001 どこか

「どこかへ連れて逃げたい……って、思ったことある?」
 僕のベッドに我が物顔で寝そべる環くんは、トーク番組の台本を読み合わせていたはずなのに、また突拍子もないことを言い出した。
「難しい質問するなあ」
 目の前のことに集中しないといつまでも終わらないよ、なんて小言を言ったら、それはそれで能率が地に落ちそうだから、今回は諦めた。収録はもう少し先だしいいか、なんて、最近環くんに感化されてきているかもしれない。
「難しいことないだろ。イエスとノーしかないじゃん、答え」
「それじゃあ君はどうなの」
「俺はそーちゃんに聞いてるの」
 ねえ、と環くんがベッドから身を乗り出す。僕はデスクに向かっていたから、距離はさして詰まらなかった。
 今まで曲の解釈になんかあまり興味を持ったことはなかったのに、突然どうしたんだろう。しかし最近は難しい歌詞の曲も増えてきて、どういう思いを込めるべきか皆で話し合うようになったから、この質問はもしかしたら良い傾向なのかもしれない。
 今すぐ抱きしめてこのまま……。人前でもう何十回、君の隣では何百回と歌っただろう。環くんが僕を好きだと言って、ようやく僕がそうかと頷いて、ずっと一緒にいようと決めた頃、この曲は歌えば歌うほど良くなるねと周りから褒められ始めた。
 それよりも前――僕が倒れた後、環くんは見違えるようとまではいかなくとも、意識的には格段に変わってくれたけれど、確かに僕に対して思っていたことを打ち明けてからも少しだけ、表情や声色が彩りを帯びたような気がする。
 だからといって、この曲の歌詞すべてに僕たち二人が全面的に共感しているのかというと、それはまた別の話なんだろう。実際に、僕は環くんに対して「ごめんね」と謝りたくなるような気持ちはないし、これからも持つつもりはない。
 だけど君は、あるのかな。
「ノーだよ。俺は」
 環くんがはーっと溜め息をついて、僕の頭は混乱する。機嫌を悪くさせたかな、なんて、最近はそんなことがすぐ心に引っ掛かる。
「思い詰めた顔しやがって。つまんねえ」
「……ごめん」
「ごめんじゃねえよ。俺はそーちゃんがごめんって言うの嫌い」
 とうとう台本を閉じた環くんが、身を起こしてベッドに腰掛けた。こちらへ来るのかとつい身構えたがその様子はなくて、申し訳ないながらも少しほっとした。
「そーちゃんは思わねえよな。どこかへ、なんて」
「どうして?」
 素直な疑問を口に出すと、むすっとしていた環くんの口が船の形を描いて笑んだ。
「行くとことかちゃんと決めそう」
「決めなさそうだよね、君は」
「んー。とりあえず真っ直ぐ行くと思う」
 どうせ知らない場所のほうが多いし、と大抵の人に当てはまるようなことをこぼしながら、環くんは結局また仰向けに寝転がった。起きていてくれたほうが良かったかもしれない。彼の語彙に反して多彩なその表情を伺うことができるからだ。
「……君は」
 いつか僕を連れて真っ直ぐどこかへ走っていくんだろうか。口には出さなかった。思い描いておきながらあり得ないと分かっていた。環くんには大切な妹がいる。この世のどこかに、ということにはなるけれど、そのことが今日まで彼を育て、真っ当な道を歩ませてきた。
 「言えない」「それでも」「好きなんだ」――相手を案じて自分の想いを閉じ込める、痛む心を殺して守りたいとそばに寄り添う、そんな優しい歌だと思ってた。でも、違ったんだ。環くんもそれに気づいたんだろうか。
「僕がもし、君を連れて逃げたいと言ったら?」
 環くんが寝返りを打ち、上目づかいで僕を見る。思わず逸らした視線はデスクに落とした。
「どこへ?」
「どこかへ。誰も僕らを知らないところ」
 開きかけの台本に添えていた手が震え出して、落ち着かせようとそれを閉じた。環くんが深く息を吸い、そして吐く。
「行こっか」
 単調に告げられた言葉に振り向くと、環くんが両腕を広げていた。「おいで」、と言うように。
 しばらく間を置いたが環くんの表情が揺らぐことはなかった。カタ、と椅子が音を立てる。長い腕の届く内に身体が入った後は、倒れ込むよう、という表現がぴったりだった。すぐさま強い力でぎゅうと抱き締められ、視界がくるりと反転する。急に立ち上がったせいか視界が眩んで、心臓がどくどくと忙しなかった。
「どこまで行く?」
 問いに返せず、目が泳ぐ。しかしすぐ唇に噛みつかれたから、答えなんてなくてもよかったのかもしれない。考えてみれば当然だ。行き先は「どこか」なんだから。
「……う」
 どこか。どこかか。舌を無遠慮に貪られる息苦しさに耐えながら、薄まる思考の隅で考える。そういえばわざわざ訊かれなくても決まっていたよなあ。連れていくのは環くんなんだもの。
「真っ直ぐ……」
「なに、そーちゃん」
「真っ直ぐでしょ、環くん」
 荒い息に声がかすれて溶けそうだった。でも二度目の言葉は聞こえたはずだ。
「うん……」
 環くんがうなずいて、泣きそうな顔をしたから。
 幸いなことなんだろう。「好きだ」と言えば「好きだ」と返る。時間も場面も選ばない。いつも君は隣にいる。そうして僕は気づいてしまう。君と同じ高さに立って、同じ色の音を奏でて、同じ言葉を口にして、同じ方角を向いた時――自分たちがとてつもなく、ふたりぼっちになっていること。
 逃げるということは、何かを振り切るということだ。置いていくということだ。二十年もの恩や血のつながりすら手放す薄情さが僕の内にあることを僕は知っている。僕もいろいろなものから逃げてここにいる。けれど「ずっと一緒にいよう」と二人で決めたから、「ずっと一緒にいるよ」と今日も言いたい。
「そーちゃん、行こう、今日も」
 君が望むならいいだろうって、身勝手な僕がそう決めた。だから今は誰も知らない。僕たちがこんなところにいることを。