弱いところ

 いつの間にか、辺り一面真っ白な場所に立っていた。白いというか、何もなさすぎて、本当に白いのかどうか分からない。目を凝らしていたら思いのほかまぶしくて、頭がくらっとした。
「……っぶね」
 とんっと背中が何かにぶつかるなり、環くんの声がした。振り向く前に、体ごと振り向かされる。
「そーちゃん、元気?」
「えっ……一応?」
「そ……よかった。急に周り真っ白んなったから、気絶したかと思った」
 環くんはほっと一息つくと、ぐるっと辺りを見渡した。その視線が留まった先を見ると、果てしない空間の中に、鈍色の何かが浮かんでいる。
「行ってみよ」
「えっ、ちょっと……うわっ」
 環くんを追って足を踏み出したら、膝から前のめりに転んでしまった。手をついた場所は平らで硬いのに、どこに地面があるのか掴めない。
「フツーに歩けんよ」
「いや、なんか、浮かんでるみたいで……」
 逆に足元を意識するのをやめようと前を向いてみたけれど、ホワイトアウトに遭ったみたいに視界がちかちかして、結局膝をついてしまった。
「あーあー、もー」
「ご、ごめん……気持ち悪くなりそう」
「床があるつもりで歩くんだよ」
「なに、どういう……わっ」
 差し出された手を取ろうとしたら、そのまま抱え上げられた。環くんはスタスタ、なんてことない足取りで目的の方角へ向かっていく。
「目つむってろよ」
「申し訳ない……」
 そういえば飛行機でもクルーザーでも酔ったなあ。素直に肩に顔を埋めて、上がりかけた呼吸を整える。
「着いた。下ろすよ」
 環くんは僕がよろけないよう、後ろにぴたりとくっついて、両肩を支えてくれた。気分がまいらないうちに、僕は目の前の物体を観察する。
「……ドアノブだね」
「フツーのドアノブだな」
「というか、楽屋のドアノ……あっ!!」
 思い出した、さっきまで楽屋にいた。収録の待機中だったのに、眠り込んだのか知らないけれど、こんなところにいる場合じゃない。
「……っ、開かない! 環くん、何か固いもの……!!」
「えっ!? て、手ぶらだけど!?」
「蹴破れるか!? 二人でいけば……」
「ちょっとマジで落ち着いて!!」
 助走をつけようと後ろへ下がったら、環くんに手首を取られた。
「十五分くらい空きあったじゃん」
「環くん、また腕時計忘れたの……」
「なあ、この時計、壊れてる?」
 話を聞いてない。確かにどうでもいいか。言われるがまま僕も時計板に目を移すと、秒針が止まっていた。時刻はたぶん、楽屋で最後に見た時とほぼ同じ。
「時間止まってんよ、たぶん。絶対現実じゃねえもん。鍵とか探して……あ」
 今一度ドアを見た環くんが声を上げた。そのまましゃがんだので僕も続くと、ノブ付近には鍵穴はなかったけれど、小さな札が下がっていて、何か書いてある。
「『一緒に閉じ込められた相手の耳を噛むまで出られない部屋』……」
 読み上げられた内容を聞いて安心した。正直わけが分からないけれど、言葉に従うなら思ったより簡単な話だ。
「試してみようか。環くん、一瞬だけ耳を――」
――拝借させてもらおうと思ったのだけど、その瞬間、今までそばを離れないでいてくれた環くんが、すごい速さで数メートル左へ逃げた。どうやらドアのある場所はちゃんと壁になっているらしい。ぶつからないよう両手で伝いながら、環くんのほうへ歩み寄る。
「急に動いたら危ないよ。ちょっと屈んでくれる?」
「や、てか、意味不明だし。これで開かないかもしんないし」
「そうかもしれないけど。かといって他にできることもないだろ。嫌なら、君が先に僕の耳を噛む?」
「や、やだ。噛んだら俺の耳噛むんだろ」
 そりゃあ当たり前だ。どちらも試してみないと意味がない。だけど、環くんはフードをかぶりこんで、両耳を庇うように頭を抱えてしまった。こんなに嫌がられるとは予想外だった。確かに、仕事じゃさすがにこんなことまで要求されたりしないけれど。
「セックスの時は、これでもかってくらい舐め回してくるくせに……」
「だ、だってそれはそーちゃんが気持ちよさそうだから!」
「ちょっ……そういうことを大声で叫ばないで!! というか、嫌がったことはないかもしれないけど……」
「は!? 演技だったとかゆーの!? ここで!?」
 しゃがみ込んだ環くんが、涙目でショックと怒りを訴えてくる。ベッドの上なら、そんなことないよと宥めたかもしれないけれど、今はそれどころじゃないしそんな気分じゃない。
「この際だから言わせてもらうけど、唾液でべしょべしょにするのはやめてくれないか。噛むほうがよっぽど可愛いよ」
「なっ……でも、だって」
「だってじゃない。耳の中に違和感が残って落ち着かないんだ」
「ならそう言ってくれればいーじゃん」
 またそうやって――と責められたようで、つい口ごもる。環くんは唇を尖らせると、そっぽを向いてもう一つつぶやいた。
「結局気持ちくなっちゃうから言えねえんじゃん……」
「……そうだね僕は君ほど上手くないだろうけど黙って耳を」
「わーごめんなさいごめんなさい!!」
 勢いに任せたら真っ直ぐ歩けた。環くんはさっきより縮こまってしまったけど。
「今度からは舐めたら拭きます……」
「そうしてね。あと、時々は噛んでもいいよ」
「ええ……?」
 困惑を露わにされたけれど、以前からちょっとだけ興味があった。環くんはいつも、舌一つ使うだけでも、ゆっくり優しくしてくれる。だけど本当は、踊るように思いのままに、高音を放つように激しく、フレアみたいな情熱をぶつけられたい。
「演技じゃないよ。君が一番分かってるだろ」
「そう……かな。……そーかも」
 へへ、と環くんが頬を染めてはにかんだ。では、改めて。
「耳、出してくれる? 言っておくけど、仕事の前だから変なことはしないよ」
「や、分かってっけど……」
 顔を上げてはくれたものの、両耳は守るように押さえたまま、環くんは目を泳がせ続ける。
「あの……埒が明かないから訊くけど。万理さんみたいに、傷痕を隠してたりする?」
「ち、違う。そーいうことじゃない。……耳、たぶん、弱いから」
 環くんはフードの両端を口元まで引っ張ると、顔を真っ赤にしてそう打ち明けた。ここに何もなくてよかった。本当に小さな声だった。
「だから髪切らないんだ?」
「違う! 切らないのは、自分じゃここまでしか切れないから」
 何を尋ねても「違う違う」だ。だけどこの先は言われなくてもなんとなく察した。僕たちは別に、髪を自分で切る必要なんかない。環くんが、誰にも髪を切ってもらえなかった頃の話だ。
「……ごめん」
「ごめんってゆーなよ。ヤな話じゃねえし。それに、園入った後もしばらく傷残っててさ。理といた時はずっと伸ばしてたから」
 嫌な話じゃない、のだろうか。僕には分からない。
「したら触られんのニガテになっちった」
「……でも、それなら、ヘアアレンジとか本当は苦痛だったんじゃないか……? 僕もたまにやらせてもらってたけど」
「や、あれは別にヘーキ。知らん奴に触られても、落ち着かねえだけだから」
 それじゃあ全然平気じゃないじゃないか。不満が思い切り顔に出てしまっていたんだろう、環くんはフードを掴んでいた手を離して、僕の手をゆっくり握った。
「そーちゃんだと、泣きそうな気持ちになるだけ」
 そーいうわけなんで優しくしてください、と環くんはようやくフードを脱いで、片耳を出してくれた。見たことがないわけじゃないのについ見入る。日に焼けていないから、皮膚が透き通るくらい綺麗だ。
「あと」
「な、なに?」
 おそるおそる唇を寄せていたところに水を差された。何か企んでいたわけじゃないのに、ばつが悪い気分になるのはなぜだろう。
「エッチの時、触るとたぶんすぐ出ちゃうから、やめろよな」
「あ、そ、そんなことか……」
「何言われると思ったの」
「……いや」
 こめかみやうなじに手を添えても、身を退かれることはなかった。妙に緊張して、息を止めても、かぎ慣れた匂いが鼻の奥へ潜り込む。一瞬だけ唇が当たった。想像していたより、冷たかった。
「じゃあ次、そーちゃんの番」
 目を合わせられないでいるうちに、環くんが僕の髪を耳に掛けた。それだけで肩がびくっと強張って、結成したばかりの頃を思い出した。環くんもそうだと思う。
 そっと歯を立てる前に、ちゅ、と音を立ててやわらかいものが触れた。それだけでぞくぞくと背筋が震えて、ぶわっと全身に熱が回った。
「はは。真っ赤」
 思わず両耳を覆って俯いた僕の手を、環くんが優しく取り払う。静まりかえった不思議な部屋に、錠の外れるような音が響く。
 環くんはかまわず、唇を重ねた。切ない話を聞いたはずなのに、今までで一番、気持ちよかった。

☆診断メーカーより「一緒に閉じ込められた相手の耳を噛むまで出られない部屋」