003 秘密

 ちゅ、と鼻の根を吸われて吐息がかかる。温い指に前髪を掻き上げられると自分の表情が気になって、思わず目を閉じた。
「やっぱさ、落ち着かないもん?」
「何が?」
「下になるの」
 ぱち、と再び視界を解放する。眉を歪めて唇を少し尖らせた、言い得ぬ不満に満ちたような子供らしい顔が好きだ。何を今さら、なんて返したら怒るかな。
「もう慣れたよ」
「慣れたってことは、やっぱいや?」
「喰い下がるなあ……どうしたの」
 環くんに覆いかぶさられるのに慣れてきたのは事実だ。結局この体勢がお互いに楽だった。環くんは僕の全身を一望できるから、変化に気付きやすくてありがたいのだという。僕としては恥ずかしいから、もう少し手を抜いてくれたってかまわないのだけど。
「だって、そーちゃん言わねーもん」
「大丈夫だよ。言うって決めただろう」
「その大丈夫の基準がずれてんの」
 溜め息をつきそうになるのをぐっと飲み込む。まさか一枚と衣服を剥ぎ合う前からこんな問答が始まるとは。
「僕のことは僕が一番分かるよ」
「バカ言え。そーちゃんの粗相、ひとつずつ話してやろうか」
「……それはやめて」
「おー。ホントにちゃんと言った」
 環くんが険しさを解いてへらっと笑う。からかわれているのかも知れないけれど、その無邪気さがやっぱり好きだ。
 もういいだろ、と告げるつもりで環くんの首を抱く。けれど太い腕に阻まれて、距離は少しも縮まらない。
「嘘だよ、そーちゃん」
 環くんの笑顔にもいろんな種類があるんだと知ったのはいつだっただろう。長い髪で影になるのがもったいなくて、伸ばしていた手を薄い頬に滑らせる。ようやく唇が落ちるけれど、それは優しく触れるだけ。
「ね、いつ俺のこと好きって言ってくれる?」
「うーん。まだ秘密」
「でも、嫌いなわけじゃないもんな?」
「そうだね」
 早く隠してくれないかなあ、環くんの手が僕の額をやたらに撫でる。やがてそこにも口づけられて、妙に心臓が逸り出す。
 環くんは女性を抱いたことがないのだという。けれど人を大事に抱く方法を分かっている。僕は人並みに経験はある。けれど当然、抱かれ方なんて知らない。
「環くん、今日、する気ないだろ」
「分かんの。やっぱ」
「環くんのことだからね」
「ほー。じゃあ俺が今考えてること当ててみて」
 大きな体が横にごろんと反転する。表情を追えばたれ目が悪戯っぽく細められて、長い腕が僕の背を包んだ。
 この場所にいながら君に返す「好き」は、君と同じ「好き」じゃない。それが分かっているから、僕は君に「好き」とは言い渡さない。二人だけの方法があるはずだとこの関係に踏み出したけれど、君より抱き合うことを知る僕が得た結論は、僕を納得させるものではなかった。
 君が好きだ。君を愛してる。願わくは僕のいない世界で晴れやかな幸せをと祈るほどに。このことは君にはまだ、秘密だ。もし君が僕から離れる日が来たら、そっと教えてあげたいと思う。
「ええと。眠いんでしょ」
「てきとう言うなよ」
「てきとうって分かった?」
「そーちゃんのことだからな」
 いろんな答えをはぐらかす僕にも得意げに笑う君が愛しい。胸を寄せ、今日初めて僕から口づけると嬉しそうにはにかむから、あらゆる歯がゆさが込み上げて泣きたくなった。
 環くんの顔を見ると安心する。一生そばにいる未来だって信じられる。けれどやっぱり想像をする。環くんが自分よりひと回りもふた回りも小さな女の子を、守るようにその両腕に包み込んで、抱き上げながら笑い合って、やがてもっと小さな命を大きな手のひらで慈しむ。そんな彼も、きっとこの世のどこかにいた。
「そーちゃん、すき」
「うん。ありがとう」
 意志を挫く欲望に逃げ出したくなるのもまた、秘密。――もしも生まれ変わったら、君と底抜けに明るい恋がしたい。