ハピネス

 しょんぼりと肩を落とした環くんが僕の部屋を訪ねてきたのは、その日――クランクインの日の夜のことだった。
「……子供っぽいって言われた」
 手にはすっかりよれた台本が握られていたので、今日も僕に読み合わせを頼むつもりなんだろう。ホットミルクを淹れようか迷いつつ、早く話を聞いてあげたくてそのまま迎え入れた。
「今日、そんなこと話してたのか。元気そうに見えたのに」
「みっきーがそうしてろって言ってたから。ヘコんでも堪えろって」
 その甲斐はあったけどな、と力なく苦笑いしながら、環くんは僕に促されるより先に、ベッドへ腰掛けた。
 演技のレッスンを増やす時間的余裕がなかった代わりに、大和さんや三月さんが暇を見つけて、発声方法から仕込み直してくれた。練習の成果は出ていたとは思うけれど、やっぱり俺じゃダメなのかな、と環くんは背中を丸めた。
「君の演技、好きだけどな。何かアドバイスはもらえた?」
「アドバイスっつーか……。役の気持ちを掘り下げろって。これから練習してどうにかなるもんなのかな……」
「うーん……。合ってると思ったけど、僕は」
「女と付き合ったことねえから?」
 あいつ――主人公の少年――だって、初恋はとっくの昔に済んでんだけどな、と環くんは唇を尖らせた。めずらしく後ろ向きな声を聞いて、僕もデスクを離れ環くんの隣に座る。
「施設のお姉さんとか、気になったりしなかった?」
「施設の奴はキョーダイみたいなもんじゃん。そーちゃんこそあんの? センセー好きだったとか」
 先に顔を覗き込んでいたのは僕のほうだけど、顔を上げた環くんの目が間近に迫って、少し身を退いた。空色の純粋な瞳に応えられるほどの美しいエピソードは、僕は持ち合わせていない。
「そーちゃん、ませてそーだもんな。園にもそーいう奴いた」
「あ、あるなんて言ってないだろ」
「ねえの?」
「ないよ。記憶の限りでは」
「付き合ったこともねえの?」
 バサッと音を立てて台本が落ちた。床に物を置くことに抵抗のない環くんは、気にも留めない。かまわず身を乗り出して目を輝かされると、体は大きくてもまるで子供だ。動揺を悟られないよう努めながら、真実と模範解答の折衷案を高速で考える。
「ひ、人並みには」
「あんの? いつ?」
「大学にいた時に少し……」
「割と最近じゃん。どんなだった?」
「どんなって……」
 薄情な男だと思われるのも嫌だな。けれどそれで下手に隠して、やましいことがあると勘違いされても困る。
「普通のお付き合いだよ。告白されて、付き合って……」
「そのフツーの経験が俺にはないんだって。どんなことした? くっついたりすんの? 手つなげなかったりとか、電話かけんのに汗かいたりとかした?」
 ああ、そんなエピソードを通過する作品だったかな。不格好にひしゃげた台本を、変な折り目が付かないうちに拾い上げてやる。
「話したくないことだった……?」
「……それなりに恋人らしいことはしたけど。半年くらいで振られちゃったんだよ」
 情けない話しかなくてごめんね、と付け加えると、環くんは明らかに悲しそうな顔をした。いつもふてぶてしげな眉をしゅんと下げられると、どうしてもこのままでは帰せないという気分になる。
「ごめんなさい……」
「いや、失恋なんて大層なものじゃないから、気にしないで。僕も悪かったんだ」
「でも、そいつのこと好きだったんだろ」
「うーん……」
 そういうわけじゃない、と言ったら、この子の夢を壊すんだろうか。嘘はつきたくないとはいえ、さすがに慎重になる。かといって恋愛物を演じるのに、恋に夢ばかり見ているわけにもいかない。
「好きじゃなくても、付き合うことはできるよ」
「好きだったから告白受けたんじゃねえの?」
「それは、人それぞれかな……。でも、付き合ってみなきゃ分からないことのほうが多いだろ」
 だなんて、えらそうにご高説を垂れてみてはいるけれど、実際のところ相手がたまたま子会社のご令嬢で、どういう態度を取るべきか迷っている間に押し切られただけだ。別れ話すら予感する間も無くあっさりと終わらされた。理由はその時説明されたけど、トラウマになるほどのものでもなくて、正直あまり覚えていない。
「僕なりにデートプランを考えたり、頑張ったつもりなんだけどな」
「はは。そーちゃんの恋愛相談みたいになってる」
 でもちょうどいーかも、と続いたように聞こえた。どういう意味、と聞き返すより先に、環くんが食ってかかるように僕の両肩を掴んだ。
「お願い、あんだけど。ちょっとだけ俺と付き合って」
「う、うん? ええと」
 確かに夜も遅いけれど、台本の読み合わせなら、ちょっとと言わず何時でも――なんてベタな返しをしたらつねられそうだな。
「映画の……練習ということ?」
「ん。だってよく考えたら、ちゅーとかしたことない」
 環くんなりの言い分を聞きながら、隙をついてそっと胸を押し返す。ユニットを結成して年単位の時が経つけれど、仕事でもないのに息がかかるほど接近するのにはまだ慣れない。慣らしてもいないのだから当然だけど。
「初めてが本番の相手とか、無理。メーワクかけたくない……」
 環くんの手が震えていたのは、撮影への緊張からだと思う。気持ちは痛いほど分かる。
「そういうことなら、一肌脱ぐよ」
「ホント? ……よかったあ」
 ありがとそーちゃん、とそれこそ告白を受け入れてもらえたかのように、環くんは顔をほころばせた。そういえば僕の友情出演が決まった時も、こんなふうに嬉しそうにしていた。頑張る、と意気込んではいたけれど、個人での大仕事に、内心は不安でいっぱいなんだろう。まともなアドバイスができないとなった時は焦ったけれど、どんな形でも力になれるならなりたい。
「で、結局、ちょうどいいってどういう意味だい」
「だって、振られたんだろ? そーちゃんの練習にもなっかなって……なんで睨むんだよ」
「睨んでない。僕のことはいいから」
 正直余計なお世話だし、余計なことを話してしまったな。傷ついたプライドは見ないふりをして、僕も仕事用の鞄から台本を取り出す。
「あくまでも撮影のための練習だからね。早くページ開いて」
 初めてのキス、女性からの誘い、デートして、手をつないで、二度目のキス……僕の中の基準で環くんが慣れていなさそうなシーンをピックアップし、付箋で印をつけていく。ハグや添い寝は、環くんにとってはむしろ日常に近いし飛ばしてもいいのでは、と判断しかけたところ、横からペタと付箋を貼られた。
「初々しくしろって言われるに決まってる」
「なるほど」
 一度付箋を貼ることを許したら、料理、電話、ボタン付け、と練習箇所は増えていくばかりになった。
「裁縫くらい授業で習っただろ」
「覚えてるわけねえじゃん。ぜんぶ隙間時間でいーから、お願い」
 隙間時間と言われると、他のメンバーにというわけにもいかないし、環くんなりに効率よく経験を積もうとしているんだろうから、無碍にもできなかった。
 溜め息を呑み込んで、一番始めの付箋を確認する。交際経験がないとは言わないが、いきなり相方相手にどうこうできるほど、太い神経は持ち合わせていない。
「じゃあ、とりあえず明日からでいいかな」
「ん。遅くまでごめん。おやすみなさい」
 ベッドから腰は上げず、環くんを見送った。詰めていた息をふうっと吐き、改めて開いたままのページを指でさする。
「『不意に口付ける』……」
 今してもよかったんだろうけど。先ほどまで環くんのいた空間に上体を向けたら、リアルに情景が浮かんでつい頬が熱くなった。
 力になりたいと言いながら、そこまで大人ぶれるほどの自信は、最初からあまりなかった。ともあれ次のロケまで一週間はある。どのシーンを潰しておけばいいのか記しておこうと立ち上がった途端、デスクの上のスマホが騒がしく震えた。
「なっ、なに……!? もしもし……」
 電話の主は環くんだった。名乗られなくてもディスプレイの表示で判るが、受話口からくすくすと聞こえてくる笑い声につい眉が寄る。
『ごめん、びびった? 悲鳴聞こえた』
「ど、どうしたの。何かあるなら部屋に」
『なんもない。声聞きたくて』
「えっ」
 さっきまで聞いてたくせに、とか、とんちんかんな考え一つだけ浮かんで消えた。言葉が続かないことに自分で驚いて、ますます沈黙を長くしてしまう。
『やっぱキンチョーすんな』
「なっ、なにが……」
『別れたばっかなのに電話。そーちゃんもキンチョーした?』
 声震えてる、と指摘されて、もともと熱かった頬がさらに火照った。
「……環くん」
『おお』
「練習熱心で結構。明日からビシビシいくからね」
『おお……?』
 なんだか情緒のないことを言った気もするが、ともかくおやすみと通話を切った。台本を確認するとやっぱり、電話はだいぶ後のシーンだ。このまま環くんのペースに巻き込まれたくはない。妙な闘志の火種は突き止めぬまま、鼻息荒くベッドへ潜り込んで照明を落とした。
 初めてのキスは、女性のほうから仕掛ける。いつしてやろうか、と画策する僕のほうこそ、恋をした男みたいで笑えなかった。

 二人きりで帰る夜は、映画のシーンをなぞりながら歩いた。以前からずっと読み合わせに付き合っていたから、僕もヒロインの台詞をほとんど覚えてしまった。
「『コータ、って漢字でどう書くの』」
「『幸せに大きい、でコータです』。……そーちゃんは?」
「……台詞違うじゃないか」
「いーじゃん」
 マスクの向こうで環くんが笑った。言われるがまま意識を現実へ引き戻し、いくつか熟語を思い浮かべる。壮大、壮美、壮観、壮挙――どんな言葉なら環くんに伝えられるだろう。
「ええと、爿偏に武士の士を」
「すまん分からん」
「授業で習っただろ」
「だから覚えてるわけねえじゃん」
 自分の名前の漢字は、あまり好きじゃない。だから環くんが、その音になんの意味も期待も託さずに呼んでくれた時、言い表しようのない気持ちが込み上げて、訂正させられず終いになった。
「俺のは、カンキョーのカン。なんかつまんねえよな」
「そんなことない。いい名前だよ。……これ、君の台詞じゃない?」
 ほら、と促せば、改まった雰囲気に少し照れながら、環くんがぽそっと唱える。
「『まどかさん……素敵な名前ですね』」
「笑って」
「ヤダ。なんか恥ずい」
「そんなことで本番は大丈夫なのかい」
 小言を垂れつつ、まあどうせ大丈夫なのだろう、と思えてしまったから、それ以上追及はしないでおいた。
「名前の意味、調べた?」
「マル、ってことだろ。たまき、と似てる」
「うん。いい名前だろ」
 いいなあ、と潜めた声は、裏道に響く足音に潰れて、聞こえなかったと思う。思うけれど、環くんが歩みを止めて、愛おしげに名前を呼んだ。
「『まどかさん』」
「……『なあに』」
「そーちゃん」
「……どっち?」
 くふふ、と不織布の隙間から息が漏れた。なんて冬でもないのに見えたわけがないのだけど、こうも暗くて、二人きりだと、一緒にいる相手のことにだけひどく敏感になる。
 腕が伸びてきても動けなかった。
「そーちゃんて身長いくつ?」
「……ええと」
 とっさに顔を外側に傾けて肩へもたれたから、環くんには髪しか見えていないはずだ。環くんは台本どおり、両腕で僕の背をぎゅうと抱き締めたけれど、おかげで僕のほうは肘すら動かないし、果たしてこれで練習になっているのかと問いたくなった。
「一七五から変わってないと思うけど」
「じゃあ、『まどか』サンがヒール履いても、そーちゃんのがちょっと高いな」
「そりゃあ、男だから……」
 先日から主導権を取られっぱなしだが、そもそも映画のストーリーだって、手馴れているヒロインのほうがリードするのだ。もともと経験のない環くんには、押される演技の練習なんて大して必要ないのかもしれないけれど、僕だって相手役の代わりを務めるからには、ただの人形にはなりたくない。
 あったかい、と環くんが首元へ顔をうずめた隙に、もぞもぞと手を動かして、ポケットの中を探った。取り出した物を足元へ落とすと、カツンと乾いた音に腕の力が緩む。
「ん? そーちゃん、なんか落ちた……」
 しゃがみ込めば、顔の高さはほとんど変わらない。やっぱり部屋ですればよかったかな。マスク越しのキスなんて、唇の熱すら伝わらない。
「なっ、えっ……」
「……『キスもだめ』?」
「えっ、えと……。は、『初めてだったんで』……」
「なんだ。上出来じゃないか」
 電柱を背にして向かいを伺い、もう一度顔を近づけると環くんは目を閉じた。
「目は開けていていいと思うよ」
「と、閉じるもんじゃねえの」
「不意にされるんだろ。さっきみたいなリアクションでいこう」
「もう恥ずい。無理」
 街灯の明かりだけでも、目が潤んでいるのが分かった。ヒロインはどちらかというと、想像していたより年下でうぶな彼に、戸惑いや罪悪感を覚えるのに、早くも台本どおりにいかない。環くんが可愛くて仕方ない。
「見知ってる人間相手だと、何度も演技をするのは恥ずかしいだろうけど。それじゃあ練習の意味がないだろ」
 どの口が、と内心自分で突っ込みを入れながら、火傷しそうなくらいにのぼせ切っている頬を撫でる。
「寮で……する」
「うん?」
「寮戻ったら、マスク外していい?」
 そりゃあ、帰れば普通は外すだろうに。承諾の代わりに頭をポンと撫でてやって、形勢逆転のために使ったアイテムをようやく拾う。
「……ボタン?」
「うん。昼間取れてしまったんだ」
「練習がてら付けてやろっか」
「丁重にお断りします」
「なんでー。針と糸だけでできんだろ、なんとかなるっしょ」
「環くん、玉結びって知ってる?」
「タマ? 俺?」
 他愛ない会話を弾ませながら、温い風の抜ける帰路をたどった。出しっ放しにしていた冬物を、そろそろ遠征用の鞄に詰めなければ。
「ただい……」
「環くん、ちょっと静かに」
 音を立てぬよう用心深く玄関扉を閉めて、環くんのマスクをそっと外す。ここまでは驚かせないように。
 唇同士を押し当てるのには、少し背伸びが要った。やっぱり、台本どおりしゃがんですればよかったな。
「……そーちゃん」
 二度目のキスは、立ってすんだぞ。僕の思考を読んだように、環くんが吐息でささやく。このシーンの撮影は来週よりもっと後だったと思うけれど、ともかく環くんが「台本どおり」僕の頬を包んだので、僕もためらいなく両手を熱い首へ回した。
 内扉の向こうで、皆の談笑する声が聞こえる。頭の片隅で、待てなかったんだな、とだけ思った。どちらが、とまで突き詰める必要はなかった。舌は絡めず、乾いたやわい皮膚を、時折角度を変えながらただ押し付け合う。ふうっとかかった鼻息は春風より暖かかった。慣れていなくても、息の仕方は分かるものなんだな。
「そーちゃん、……気持ちい」
 環くんがこんな声を出すなら、僕が練習相手になっておいて、本当によかった。