僕を大事にしてくれるのなら、明日もおんなじキスをして。

「……毎日キスの日」
 僕のベッドに寝転がってスマートフォンをいじっている環くんのつぶやきは、聞こえなかったふりをした。最近はSNSでの話題もネットニュースに取り上げられるから、今日がなんの日かなんて否応なく知らされた。
「ほー」
 ゲームのライフがなくなって、仕方なくネットサーフィンでもしているのかと思ったら、今度はよれよれの手帳を開いて、難しそうな顔をしてる。……隙あらばスマホを眺めている環くんのスケジュール管理をなぜ紙の手帳でさせているのかというと、打合せのためにゲームを中断させるのがいくぶんか楽だからとか、僕が環くんの代わりに予定を書き込むことが多いからとかいう理由でだ。
「そーおちゃん」
 なのに、上手くいかないな。いつ明日の予定について切り出そうか、机に向かってただそればかりを考えている間に、環くんがのっそり起き上がって、僕の頭上から影を落とした。気付けば卓上時計の針は零時を回っている。終わったんだな、なんてひっそり胸を撫で下ろしたら、ほんのり温かくてやわらかなものが、寝間着姿で無防備だった首筋に触れた。
「ちょっ……」
「イスで寝るつもり?」
「……まさか」
「こっち向いて」
「やだ」
「なんで」
「なんでも……」
 つい子供みたいな返事をした。環くんにつられた、と心の中で言い訳をしてみる。環くんだって、「俺らは毎日がキスの日だな」なんて、わけの分からないことを言いたかったに決まってるんだから。
「そーちゃん、キスの日の由来知ってる?」
「知ってるから大丈夫」
「じゃー、俺らが初めてちゅーした日は?」
「し、……」
 どっちの答えが正解だろう。迷ったけれど、日記を開けば昨年の春頃のどこかに、「キスをした」ってきっと書いてある。環くんとのキスは、そりゃあ回数なんてもう覚えてないけれど、いつどこでしたものだって宝物だ。忘れたいような場所での記憶も、いくつかは混じっているけれど。
「知らないことないっしょ。そーちゃんが言ったんじゃん」
「な、なんて?」
「せめてひと月は待ってって。とりあえずひと月付き合ってくれんならいっかって、俺大人しく待ったじゃん」
「……それは」
 たぶん日記には書いてない。後々思い返して、高校生の女の子かって、いや今時の高校生だってこんな面倒なことは言い出さないって、自分で嫌になったから。
「そろそろ聞いてもいい? そーちゃんの大事なひと月のこと」
 背もたれとひじ掛けだけで僕を守っていた椅子が、ゆっくりと半回転する。僕を射すくめさせでもするかのようだった環くんは、いつの間にか足元にひざまずいていた。
「ずるいよね……」
「ちゃんと待ってんじゃん」
「待たれたら、僕からいいよって言わなきゃいけないだろ」
「それが嫌なら、押し入ってもいーんだけど」
 するよ? そんなふうに環くんが、鋭いまなざしで僕を見上げて、そのまま唇を掬うように捕らえる。中腰でいるのがつらそうで、無意識に身をかがめたら、その腕がしめたとばかりに背に回る。
 どんな場所でも、二人きりでも、じれったいばかりの夜を迎えても、ここから先へ進んだことは一度としてない。いつもこの薄い泡みたいな皮膚を、もとあったところへ戻すように重ねるだけ。
『おんなじ気持ちなら、ちゅーしたい』
『……ひと月だけ、待ってほしい』
 ここを離れるのが惜しかった。もったいなかった。初めて人に恋をして、それを自分に許せた時、嬉しかった。触れたくても触れられないのに、不思議と不安にならなかった。近づけないことも、尊かった。僕の手には到底負えない力を、環くんは持っていたのだと思った。
 環くんが僕を好きだと先に言いださなかったら、僕はこの恋一つだけで、永遠にだって生きられた気がする。彼を好きになるということは、朝も夜も何ら苦じゃない日々を、初めて知るということだった。 たったそれだけのことだ。
「大事だったのには違いないけど、そんな可愛げのある気持ちじゃなかった。その先に進んだら絶対、いつかめちゃくちゃになる日が来るって思ってた……」
 椅子から降りるというより、崩れるように、環くんの首元にもたれかかる。床までずり落ちた僕を環くんが追い詰めて、椅子の背もたれがゴツンと机のふちに衝突する。今だって表に出さないよう努めているだけで、心はいつも爆発しそうだ。環くんの手帳を借りるたび、いけないとは思いながら、円で囲まれた日やその数を、頭の片隅に入れてしまったりなんかする。
 今日もその日だっただろうか? 答えなんか出ないのに椅子から動けなくなるこんな夜も、環くんは触れるだけのキスにとどめた。代わりに、毎日してくれた。会えない夜は電話越しに、まるで約束を守るかのように。
「好きだけど付き合うのはやだって、言ってくれてもよかったのに」
「……そうしたら、僕が君を好きな気持ちが、後ろめたいものになってしまうだろ」
「いいのに、好きでも。ちゃんと言ってくれたら、いいよって俺、言ったよ」
「いいなんて……」
 あるわけがないから、環くんの言いだしたとおり、恋人として付き合うことにした。いつか蓋をしなくちゃいけなくなるかもしれない気持ちを、今だけは生かしておくために。
 そして、永遠に僕を生かしたかもしれない光を殺す代わりに、ひと月だけの猶予をもらった。人生で一番正しく幸せだったであろう日々を、いつか思い出して、また呼吸をするために。
「ずるいのは、こじ開けなきゃ見せてくんないそーちゃんじゃん」
「そんなこと、……んっ、……っ」
 そんな浅ましさすら壊されてしまうのを本当は待っていた。想像だけは何度もしていた、環くんの熱い舌が唇を割って入ってくる。やり口は強引だったのに、大きな手があやすように、僕の背を抱きながら、頭を優しく撫でている。お陰で、自分が震えているのが分かってしまった。
 初めて触れた舌先から、じわじわと自由が利かなくなっていく。上あごをなぞられると脳天が痺れて、舌の裏をくすぐられた時は、なぜか下肢が溶けそうになった。
「んぅ……ふっ、うぅんっ……」
「息、して」
「し、……ぁっ、ふぁっ……」
 自分のものじゃないみたいな声が、鼻を抜けて環くんの頬にかかる。単純なことだよ。いつまでこんなことをしてくれるんだろうって月並みな思い一つで、死ぬほど無力になる自分を知りたくない。
「はっ、はぁっ……うぅ」
「……そーちゃんが怖いのは、何かあること、何もないこと、どっち?」
 寄りかからなきゃとてもまともに上体を起こしていられなくて、自然と抱き合う形になった。環くんの声は少しくぐもっていて、自分のことばかりになっていた僕に、その感情は察せなかった。けれど腕にぎゅうっと力を込められた時、ふうっと体の力が抜けて気付いた。とくとくとくとく、胸の奥から、人を安らがせるには速すぎるほどの音が聞こえる。
 この音を僕の前ではないものみたいにして、環くんはもう何百回、僕にキスをしてくれたんだろう。なぜだか急にひどく悲しくなって、切なくて、涙と一緒に、ずっと出せなかった言葉が出た。
「……どっちも……」
 わがままだと思う。でも本当だ。好きになんかなってくれなくてよかったって責めるみたいで、ずっと言えなかった。
「明日も、明後日も、ちゃんと好きだよ。……この世が終わったみたいに言うなよ」
「だって、こんなふうに人を好きになるの、初めてだったんだよ」
「俺だって初めてだよ。そーちゃんも初めてでよかったよ。ちょー嬉しくない? その嬉しいのを、ひと月ぽっちしか噛み締めなかったの?」

 僕を大事にしてくれるのなら、明日もおんなじキスをして。