002 生徒と先生

 空や木の葉が光って見える。通い慣れた道なのに。
「そんなに振り返らなくても、ちゃんと着いていってるよ」
 不思議そうに首をかしげるそーちゃんは、俺と同じジャージに身をつつんでいる。本当は伊達メガネもマスクも外してもらいたかったけど、そーちゃんがどうしても変装したいと言ったから、仕方ない。
 皆で学園ドラマをやることになった。もともと高校生なのに高校生の役をやるなんて面白いなー、と俺は気楽に構えていたけれど、そーちゃんはまた何かいろいろ気負っているらしい。台本の読み合わせをしていたら、体育館の広さが不自然だとか、机の構造がおかしいだとか、こっちまでワケ分かんなくなりそうなことを言い出すので、俺の高校を見せてやることにしたのだ。
 休日だけれど、部活をやってる生徒はいっぱいいるから、雰囲気は感じてもらえると思う。俺もバスケ部のキャプテン役だし、大事だよな。
「着いた」
「思ったより賑やかだね。ねえ、僕、ちゃんと生徒に見えるかな」
「ん。似合ってたよ」
「……どうして過去形なの」
 メガネとマスクをしてなかった、寮でのそーちゃんを思い浮かべてコメントしたからだ。部活のために登校した生徒を装おうということで、俺のジャージは俺が着ることになり、そーちゃんはいおりんから借りることになった。これがまた、大きさぴったりで。身長がほぼ同じだから当たり前なんだろうけど、なぜだか胸がきゅっとした。
「いや、似合ってる、ホント。帰ったら俺のジャージも着てみ」
「えっ、いいよ……こんなのは一度きりで」
 落ち着かなさそうに上着の裾を広げているそーちゃんの腕を取って、いざ校門から一歩踏み出す。まずは体育館だ。バスケ部もいるかな。
「ここなの?」
「うん。あ、ほら、あのゼッケンが主将」
「環くんの役だね。でも、環くんの役柄と違って、熱そうな人だ」
「熱血のベンキョーさせてもらいなよ」
 二人してつい練習試合に見入った。すると、ボールがコートの外にてんてんと飛び出して、隣の柔道部の畳の上に転がっていく。
「武道場は別の部が使ってるの?」
「ブドウ? 畑なら裏にあるけど」
「ええと、柔道とか剣道とかをやるための部屋というか」
「ないよそんなの」
 今度は二人して不思議そうな顔を見合わせてしまう。そっか、そーちゃんの学校、大きかったんだな。
「だから廃部寸前のバスケ部が体育館を追われたりしていたんだね」
 そこからか。マジメに校内ツアーを計画したら、一日じゃ足りなさそうだ。ちゃっちゃと回ってしまおう。次は教室だ。
 体育館と渡り廊下でつながっている校舎は、あちこちで順番待ちの部活の人たちが筋トレやミーティングをしていると思う。端っこの古い建物なら見学しやすいかな。俺なりに考えながら、またそーちゃんの前をゆっくり歩いた。
「下駄箱にフタ、ないんだね」
「あったら邪魔っしょ」
 いちいちおかしいことを言う。靴を入れるたびにそんなもの開け閉めしなくちゃいけないのなら、俺は初日で外してる。
「そうかな。中を隠すものがないと、手紙とか入れづらそうだ」
「なくても普通に入ってるよ」
「あるの? 入ってたこと」
 からかうように笑われる。やたらと年上ぶってくるところはやっぱり、ジャージを着ててもいつものそーちゃんだ。
「返事はした?」
「しねえよ。ていうか忘れてなんかそのままになった」
「今からだって相手は嬉しいと思うよ」
「……そんないいこと書けねえもん」
 いつも通り上靴を履こうと思ったけど、改めて見るとぺちゃんこで汚くて、出すのが嫌になった。来客用のスリッパを二足並べたものの、絶対歩きづらいと確信し、俺だけ裸足で上がる。
「上靴、履かないなら借りてもいいかい」
「やだよ。なんで」
「スリッパじゃ、在校生じゃないってバレるだろう」
「誰もそこまで見ないって」
「見るよ。眼鏡にマスクなんてどう見ても不審者だ」
「そーちゃんがつけたいって言ったんじゃん」
 パタンパタン、階段でそーちゃんがぎこちない足音を立てる。これが大変なんだ。俺は裸足で正解だったな。
「コケんなよ」
「心配するなら、上靴貸してくれよ……」
 困った声はぜんぶ無視だ。もう履かせる機会はないかもしれないけど、上靴、今度洗っておこう。
 天井の顔みたいなシミや卒業制作の古びた鏡、廊下の掃除用具入れなんかにいちいち驚くそーちゃんを振り返りつつ、昇降口から一番遠い階の、廊下の端の教室へ来た。向かいの校舎から吹奏楽部の演奏が聴こえる。
「ああ、この机なら確かに倒れるかも」
 また何かヘンなことを言ってる。俺もだんだん慣れてきていて、そうだよ、とか適当に返した。
「せっかくだから少し練習しようか。生徒指導のシーン、ここならできるだろ」
 熱血数学教師のそーちゃんが、俺にもっと友達をつくれ? みたいな話をしにきて、俺が怒って机を倒し、教室を出ていくところだ。寮には倒しやすい机も、引き戸もなかったので、ずっとそこにあるつもりでやっていたんだけど、フリでやるのがおかしくって、俺がいつも笑ってしまっていた。
「ん。そーちゃん、危ないからもう少し離れて」
「本番ではこのくらいの距離だろ」
「痛いのは本番だけでいいよ」
 放課後の教室で、俺の席の前の椅子に座って俺に説教するそーちゃん、が正しいセッティングなのだけれど、絶対ぶつかると分かっている距離で机を倒すのは、いくらなんでもやりにくい。
 わざわざ本物の教室に来たのに、なんて愚痴をこぼしつつ、そーちゃんはすっと顎を引くと、あっという間にセンセイの顔になった。
「環くん。一織くんは君のためを思って言ってくれたんだ。水をかけるなんて、ひどいじゃないか」
「……うるせーよ。そーちゃん先生、何も知らないくせに」
 そーちゃん、熱血なんてよく分からないとか言ってたけど、俺にお小言垂れる場面だけはフツーというか、まったくいつも通りだよな。
「そうかもしれない。だから話してほしい。君が――」
「うるせーって言ってんだろ!」
 ガターン、空っぽの机が派手に音を立てた。確かに、本物の教室だと気分が乗る。立ち上がる時に勢い余って椅子まで倒してしまった。
「先生だっていおりんのこと傷つけたじゃんかっ……」
 何度も思ったけど、この台詞どういう意味なんだろ。まあいいか。ヤマさんに以前アドバイスされた通り、怒りと悲しみ? が混じった気分? を想像しながら、後方の机をかき分けて出入り口のほうへ駆ける。追いかけてきたそーちゃん先生の目の前で引き戸を閉めなきゃいけないんだけど、これがまた身振りだけだと難しかったんだ――。
「いたっ!」
 バシーン、と思い切りのいい音を立てたつもりが、聞こえたのはゴツッという鈍い音だった。驚いて振り返ると、閉ざしたはずの引き戸が半分開いていて、そーちゃんが尻餅をついていた。
「え、うそ、そーちゃんっ」
「いたたた……おでこぶつけちゃった」
「ご、ごめん、ごめんなさいっ」
 急いで前髪をめくると、切ったりはしていなかったものの真っ赤になっていて、俺は両手が冷たくなるのを感じた。
「ど、どうしよう、えっと、冷やさなきゃ……保健室……」
「ま、待って、部外者を一人にしないでくれ」
「ああ、そっか、じゃあ一緒に」
「それはもっと危険だろ!」
 だって、じゃあどうすれば。パニックになった俺に、そーちゃんがハンカチを差し出した。
「濡らして当てておけばすぐ治まるよ」
「そ、そんなんでいいのかよ」
「大丈夫大丈夫。眼鏡が無事でよかったよ」
「そっか、それ割れたら危ない……」
 会話もそこそこに流しへ走り、上品な薄紫色の布を湿らせながら、せわしない心臓を鎮めるために深呼吸をした。扉閉めるシーン、変えてもらいたい。もう怖くてできそうにない。
「そーちゃん、これでいいの」
「わ、滴ってる。きちんと絞らなかったのかい」
「一回絞ったらぬるくなった」
 教室の後ろのロッカーに寄りかかって三角座りをするそーちゃんのおでこを覗き込む。変に腫れたりはしていないみたいだ。
「ほんとにごめんな」
「僕がどんくさかったんだよ」
「そーちゃん、そうやっていつも自分のせいにする」
「そんなことないよ。君にはよく怒ってるだろ」
 言ってすぐ、あ、とばつの悪そうな顔をしたそーちゃんの鼻やまぶたへ、何筋も水が流れていく。
「もう、ほら。だからもう少し絞ってって」
「そーちゃん、マスク濡れる」
 髪で隠れた耳に指をかけたら、文句がやんだ。メガネをずらさないようにそっとゴムひもをはずすと、熱がこもっていたのか、マスクに覆われていた辺りが少し赤かった。
「そーちゃん、メガネ、似合うね」
 滴ったしずくが唇まで濡らして、重ねた時、ちゅ、と可愛い音がした。おでこに負けじと赤くなった頬に触れたくて、手の甲でなるべく優しく拭う。
「ばか、ここ、学校だろ……」
「はは。ほんとにここの生徒みたい、そーちゃん」
 そうだったらよかったのにな。そしたらそーちゃんも生徒役を割り振られて、おでこぶつけずに済んだろうにな。
「先生だよ」
 急にマジメな顔になったそーちゃんが、こちらに腕を伸ばして首を抱く。とっさにハンカチをどかした俺に、火照った口元が薄く笑んだ。俺の気持ちなんか知りもしないで、そーちゃんはいつも、年上ぶってばっか。
 だけど、悪いこと教えてくれるならそれでもいいかも。勉強する場所でキスするそーちゃん、いつもの十倍色っぽい……とか。