アフター ザ トランジット

(2017.2.12発行「トランジット」後日談)

『いーよ。降りてきて』
 トーク画面とにらめっこしていたから、通知音は鳴らなかった。待ちわびていたメッセージだけど、受け取る前より緊張していた。エレベーターが上がってくるまでの時間も惜しくて、足踏みした後、階段を駆け下りる。
「環くん!」
「おー。お待たせ」
 引越しの間に和らいだ蝉の声が、まだ名残惜しいみたいに燻っている。マンションの前には、Tシャツに七分丈のパンツでいつもよりカジュアルな環くんと、銀色の軽トールワゴンが待っていた。
「ではこちらへどうぞ」
「あ、ありがとう……」
 エスコートというほどでもないけれど、恭しく案内されるがまま、助手席へ乗り込んだ。昇り切った太陽に早くも汗が流れそうだったけれど、車内はほどよく冷房が効いていたので助かった。出がけ、車を借りるのに僕が留守番するかしないかで喧嘩になったけれど、もしかしてこのために、先に出てくれたのかな。
「荷物、後ろ載せる?」
「お願いしてもいいかな」
 環くんを追いかけて首を捻ると、前列のシートはだいぶ下げてあるみたいだった。それもそのはずだ。こんな小さな車に、環くんの脚が満足に収まるわけがない。
「じゃあ行きますか」
「お願いします。ナビはどこに設定する?」
「使わなくていい。海沿い走りたいから、覚えてきた」
「あ、そう……」
 シートベルトを締め、エンジンを揺らし、ウインカーを出しつつ後方を確認する。なんてことない仕草が新鮮で、自宅付近じゃなければカメラを構えたかった。そうでなくとも手持ち無沙汰だ。前日からシミュレーションしてきた仕事を一つ奪われて、車内には早くも沈黙が訪れた。
 事の発端は夏フェスが終わって間もない頃――引越しの計画を整理していた時、初秋に二人のオフが重なる日を見つけて、夏の疲れを癒そうかという話になった。なったはずなのに、環くんが車を出すと言い出して、運転の交代場所を考えていたら怒られて、その晩は布団をほんの少し離して寝たんだった。
 やりたがらない環くんをその気にさせるのは、コツを掴めばそう難しくはないけれど、逆にやりたいことをやめさせるのは、上手くいった試しがない。そういうわけでその後日、乗せられっぱなしになることを覚悟して、社用車の助手席常連の大和さんに相談した。質問内容はいたってシンプル、「助手席にいる人間って何をすればいいんでしょうか」。しかし聞き方が悪かったのか、回答は「俺何かしてたっけ」の一言だった。
 途方に暮れて「ドライブ 助手席」のインターネット検索に頼った末、一番に見つけた仕事が「ナビゲーター」なのだがそれも失敗した。とりあえず眠気覚ましのミルクコーヒーは買ってきたけれど、そんなに好きじゃないと思う。でも、今日は二人してお昼までのんびり寝たから、これも必要ないのかな。血色のいい横顔を観察していたら、環くんがフロントから目を離さないままで口を開いた。
「下道で行くからちょっとかかるかも」
「いいよ、そんなこと。ドライブなんて久々だから、楽しみにしてきたよ」
「だろ。俺も仕事以外で運転してみたかった。休憩したい時言えよな」
「うん。ありがとう」
 会話は問題なく継げた。単に育ち盛りなのか、理ちゃんの手を離したからか、分からないけれど、年を追うごとに環くんは、持ち前の優しさを他人にかけることが上手くなった。察しが良くなったとも言う。しかしそれに伴って当然僕も変わった。
 時々、昔は隠し切れなかった内心の焦りを、こんなふうに笑顔でごまかしてしまう。それを見破るほどの疑り深さは、環くんにはない。

 BGMは、今や懐かしい僕たちのファーストアルバムを選んだ。当時十代だったメンバーたちは、やっぱり歌い方が若々しい。収録の時、楽しい気持ちばかりじゃなかった曲もあるのに、悲しみなんか知らないみたいに明るい声が、かえって胸をきゅんとさせる。
「ずっと思ってたんだけど――」
「は!? またそれ!?」
「あ、ご、ごめん。深い意味はない。枕詞みたいなもので」
「懲りろよ!!」
 冒頭で怒られてしまった。言われてみればよくない癖だ。自分でも気付かなかったことに驚き黙り込むと、案の定環くんが溜め息をついた。
「続きはナンデスカ。別に怒ってねえから」
「でも機嫌を損ねたような……」
「気にすんのやめて。恥ずいから」
 頬が赤らんで見えるのは、窓に映った百日紅のせいじゃないだろうな。
「どうして?」
「いつまでも子供みてえじゃん」
「僕のほうが悪いのに?」
「悪いなんて言ってねえじゃん。……そーちゃん」
 交差点の手前で、緩やかにブレーキがかかる。今日初めての赤信号で、環くんがようやくこちらを向いた。
「ずっと悪いことって思ってたの?」
「だ、だって……。何か黙ってることで、君に心配や迷惑をかけるし、いつも申し訳なく思って」
「やだ。やめて。確かに俺怒るけど、そーいうのやめて」
 あ、やっぱり怒ってたのか。とても口には出せないようなことを思いながら、幼さの垣間見える横顔を伺う。この距離にもだいぶ慣れた。特急列車や新幹線は、この四年間で何十回と乗ったから。
「……言えないのはさ。しょうがないだろ。言わないって、そーちゃんが自分のセキニンで決めてんだから、俺が無理強いはできねえじゃん」
「でも、いいんだよ。環くんも自分の責任で、言ってくれって怒っても」
「怒りたくはない。気付いてやれんのが一番だもん。でも、できないから、イライラして、当たっちゃうんだよな……」
 環くんは正面を向いたままだけれど、目元が弱ったように下がってた。
「やだったら、やだっつっていーからな」
 運転手に話しかけてあげること――ネットでそんなアドバイスを聞いた覚えもあるのに、何も言葉にならないまま道中は進む。言いたくないわけじゃないんだよ、と訴えたくても、上手く伝えられる気がしない。
 思えば、環くんとのことに限っての話じゃない。いつも、湧き上がる気持ちに値する言葉が分からない。歌だとかダンスだとか、生業とするものに置き換えていければいいけれど、それも周りに比べちゃまだまだ駆け出しだ。
 そうやって諦めるから状況が悪化するのだろうけど、中途半端に伝えて誤解をされたり、悔いが残ったりしても嫌だし、そう考えると黙っていたほうがマシなんじゃないだろうか。こう考えるのは、思いやりがないからか。結局また黙り込んでいたことには自分で気付いた。環くんはもう僕を責めなかった。
「お、見えてきた。海」
 そのうち目の前に現れると分かってはいるのに、つい首を伸ばす。もう少し行くと環くんの言っていた海沿いの道に突き当たり、そこを右折したところで道のりを把握した。向かうは左前方の、灯台の島だ。
「なんだか曇ってきたね」
「夕方には晴れるっつってた」
 環くんが言うならそうかな、という気がしてくる。そういえば丸一日オフだった上に寝坊したせいで、まるで天気予報を見ずに出発してしまった。スマホで調べればすぐに結論は出るのだろうが、助手席でスマホなんて、と聞きかじった知識が邪魔をしてくる。
 空はあっという間に鉛色を濃くして、フロントガラスに涙をこぼし始めた。幸い雷は轟かなかったけれど、蝉の声が地を打つ音に変わる。突然の夕立に少しずつ道路が混み始め、いくらも進まないうちに、時々停止を強いられるようになってしまった。窓には絶え間なく雨水が流れ、まるで滝の内側にいるみたいだ。
「怖くない?」
「さすがによゆーだし。なんで」
「ううん。停電した日を思い出すなって」
 ふと尋ねた。悪気はない。環くんにも、それは伝わっているだろう。
「……あの時怖がってたのは、そーちゃんのほうだろ」
 あの日潜り込んだ環くんの布団は、暖かかった。出会って間もない頃、宿泊先で添い寝をせがまれたことがあるけれど、二十歳ともなればさすがに、もうそんなことはしたいとは思わないのかな。
 ずっと思ってたんだけど――君が、どんなに悲しいことがあったって、笑って歌って踊り切るから、僕もなんだって平気でいたいと思うんだよ。それが「無理をしてる」んだって君は怒るんだろうけど、君みたいに強くなって、君の隠れた弱さを陰で支えてあげられることが、出会ってからしばらくの、僕の夢だった。
 そんな気持ちも、言えないまま、形にならないまま消えてしまうのかな。消してしまっているのは他でもない僕自身だけれど、理ちゃんを探す環くんをずっとそばで見てきて、隣にいられるだけで幸せなんだとも思うようになった。究極を言えば、生きているだけで。その目に映ることができるだけで、触れられるだけで――。
「……ん」
 自分の吐息で目が覚めた。目が覚めたということは寝ていた。全身の血の気が一瞬にして引いた。引いたのに、頬にほのかな熱が残っている。
「なんかついてた……?」
「何が」
「頬、触ったかなって」
「触ってない。気のせいじゃねえの」
 そっか、なんて答えのない会話をしている場合じゃない。助手席で寝るなんてもってのほかだ。検索結果には、一番にそう書いてあった。
「ご、ご、ご、ごめん。渋滞で、君だって退屈なのに」
「んなことない。もし眠くなっても、あんた起こすし」
「で、でも、運転させておいて」
「ん。だから、俺が運転でよかったんじゃね」
 口調は優しげだったけれど、表情は予想どおり素っ気ない。車はほとんど進んでいないのに、こちらを見ようとさえしてくれなかった。
「夕べも暑かったじゃん。俺は慣れてっけど、そーちゃん寝苦しそうだったし。だから昼まで寝坊したんじゃねえの」
 それきり環くんは黙りこくってしまった。ちら、と顔色を伺う僕の様子に気付いていないわけはないと思う。やっぱり怒らせてしまったんだろうか。そう不安は浮かぶけれど、不思議と危機感がわいてこない。
「……雨のせいかな」
「なに」
「ええと。雨の音、安心するなって」
 環くんが高速道路付近のマンションに住んでいた時、うるさくないのかと心配だったけれど、何か聞こえたほうがいいって言ってた。分かるとは言わないまでも、今なんとなく同じ感覚を味わっている気がする。二人の間の、見えない隙間が埋まっていく。
「ん」
 環くんがそう相づちを打ったきり、車が走り出すまで会話はなかった。それなのに妙な安堵感に包まれて、乗り慣れない助手席も、なんら苦痛じゃなくなった。
 やがて西に光の梯子が降りて、僕たちを目指す先へと導く。すっかり口角が上がった環くんの表情は、「ほら、晴れたろ」とでも言いたげだ。
 目的地は複数の路線の終着駅でもあり、人の通りでまた車の進みがもたつき始めた。いったん海から離れ、事前に調べておいたコインパーキングを見つけて、誰に急かされるでもなく、慌ただしく車外へ飛び出す。
「そーちゃん、走れ!」
 先を行く手を迷わず取った。国道に出る直前で二人してマスクを引っ掛けて、島へと続く大きな橋のたもとへ駆ける。
「……間に合ったっ」
「間に合ったね……」
 そこには、さざ波を焦がすような茜色が広がっていた。水面に散らばった光の粒が、風に揺られながらも花道をかたどる。千切れた雲は燃え出しそうに輝いていて、太陽が沈んでからも、残照からしばらく目を離せなかった。
 息を切らしながら、汗ばんだ手はどちらともなく静かに離した。そのうち環くんのお腹がぐうと音を立てた。夏至なんかとうに過ぎたとはいえ、日没を迎える頃となると、なかなかいい時間だ。
「晩ご飯にしようか」
 ここに来て、ようやくいいところを見せられそうだ。実は、大通りから外れた場所にある飲食店を、事前にいくつか見繕っておいた。
「せっかく海辺まで来たし、魚がいいかな」
「ん。ていうかシラス。有名なんだろ」
「そうそう。生シラスは難しいかもしれないけど、美味しいお店があるよ」
 今度こそスマホで地図を確認しながら、民家風の建物の二階にある、小さなどんぶり屋さんにお邪魔した。やはりこの時間じゃ生のシラスはお目にかかれなかったけれど、ふっくらとした釜揚げのシラスに、マグロと甘エビ、サーモンに、環くんの好きないくらまで載った海鮮丼を注文した。
 十代を終えても、環くんの食べっぷりは衰えることを知らない。今日も、顔の大きさほどもあるどんぶりを、片手でひょいと持ち上げて景気よく頬張る様に見惚れるはずだった。はずだったのだけど、環くんはなぜか僕と同じように、どんぶりをテーブルに置いたまま、ゆっくり白米を掘り起こしている。
「環くん……、疲れちゃったかな。それとも眠たい? もし具合が悪かったら――」
「あ、いい。違う。そーいうのじゃない」
 じゃあどーいうのなんだ。目で訴えかけると、環くんは観念したように言葉を継ぐ。
「実はさっき」
「うん」
「ちゅーした」
「は!?」
 たまには男らしくかき込むのに挑戦してみようかな、とちょうど構えていたところで、どんぶりを取り落しかけた。危なかった。しかし状況が呑み込めない。
「な、なに……どういう」
「寝てる時。ほっぺに。触ったと思ったの、たぶんそれ」
「あ、そ、そう……」
「ていうか。そういうことが言いたいんじゃなくて。寝てたの怒ってたわけじゃねえからってこと。黙り込んでごめんなさい。俺があんなんだから、そーちゃん不安になんだよなって」
 めずらしく矢継ぎ早に話す環くんの手は、震えてた。箸はすっかり止まってしまっていた。どぎまぎはしたけれど、明らかに緊張している様子を見ていたら、こちらにはかえって余裕が生まれた。とく、とく、と打つ早鐘がなぜか心地いい。
「ご飯が冷めないうちに食べてしまおう。それから、島の上が神社だから、帰る前にご挨拶していこうか」
「……ん」
 なんてことないふうに返すと、環くんも多少は安心したのか、再度手を動かし始めてくれた。でも食べ方はいつもより大人しくて、それがなんだか可愛くて、つい何度も口元を緩ませてしまう。これ以上ギクシャクはしたくなかったから、深い意味は考えないでおいた。もし意味があって、僕に知ってほしいと思うなら、環くんのほうから話してくれるのを待ちたいから。

 お腹を満たして幸せになったところで、先ほど夕陽を眺めた橋へ向かった。まだ開いている店も多くあるけれど、平日だからかやはり人はまばらだ。何組かのカップルとすれ違いながら、仲見世通りを上がって、有料エスカレーターの乗り場にたどり着く。
「運行はもう終わってしまったみたいだね」
「別に歩きでよくね」
 数百程度の石段なら問題はない。足を踏み入れると、思いのほか木の茂った道で、少し離れたら顔が分からなくなりそうな程度には暗かった。
「環くん、大丈夫かい」
「だからガキ扱いすんなってば。ヘーキ」
 環くんは唇を尖らせた後、拗ねたように一歩前へ出た。だからといって僕が心配しなくなったら、怖いなんて言わなくなるくせに、と苦笑いが漏れる。
「それに、ちょっと暗いほうが、素直になってもらえる気がする」
 反射的に顔を上げたが環くんはどんどん先へ進んでしまう。足を速めたら、僕のほうが先に不揃いな段差につまずいて、とりあえず名前を呼んだ。
 僕の話、だったんだよな。考えながら、立ち止まってくれた環くんの隣に並んで、ひとまず息を整えさせてもらう。強がっていたわりにしょげた子犬みたいな目を見ていたら、次の言葉が自然と出た。
「手、つなごうか」
 うん、とか、ううん、とか、何も聞こえなかったと思う。さっき二人で、夕焼けの街を走った時みたいに、ためらうことなく指先を差し出し合って、汗もかまわずそっと重ねた。このくらい暗ければ、人影が見えた時に離れるくらいでいいだろう。マスクも、外しても平気かもしれない。
「もう震えてないね」
 一歩目は同じタイミングで踏み出した。少し差のあるはずの歩幅が、石段のおかげで揃って、一緒に踊る時のように、息遣いまで同調していく。
 ようやくたどり着いた最初の平地には、やっぱり人影はなかった。花壇の道を通り過ぎ、木々に守られた奥へと進む。
「静かだな」
「クリスマスシーズンなんかだと、もっと賑わってるんだろうけどね」
 時間からして、社殿の拝観は当然無理だし、恐らく灯台の最終入場も終わってしまっている。お楽しみは今度にとっておいて、気ままに土の上を散歩して回った。
「あ、あっち。林が切れてる」
 環くんが指差した先に、街に面した展望スペースがあった。板張りの階段を下りると、柵の向こうに無数の灯りが瞬いていて、まるでライブ会場みたいだった。
「きれーだな」
「あの道を走ってきたんだね」
 たぶん、世界一静かなステージだ。物言わない光に見惚れる二人は歌わない。もう風の音しか聞こえない。
「そーちゃん」
 呼ばれるがまま振り向いたら、唇が重なった。二度目だったから、驚きはしなかった。
「頬、じゃないんだね」
「何度もびびってられっかよ」
 つないだままの手が唇に負けじと熱い。きっと環くんの頬もそうだ。言葉を求めたいわけじゃないけど、指先にぎゅうと力を込める。
「そーちゃん」
「うん」
「これからこういうこと、俺としかしないって決めてほしい……」
 自分でも、ずるいと思う。いつも環くんに言わせてばかりで。
「あ、でも、無理強いしたいわけじゃねえから……ハイかイイエでいい。そーちゃんが決めて」
 暗いところだと、素直になる気がする。環くんの言葉が、おまじないみたいに頭の中に響く。
「恋人になりたい、ってことでいいのかな」
「……たぶん……」
「どうして、そうしたいって思ったの?」
 環くんはちょっとだけ唇を噛むと、空いた手で長い髪をくしゃ、と掴んだ。
「こないだの飲み会ん時、ゴシップのこと言われて」
「……誰に?」
「怖い顔すんなよ! 別にヤなこととかじゃない。MEZZO”もオトナになったなーってからかわれただけ」
 虚を衝かれてつい眉間にしわが寄ってしまった。僕のことで環くんを悪く言うような人がいるなら、ちゃんと名前を把握しておかなくちゃならない。
「落ち着いてって。飲みはフツーに楽しかった。でも、オトナんなったけど、俺は浮いた話ないなって言われて」
 確かに環くんは共学の高校に通っていて、それこそ悪意ある記事のネタだって作ろうと思えばいくらだって作れただろうに、今日まで一切そんな話はなかった。アイドルだからだとか関係なく、環くん自身が色恋沙汰に無頓着すぎるのだ。だから「抱かれたい男」ランキングだって、デビュー一年目で五位を勝ち取って以来トップ3に手が届いたことなんか一度もなくて、でもそういうところも環くんの良さの一つだと僕は思うから、毎年少しほっとしていたところもあって――。
「あ、あれ、結局どういう話だったっけ……」
「だから……。俺がいたら、もしこれからそーちゃんがコクハクとかされても、俺がいるからって断れんじゃん」
「こないだの人とは何もなかったってば」
「これから誰かとあるかもしんねえじゃん! 告白された時はなんとも思ってなくても、可愛いし今付き合ってる人いないしいいかなとか、……あ、でも可愛いカノジョが欲しいとかだったら」
「環くん」
 街明かりをわずかに掬い取った、ベビーブルーの瞳がきらっと光る。どんなパニックに陥っていても、名前を呼べばこちらを見てくれるこの子のことが、ずっと愛おしくてたまらなかった。可愛くて仕方なかった。そんな彼が守ろうとしてくれた時は、嬉しかった。ずっと分かってて言えなかった。
 大きな手を、両手で包み込んでみる。今からしようとする約束は、この手を僕にくださいと言うことなんだ。
「恋人なら、君のこと特別だよって言ってもいいのかな」
「MEZZO”だからって……相方だからって、そーちゃんが、グループの中で俺が一番とか、決めらんないのは分かる。でも、相方とかカンケーなく、いちばん、いちばん大事にする」
 そーちゃんは……? 弱々しい声が、結局うつむいてしまった僕の鼓膜を優しく揺らした。ステージの上じゃ絶対に聞こえない声だ。歌わない時でも、踊らない時でも、隣にいたいともし願ったら、叶うんだろうか。
「……あのね。正直、僕のどこがそんなにいいのか、よく分からない。君みたいにきっと優しくない。会話も上手じゃないし、人を楽しませるのも上手くない。今日だって……」
 大人ぶってこの時を待っていたくせに、いざ向き合うと泣き言ばっかり溢れてどうしようもなかった。相方である以上、無責任にやめておけとまでは言えないけれど、本当にいいの、という不安ばかりが足を捕る。
「俺にそういういいとこがあるっていうんならさ、そういうの、分かってもらえなくていいって拗ねてたガキん時の俺のこと、一番に見ようとしてくれたのがそーちゃんじゃん。そーちゃんが俺のことそんなふうにしてくれたんじゃん。違うの?」
 顔を上げる勇気だけは出した。環くんはたぶん、ずっとこちらを見ていた。優しくされるのになんか慣れたくない。僕だって君のことを守りたかった。
「……上手くいくかな」
「わかんない」
「言い出しっぺなのに分からないのかい」
「喧嘩は、またするかも」
 そのくせ相変わらず見切り発車だから、見ててあげなくちゃと思ってしまう。ほんの少しだけ背伸びをして、今にも震えだしそうな唇にちゅ、と触れる。
「喧嘩しても君のこと、ずっとずっと好きだったよ。これからもそうじゃないのかな」
 とうとう溢れ出した涙に、もう笑うしかできなくなった。泣き顔を肩へ導きながら抱き締めると、環くんも僕の背にぎゅうとしがみつく。
「大好き……」
 邪気のない涙声、子供みたいに甘い汗の香り。いつまでも僕より高い体温、人を難なく包み込む腕。ずっと知ってた。あとは言葉だけでよかった。一歩踏み出すのが君なら、立ち止まりかけた時に手を引くのは僕だ。
「……ありがとう」
 どんなことも、これから二人で戦おう。

 木々がざわつき始めてきたので、夜風で冷えてしまわないうちにと、手をつないだまま石段を下りた。帰りは僕が運転しようかと提案したら、案の定嫌がられたので、マンションの前で僕だけ下ろすようなことはしないでと、念のため頼んでおいた。
「また寝てたらいいじゃん」
「あれは完全に失敗だから……。ごめんね。帰りは色々話そう」
 トストストス、と二人の足音だけが森中に響く。時々バラついてもすぐに合うのは、かけた年数のお陰だけじゃないと思う。
「話もしたいけど。車でそーちゃん寝た時、嬉しかったから」
「いつも隣で寝てるだろう。僕はベッドだけど……」
「うん……。いつも段差? あるし、そーちゃんもともと居眠りとかしないじゃん。今日は安心してくれてたんじゃねえの?」
 ずっと相方をやってきたぶん、容易に乗り越えられることも多いだろうし、逆に予想だにしないことで驚いて、大騒ぎすることもたくさんあるんだろう。準備不足は苦手だけれど、そのたび新しい僕たちを知れるならきっと悪くない。
「今日は床に布団を敷こうかな」
「えっ、……電気は?」
「いつも消してるだろ。やっぱり怖かった?」
 そうじゃなくて、と早くも不正解に唇を尖らされる。続いた答えは、やっぱり予測しがたいものだった。
「そーちゃんの寝顔が見たい」
 あれ、でも、電気ついてたら寝れない? なんて、最早そういう問題じゃない。慣れたはずのささいな日常すら、不意に輝き出してはこんなふうに、僕たちの行く道を照らしてくれる。