落ちることのない恋をしている

「落ちることのない恋をしている」。水平線が赤らむ波打ち際で、そーちゃんは一人ぶっ倒れていた。黒いロングコートは砂だらけ。傍らには鈍色のキャリーケース。水面に金糸がたゆたい始めて、ようやくそーちゃんも目を覚ます。
 なんで海、とは一応言ったし、お屋敷を借りる案もあった。そーちゃんはちょっと悩んで、やっぱり海で、と一言で決めた。
“確かに大袈裟かもしれないけれど。あの家で大人になる前に、違う場所で生まれてきていた気がする。それがどこだか分からないけど、どこにも居場所がなかったわけじゃないから”。
「時にはちゃんと泣きたくもなる」。ひときわ強い東風が吹いて、砂嵐に氷の粒が混じる。ちぎれ始めた雲を背にして、そーちゃんはコートを脱ぎ捨てる。そのままキャリーを両手で抱えて、斜面の浜を上がり始めた。もし俺がすぐそばにいたら、片手で運んでやれたと思う。
 まぶしい朝日に別れを告げて、そーちゃんは人の道を歩き出す。アスファルトは褪せてひび割れている。砂を噛んだキャリーのタイヤは、時々きしんで悲鳴を上げた。だけどそーちゃんは省みない。
“初めてのソロのMVだから、ずっと笑っていようと思うんだ”。反対の声も複数あった。だけどそーちゃんは最初から決めてた。もしも自分が迷った時に、今日までの日々を思い出すために。
「だけど終わりは必ず来たから」。立派な建物は出てこない。唯一人混みを通るのは“大学”。道行く人に見向きもせずに、そーちゃんは真っ直ぐ前を見ている。昔もこんなふうに通ってた? その問いの答えはもらっていない。だけど、大学に進んだから家を出られた気はすると言ってた。
 氷が次第に花びらに変わる。モニターの中のそーちゃんは苦しみを知らない。だけどそれは表情の上でだけ。心の内は分からない。
 分からないこのそーちゃんが、確かにあの日までのそーちゃんだった。忘れたいと言われなくてよかったけれど、本当はちょっと複雑な気持ちだ。
 最後にほんのひとコマだけ、俺が出演するシーンがある。出演といっても指先だけ。その指先が、このMVのそーちゃんのゴール。MVは花嵐に巻かれて終わる。
「この手を取って、夢の果てまで」。与えられた詞だけを歌うことを、俺たちはだんだんとやめていった。自分一人の思いだけで、世界が一つできてしまうこともある。抱えきれなくなれば置いていく。そこにはそのうち、好いてくれた誰かが自然と住まう。
 それが救いだとそーちゃんは言った。それらが半永久的に残ることも。どんなに自分が変わっても、今までのことは無駄じゃなかったと思えるらしい。
 そーちゃんはモニターの中で何度も、俺との出会いを繰り返している。それまでの日々がそーちゃんを弱らせるのに、この瞬間がそーちゃんを支え続ける。あの日ひらめいた稲妻は、今も指先でくすぶったままだ。音をたてずに光だけ散らす、遠い雷のような寂しさでそーちゃんを見ている。
 まだ昇り切らない陽のほとりのような、静かなところにそーちゃんはいる。俺がそーちゃんに触れる時、きっとその世界に夕立を連れる。それでも笑ってくれとは言わない。ただ、荷物を渡して手をつないでくれたら。