
「さむいかも……」
「……あー、もう」
 拳を握ってぷるぷる震えてるさまが見ていられない。仕方ないからジャケットを脱いで、棒立ちの体に押し付けた。変に厚着になるのはともかく、大きさは問題ないだろう。しかしいつまで経ってもそーちゃんはそれを受け取らない。
「あー……もう」
 後ろ向いて、なんて言っても聞くわけがないから、くるんと肩を反転させて、相変わらずほっかほかの右腕を袖に通してやった。左腕はどうにも上手くいかないので、しょうがないから垂らしたまんま、前のボタンをきっちり締める。
 ほうっと息を抜いたそーちゃんは、回れ右をして向こう岸へと歩き出した。帰るのかな、と思ったけれど、結局すぐに立ち止まってしまって、線路の果てをぼんやりと眺め出す。
「帰りたく、ない?」
 うん、と言われても困るのに、思ったことをそのまま尋ねてしまう。そんな後悔も無意味に終わる。頼りない右手がおもむろに上がって、色の剥げた桟をきゅっと掴んだ。
「帰りたく……」
 華奢な喉の奥で潰れそうな声に、今は電車来ないで、と祈った。線の細さに反して力強い歌声がいつも人を驚かせるのに、こんなか細い音で話すんだ。聞こえないよと耳を寄せたいけど、また逃げられてしまいそうな気がしてできない。
「帰りたくなかった……の……かも」
 心許ない答えはそーちゃんらしくない。けれど今は酔っているから、らしさなんて当てにならない。
「わかんない?」
「ううん……わかる……」
 わかるならいい。帰りたくないと言うなら少しくらいは付き合ってやる。ここにいたいのか、どこかへ行きたいのか、一応確かめようと口を開きかけたところ、そーちゃんが身を乗り出したのでぎょっとした。
「ちょっ……危ねえだろ!」
 わん、と、俺の声が八方に響いた。やっぱりそーちゃんは怒らない。今は俺が怒っている。早いところ見つけてよかった。安心と不安でぐるぐるしながら、そーちゃんの頬の近さに気づいてびっくりしたけれど、今は肩を掴む手を離せない。もしこのまま落っこちでもしたら、……想像だけで泣きそうになる。
「そーちゃん、ほんと、頼むからしっかりして」
 目立った反応は特になく、タタン、タタン、と電車が近づく。俺は身を固くして、そーちゃんの横顔を見守った。そーちゃんは視線を落としたまま、電車を見ているのか闇を見ているのかは、わからない。
「一人の……家になら」
 線路を叩く音にぽつり、弱々しいつぶやきが溶けていく。
「帰りたくはなかった……けど」
「なに言ってるの」
 寮に帰れば皆いる。やっぱりそーちゃんは寂しいんだ。帰ったらきっと元気になる。そう思って腕を引いたのに。
「そこにしか……」
 何かがとり憑いているんじゃないかと思うくらい悲しそうな、小さな小さな声だった。それでも、伺い見た瞳は潤んでいない。まるでなんにも見ていないみたいに。
「そーちゃん……手、冷えちゃうよ」
 ぎゅう、と鉄の上で握り締められた手に俺の手を重ねる。強張った指先を包むように掬ってやると、解けるように和らいだ。
「このまま……あの人が」
 すっと俺の両腕の間に滑り込んできたそーちゃんの体が、凍るように冷たく感じた。それは俺のジャケットの温度だったのかもしれないし、俺の体が思っていたより熱かったからかもしれない。
「あの人が……飛び降りでも……したら、僕は……僕を責めて、それで……終わったのに」
 ともかく俺はそーちゃんに抱き締められて、そーちゃんの色のない声を、ほんの耳元でぜんぶ、聞いた。
 タタン、タタン、と灯りが真下を通り過ぎて、二人の息だけがしばらく続いた。ふと、とん、と重みが俺の胸に伝わる。成功するかは一か八かで、背中と膝裏に手を添えた。
「よい、しょ」
 平均より大きな大人を抱え上げ、慎重にその場に腰を下ろす。思うより難しかったけれど、ふらつく頭がこちらにもたれて、心がちょっとだけ落ち着いた。
「このまま、寝ちゃいな」
 暗闇でなければ眠れないと言っていたから、両目を片手で優しく覆う。寝息が聞こえてきたらタクシーを呼ぼう、ここがどこなのかあまりよく分からないけれど――。
 そーちゃんが目を覚ました時、いつもと同じ寮のベッドで、おはよう昨日はお疲れさま、笑ってそう言わなくちゃ。