置き去りのメリーゴーランド

 薄闇の中でも、潮の匂いがする。受付ゲートに低く張ってあったロープを跨ぐとそこには変わらず、雑誌で見た外国の海辺の街みたいな、カラフルな建物たちが残っていた。
 閉ざされた扉のノブを、好奇心で一つ捻ってみたけど、ギシギシと軋むばかりで、壊しそうだったので諦めた。ここの扉たちが残らず開いていた頃の景色を、まだ思い出せる。開いていたのに、閉園の時間までついぞ入ることはできなかった。あのくらいガキの頃なら、見るだけとか、帰りたくないとか、今以上にわがままを言っただろうに、そうするのをもったいないとさえ思うくらいの何かを、この空間で抱いて、きっと日常へ帰ったのだ。
「環くん……っ」
「おー。おはよ、そーちゃん」
 Tシャツの上から、俺が夕べ防寒用に寄越してやったジャージを羽織っただけの、本人にしてみたらほとんどパジャマみたいな格好で、そーちゃんが走ってきた。そーちゃんはロープの向こうで一度立ち止まったけれど、俺が振り向くだけで動く気がないのを悟って、きょろきょろしながらこちらに足を踏み入れた。
「おはよ、じゃないよっ……めずらしく早起きしたのかと思ったら、『遊園地にいる』って、なんなんだ……」
「おー。結構早かったな」
「調べたんだよ……。電車は動いてないし、今日の仕事を忘れたりなんかしないだろうし、それで行ける範囲にある『遊園地』って言ったら、ここしか……」
 そーちゃんはぶつくさ言いながら、いかにもしんどそうな顔で辺りを見渡した。夜明け前でも分かる。腰の高さまで伸びた枯草や、タイルがひび割れて剥がれた歩道、メルヘンな外装はそのままなのに、割れている窓や、骨が剥き出しになったひさし。
「とっくに閉園してるって知ってて来たの……?」
「うん。俺も調べたし」
「じゃあこれが不法侵入に当たるってことは」
「こんなとこ誰も来ねーよ」
「そういう問題じゃ……」
 いつもの調子で小言を言い始めたそーちゃんは、俺の顔を見上げて、途中で言葉を切った。俺だっていいカオされないことは分かってたし、分かってたことをたぶんそーちゃんも分かってる。いくら人の来ない場所だからって、安全って言えるところじゃないし。
「どうしても、歩きたかったの?」
「……たくなかったら、来ない」
「でも、怖かったから、僕のこと呼んだ?」
「怖くはない。ここ、来たことあるし」
 昔入ったおばけ屋敷は、死ぬほど怖かった。今日も近付かないつもりだ。その代わり、他のとこはフツー。賑やかだった頃の姿を知っているせいか、そのへんからおばけが出てくるところは想像できない。
 どんなに夢みたいな場所でも、誰かに捨てられて、忘れられて、こんなふうになっていくことがあるんだなっていうのを、ただ見せつけられてるだけ。
「太陽が昇り切るまでだからね」
「海辺じゃそんなんすぐだし」
「仕方なく付き合ってあげるのに……。じゃあ、朝ごはんの時間まで」
 そーちゃんは心底呆れたって顔をした後、すぐに優しい顔に戻って、パーカーのポケットに突っ込んでいた俺の手を引っ張って、ぎゅっと握るようにつないだ。
「ちゃんと帰ろうね」
 一緒に足を踏み出した瞬間は、まるで魔王の住むダンジョンに挑みに行くみたいだった。いっそ本当にそんなモノが奥にいて、二人で倒してハッピーエンド、なんて物語が、これから始まるのなら楽しいのにな、と思った。思ったけれど、俺の思いつきに、大したストーリーなんていつもないし、今日もそーちゃんを振り回して終わるだけだって、ゲートでラビチャをした時から分かってた。
 奥はなんとなく暗いもんだと思ってたけど、だだっ広い場所に機械がうじゃうじゃ並んでいるだけの場所だから、空はすがすがしいくらい開けていた。だけどどこを見ても、錆びた鉄骨が視界に入った。ペンキで塗られた建物はともかく、柵やコースターのレールやなんかは、長いこと潮風に吹かれ続けて、つつけば穴が開いてしまいそうなくらいに古びていた。
「ジェットコースターは乗れた?」
「全然。身長足りても、乗ったか分かんないけど。親父は結構好きみたいで、あのへんのてっぺんで手ぇ振ってたかな」
 おふくろはずっと理を抱っこしてたから、写真は一枚も撮ってない。親父はカメラなんかより、柄にもなく地図を広げていた姿ばかり頭に浮かぶ。
「一番高いところからは、海が見えるのかな」
「振り向いたら、たぶん一瞬だけな。すぐにガーッて下って、森の中に突っ込むの」
「海の近くなのに、森があるんだ」
「森っつーか、ジャングル? アマゾン的な……」
「本当? ジェットコースターより面白いかもね」
 乗り場の前で、おふくろの服を掴みながら、楽しそうな悲鳴とともにレールの向こうへ消える親父を眺めて、一瞬だけ、このまま帰ってこなけりゃいいのにな、と思った覚えがある。巨大なジェットコースターより、思いがけず湧いた罪悪感のほうが百倍怖くて、黙り込んだまま体が震えるのを我慢していたら、おふくろがかがんで、理の手を借りて頭を撫でてくれた。
『お父さんも、今頃怖がってるかもね』
 親父が生きていた頃、親父なんか運悪くどうにかなっちまえと思わなかったのは、親父もおふくろとおんなじ人間だってことを、ガキなりに理解してたからだ。親父に起こるかもしれないことは、平等におふくろにも起こるかもしれない。だから、俺はどんなに殴られても「なんで俺だけ」とは思わなかったし、おふくろが死んだ時、「なんで親父だけ」と思った。
「意外と広いんだね」
 タイルでごちゃごちゃ飾り付けられていない、コンクリートの地面のエリアは、隙間から草がにょきにょき生えている個所もそんなになくて、比較的歩きやすかった。俺とそーちゃんの手はしっかりつながれたままで、ここが東京のきらびやかなテーマパークなら、誰もがうらやましがるくらい、立派なデートだった。
「モノレールの駅がある。これで来たの?」
「たぶん。車あった覚えないし。行き帰りのことはあんま思い出せないけど」
「高いところが苦手なら、当時は怖かったんじゃないかな」
「別に高いとこはヘーキだし。速いのとか、揺れるのがやなの」
 そういえばこの遊園地には、観覧車がない。だからロケバスで現地入りする時も、ちょっと離れたところからじゃこの遊園地は目立たなくて、話題に上らなかった。
 あの頃、四人で観覧車に乗っていたら、どんな時間を過ごすことになっていたんだろう。狭いところに四人でいたら、やっぱり昔住んでたあの部屋みたいに、めちゃくちゃになっていたんだろうか。だけど、おふくろは、――たぶん理も、派手に光って動く乗り物より、空をゆっくり一周するだけの観覧車のほうが、好きな気がする。
『お星さまが、きれいよ』
 一生見つめていても変わることのない夜空の光を、眺める楽しさを教えてくれた人だ。
 おふくろは、俺らの前ではいつも笑っていたけれど、決して気の強い人ではなくて、俺の代わりにおふくろが殴られたのと同じくらい、俺もたぶん、おふくろを庇って殴られていた。
 だからか、おふくろが死んだ時、俺のことを何も知らない子供だと思ってた大人は、さすがにほとんどいなかった。俺が夜中に起き出せば寝ぼけておふくろを探してるんだと思われたし、不注意で道に飛び出せば死にたがってるんだと思われた。とにかくめちゃくちゃ面倒くさかった。
 周りの大人みんな、ものすごいスピードで俺らのことを可哀想がったし、先回りして俺のことをみじめがった。だけど、おふくろのところに行きたいとはやっぱり思わなかった。理がどんなに「母ちゃん」と泣いても、死んでほしくはないと思ったからだ。
 理とふたりぼっちになって、俺が生きてくために最初にしたのは、体の大きい人間に気に入られることでも、自分が強くなることでもない。何も知らないふりをすることだった。
 といっても、もういないおふくろを本当に探してみたり、恋しがって泣いたりしたわけじゃない。全部、運が悪かっただけってことみたいに、あっけらかんとして、理を相手をすることだけに集中した。
 大人はそのうち、“何も知らない”俺らが「可哀想」だなんて言わなくなった。それも、「理解できないほうが幸せなこともある」っていう、大人のエゴだと思うけど。
「環くんは、ここに来たの、一度だけなのかな」
「たぶん。なんで?」
「その日、楽しかった?」
「全部は覚えてねーけど。楽しかったと思う」
 だってこんな姿になってるって、ネットで見聞きして分かってても、本当に見られなくなってしまう前に、もう一度訪れたいと思ったくらいなんだから。
「わあ、ボートがある」
「はは。これだ、ジャングルに行くやつ」
「すごいね……そういうロケ、やりたいね」
「俺はいい。ももりんとか、みっきーとかとやって」
 二十人くらい乗れそうなボートがいくつも打ち捨てられた池には、まだヘンな色の水がたっぷりあったのに、敷地の中心近くに作られている大きな噴水は、干からびていて中を突っ切ることができた。
「このへん。理が好きだったとこ」
 お城を模した可愛らしい壁を、昇りかけの朝日が、鉄骨の隙間から照らしている。コーヒーカップや空中ブランコ、パラグライダー、空飛ぶヨット――噴水の水が吹き上げていないから、ジェットコースターやジャングルみたいな、おっかないアトラクションと同じ場所に建っているのが、不似合いな感じもする。
「このへんのなら、抱っこしたままでも乗れんだ。どれもくるくる回るだけなのに、こっち見て笑ってたな」
 俺たちがあの家に住んでいた頃、理が笑っていた記憶なんて、ほとんどなかった。施設で毎晩「母ちゃん」「母ちゃん」と泣いていた理には、俺っていう味方がちゃんといることを教え込まなければならなかったけれど、話を聞かせるどころか、目を見てもらうことすら一苦労だった。
 それで思い付いた遊びの一つが、「遊園地ごっこ」だった。たった一回しか見たことのない、このへんの乗り物の真似を、時々大人に訊きながら、何度も何度もしてやった。俺と理は二つしか違わなかったけれど、理がちっちゃくて軽かったことは、この点については良かったと思う。少しなら持ち上げて回れたし、腹にも足にも載せてやれた。
「そーちゃん、『ヒコーキ』ってしてもらったことある?」
「聞いたことないけど、絶対に経験してないだろうことは分かるよ」
「じゃあ今度してあげんな」
 理の笑顔が増えていくにつれ、周りから「いいお兄ちゃん」なんて言われるようになった。この頃には、少なくとも先生や施設に来る大人は、俺らに面倒くさい印象を押し付けてくることはなくなった。
 そんなふうに守ってきた大事な妹を、新しい家族のところへ送り出すことになった時、寂しくなかったと言えば嘘になるけど、それよりも嬉しかった。安心もしたし、誇らしかった。理に残されたたった一人の家族として、兄ちゃんとしてできる限りのことを、俺は立派にやれたんだと思えた。おふくろがもし隣で見てたら、絶対褒めてくれると思った。
「……明るくなってきたね」
「すっかり朝だな」
「お腹空いてない?」
「空いたけど、最後に一か所だけ……」
 時刻を確かめる代わりにはできないけれど、なんとなく朝日の方角を振り返った。夜が明け切った頃には帰ろうと約束してたせいか、まぎれもなくあの光のあるほうが、俺たちの帰る場所なんだろうな、と思った。単なる例えだけど、バカバカしいとは思わない。飛び込んだばかりの頃は夢中で気付かなかったけれど、こんなところから眺めると、なんてまぶしい場所にたどり着いたんだろう。
 帰りたそうな表情を見せ始めたそーちゃんの手を引いて、迷いなく歩を進めた。一度しか来たことのない、普通なら地図を持って歩くようなこの道を、ためらいもなく進めたのには、理由がある。
「――メリーゴーランド」
 ぽつり、とそーちゃんが、寂しげな乗り物の名前を呼んだ。頑丈そうな屋根や柱に囲まれたそれは、どこかが崩れかけていることもなく、柵がそれなりに錆びたくらいの姿で、静かにたたずんでいた。
「後ろが林になってるから、もっとぐちゃぐちゃかと思ってた」
「逆にそのおかげで、雨や潮風から守られたのかもしれないよ」
 ここまでどの乗り物にも近付いたりはしなかったけれど、俺は囲いの入り口に向かって、もう数歩だけ足を進めた。これが最後だと言ったからか、そーちゃんは止めようとはしなかった。
「これ、おふくろが好きだった。つっても、馬には乗らなかったけど……」
 光って回る乗り物は、面白かったけど、俺にはどれもなんとなく同じに見えた。だけどおふくろは特別「これがいい」と言って、退屈そうな親父に謝って、といってもたった二回だけれど、続けて乗った。
 宝石みたいなキラキラの石や、それこそアイドルみたいに豪華な服、金色に光るポール。見たことのないもので飾られた馬がたくさん走っていたのに、理を俺に預けてもよかったのに、おふくろは二回とも、上下に動かない「馬車」を選んだ。
 俺は親父を置いてくのが気になったから、一回しか乗らなかった。二回目は、受付の近くで眺めていた。理は馬車でも楽しそうに笑っていたと思う。上下に動かなくても、ステージは回転するから、二人が林のほうへ回っていってしまった時に、どんな顔をしていたのかまでは、知らないけれど。
「……乗ってみようか」
 聞き間違いかと思った。返事をできないでいたら、そーちゃんがここへ入って初めて、俺の手を引いて歩きだした。
「ちょ、そーちゃっ……さすがに乗り物の中は」
「園内に侵入したらどこも同じだろ」
「同じじゃないだろ、なんか壊したりとかっ……」
「うん、だから気を付けて歩いて」
 ステージに足を載せるなり、案の定ミシッと音がした。踏み抜いてしまわないか不安になったけれど、そーちゃんの後をついていったら、なんとか奥の一段高いところまで行けた。屋根のおかげで雨ざらしになっていないからか、塗装も装飾も、記憶の中のものとほとんど同じだ。ふと目を向けた中央の柱の鏡も、真っ当に俺らを映していた。
「どれがいい?」
 本当にメリーゴーランドに乗りにでもきたかのように、そーちゃんが尋ねた。俺は思わず、馬と馬車を見比べてしまった。
「……こっち」
 だけど、すぐに馬車を選んだ。いくら馬の外装がきれいだからといっても、中身がどんなふうに傷んでいるか分からないというのもある。でも、それ以上に、当時は一生乗らないだろうと思っていた馬車に、乗ってみたいという気持ちが湧いた。
 おふくろは、この座ってただ回るだけの乗り物が、本当に好きだったんだろうか。
「屋根、頭ぶつけないように気を付けて」
「あ、俺先に乗る」
 もともと男二人が乗るようなもんじゃないだろうし、どっか割れたり折れたりしてても嫌だから、そーちゃんの手を離して、俺が先に入った。床が抜けなさそうなことと、革張りの椅子が破れたりしていないことを確かめて、そーちゃんのほうへ手を差し出すと、そーちゃんもついてきた。
「中はさすがに埃がすごいね」
「まあこれ寝間着みたいなもんだし。帰ったらソッコー脱ご」
 何かの間違いで走り出したら、二度と戻ってこられなさそうな雰囲気だったから、わざわざそんな話をしてみた。だけど、小さな箱のような形状の椅子に、二人で向かい合って収まったら、意外にも落ち着いた。どっかのロケで見た人力車とかと違って、カボチャの馬車みたいに屋根がついているからかもしれない。窓はあるけれど、逆にいえば窓以外のところはちゃんとカベで、声をひそめて話すと、息遣いさえ響いた。
「そーちゃん、ほんとについてきてくれて、ありがと」
「最初は肝が冷えたけど、案外楽しかったよ……。でも、二度とやりたくないかな」
「ごめんって。次はさ、普通にやってる遊園地行こ」
「二人で?」
「そーちゃんがいいんなら、二人で」
 広い場所を歩いていた時は気付かなかったけれど、会話が途切れると、鳥の声が聞こえる。夜中に聞いたら不気味だっただろう風の音も、朝だからか優しげに思える。
「でも環くん、本当に怖がらなかったね」
「だって来たことあるし。言ったろ」
「僕はさすがに少しドキドキしたんだけど……」
「それは、そーちゃんがこの遊園地、知らないからだろ」
 昔もそんなに賑わってたかどうか知らないし、潰れたくらいだからきっと儲かってなかったんだろうけど、この遊園地のことを思い出した時、初めて昔の記憶に対して「懐かしい」と思った。そんな言葉、学校で歌わされた合唱曲でしか知らなかった。
「ここ来た時、ちゃんと一日、楽しかった気がする。そんな日ほかに一度もなかったと思うから、たぶん思い違いとかじゃない」
 俺の後に、理が生まれた。俺はいつから殴られていたのか思い出せないけど、おふくろは理を産んでも、逃げようとはしなかった。俺だって、親父のことを、生まれた時から殺してやりたいとか、思ってたわけじゃない。親父がいなきゃおふくろや理に会えなかった自分のことを、どうにかしたいとか、思ったりしない。
 それがどうしてなのか、上手く説明することはできない。だけど、もう自分にしかないこの記憶を愛しがることを、否定することは、それこそ死ぬことと同じことのような気がしている。間違いなく幼い頃の自分を生かしてくれたであろう日の一つを、否定するってことだから。
「楽しかったこともあったって、言ってやったら、あんなクソみたいな奴でも喜ぶのかなって、思うこともある。けど……」
「……けど?」
「けど、楽しかったなって、思うことって、それ以外の許せなかったこと全部、許さなきゃ言っちゃいけない気がする」
 少なからず許さなくちゃ生きていけないのに、あの人のことは、これからも間違いなく許すことはできない。今、笑って幸せに生きることは、そういう矛盾に目をつむりながら生きることだ。
 それが本当は矛盾ではないのだと、呪いを解く魔法みたいな考えを、そーちゃんが教えてくれることを願って、ここに呼んだわけじゃない。ただ、この場所で一人で迷いに呑まれたら、単に頭がおかしくなると思った。
 そーちゃんはそれを知ってか知らずか、向かい合って座ったままで、俺の手を包むように握った。
「許したいと思うことがある?」
「ううん……やっぱ今のなし」
「環くん」
「ない。絶対にない」
「傷つけたらごめんね。もし、もしもだよ」
 自分で言い出したことだから、何を尋ねられるか分かってた。聞きたくなかった。聞きたくなかったから、そーちゃんが言ってくれたのかもしれない。
「お母さんも、理ちゃんも、許してるって言ったら、君は?」
 言い終わる前に、そーちゃんの体を正面から引き寄せていた。椅子から落ちないギリギリのところで、そーちゃんの肩口に顔を埋めた。何も答えられないでいるうちに、そーちゃんも俺の背中に腕を回した。涙は、出てない。
「そーちゃん、ずっと一緒にいて」
 そーちゃんの質問に、ちゃんとした答えなんかたぶんない。理はともかく、おふくろはもう死んじゃってるんだから。だから、これが答えでもいいんだと思う。
「自分で食ってけて、みんなといられて、毎日笑ってられるから、思い出すのがクソみたいなことばっかでも、生きてけんだよ」
 みんなといて楽しいと思えた日の夜、想像する。もし、楽しかった思い出なんか一つもなくて、生き別れた理にすら未練も何もなかったら、どんな人生だったんだろう。もし、今それを全部捨てたら、どんな人生だったか、分かるんだろうか。
 本当に何もかもを捨てたりなんか絶対しないけれど、時々恐ろしくなる。俺は何に生かされているんだろう。どうしてそれを知らないまま、生きていけるんだろう。このまま、最後まで「楽しかった」と思えたまま、死んでいけるんだろうか? この遊園地みたいに、骨と形程度の肉だけを残したまま、ボロボロに錆びて、砕けて、朽ちていく途中だったりしないだろうか。
 そーちゃんに触っている時は、そういうことを忘れられる。こんなにきれいなそーちゃんがボロボロになっていくところなんて、想像できない。知らないから、というのが大きいのは分かってる。そーちゃんが周りより何倍も速く、エネルギーを燃やして生きてるから、いつまでもほそっこいままなんだってことも。
 それでも、そーちゃんは生まれて初めて、俺と同じ大きさで、俺の「半分」になろうとしてくれた人だ。仮に俺がボロボロになることがあっても、もう半分のそーちゃんがきれいなままなら、大丈夫。
 ここを歩く時、隣にいてほしかった。
「憎むのが自分だけの役目だなんて言わないで。僕も君の父親をこの目で見た人間として、君を苦しめた全ての事柄を、絶対に許したりしない」
 体と体の隙間は少し広かったけれど、こんな場所じゃ危なくて、これ以上身動きができない。それでもそーちゃんの凛とした声は、何より近くで聴こえる。楽じゃない体勢だろうに、語りながら背中をゆっくり撫でてくれた。俺は泣いていたわけでも、泣きたかったわけでもないのに。
「だから、お母さんが死んでしまうことや、理ちゃんと離れ離れになってしまうことを知らなかった、家族との時間を楽しいと思ったことのある君のことは、どうか、許してあげて」
 そーちゃんに、呪いを解く魔法のような言葉を、望んでいたわけじゃない。だけどそーちゃんはそんなふうにしてくれた。解こうとしてくれたのは、もしかしたら、俺だけの呪いじゃなかったのかもしれない。
 どんなに無理をしても、俺に振り回されても、きれいなままだったそーちゃんは、生まれてから俺に会うまで、どんなふうに生きてきたんだろう。もしそーちゃんの中にも俺に似た苦しみがあるなら、いつか俺もこんなふうに、抱きしめてあげることができるだろうか。
「だけどもし、君が、幸せだった頃の君を、本当に殺す日が来るのなら――その時はもう一度、僕のことを呼んでね」
 朝日の中、どこにも行かないメリーゴーランドの陰で、こんなお願い事をする、そーちゃんのことを。