涙の海で、舟に揺られて

 出演前なのに汗びっしょりで、衣装の袖に腕がなかなか通らなかった。待ち時間にアンケートを埋めてしまおうと思っていたのに、指が震えてまともな字が書けなかった。僕が引っ張っていかなきゃいけないのに、事務連絡程度の会話で何度も噛んでしまった。小さなことがどんどん僕を追い詰めていく。
 楽屋の扉を開けた時、耳鳴りがした。頭のてっぺんから指先まで冷えて、呼吸の仕方を忘れていくのに動悸ばかりやけにうるさい。自分が緊張していることは分かっていた。黙って足を交互に動かせば、とりあえずステージへはたどり着けることも。
 スポットライトの光が焼けつくように熱い。聞き慣れたメロディが殴りつけてくるように痛い。目の前は闇かと思いきや無数の顔が浮かんでいて、こんな景色を望んだことは覚えているのに、視線が刺すようで目を逸らせない。
「そーちゃんっ……」
 その声で体が動いた。反射的に振り返ると同時に、手を握られていることに気付いた。久しぶりに、僕のせいで泣きだしそうな顔を見た。こんな表情はさせたくないと、あの日痛みのさなかで願ったのにな。
「そーちゃん、そーちゃんっ……!!」
「……う……」
 ようやく喉がわずかに震えて、はあっと息を吐くと、背中が冷たくなった。まばたくたび、暴力的なまでのまぶしさが、やわらかな薄闇に変わっていく。――布団の上じゃないか。
「……僕……あれ、倒れて……!」
「た、倒れてない!! 寝てて!! いーから!!」
 慌てて起こした体を、ばふっと押し倒すように戻された。背中に感じた違和感は全部、僕のかいた汗のせいだった。動いた拍子に、額や首にもだらだらと雫が伝う。不快で無意識に拭おうとしたら、環くんが自分の寝間着の袖をそっと押し当ててくれた。
「夢か……」
 納得してぽつりとつぶやいたら、頬にぽたりと温かなものが落ちた。
「……どうして君が泣くの」
「だっ、て……」
「僕がうなされてて、怖かった?」
 堰を切ったようにぼろぼろとこぼれだす涙に左手を伸ばす。右手は、環くんがずっと握っていた。
「ごめん……寝ててって、言ったけど……」
 環くんが、離した手を僕の背に差し入れる。怯えるようにしゃくり上げながらも、再び起こした体を抱き寄せる手つきは、摘み取った花を守るように優しい。
「……泣かないで」
 言ったって環くんが聞かないのは分かっていたけど、言わずにはいられなくて、僕も同じように背を抱いた。既に湿っていた肩口が、自分のもの以外の体液でじわじわと熱くなっていく。
 不思議だ。今夜だけじゃない。自分を守れるのは自分しかいないと思ってここへ来たのに、誰より分かり得なかったこの子がいつも、弱がる自分を奮い立たせては癒した。
「昔の、夢だろ」
「そうかな……そうかもね」
「ステージの夢なのは、すぐ、分かったけど……。……『早くみんなで』って、言ってた」
 そうかもね、と濁したのは、純粋に確証が持てなかったからだ。環くんは断定したけれど、実際に「早くみんなで」と急いていた七人でのデビュー前、仕事での演出以外で、環くんが僕の手を握ることなんて滅多になかった。
「君がいたよ」
「は……? ……そりゃ、いんだろ」
「うなされてたから、手を握ってくれたんだろ。夢の中でもそうしてくれたよ。それがなかったら、朝まで動けなかったかもしれない」
 いつ明けるともしれない夜闇の中に、一本の道だけが伸びていた。七人の悲願まで、ずっとそんな日々だった。環くんは一緒に走ってくれる時もあったし、焦らなくてもいいと言う時もあった。マイペースに見えてきちんとついてきてくれた環くんの前で、僕はたぶん何度も道を逸れながら、ずっと足を止められずにいた。
「どうして泣くのか、聞いてもいいかな」
「……だって、もっと早く、こうできたら……」
 ステージの上で失態を犯すことは、僕は決してしなかった。だけど寮で倒れる前に一度だけ、呼吸が上手くできなくて、舞台袖でしばらく立ち上がれなくなったことがある。MEZZO”の楽曲には、一曲で酸欠になるような激しいものはない。恐らく疲労と過度の緊張から過呼吸を起こしただけで、大きな騒ぎにはならなかった。命にかかわることはないと、環くんにも分かっていたと思う。
 あの日、僕に声をかけるスタッフの後ろで、環くんが僕に伸ばした腕を、力なく下ろした。
「少しだけ聞いたよ。……僕がキーホルダーのことを隠していた時、大和さんに相談したんだね」
 僕はもう、自分を追い詰めて倒れるようなことはきっとない。けれど強くなったわけじゃない。今でも君の手一つに救われる。
 君の手一つ取れなかった僕を、こんなふうに抱き合えるまでにしてくれた。それだけじゃ君は救われないのだと言う。僕がもう夢にしか思い出さない日々に、今でも襲いかかられては、怖いと泣いている。
「もう繰り返さないよ。大人になるのは君だけじゃないんだから」
「繰り返すのも、そうだけど……」
 ひとりぼっちにしてごめん、隣にいたのに――以前の環くんからは想像もつかないほどの力で抱き締められる。僕よりずっとたくましい胸の奥底に、今もまだあの日の僕が一人でたたずんでいる。どんな言葉もそこには届かない。隣にい続けることくらいしか、僕の気持ちを証する手立てが見つからない。
 そんな非合理なやり方をたどって、今夜も、僕はツインベッドの片側で眠る。後悔したって仕方ないよと笑い飛ばせないのは、環くんが泣くたび、僕の胸も痛むから。