夏が過ぎゆく夜の熱

 僕たちの部屋のバルコニー側には園庭のようなスペースがあって、夏が過ぎゆく夜に耳を澄ませると、時々虫の音が聴こえる。環くんの寝息が安らいだのを聞き届けて、僕もようやくまどろみ始めた頃、頭上で大きな影が揺らめく気配がした。
「起きてるの……?」
「あ、起こした」
 くっつきかけたまぶたを開けると、さっきまで枕に埋もれていたはずの環くんが、上半身を起こしていた。
「ごめんな」
「いや、大丈夫……。まだ眠ってはいなかったから」
「そうなん? 眠れない?」
 タオルケットの端から見上げる僕の髪を、環くんがふわふわと撫でる。口ぶりは心配そうだったけれど、薄闇でほんのり口角を上げた表情は、なんとなく嬉しそうだ。
「音、きれーだな」
「うん。なんの虫かな」
「鈴虫じゃねーんだよな」
「そうなの?」
「たぶん。でも分かんない」
 花の名前もよく知らないのに虫なんて、と環くんは笑う。虫より花のほうが身近だったように言う環くんに、なぜだか胸の奥がきゅんとする。
「眠たい?」
「……ううん。なあに?」
 頬に載せられた指の背が、いつもよりひんやりとしている気がする。僕が火照っているんだろうか。
「そーちゃん、起きて。こっち来て」
 言われるがまま僕も身を起こして、環くんと同じ高さに目線を合わせる。あ、と思った時には、もう吐息を食べられていた。静まり返った部屋の隅で、乾いた皮膚が、さり、とこすれる。
 重なったのは数秒だけだった。対峙した瞳が、真夜中の湖みたいにひそやかに揺らめく。視線も、かかる息も、僕が僕を感じるより涼やかで気持ちいい。
 虫の声が聴こえる。
「羽の音で鳴く虫もいんだって」
「ああ、そうだったかも」
「どーなってんだろな。すべすべしてそうなのに」
「すべすべしてるのかな……?」
 触ったことなんかないだろうになぁ、と口では言わず、鼻の先の頬に指を伸ばす。環くんも同じようにしてくれて、ほんの少しだけ顎を上げるよう促された。
 再び重なる寸前、舌がちらりと瞬いて、ちゅ、とかわいい音が鳴る。
「こっちも、きれーな音した」
「そう……?」
「そ。そーちゃん、すべすべしてるしさらさらだけど、濡れたとこはつやつやしてて、全部好き」
 もしかして、ものすごく恥ずかしいことを言われてるんじゃないのかな。口を封じるつもりで舌を差し出したら、環くんはまんまと乗ってくれた。
「んっ……」
 鼻先から漏れた、二人の声が控えめに調和した。夏草と月と虫の音しかない原っぱに、ぴちゃ、ちゅる、と蜜をすするような音が響く。そのうち環くんの手が僕の後頭部に回って、ぐっと強く引き寄せられる。
「ん、ふ……ぅ、あ……」
 唇を開いて深くつながれば、水音も二人の内にこもって、聞こえなくなった。
「なんか今日、そーちゃん、熱い」
 何か言う代わりに、止めていた息をはぁっと吐き出す。答える前に距離の空いた顔を見上げると、環くんは僕を見つめて、純粋に返事を待っていた。
「やっぱりそうかな……。熱はないと思うけど」
「でも暑いだろ。エアコンちょびっとつけよ」
 あ、と漏れた声が言葉になる前に、環くんの手を止めていた。確かに、身体が芯からぽかぽかしていた。額も背中も汗ばんでいた。だけど、このくらいの火照りなら溶けるように眠ってしまえそうだ。端的にいえば、すごく気持ちがよかった。
 とはいっても、環くんには気がかりみたいで、いつまでもシーツに転がらず、僕を見下ろしている。賛成か弁明を返さないと、いつまでも夜は明けなさそうだ。
「音、聴いていたいから……」
 気遣う環くんを困らせて、部屋に今一度の静寂が訪れる。鈴虫じゃないというその音は確かに鈴のようではなくて、ひりひり、ひりひり、切なげな音が、かえって愛おしくて好きなんだよ。
 今夜はそんなことを、話しそびれた。
「じゃあ、氷持ってくる?」
「そうしようかな……」
「ん。ちょっと待ってな」
 自分で用意するのは億劫だなんて思ってないのに、環くんはさっさと廊下へ出ていって、ベッドの半分が空いた。空いたのに、寂しくない。優しいなぁ、とつぶやいて、一足先にタオルケットをかぶる。ほのかな熱を感じながら、二人がこぼした水音を、耳の奥で反芻する。
「あ、先に寝てやんの」
「うん。このまま眠りたい……」
 口づけだけしか交わせない夜でも、秋なんてまだまだ遠い。