一生に一度の夜明け前

「あ、そっか……」
 雑誌の表紙を見るなりそう声が漏れた。自分で思うより気にかかっていたのかもしれない。
 カバーを飾る男の人は、名前は忘れたけれどテレビで良く見る、たぶんそーちゃんと同い年の人。その下に太字で書かれた巻頭特集のどこかに、そーちゃんのページもあるんだろう。
『突撃・新成人!』
 昨年のある時期、そーちゃん一人のお仕事が少しだけ増えた。なんのお仕事、って聞いたことも一応はある。簡単な撮影とインタビューだよ、ってはぐらかすみたいに答えられたから、トラブルに巻き込まれているんじゃないかってマネージャーに確認したけれど、心配はいらないと言われたんだった。
 その仕事は別の収録や撮影の隙間を縫うように入れられることもあったので、また体調を崩すんじゃないかとも不安になったけれど、そーちゃんが疲れた表情を見せる前に落ち着いたから、結局なんだったのか聞けずじまいになっていた。
 引っかかる要素よりも期待が勝って、本屋の袋を抱えたままつい走り出してしまう。今朝は、放課後のこの楽しみのために寒い中布団から飛び出したくらいだ。
 メンバーが出るテレビの放送時間や雑誌の発売日は、マネージャーが分かりやすくまとめて共有できるようにしてくれている。だから、そーちゃんが俺に教えてくれなくても、そーちゃんの載っている雑誌はいつも発売日当日に買うことができた。
 付き合い始めてからのそーちゃんは、恥ずかしいとかなんとか言って、そーちゃん一人のお仕事の成果を、俺にあまり宣伝してくれなくなった。仕方がないので一人でそれらを見るのだけれど、時々、前にはしなかったような声、仕草、笑い方、新しいそーちゃんのいいところがどんどん増えていくのが明らかに分かってしまって、俺までしたこともないような顔で身悶える羽目になるから、一人で楽しむのでもかまわないか、と思っていた。
 玄関の扉を閉めるなり、うがい手洗いは念入りにするんだよ、と頭の中のそーちゃんが小言を言うけれど、待ちきれない。部屋まで行く時間ももったいなくて、共用スペースにカバンを放り、ソファでさっそく雑誌をパラパラとめくった。
「……おお」
 キモノのそーちゃんを見るのは一応、初めてじゃない。アイナナ学園の撮影でそーちゃんが袴をはいた時、その着こなしはもちろん、帯の締め方や足の踏み出し方ひとつまで妙にきれいで、今もふとした拍子に思い出すことがある。
 けれど、そんなものじゃない。ただの写真なのに、そーちゃんが黒い羽織をひらめかせて不敵に笑う様子が目に浮かぶ。そーちゃんは大抵、グラビアでは格好をつけたがる。今日のこのページは大成功、なんなら昨年の頑張りの集大成って出来だった。
『今年はもっと大人の魅力を見せていきたいですね』
 続くインタビューのページを開いてみると、なんてことない煽り文句に、もう一枚そーちゃんのカットがあった。「大人」なんていうからどんな表情をしているのかと思いきや、撮影中のそーちゃんにはめずらしく、眉を下げてふにゃっと笑った、雪がとけたみたいなとびっきりの顔。反して俺は自分の手汗に慌てる始末だから、やっぱり一人で見ていてよかった。
「なに顔真っ赤にしてんだ?」
「わー!!」
 振り向くと、みっきーが背もたれ越しに雑誌を覗き込んでいた。その後ろにはヤマさんもいる。誰かが、それも二人も帰ってきてたなんて気が付かなかった。とりあえず雑誌をいったん閉じて手を乾かす。このままでは紙がふにゃふにゃになってしまう。
「ヘンなもん読んでるのかと思ったわ。壮五が載ってるやつじゃん」
 みっきーは俺の膝の上からそれを拾い上げ、そーちゃんのページを探し始めた。あーあ、面倒くさがらず部屋まで行くべきだったかな。
「察してやんなさいよ」
「ヤマさん。余計なこと言うんじゃねー」
「はは。可愛らしいことで」
 言い合いに挟まれたみっきーが、目的のページを眺めながら、ふーんと声をあげる。
「あ、内容言うなよ」
「なんだ、環まだ読んでなかったのか」
「あとで貸す」
「いいや。大和さんが買ったの読むし」
 オレおやつこぼしそうだしなー、と笑うみっきーの頭を、キレイに読めとヤマさんがはたく。あんまり言うと怒られるけれど、ヤマさんは本当にいつも、メンバーの活躍を楽しみにしてくれている。
「まあ、なんだ。邪魔して悪かったな」
 ヤマさんがみっきーを急かすみたいに引っ張っるのを見送りつつ、俺はまだ少し温かい手でもう一度そーちゃんのページをめくった。
『やっぱりメンバーの皆に会えたことかな。二十周年を祝ってもらえるよう頑張ります』
 インタビューページの優しい顔のそーちゃん、部屋の壁に貼っておきたい。そーちゃんに見られたら恥ずかしいからやらないけれど、手帳のカバーに挟んでおくくらいならバレないかな。
 この雑誌は切り抜いちゃうから、明日、新しいのをもう一冊買ってこよう。王様プリンより高いものを二つも買うだなんて、それこそ俺にとっては初めてだ。

 そうして何の気なしに迎えた月曜日、めずらしく俺の学校が休みの日と、そーちゃんのオフが重なった。
 いつもより寝坊をして食卓へ向かうと、テーブルの上にラップのかかった小鉢がいくつか置いてあった。他のメンバーは仕事で出払っているみたいだから、食べていいってことなんだろう。レンジで温めつつ冷蔵庫を開けて、最近食パンにかけるのにはまった練乳と、デザートの王様プリンを探す。
「……いただきます」
 寮は静まり返っていた。午前中から仕事の時はそーちゃんが起こして一緒に朝ご飯を食べてくれるし、学校の時はいおりんがその係を引き受けてくれる。今日の俺は仕事もオフだったから、皆気にせず出かけたのだろうけど、お休みの時ってどう過ごしてたっけ。年末年始は忙しかったから、なんだか忘れてしまった。
 玄関脇の下駄箱に目をやると、そーちゃんの靴は全部そのままになっていた。ということは部屋にいるのだ。片づけたい作業があるのかもしれないけれど、一度は遊びに誘ってみよう。俺の学校もない完全なオフが重なるなんてなかなかないんだから。
 そう意気込みつつも王様プリンはゆっくり味わいたくて、丁寧にスプーンを進めていたら、そーちゃんがキッチンにやってきた。
「環くん、起きてたんだね。おはよう」
「そーちゃんおはよー。一口いる?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
 喉が渇いただけなんだ、とそーちゃんは独り言みたいにつぶやきながら、冷蔵庫のミネラルウォーターをグラスに注いだ。
「そーちゃん、今日、忙しい?」
「……どうして?」
「どっか行こうよ、お休みなんだし」
 振り返ったそーちゃんは笑ってたけど、昨日手に入れた紙ぺらの中で笑ってるそーちゃんの顔とは、やっぱり違う。
「行きたいところがあるの?」
「んー。とりあえず本屋寄りたい。あとは……そーちゃん、どこ行きたい?」
 二人でどこにでも行けるせっかくの日だったから、そーちゃんの行きたいところって例えばどんなところなのか、俺もたまには見てみたかった。
 そーちゃんは水をこく、と一口飲むと、特に困ったような様子でもなかったけれど、緩やかに首を傾げた。
「今日は遠慮するよ。ちょっとやりたいことがあるんだ」
「なに、仕事? 手伝う?」
「ううん。気にしないで。ごめんね、一緒に行けなくて」
 そんなこと、いいけど。何となく落ち着かない気持ちを抱えながら、黙って首を縦に振る。いってらっしゃい、とだけ言って部屋へ帰っていったそーちゃんはちゃんと笑っているままだったのに、俺は出かける気をなくしてしまった。
 ゴミをきちんと片付けて、俺もひとまず自分の部屋へ戻る。
 出迎えてくれた王様プリンのポスターに心はいくぶんか穏やかさを取り戻すけれど、言いようのないモヤモヤは晴れないままだ。
 やっぱり、隣にこれを貼っておけばよかったかな。ベッドに放られた手帳を開き、カバーに入るぎりぎりの大きさに畳んだ、例の紙切れを取り出して眺める。
 何度見てもこの表情は好きだ。まだどぎまぎはするけれど、あったかくて胸の奥が少し広がるみたい。だからなおさら今は物足りない。
『お酒が飲めるようになったことですかね。昨年はずいぶん失敗したなあ』
『沖縄かな。海がすごく綺麗でした。今度は連泊したいです』
 インタビューももう読み飽きてしまった。かといって一人で本屋に行く気も、ましてやゲームをする気も起こらない。欲求不満みたいな気持ちを紛らわすために、普段活躍の場が少ないテレビのスイッチを入れてみた。
 ちょうどお昼のニュースが始まるところだ。あまりにのんびりとした朝だったなあと、自分のことながらびっくりする。
『市民会館には既に多くの新成人の姿が――』
 喧騒の中で何やら女性キャスターが声を張っている。同時に、派手な着物姿の人たちの群れが画面いっぱいに映し出された。
 お祭りか何かあるんだろうか。右上に示された地名だけではよく分からない。考えている間に、カメラは別の場所へ移ってしまう。しかしそこにも似たような光景が広がっていた。
『この振袖はご自身でアレンジしたんですか?』
 めずらしいものばかりを探しているような口振りにもどかしさが募るけれど、そっけなく表示されたテロップに、目の前の霧が散らされた。
『一生に一度の晴れの日――』
 脳内で言葉を紡ぐより早く、強張った手が恐る恐る手帳を開く。うそ、と口からこぼれるけれど、どうせうそじゃないと書いてある。
『育ててくれたご両親に感謝の気持ちは伝えてきましたか?』
 キャスターからの追い打ちを受け、手の中の物を放って走り出していた。バタン、と扉が鳴る音は、そーちゃんの部屋にも響いただろう。そのままの勢いで隣の扉に体当たりをする。しかし今日に限って鍵がかけられていて、おでこをゴチンとぶつけてしまった。
「いでっ」
「環くんどうしたの……!?」
 痛みは大してなかったけれど、間髪入れずに扉が開いて、そーちゃんの焦った声がした。このまま出てこなかったらどうしようかと思った。頭が追いつかないぶん、心臓が騒ぐ。
「痛い? まさか腫れたりとか」
 顔を覗き込んでこようとするそーちゃんにまず無事を伝えようと首を伸ばしたら、低い肩越しに部屋の奥の様子が見えた。
 いつもはきちんと整えられているはずの、薄紫の毛布が大きく乱れている。ベッドの真下にはウォークマンと安っぽいイヤホンが転がっていて、俺はおでこのことなんか忘れてしまった。
「そーちゃん、具合悪い……?」
「え?」
 そーちゃんが昼間から寝転がっているなんてありえない。ましてや今日はやりたいことがあると言っていたのに。でも、それも俺に体調の悪さを隠すためだったんだ。
 そんなシナリオを必死に追うけれど、自分の性格は自分でもよく分かっている。
「大したことないよ。念のため、今日は大人しくして――」
「うそつき!」
 悪びれない顔のそーちゃんにこらえきれず怒鳴りつけて、そのまま部屋に押し入った。
 後ろ手に扉を閉めると、青ざめたそーちゃんがベッドのほうへ後ずさる。追い詰めるつもりなんてない。何も知らずに嘘をつかせてあげられれば、それがそーちゃんへの一番の優しさになったのかもしれない。
 そっか、ヤマさんは知ってたんだな。でも俺は、嘘で人を救えるなんて信じたくなかった。
「今朝、俺の誘いを断ったのは、外へ出たくなかったから?」
「……だって、この日だから仕事が入らなかったのに、遊び歩いてるなんて外聞が悪いだろ」
 ガイブン。言葉の意味は何となくしか知らないけれど、そーちゃんがわざと感じの悪い言い方をしたのは声色で察せた。そのくらいそーちゃんが傷ついているんだってことも、本当は、こんなことを聞いてはいけないんだってことも――。
「成人式、出ないの?」
 そーちゃんがバッと両腕を振りかぶって、俺はとっさに目をつむった。つい頭をかばいながらも恐る恐るまぶたを開けると、盾みたいに枕をかまえたそーちゃんの指が、小刻みに震えているのが見えた。
 拒絶のつもりだと分からなかったわけじゃないけれど、俺は自分でも不思議なほど冷静になってしまった。いつもそうだ。そーちゃんがテンパると、俺の気持ちがしんとする。
 待てど投げつけられることのなかった枕をそっと下ろしてやって、そーちゃんの頭ごと胸に抱き寄せる。う、と苦しげな声をあげたその顔は埋まって見えないままだ。息だけできるよう力を緩めると、俺の背にそーちゃんの腕が回った。
 そーちゃんはそーちゃんのお父さんへの気持ちを、まだ整頓できないでいる。憎いのか、怖いのか、後ろめたいのかは、分からない。
 だけどこれだけは確かだ。そーちゃんは自分のことを、家族を捨てた親不孝者だと思ってる。
「そーちゃん。二十年間で一番嬉しかったことは?」
「え、……なに」
「ハタチになって一番変わったことは、……二十年間で一番印象に残ってる場所は?」
 インタビューの内容なんてもう暗記してしまった。台本のひとつも覚えられない俺がだ。胸のモヤモヤはこの記事のせいでもあった。だから夕べはなかなか寝つけなくて、昼前まで寝坊なんかしてしまったんだ。
「そーちゃんが答えてるの、IDOLiSH7になってからのことばっかじゃん」
 そーちゃんに出会ってからずっとそーちゃんを見てきた。だからか、俺もほんの少しだけ大人になった気がする。
 細かいことは知らない。皆が皆、故郷で成人式に出席するわけではないらしい。だけど、俺たちが住んでる場所だって田舎じゃない。そーちゃんがMEZZO”の逢坂壮五だって分かる人がいることはもちろん、そーちゃんがどこの家の子供なのか、ここに来るまでに何をしたのか、知ってる人だっているんだろう。
 だからって、と腕に力を込める。そーちゃんが閉じこもってた理由は理解できるつもりだ。だからこれは俺の勝手でしかない。
「そーちゃんの二十年間をなかったことにしないでよ……」
 なぜ俺が涙声を出すのか自分でも説明できそうになかった。昨日から重たい胸がぎゅうと縮こまるようでただただ苦しい。
 俺はそーちゃんのことが好きだ。だけどそーちゃんはそーちゃんのことを好きじゃない。それが悲しいだとか寂しいだとか、そんな単純な話じゃなかった。
「……社長にスカウトされたこと」
「え?」
 不意に上がった声に隙をつかれて、間の抜けた返事をした。そーちゃんの言葉には、何かをごまかせるような強さはない。
「一番嬉しかったこと。大好きなことに打ち込む自分を必要としてくれる世界があるなんて信じられなかった」
「……一番変わったことは?」
「怒鳴り合ったり掴み合ったりするような仲間ができたこと。こんなこと、僕は一生しないと思ってた」
「印象に残ってる場所は?」
「家族旅行で行ったイタリア。いつか君を連れて行きたい」
 次々と継がれた答えに奮い立たされ、ゆっくりと腕をほどいて肩を離す。二人の間から枕がずり落ちて、足元に頼りなく転がっていった。
「そーちゃん、あのインタビューの撮影の時、何考えてたの」
 そーちゃんが昨日発売した雑誌を読んでいたかどうかは知らない。けれど、そーちゃんの目元はすぐに歪んだ。
「一番感謝している人を思い浮かべて、って言われた」
 かたくなに俺を見ない目が伏せられる。涙こそないけれど、とても「大人」には見えない弱さがにじんでいる。
「君のことを思い出したんだ……」
 そんな、許されないことみたいに言わないで。声にはならず、離した肩をもう一度抱き締める。目を閉じて大好きなあの笑顔を思い描くと、鼻の奥がつんとした。それこそそーちゃんに許されない気がしたからだった。
 どんなそーちゃんも引っくるめて好きだと言ったって、そーちゃんがラクになるわけじゃないのは身をもって知ってる。出会ってからの半年間、どうしたらそーちゃんがもっとそーちゃんのことを大事にしてくれるのか、一生懸命考えてきたつもりだ。
 わがままを言ったり、逆にいい子に努めたり。上手くいかないことばかりだったけれど、何だかんだそーちゃんと仲良くなれたから結果オーライだとは思ってる。
 けれど、やっぱりだめなんだろうか。まだやっと十七歳の俺には、そーちゃんを助ける力はないんだろうか。
 前にも後ろにも動けなくなって途方に暮れていると、ベッド脇に放られたままのウォークマンとイヤホンが見えた。再生中を示す赤いランプが静かに灯り続けている。
 これを抱えて布団に潜っていたんだな。やりたいことがあるなんてのも嘘だった。そーちゃんはたった一曲だけだとしても、音楽を聴く時はきちんと姿勢を正し、重たいヘッドホンを通す人だ。
「そーちゃん、何聴いてたの?」
 焦りが声に表れないよう心がけた。本当はすごく怖かった。だって、元気がない時ほど動き回って結局倒れていたそーちゃんが、何も聞こえないところでじっとしている状態だなんて、実際のところ、俺一人の手に負えるわけがない。
 どんな曲が流れているのか知らないけれど、すがる思いでイヤホンを取りに駆ける。その間にしゃがみ込んでいたそーちゃんへ、がむしゃらに右耳のコードを差し出した。
「そーちゃん、ほら……」
 励ましの言葉一つ出てこないままで、俺はもう泣きそうだった。そこでようやく、呼びかけなんか聞こえてなかったみたいなそーちゃんが、俺に背を向けたまま再び立ち上がる。
 頼りない指が迷うことなくラックの一枚を引き出して、そーちゃんが寝込んだ時に二人で散々回した、大きなプレイヤーのスイッチを入れた。
「二人で聴くなら、大きい音のほうがいいだろ。大和さんは夜までいないし、うるさくしたってきっと怒られないし……」
 急に口数を増やしたそーちゃんの声は、俺の耳をかすめるだけで消えていった。なのに――。
「……叔父さんの歌だよ」
 最後の言葉だけしっかり聞き取れたのは、なんでだろう。

 そーちゃんは床に座り込むことを好かないけれど、今日は二人でベッドに寄りかかった。思うままに脚を投げ出した俺の横で、そーちゃんは落ち着くところを探すみたいに膝を抱えて頭を載せる。心地よい音に合わせてゆらゆらと揺れていたら、夕べ変な時間に寝起きした俺はあっという間にうとうとし始めてしまった。
「まったくもう……」
 俺だってもう少し張り切れればよかったけれど、おじさんの歌を流されるとなると話が変わってくる。そもそも夕べからあれこれと考えどおしで、ようやく体の力が抜けたところだ。
 いつもの調子であきれたそーちゃんは、俺の両脇を軽く持ち上げて、ベッドに移るよう促してくれた。ふわ、と人の肌の匂いがして、思わず甘えるように首に抱きつく。
「自分で上がって。重たくて無理だよ」
「うー……」
 しぶしぶと足を動かしごろんと寝転がったら、すぐにそーちゃんも横に並んだ。そーちゃんが寝ている布団に入り込むことはたびたびしていたけれど、起きているうちに、それもそーちゃんのほうからこうしてくるなんて、そーちゃんが酔っていない時では初めてだ。だけど今度は怖くなかった。
「あ、環くん」
「んん……?」
「これ、僕の一番好きな曲だから聴いて」
 そうは言われたってそーちゃんの匂いが気持ちよくって、頭はもうぼんやりとしてる。そーちゃんに似た柔らかな歌声がだんだん遠ざかっていって、去年この曲を初めて聴かせてもらった時の、静かな気持ちを思い出す。
 二十年くらい諦めずに頑張ったらいつか、そーちゃんがこんなふうに幸せそうな音を奏でる日が来るのかなあ……。
「環くん、……ねえ、今日は一日、休みに付き合ってくれるんじゃなかったの」
 いよいよ役立たずになるほんの直前、すねたようなささやきに呼び戻される。覚醒した意識で考えるより早く、そのとがった唇に同じものを重ねた。
 今日のところは言えずじまいになりそうなあの言葉が、ここから伝わってくれたらいい。
 何十年後かに訪れるはずのいつか、もう一度口にするための目印にするから。