It’s only planet

 そーちゃんが泣いた。一人で、だけどたくさんの人たちの前で。
 そーちゃんが大人になってから初めて泣くその時、隣にいようと決めていたわけでも、誓っていたわけでもない。俺も昔から一人で泣くことがほとんどだったし、そのたび誰かが隣にいてくれたらと願うこともなかった。何も悲しくはなかった、俺がそばにいられない時に、そーちゃんが涙を流したことは。
「……。……寝れねー」
 悲しくなかったし、疲れてるはずなのに、赤ちゃん電気を灯してからも、目が冴えっぱなしだった。スマホでゲームをする気にもなれなくて、ただ布団に寝っ転がってだけいるせいか、ほんのり明るい天井のスクリーンに、今日見たそーちゃんの姿が代わる代わる浮かぶ。
 それを十周くらい繰り返して、夢と現実の区別がつかなくなってきた俺は、思い切って起き上がった。いったん目の前の景色を変えて仕切り直そう。誰もいない居間へ降りるのは気が進まないけれど、さっと水を飲んで帰ってくるくらい、なんとかこなせるはず。
 そーちゃんが泣けないのを克服したぶん、俺もなんかマシになんないかな。らしくないことを考えながら、部屋の扉をそうっと閉めた時、そーちゃんの部屋のほうから、何かを潰したような音が聞こえた。
 まだ起きてるんだろうか。気が高ぶって、眠れないのかもしれない。そっと扉へ忍び寄って耳をそばだてる。聞こえてきたのは――物音なんかじゃなかった。そーちゃん、たぶん、咳してる。
「そーちゃんごめん、入んぞ!」
 そーちゃんは、寝てたは寝てたらしい。扉を開けるなり真っ暗な部屋に足がすくんだけれど、思い切って体を滑り込ませた。カーテンから漏れる月明かりだけを頼りに、ベッドの上にうずくまる布団のかたまりに駆け寄る。
「あ、たまっ……く」
 ベッドの端に膝を載せると、俺の名前を最後まで呼べなかったそーちゃんが、見られてるのを気にしたのか控えめに、だけど苦しそうにくふっとむせた。
「どした、咳止まんなくなった? なんか詰まった?」
 そーちゃんはそのどっちもに、ふるふると横に首を振った。とりあえず布団を剥いで、背中に手を当ててやると、汗ばんでいて熱かった。熱があるんじゃなくって、ずっと力が入ってるみたいに震えてる。ベッド横のランプをつけると、ぎゅっと閉じられた目尻には涙が滲んでいた。
「手、口ふさいじゃだめ。ゆっくりでいいから息して」
 背中をさすりつつ、口元で強張っているそーちゃんの手を下ろしてやると、従ってはくれたものの、そーちゃんはまた一生懸命、首だけで否定を示した。
「いき……」
「だいじょぶ。ゆっくり」
「ちが、くて……みみ」
「耳?」
「いた……」
 耳が痛い? 反射的にそーちゃんの横っ側を覗き込むと、そーちゃんが金魚みたいに口をはくはくしながら、薄い胸をひくっと跳ねさせた。
「……そーちゃん」
 言うかは迷った。
「泣いてた?」
 真っ赤な顔が頷く前に、疲れ果ててるだろう体を、俺の肩にもたれさせる。拍子に一瞬口が塞がったそーちゃんは、また一度、んぐっと苦しそうな声を上げた。
「鼻詰まっちゃったんだろ」
「……く、くち、口で、息するとっ……」
「しゃくり上げちゃうんだろ。しばらく諦めな。恥ずかしくねーから」
「やだ、恥ずかしっ……」
「いつまでも鼻ふがふがしてるほうが恥ずかしーから。……いてっ」
 脇腹を叩かれた。ちょっとは元気みたいでよかった。
 ふう、はふ、とそーちゃんが深く、でもせわしなく呼吸を繰り返す。過呼吸を起こしてしまわないように、俺の呼吸に合わせて背中を撫でてやる。ひっく、とそーちゃんが時折震えるたび、ペースを乱されないようにするのが難しい。
 俺もだんだん緊張してきた頃、ようやくそーちゃんの鼻が、ずびっと音を立てた。
「通った? 今のうちにかんじゃいな」
「あ、ティッ、シュ、そこ……」
 言われなくても分かる。取ってくれってことだろう。箱ごと渡してやると、すぐさまそーちゃんにしては豪快なくらいの量が引っ張り出された。よっぽど嫌だったんだろうか。
「落ち着いた?」
「……び、っくり、した」
「急になったん?」
「息しよ、と思っ……、時、には、せ、セメント……で、か、ためたみたい、なっ……」
「そりゃーびっくりだな」
 ひく、ひく、そーちゃんのお腹が鎮まるにはもう少しかかりそうだ。くしゃくしゃに丸められたティッシュごと抱きしめてやると、そーちゃんがふううっと深く、長く、努めて慎重に息をついた。
「……ごめん……」
「なんで。俺来てよかったじゃん」
「よくないよ……こんな、みっともない……ところ」
「そーいうのは今さらじゃん」
 一瞬身を硬くしたそーちゃんだけど、すぐ今日のことだけを言ってるんじゃないと気付いたのか、「そんなこと……あるかもしれないけど」と肯定しつつも、俺の腹に弱々しく拳をかましてきた。
 昼間たくさん泣いたせいか、なんだか拗ねた子供みたいだ。弱みを突かれた時はいつも、面倒なくらいしおらしくなるか、腹立つくらい開き直るのに。
「……どした? なんか思い出した?」
 今日は色々ありすぎた。いや、今日だけじゃない。親父さんに会いに行くと決めた日からずっと、そーちゃんは何十本もの糸を張り詰めさせていて、それが全部切れちゃったみたいに、寮に帰る直前まで泣いてた。ラジオでの事件を聞きつけた皆のことを気にしたのか、寮では謝りながらも笑ってたけど、部屋に入った途端座り込んでしまって、風呂に連れてくのが大変だった。
 髪を乾かして、ベッドに運び込んで、目が腫れないよう濡れタオルの冷たいのと熱いのを交互に当ててやって、なんとか寝かしつけることに成功したのに。
「目が、覚めてしまって……」
「うん。やな夢とか見た?」
「夢は……覚えてない。変な夢は、見てないと思う……今日会ったことを、思い出していて」
「また込み上げちゃった?」
 そーちゃんはほんの少し返答に詰まった。無理しなくていいよ、と声をかける前に、そーちゃんが俺の胸にぐわっと抱きついてきたから、驚いて息を呑んでしまった。
「そーちゃ……」
「……ごめんね」
 細い腕にぎゅうっと力がこもった。ああ、また泣いちゃうな、とだけ、回り切らなかった頭で思った。そーちゃんの言葉を待つ間、ほかほかの頭と薄い背中を、そっと抱きしめることしかできない。
「君の顔を、見た時……ほっとして、父さんがまた来いって言ってくれたのも……嬉しかったのに……」
 そーちゃんが喉を震わせた。俺のTシャツの上を、そーちゃんの涙が滑っていった。
「ごめんね、何かが、不安だとかじゃ、ないんだ……ラジオで言ったことだって、言えてよかったと、思ってる、けど、なんだか……久々に帰ったからか、叔父さんの話をしたからかな……」
「色々思い出した?」
「……分からない。ずっと、覚えていたことなのに、気付いたら、どうしようもなく、なっ……」
 えっく、とそーちゃんがまた声を詰まらせる。そこで俺は大事なことを、いっこ思い出した。
「そーちゃん、泣く時、声我慢しちゃだめ。声殺して口ではーはーするから、鼻で息すんの忘れて、詰まっちゃうんだよ」
「……う、でも、声……嫌だ、聞かれたくない……」
「そっか……」
 実際、隣のヤマさんの部屋まで聞こえるかどうかは、分からない。そーちゃんのことだから、声を出したって蚊が鳴くようなのみたいかもしれないし、やっぱり色んなものがセキを切って、子供みたいにわんわん言ってしまうかもしれない。
「じゃー、俺の部屋、行こ」
 そーちゃんは「えっ」とでも言いたげにべしょべしょの顔を上げたけれど、そーちゃんに「どんくらい泣く?」なんて聞けるわけがなかったから、問答無用で抱き上げた。そーちゃんはしばらく何か反論したそうに俺から顔を背けて、床を見つめていたけれど、俺が肘でそーちゃんの部屋のドアノブを下ろした頃には、観念したように俺の胸元に上半身を預けた。
 こんな時でも散らかっている服や教科書を足でかき分けて、ひとまず俺がさっきまで寝ていたスペースにそーちゃんをゆっくり下ろす。壁際に並べられた王様プリンたちを退避させている間、そーちゃんの息遣いは落ち着きを取り戻していた。
「ごめんね、気を遣ってもらって……でも、持ち上げられて驚いた拍子に、引っ込んじゃったみたい」
「でも、またぶわって来っかもしんねーじゃん。隣ナギっちいるけど、明日オフだから。夜明けまでヘッドフォンでここな観てるから、へーきだよ」
 そーちゃんを奥へ寄せて隣に寝転がりながら、初めの思惑を予定通り伝えはしたけれど、俺ももう別のことを考えていた。抱っこした時に引っ込んじゃったってことは、しばらく床を見ながら、大丈夫だから下ろしてって言おうと思ってたのかもしれない。けれど、大人しく連れてこられてくれたってことは、俺のそばにひっついてたいって、思ってたのかもしれない。
「もう大丈夫だよ。ありがとう」
 そーちゃんの心がいたずらにぐらぐらしないなら、めいっぱい甘やかしてやりたい。そんな気持ちだったのに。
「……まだ、だいじょうぶじゃないよ」
 そーちゃんが泣きはらした目で笑ったから、言ってしまった。泣きやめたのに、眠れそうだったのに、ごめん。謝る代わりに、そーちゃんの体を今一度、俺の腕の中に戻す。
「泣き切ったって、思わないほうがいい。たぶんそのほうが、後でしんどい。どんどん、思い出すよ。昔のこと……悲しかったとか、嫌だったとか、どうにかしたかったとか、一度泣いても、今度は、むかつく気持ちになって戻ってきたり」
 おふくろが死んで、理と離れて、一人ぼっちになった俺も、十年以上そんな日々の繰り返しだった。皆と暮らすようになって、眠れず泣くことは少しずつ減っていったけれど、今ではあのいくつもの夜が、新しい寂しさに形を変えて、心臓をぎゅうっと締め付ける時がある。
 これからそーちゃんを襲うそんな夜と、一緒にたたかうことができたら、この痛みも、癒えるかもしれない。
「我慢、しないで。泣くのも、声を上げるのも。隣にいるから……ずっと」
 言いながら、ひとつぶ涙がこぼれた。そーちゃんが泣き声をこらえた理由が、ちょっとだけ分かった。
 だけど、大丈夫じゃなくていいよ。
「……環くん」
 かすれた声が俺を呼んだ後、胸をそっと押された。涙を隠すより先に、そーちゃんの表情を見たくて、首を傾げた。
 そーちゃんの鼻の根にも一筋、涙の滑った跡があった。その上をぽろぽろ、ぽろぽろ、大粒の涙が追っていく。噛み締められた唇は、声を我慢している様子はなかった。昼間見たどんな泣き顔とも違った。俺もこんな泣き方はしたことがない。
 そーちゃんが何を言いたかったのか、分からない。今はどうして泣いているのか、それすらも分からなかった。けれど、何か言ってやりたくて、自分から離れたそーちゃんの体を、もう一度引き寄せる。
 今は俺に言い聞かせるようにしか言えないけれど、いつかちゃんと、そーちゃんが殺し続けてきたそーちゃんの弱いところを、守ってあげられる人になる。
「怖くないよ」
 これからどんな夜が来ても、一緒だから。