目を覚ますまであと少し

 環くんとユニットを組んだばかりの頃、電車で寝過ごした時は心臓が止まるかと思ったけれど、「うたた寝」がトラウマになることはなかった。
 数々の失敗もそろそろ笑い話になろうかという、春の暮れの昼下がり。水回りの掃除を済ませて、朝から干していた洗濯物を畳み終えて、共用スペースのソファに腰掛けたら、皆にはとても見せられないような大きなあくびが溢れ出てしまった。
 そのまま両腕を真上に上げて、ううんと思いっきり伸びをしてみる。次いで全身の力をどっと抜くと、日の高さにはそぐわないほどの眠気が襲ってきた。
 スマホを部屋に取りに行きかけて、浮かせた腰を、もう一度クッションの間に沈み込ませる。アラームはかけなくてもいいか。気にかかっていた家事を終わらせた直後だからか、満足感を伴うその誘惑は、これまでにないほど気持ちよくて、このまま眠ってしまわないのはもったいないような気さえしてきた。
 遅くとも夕方になれば、授業を終えた高校生たちが帰ってくる。その時起きれば、夕食当番の手伝いには十分間に合う。みんな仕事や用事で出払っているせいかこれだけ静かなのだから、誰かが帰ってきたら、すぐに気がつくだろう。
 手頃な高さのクッションを一つ拝借して、大胆にごろんと横たわると、意識は数分と経たないうちに、夢の中へ吸い込まれた。

 なんだかとても懐かしい匂いがしていた。懐かしくて、そして離れがたい。鼻腔に触れていると安心するのに、つなぎとめていないとふっとかすれてしまう。わけもわからず暗闇に手を伸ばして、指先に触れた物を必死に掴むと、それはとても柔らかくて暖かかった。
「……あれ」
 照明が落ちたままの共用スペースで身を起こすと、キッチンだけが明るかった。そこでは今日の予定通り、夕食当番の三月さんが、手際よく包丁を動かしている。
「あれっ、あっ、時間……」
「おー、起きたか。よく寝てたなー。大和さんは今日泊まりだから、子供たち呼んできてくれるか?」
 サラダの盛り付けをしているらしい三月さんが、一度振り向いて笑って、また背中をこちらへ向ける。コトコト、美味しそうな音を立てる鍋の脇で、一升炊きの炊飯器がピーッと鳴った。
 呆然としながら、足元に目をやると、膝の辺りに見慣れない、黒いブランケットが覆いかぶさっていた。あろうことか僕は、それを両手で握り締めていた。帰宅した時、僕に気付いて掛けてくれたのだろう。くしゃくしゃにして返したところで怒るような相手ではないけれど、感謝の意も込めて、それを昼間片付けた洗濯物と同じように丁寧に畳む。
「……環くん」
 一応ノックだけはして、施錠されていなかったドアを勝手ながら開けさせてもらった。豆電球だけが点いた部屋の端で、いかにも眠たそうなうめき声が聞こえる。
「飯……?」
「うん。あの、これ、掛けてくれてありがとう。どこに置いておけば――」
「……あーそれ……りっくんの」
「えっ?」
 一つとしてまともに置いてある物がないな、なんて本気で困惑しながら散らかった部屋を眺め回していたら、思わぬことを告げられた。
「あ、そうなんだ……ごめん、起こして」
「ごめんって、飯だろ……あと五分で起きっから、他のみんな呼んでて」
「う、うん。起きてこなかったら、また呼びに来るからね」
「じゃーそれまで寝る……」
 そんなこと言って僕がほうっておいたらどうするんだ、だとか、ぶつぶつつぶやきながら廊下の手前まで引き返す。言われたことは理解したのに、混乱していた。――環くんのだと思ったのにな。
 環くんに言われたとおり、陸くんの部屋のドアをノックすると、元気な返事と同時に主の顔が現れた。
「わざわざありがとうございます。よく眠れました?」
「……本当に陸くんのだったんだ」
「えっ?」
「あっ、いや……その、環くんが」
 僕も自分で、どうしてそんな切り出し方をしたのか分からない。何が言いたかったのか思い出そうと焦っているうちに、陸くんが、畳まれていたブランケットをバサッと広げてみせた。
「やっぱり、オレっぽくないですかね。猫耳なんて……一織にも言われたんですけど」
 夜のように真っ黒なブランケットは、広げてみると長方形の長辺の真ん中に、フードのような形の布が継ぎ足してあった。よく見るとそこに確かに、猫耳のような小さな三角が二つ、ぴょこぴょこと並んでいる。
「フードをかぶって、ボタンを留めると、ポンチョみたいになるんですよ。ほら」
 陸くんはそれを着てみせて、ファッションショーのように一回転までしてくれた。風圧がふわっとこちらまで届いて、なぜか脳裏にさっきの不可解な夢がよみがえった。
「環がくれたんです。クラスの子にもらって、可愛いから使ってたけど、やっぱり小さいからって。着とけば夜に読書する時ちょうどいいじゃんって……でも、猫耳といえばやっぱり環ですよね」
「……そう……かもしれないけど……でも、陸くんも似合ってるよ。一織くんは、照れちゃったんじゃないかな」
「そうですかね?」
 ふふふ、と笑う陸くんを前に、本来の目的をいよいよ思い出せなくなっていたら、隣の部屋から一織くんが出てきて、三月さんからの指令をスマートにこなしてくれた。
 昼間の僕より眠たそうな環くんの後ろについて、ゆっくり階段を下りながら、今一度自らに問い直した。――環くんのだと思ったのにな。だけどその疑問は、本来の持ち主にブランケットを返す前よりも、確実に苦い味をしていた。
 起きるなり握り締めていたから、フードがついているなんて気がつかなかった。ましてや猫耳なんて。ただの黒いブランケットを、僕は環くんのものだと勘違いしたのだ。
 早い時間に帰ってくるだろうと思っていたから? 僕を起こさず寝かせていてくれる人なら彼だろうと思い込んでいたから? 心のどこかで優しくされたいと望んでいたから? 考えれば考えるほどドツボにハマって、恥ずかしくて、でも不可解でそれだけに頭から離れなくて、数日後に都合よく訪れたお酒の席で僕は、久々に歩けなくなるまで呑んでしまった。

 温かくて、でもゆらゆら揺れて、寮のソファよりずっと不安定なのに、僕がどんなに暴れても絶対に落っことしたりしない。覆いかぶさるような格好をしているのは僕のほうなのに、包まれているように気持ちいい。それこそ毛布に、この前のブランケットに、包まれているみたいに――。
「ーーえっ……あっ!?」
「ちょっあぶね……起きた? 降りる?」
 目を覚ますと、環くんの背中に負ぶわれていた。それはいい。いやよくはないけれど、それは分かる。いや分かりたくはないけれど。
 周りが盛り上がるので僕も調子に乗ってどんどん呑んでしまって、座っていられなくなって、もう店じまいですって環くんが連れ出してくれて、寒いとごねる僕にジャケットを貸してくれて、今は寮へ帰る途中だ。
 それは分かる。そして知っている。いくら貧相だといっても日本人男性の平均以上の身長はある僕を環くんが一人で持ち上げて、僕にも周りにも気を遣って、帰路の数駅を徒歩で辿ってくれること、その間にこの背中がうっすらと汗をかくこと、その時に昇る――この匂い。
「やっぱり……環くんだった」
「なにが」
「ブランケット……猫耳の」
「あー。猫耳のな」
 りっくんも似合ってるよな。環くんは僕を下ろそうとはしないまま、前を向いたままで、優しい声で笑う。
 酔いが覚めた状態で、こんなに長いことおんぶしたまま歩いてもらうのなんて、初めてなんじゃないのかな。いつもより格段に高い目線でビルの明かりを見てみたくて、ほんの少しの間首を伸ばしたけれど、往来の視線が恥ずかしくて、すぐに上体を倒してしまった。
 まだほんのり熱い頬に、環くんの髪から覗いた耳がしっとりと吸いついてくる。肩口の辺りから、やっぱり懐かしい匂いがする。
 目の奥がツンとした。こんな優しい匂いは、たぶん春や秋の、空気が柔らかな季節じゃないと昇らない。僕が最後に触れられたのはいつだったんだろう、なんて覚えているわけがない。なにせ、酔いつぶれている時のことなんだから。
「環くん……」
「ん。やっぱ降りる?」
「降りない……あのね、あの……陸くんにあげたっていうブランケット、僕がもらってもいいかな。陸くんには、代わりのものをプレゼントするから……」
「……いいんじゃねーの。りっくんに聞かないと分かんねーけど」
 そうか。確かにそうだ。抜けきっていないアルコールで火照っていた頬が、燃えんばかりに熱くなった。環くんは「あったかければいいんだろうし」なんてフォローしてくれているけど、今すぐ忘れてほしいし、僕も勝手ながら朝まで記憶を失いたい。
「あ、でも、うさぎのほうがいいかも。なんかいおりんが……」
「ご、ごめん、ごめんなさい、忘れてください」
「忘れる? ナシなん?」
「な、ナシで……というか、自分でなんとかするので、ごめん……」
 もういっそ降りてタクシーを呼んでしまいたい。でもブランケットは、諦めきれなかったらこっそり陸くんに聞いてみよう……。パニックになりながらも、しっかり交渉の算段は立てつつ、でもさすがにいたたまれなくて身を縮こまらせた。
 顔を見られないのはありがたいのに、どんな姿勢を取ってもこの匂いがする。着せてもらったジャケットもそうだけれど、薄いシャツを一枚隔てただけの肌からずっと強くかおる、言い得ぬ甘みを含んだ匂い――。
 確かに懐かしかった。どうして? 今まで見知った人、叔父さんからも、人肌の匂いなんて、知ることはなかったのに。
「猫耳好きならさ」
「す、好きじゃないよ……」
「好きじゃん。俺サイズのあるから、それあげる。りっくんとおそろにしたくて買ったやつだから、おそろごっこしてあげてな」
 環くんサイズ。脳内で変換したその響きに惚けていたら、ずっと進行方向を見ていた環くんが、今夜初めて僕のほうを振り返った。
「ぶかぶかだろーけど」
「あ、いや、大は小を兼ねるというか」
「ふはっ。怒んねーの? こないだも昼寝してたし、ちょっと寝たら」
 どうやら環くんは、僕の元気がないと思っているらしい。あと、猫耳が好きだと……。ともあれ思いもよらない大きな取引が成立した。陸くんに「環くんのブランケットをもらった」なんて報告したら、また知りたくなかった味を知らされることになりそうな予感もしたけれど、いざ大きなブランケットに包まって午睡に臨む自分を想像したら、都合の悪い思い一つ暴かれるくらい、どうってことないかもしれないと思えた。だから今夜はこの肌の匂いを、もう少し、もう少しだけ。
 眠り込んだふりをして、いつもより呼吸を深くする。恋しさより先に懐かしさを与えてくれたこの子のそばにある幸せなら、目を覚ました後もきっと、信じられる。