帰り道のトラブル

 最近の環くんは街なかを歩く時、護衛でもするみたいに僕にぴったりくっついていてくれるから、後は電車に乗るだけだと思って、油断していた。
「……あ」
 車内に滑り込むなり閉まったドアに気を取られて、人混みに流された。僕の体はどんどん奥へ押し込まれて、いつもどおりドアの脇を確保していた環くんと、みるみる引き離されていった。幸いどんな場所でも環くんの頭を見失うことはないけれど、その顔は「げっ」とでも言いたげに、口をへの字に歪ませていた。
 時刻はてっぺんも近く、オフの前日、もう帰るだけだから電車で大丈夫ですよ――と万理さんには上手いこと言って休んでもらって、二人きり、どこかにお泊まりでもしちゃおうかと企んでいた矢先だった。車内放送がくたびれた声で、乗入れ路線での運転見合わせの影響をアナウンスしている。
 泊まりたいホテルがある降車駅は目配せで合図するつもりだったけれど、環くんはドアの手前、僕は七人掛けの座席の真ん中辺りにいるこの状態で、環くんが窓の外でも見始めてしまったら、環くんのそばのドアが開く駅でしか降りられない。
 かといって平均より身長の高い二人がじっと見つめ合っていたら目立ちそうだし――と内心思案を巡らしつつもとりあえず視線を絡ませ続けていたら、ふと腰の辺りに違和感を覚えた。
「……っ」
 それは一瞬にして戦慄に変わった。人肌、いや僕より少し熱いくらいの温度の、妙に硬くも柔らかくもない何かが、尻に押し当てられている。何度か撫で回すような仕草を繰り返したそれは、明らかに意志を持って太ももの間へ降りると、人の鞄がひしめいて見えないのをいいことに、好き勝手にその空間をまさぐりだした。
 誰だ、と一瞬神経を研ぎ澄ますと、終電近くの電車に飛び込んだ周囲の人の息遣い全部が、形のない化け物みたいに両耳に取り憑いて驚いた。身じろぎひとつしてたまるか、と、とっさに上りかけた悪寒をこらえる。落ち着いたほうがいい。怖くはない。相手がここまで尾行してきて僕を狙い撃ちにしたのなら、こちらもそれなりの対応で迎えるけれど、それなら僕か環くんが、ここへ着くまでに勘付いているはずだから。
 手のひらと腕の角度から相手の立ち位置を推測し、派手に数回、シャッター音を鳴らした。本来なら顔写真とともに警察に突き出すべきだろうけれど、相手に一度でも顔を見られることはどうしても嫌だった。辺りがシンと静まり返り、僕に触れていた手の感触はぴたりと動かなくなったけれど、そこから立ち去ることもなかった。当然だ。動揺する様を晒したら、自分にやましいところがあったと宣伝するようなものだし、走行中の車内に逃げ場なんてない。
 僕がされていることに気付かれなくても周りがなんとなくざわつき始め、ほどなくして到着した駅で、僕の背後にひたりと張りついていた生温い気配は姿を消した。
「あ、お、降りますっ……」
 そこでようやく声が出た。開いているドアのほうを見やると、環くんが今にも僕の名前を呼びたそうに、唇を震わせている。自分の半径十数センチの範囲に集中していて、環くんがそこにいることをすっかり忘れていた。先ほどのシャッター音で、僕に何があったか察しただろうか。
「こっち入んなっ」
 ショルダーバッグを掴まれて、ドアと環くんの間の安全な場所に引きずるように押し込まれた。
「ご、ごめんね、離れてしまって。降りる駅……」
「いーから。一回深呼吸しな」
 気付くと、スマホを握っていた手が汗でびしょびしょになっていた。わざわざハンカチを出して拭うのも恥ずかしくなって、シャツの裾になんとなく擦りつけてしまった。話を遮られて、どんな顔をすればいいのかますます分からなくなった。環くんは何も言わないまま、僕の両脇の手すりを掴んで、恐らく僕の頭頂部を見ている。
 無言で悶着している間に着いた駅で反対側のドアが開いて、僕たちをまとめて押し潰しそうなほどの人が流れ込んできた。
「わ、環くん、寄って」
「でも、そーちゃ」
「大丈夫」
 これだけ混んでいれば、どんなにくっついていたって変には思われない。いくら筋力があるとはいえ手すりと腕で体を支えているのは大変だろうから、思い切って環くんの腕を取って僕の背中へ回して、自分も同じようにした。これなら壁にぶつかっても痛くない。
「……環くん」
「ん」
「ドキドキいってる」
「だって……」
 ふうう、と耳元に重たい吐息が流れていく。緊張感を帯びているけれど、見ず知らずの人のなんてことない呼吸音よりずっといい。
「怖かった?」
「まさか……。思ったより不快で、驚いただけだよ」
「でも、そーちゃんもバクバクいってる」
「そりゃあ、あんなに嫌なものだなんて、初めて身をもって体感したから」
 ぎゅうっと環くんの腕に力がこもる。何かに負けてしまいそうで、僕も同じように強く抱きついてみた。汗ばんでいるのはどちらの皮膚だろう。震えているのはどちらの身体だろう。
「えらかった。よくこっち来たな。助けてやれなくて、ごめんな」
「あ、でも……。任せてくれてありがとう。あの場だけで収めるのは、本当はよくなかったのかもしれないけど……」
「そりゃ、割って入ってぶん殴りたかったけど。でも俺が『ヤベッ』って顔のヤツ見といたから。この路線使ってんだろーから、次会ったらなんか言っとく」
「あの、お願いだから危ないことは」
「しねーよ。そーちゃん、それが一番嫌なんだもんな」
 俺らって分かんないようにすっから大丈夫、と環くんが笑った。せめて万理さんがいる時にしてもらおう、と新たな悩みを抱きつつ、やっと全身の力が抜けた。
「今夜……」
「うん? なんかリクエスト?」
「……いや、ホテルに着いたら言うよ」
 環くんの腕だけじゃ足りないから、一回目はうつ伏せで挿入して、死ぬほど甘やかしてもらおう。