ROSY3

 中盤から入るピアノの音が、気品を保ちながらも独特のもの悲しさを振り切って遊び始める。その場所を離れては奏でられないこの楽器みたいに、僕はどんなに歌い狂っても、最後には一礼してステージを去るだろう。
 本テイクのCメロで、一発OKを出せると確信した。厚い防音ガラスの向こう側に見慣れた顔があるのが嬉しくて、思わず笑みがこぼれた。急にこんな曲を歌うなんてリリース後に知るんじゃひっくり返るだろうと思ったから、デモテープも練習も何度も聴かせたのに、やっぱりどこか僕より覚悟を決めるような顔をしてる。いつも一緒に闘ってくれてありがとう。
 僕は僕の好きな歌を全力で歌い切るだけだから、楽しくて仕方ないんだけど。人前でこの曲を歌うことに一片の恐怖もないと言ったら嘘になるけど、少しでも弱さを見せたら、神経をエレキギターの高音に焼き切られそうだった。
 環くんには一度、「ロックって言うからもっとシャウトとかすんのかと思った」と妙な方向で驚かれた。もちろんそんな歌い方も好きだけれど、今回はそこまで理性を解放するような曲じゃない。僕を応援し続けてきてくれた方が作っただけあって、アイドルとしての僕やそのファンを置いてけぼりにすることのない、絶妙な塩梅の作りだと思う。
 でも、ライブや今後の曲で仕込んでみるのもいいかな。幻滅する人もいるだろうか。単純に好きなものを好きだと叫べるのは嬉しい。自分をさらけだせることも。だけど、がっかりさせたくない人たちもいる。とはいえ、環くんなんかは「何やったって言われる時ゃ言われんだから言わせとけ」って言うに決まってる。これからまた迷い道だらけの日々だ。でも別に、こんなことばかりが好きなわけじゃないよ。誰より遠いと思ってた君に「優しいところが好き」と言われた時、こんな自分でも幸せになれると思った。
 好きなものに命をかけて、結果亡くなった人がいる。
 僕自身が「幸せだ」と口に出せるようになるにつれて、叔父さんの幸福に言及することが減った。半分は強がりだったのだろうな、と頭の片隅で思う。僕だけが叔父さんの人生を知っているわけじゃない。
 勘当された今でも、叔父さんの音楽仲間には会えていない。会う資格がないとまで思っているわけじゃない。だけどあの日「逢坂」の家に縛られて、死の淵にいた叔父さんに声をかけられなかったことを、どうしても正気で思い出すことができない。
 僕に見送られることがなくても、叔父さんは幸せだったと信じたい。大事な人に顔を見せられないまま死なれた記憶を有していても、人は不幸じゃないと思いたい。忘れたわけじゃない。痛いほど覚えている。
 どれだけ幸福になれば僕は僕を許せるだろうか。

「ばか――――!!!!」
 意識が鮮明になるなり、触れ慣れた体温に、両頬をむぎゅーっと挟まれた。その手を跳ね飛ばして勢いよく身を起こしたけれど、手をついた場所が思いのほか柔らかくて、ものの見事に環くんの腕の中へと転げ落ちた。
「うわわわ」
「暴れんなっつの!!」
「暴れてなっ……れ、レコーディングは」
「終わってから寝た!! ここ寮!!」
「ね、寝た……?」
 見渡すとなるほど、自分の部屋だ。目覚めるまでいた場所はベッドの上のようだから、寝ていたというのは恐らく間違いじゃない。
「歌い終えた後の記憶がないんだけど……」
「そりゃそーだ。あんた、レコーディング室から出てすぐ俺に飛びついて、そのまますぴー、だったぞ」
「じ、じゃあ録音は……」
「ヘーキ。ちゃんとできてた。代わりにチェックしてオッケーもらって帰った」
 そんなことよりちゃんと寝て、と薄手の毛布の中に戻されてしまった。病人じゃないんだから、そのまま抱きかかえていてくれたってよかったのに。温もりが恋しくなって、ベッドの脇から手を伸ばす。すぐそれを握ってくれた環くんは、痛みにでも耐えるように眉をしかめて、さっき思いっきり潰してくれた僕の頬に唇を落とした。
「昨日さ、ちゃんと寝れなかった?」
「そんなことないよ……。緊張はしてたと思うけど」
「何時に寝た?」
「ええと……」
 覚えてない。毎日同じ時間に寝起きしてるわけじゃないから。――と正直に言ったら頬をつねられそうだったので、環くんの手がこちらへ伸びる前に、毛布を伸ばして防御した。
「具合が悪かったわけじゃないよ……」
「あっそ。じゃあトばしすぎた?」
「そんなに激しい曲じゃないと思う」
「まだ激しくなんのかよ」
「はは。……でも、気持ちはよかったよ。気持ちよくて、ああ今音楽を奪われたら死んでしまうなと思って、それで……」
 曲が終わって、音が途切れて、途端レコーディング室が真空に変わって、我慢ができなくて――録音中のランプが消灯するなり、夢中で環くんの胸の中に飛び込みに行ったところまで、覚えている。
「それでホントに死んだみたいになんなよ……」
「ごめんね。興奮していたのは本当だと思う。気をつけるよ」
「いーけど。次もついてくから」
「まあ、いざという時に後を任せられるのはのはありがたいかな……」
 布団と一緒に頬を守っていた自分の手を、改めて環くんのほうへ伸ばす。寝る前にシャワーを浴びようかな、なんて言ったら、明日にしろって叱られるに決まってる。
「一緒に寝てくれる?」
「じゃあ二度寝の時間込みで目覚ましかけて」
「ひと息で起きればいいのに」
「そーちゃんの顔見てからもっかい寝んの」
 着替えてくるからちょっと待ってな、と断って環くんはいったん部屋を後にした。ふと自分のなりを確認すると、ベルトとカーディガンは剥いであったものの、ほぼ仕事へ出かけた時のままだった。環くんが目を離している隙に着替えてしまおうか、でもシャワーを浴びずに寝巻きに袖を通すのも気が進まないな、なんて頭だけは忙しなく回転させていたら、王様プリンさんの描かれたTシャツに着替えた環くんが、揃いの物を腕に掛けて帰ってきた。
「はい、バンザイ」
「ありがとう……何から何まで」
「下穿く? パンツでいい?」
「あ、うん。そんなに寒くないし……」
 もう面倒だし、環くんも同じ格好をしていたから、今夜は脚を絡めて眠ろう。決め込んで環くんのぶんのスペースを空けると、すぐさま大きな体が滑り込んできた。環くんもシャワーは明日にするつもりなんだろう。今日はそんなに動き回る仕事やレッスンはなかったはずだけれど、僕を運んだ時に頑張ったんだろうか、鼻を埋めた首元から、ほんのり汗の香りがした。
「リリイベなんかもっと大変なんだかんな」
「分かってるよ」
「分かってねー」
「分かってるって……」
「分かってねーよ。そーちゃん絶対、今までで一番サイコーに歌おうとしてブッ飛ばすじゃん。で、その後すぐ、お客さん用にネジキリキリ巻き戻してさ。百パーヘトヘトんなる」
 小言を言いながら、大きな手が僕のうなじをふかふか逆撫でる。甘えるように太もも同士をくっつけたら、たくましくてしなやかな脚が、僕の脛あたりを抱き込むように引き寄せた。
「腕ジャマ。背中回して」
「ん……」
 言われるがままにしがみつくと、とくとく、胸の奥から血の通う音がする。昔、こうして寄り添っている時は環くんの鼓動のほうが早かったのに、慣れると僕よりずっと穏やかなリズムを刻むんだって、気付いたのはいつだったっけ。
「本番の日さ、朝晴れたら、お布団干してこ。んで、帰ったらすぐ寝よ。取り込んでやっから」
「あ、でもマネージャーが、リリース記念にお祝いしてくれるって……」
「んなのちゃんと元気な日にしてもらえばいーじゃん。体調とお祝いどっちが大事なの」
「どっちも大事だと思うけど」
「そりゃそーか。じゃあちょっとだけ我慢な」
 また一緒に寝てやっからな、と既に眠たそうな声をしているくせに、思いがけないご褒美を予告された。手帳に予定を書き込む習慣のなかった環くんは、口約束でも自分の言ったことを忘れることはほとんどない。それがかえって安心する。
 一緒にいるよ、と言って本当に一緒にいてくれるような人を、初めて見つけた。
「……僕……」
「んー?」
「音楽さえあれば何もいらないってわけじゃないよ」
 頭上で深くなっていく呼吸をさえぎって、拗ねたような声を出してしまった。環くんは溜め息をついたのか、笑ったのか、ふうっと一つ息を吐くと、その息吹が揺らしていた僕の髪に、やわらかく口付けた。
「知ってるよ」
 それきり、僕は環くんに話しかけるのをやめた。ほんの少し増した腕の重さで、環くんが安らかな眠りに落ちたことを悟ったからだ。そういえば電気を消すのを忘れた。腕の中から抜け出すのは惜しかったから、光から逃れるために毛布をそっと引っ張った。
 環くんが知ってることを、僕も知ってる。音楽さえあれば何もいらなかったのなら、出自を皆に隠してデビューなんかしなかったし、環くんにMEZZO”をやめないでほしいなんて、言わなかった。
 音楽さえあれば何もいらないとは言わない。だけどスカウトされたあの日、僕がこのチャンスを掴み取れないほど弱いなら、それこそもう何もいらないと思ったのも、本当だ。ましてや人の温もりなんて。だけど「幸せだ」と口に出せるようになって、考え始めたことがある。
 もしも死に方を選べるのなら、僕はどんな場所を望むだろう。