航海

「はい。着替えて」
「……そーちゃんのじゃねえよな?」
「馬鹿言わないでくれ。マネージャーにサイズを確かめて買ってきたんだよ」
 強引に海水パンツを押し付けると、環くんは釈然としない表情を見せながらも、受け取って後部座席に移動した。僕は寮から穿いてきたから、こんなところでお尻を出す必要はない。環くんには事前に言うと黙ってついて来てくれなさそうだったから、ギリギリまで内緒にさせてもらった。
「準備できたら前においで。日焼け止め、塗ってあげる」
「泳ぐの? マジで? 海開き前なのにいーの?」
「あまり良くはないけど、捕まるわけでもないから。確かに砂は荒れてるし遊泳区域のロープもないし、潮に流されても誰も助けてくれないけど」
「なに? なんかジボージキになってんの?」
 環くんは怖がる前に、呆れたように溜息をついた。そのまま素直に背中を向けて、クリームを塗りたくられるがままになってくれる。
「何もないよ。海で泳ぎたくなっただけ」
「別にいーけど、溺れたら大迷惑だかんな」
「分かってるよ。浅瀬だけで我慢する」
「はいはいえらいえらい」
 僕がわがままを覚えるのに従って、環くんは僕の我慢にあまり目くじらを立てなくなった。昔は頑張ってわがままを言うたび何かがダメになっていくようで怖くて、どうしようもなく不安になってばかりいたけれど、思えばその頃から環くんは、同時に僕に上手く我慢をさせて、心のバランスを取れるようにしてくれていた気がする。
 おかげでだんだん、わがままも我慢も加減が分かるようになった。許される加減ではなく、自分で自分を許せる加減。知らなくても生きていけたとは思うけど。
「万歳して」
「ん」
 環くんは歳を重ねても少し短気で、僕のシャツのボタンを三つほど外したと思ったら、そのままスポンと頭から抜かせた。そのくせ僕に触れる時はどんなつまらないことでも恐ろしく丁寧で、時々僕より僕の身支度が得意なんじゃないかって可笑しくなってしまうこともある。
「パーカーを羽織るから、そんなに念入りに塗らなくてもいいよ」
「いーや。絶対脱ぐ。俺は予言する」
「そんなこと言うと当てるよ」
「ほれ見ろ。いーから大人しくしてな」
 足首、脇腹、鎖骨を辿って、頰骨から目尻の際まで撫でられて、まだ波に足を浸してもいないのに、お腹がいっぱいになりそうだ。
「できた。お待たせ」
「やっと終わった……」
「んーと、そーちゃん、筋トレの成果出てんよ」
「いや、機嫌は取らなくてもいいから」
 早く、と一声掛けて、運転席を飛び降り砂浜を駆け下りた。お下がりでもらったパーカーの裾が、初夏の風を受けてパタパタと翻る。
「そーちゃん、鍵!」
「締めてくれた?」
「たりめーだろバカ! 手ぶらで行きやがって……」
 とは言うものの環くんの持ち物だって、水着のチャック付きポケットに入る車のキーくらい。あと、日焼け止めのポーチに一緒に入れておいた、万が一人が増えてきた時のための、二人分のゴーグル。
「俺、ゴーグルって買ったことない。金なかったし、泳ぐ時どうせ目ぇつむるし」
「付けてみて、目、開けてごらん。海藻ばっかりだけど綺麗だよ」
「波、結構冷てえけど……」
 二人手をつないで、ゆっくり水平線のほうへ進む。おへその下辺りでいったん歩みが止まった。そういえば環くんはお腹を触ると、いつもくすぐったがってしまう。一度慣れると楽なんだけど。温かくない水だって、浸かってしまえば気持ちいい。
「環くん。追いかけてみて」
「あ、あんた深いとこは行かないって……」
 制止は聞かず、ゴーグルを付けてトプンと腰を落とした。柔らかな日差しが碧色の水を透き通らせて、少し先の砂地が深くくぼんでいるのを教えてくれる。そこに飲まれないよう、底を蹴って真横へ泳いだ。
 僕に続いた環くんは、足首を乱暴に掴んだりはせず、僕の背中を覆えるところまで泳ぎ切ると、僕の体を包んでゆっくり反転させた。背後から出でた泡が環くんの長い髪を揺らす。水面がきらきらと揺らめいて、魅入ると溶け込んでしまいそう。
 カツン、とゴーグル同士がぶつかって、思わず二人してゴボッと噴き出した。
「……っぷぁ、ははっ、ゴーグルでちゅーしちった」
「はぁ、冷たいけど気持ちいいね」
「気持ちいいけど長居はナシな」
 二人分のゴーグルは、太い腕に通されて早くも休憩だ。肘から滴る雫を眺めていたら、ちゅ、と塩辛いキスを落とされた。自分の息は冷たく感じるのに、相手の息は妙に熱い。環くんにとってもそうなんだろうか。
 ザザ、と時おり大波が寄せて、足元の砂を撫でてはさらっていく。
「やっぱり、君の涙と同じ味がするね」
「最近はそんな舐めさせてねーだろ」
「ふふ。大人になったからね」
「それもあるけど。ちょっと強くなったの」
 生き物が海から生まれたことは、海を知る前に本で知った。それから長らく教科書の一文に過ぎなかったけれど、人の体液の味を初めて知った時、教えられたこと全てに合点がいった。
 海の味がする。ベッドの上で唐突に訴えた僕を、笑いながらも愛おしげに抱き締めてくれた環くんの腕が、出会った頃より逞しくなっていたことに気付いたのだって、もう何年も前の話。
「陸で暮らしてるとやっぱり分からないね」
「そのうち分かりてえな。いろんなこと正反対でも、同じとこから生まれたって思いたい」
「僕たちが生まれるずっとずっと前に?」
「うん。ずっとずっと昔。したらたぶん、死んで離れ離れになっても、どっかで会える……」
 水に浸ったままの体は思いのほか温かいのに、つないでいる手がだんだんとふやけていく。地上の暮らしに馴染んだ僕たちは、ここにはたぶんもう還れない。ただ、記憶だけ体内に宿している。生まれる前、ここにいたということを。
 人を愛さなければ知らなかった。
「いつか死んで、生まれ変わっても見つけてくれるかな」
「楽勝すぎ。そーちゃんどこ行ったって歌ってんだろ」
「どうかな。毎日スーツを着てるかも」
「着てたってどうせ歌ってっから」
 歩むはずだった道から離れてずいぶんと経った。あの場所にもきっともう戻れない。いつか答えのない、道のない世界で自分は生きていくのだと気付いた時、本当はほんの少しだけ、海に帰ったような気がした。
「……ちょっとは元気出た?」
「どうして?」
「海開き前に泳ぐとか、いつものそーちゃんじゃあり得ねーじゃん」
「そんなことない。別に元気がなかったわけじゃないよ」
 わざわざ果てのない場所で、誰にも知られず生きていくかもしれなかった自分を夢想するさなかにも、隣には君がいる。その幸せを時々思い知らないと、ただ広いステージの上ではまだ、迷いそうになることもある。
 環くんが強くなっても、僕の弱いところはこんなふうに弱いまま。だけど最近はどうしてか、それでも悪くないかなって思うんだ。