君に至る彼方

 君に出会う前は音楽を聴きながら表を歩くなんて、絶対にしなかったんだけど。
 明日の午前中が空いているのをいいことに、海へ向かう終電に飛び乗って、まるで君が隣にいるみたいにそのまま眠りに落ちた。
 海の間際にしては乾燥した風に起こされて、心音と足音を競わせながら、ワンタッチだけで改札を抜けた。黒い水面は星の一つも映さない。観覧車の照明はとうに消えてた。君はまだスタジオの中だ。波の音を捨てて、ただ君の歌を聴いてた。
 僕たちが子供だった頃、姿を消すのはいつも君だった。名前を呼ぶことしか知らなくて、始めはなかなか追えなかった。いつしかその手を掴むことを覚えた。呼びかけ方が少し変わった。君は大抵折れてくれた。許してくれない時もあったけど。
 君がいなくなることをやめた頃、僕がどこかへ行くようになった。当てつけで真似たわけじゃないけど、君はいい気分じゃなかったかもしれない。だけど君は文句を言いつつ、息を切らして探してくれた。もっとも僕は君と違って、自分の気が済むまで戻らなかった。君もそのうち折り合いをつけて、行くがままの僕を放ってくれた。
 海よりずっと、還る場所みたいだ。仲直りした日は必ず二人で歌った。どちらが悪いとも追及せずに、ただ抱き締めてくれる強さが好きだった。弱い自分を仕方ないと思えた。そんなところも俺は好きだと、言われたくはなかったとしても。

『言ってくんなきゃ分かんねえじゃん』
 メンバーからプライドが高いと評される君は、僕に関しては分からない分からないと憤るばかりで、でもそれも今思うと、幼かった君の愛の一つだったのかもしれない。
『僕だけなのかな。いつも、後になってから分かるんだ』
 君よりずっと自分勝手だった僕のために、寝る間を惜しませた夜もあった。日頃抑揚のないあどけない口調が、僕のためにぽうと熱を持った。
『叔父さんのことも、父さんのことも、――たぶん、君のことも』
 追いかけられる時、いつも怖くて振り向けなかった。コンクリートを蹴る姿は、最後まで気配しか知らなかった。普段は寝転がってばかりいるけど、きっと走るのは速いんだよね。仕事に走って向かうような時は、いつも僕が前にいたけど。
『俺、ずっと一緒にいるよ』
 信じないとも言わないし、あり得ないとも口に出さない。ひと回り大きな体に抱かれて、仮初めの凪に一人きりになる。
『後なんて……』

 深夜といっても往来はヘッドライトが賑やかで、耳に流し込んでいるメロディだけに、君の熱情を懐かしんでいる。
 もうどのくらい触れていないんだろう。きっと人生で一番長い喧嘩だね。いつか僕がわざと笑い飛ばした時、怒ることをやめた君の優しさが悲しかった。
 いつしか君と歌う時ばかり緊張していた僕のために、難しいパートを買ってくれた君。君の声に負けないよう精一杯だった僕のために、いくつもの和音を紡いでくれた君。ヘッドホンから流れる音の、その隣には誰もいないのに、時々誰かを載せるみたいに、穏やかに水底をくぐる声。
 水平線の光の陰で、ソプラノからはとうに離れた、かすれた歌をそっと重ねる。どんなに疲れ切った声だって、一つ残らず掬い上げて、さっきより上手くいったんじゃねって、誰より嬉しそうに笑ってくれた。

 環くん。