ベビーブルーの空の下

 足首ほどの高さまである真っ黒なぬかるみのど真ん中に、壮五は一人佇んでいた。どうしてそんなところに立っているのか、てんで思い出すことが出来ない。でも、一つだけ、悲しい出来事があったことは思い出せる。何も知らないふりをしようとしても、顔から腰にかけてまばらにへばりついた泥の飛沫が物語っている。
 つい先ほどまで隣に環がいた。今はいない。不意に壮五を置いて駆け出したのだ。その先に何があるのか、壮五は知らない。けれど見当は容易についた。日頃マイペースな環を誰より一途にさせる理由なんて、この世に一つしかあり得ない。
 行かないで、とは言えなかった。そんな声を上げるくらいなら、力尽くで縛り付けておくほうが簡単だ。しかし泥に囚われた足はまるで動かなかった。対して環はその泥を跳ね上げながら、瞬く間に地の果てへと消えていった。
 改めて周囲を見渡してみる。足元を覆う黒と、それを一切映すことのないベビーブルーの空だけが広がっている。何も揺れることはないし、何の音も響かない。環のいない世界には風さえ吹かない。こんな場所にずっと一人とどまっていなければならないのだろうか? 確かな恐怖に背を押され、動かないと分かっている足を思い切り引き上げる。わずかに手応えを感じもう一度腿に力を入れると、履物が脱げたが足は自由になった。

 弾かれたように壮五も走り出したが、途端足の裏に擦り切れるような痛みを覚えた。泥の底に何があるのかは分からないが、不揃いな砂利の上にいるような感覚だった。環もこの痛みに耐えながらぬかるみの中を駆けていったのだろうか。そう思うと傷を厭う気にはなれなかった。
「――環くん!」
 目指した彼の姿は地の黒に染まらないながらも、空の青に溶け込みかけていた。思えばいつもそうだった。どこにいたって見つけ出せる自信はあるのに、いつかふと見失いそうで怖かった。そんな壮五の気持ちを環は知る由もない。今だっていつの間にか全身泥だらけで、目にいっぱい涙を浮かべている。
「……そーちゃん」
「どうしたの、何があったの」
「こ、転んだ……」
「どこか痛めたの?」
 環は首を小さく横に振ると、真っ黒な両の手のひらを壮五に示して見せた。そこには幸せの象徴をかたどったキーホルダーが、空を反射して鈍く光っていた。
「落として、探してて……。見つかったからよかった……」
 弱った声でつぶやきながら、環はパーカーの裾に手を伸ばした。考えるより先にそれを制し、自分のカーディガンを脱いで代わりに当てがう。手当り次第に環の泥を拭うと、驚いたように少し身を退かれた。
「そ、そーちゃん。汚れるよ」
「いいから。大事な人に会うのに泥だらけじゃいけないよ」
 真っ白な生地は全く駄目になるだろうが、ためらいはなかった。そもそも既にあちこち汚れているのだ。それが広がることくらい今さら何でもない。
「はい、できた」
「ありがと……そーちゃん」
「気をつけて」
 環が不安げに瞳を揺らす。それを前にするとなぜかいつも強がりを言える。
「ちゃんとここで見てるから。いってらっしゃい」
 無事に笑顔を作ることができて、少しだけほっとした。今のうちに去ってほしいと願うのに、環は壮五の瞳を見つめたまま動かない。
「そーちゃん、このカーディガン、洗ったら着れる?」
「え? ええと、無理だと思うよ」
「そっか。ごめんな。じゃあ、わりぃけど置いてって」
 炭色のそれは環によって丁寧に折り畳まれ足元に置かれた。らしくない手付きをぼんやりと眺めていたら空いた手を取られ、温かな銀色のかたまりを託された。
「……これ」
「そーちゃんが持ってて。また転んで落としちゃいそうだから。そーちゃんだったら、落とさないで持っててくれると思うから」
 初めて見る気のしない忘れ形見と、環の顔を見比べる。これは自分が持っていていい物ではなかったはずだし、だいいちこれを分けた当人に会うのに、こんなところに置いていっては駄目じゃないか。口を開きかけたところで、環が人を追いかけていたことを思い出す。このしばらくの間に、ずいぶん遠くへ行ってしまっているのではないだろうか。
「――分かった。僕が持ってるから、早く行って。まだ間に合うから」
「あ、やべ。そーちゃん、急ぐぞ!」
 急に腕を引っ張られて、その場に膝をつきそうになる。なんとか立て直して半歩後ろから環を追ったが、一度立ち止まってしまったせいか、足の痛みが余計にじくじくと響く。おかげで環の足もいくぶんか遅い。
「環くん、僕のことは置いていって。本当に間に合わなくなるよ」
「間に合わすんだよ、ばか!」
 一面泥と空以外何もないはずの場所に、環の声がこだまする。振り返った表情はわずかに怒りの色を帯びている。けれどそれにかえって安心させられるのはなぜだろうか。
「さっき転んだ時、やっとそーちゃんいないことに気付いて、一気に心細くなった。もう離れないで、ちゃんと隣にいて。俺のこと見ててくれるって言っただろ」
 縋るようですらあるその声に、全身が力を取り戻す。拳を握って環の左に並ぶと、壮五の腕を掴んでいた手がするっと緩んで指に絡んだ。
「おぶわなくても大丈夫だよな」
「大丈夫。走れるよ」
 同じ痛みに耐えながら、先の知れないぬかるみの中を一目散に駆けていく。やがてつないだ手の主によく似た、寂しげな後ろ姿を見つけ出す。手を離したのは壮五からだ。環は一瞬、見開いた目を壮五に向けた。けれどすぐ意を決したように唇を噛んだ。壮五は頷いて見送った。――ちゃんと見てるから。
「理!」
 海色の瞳が振り向いて環を捉える。小さな体を抱き締めた広い背に、おずおずと細い腕が回る。そこには確かに、壮五の手の中で光っているのと同じものが握られていた。
 彼女の手も自分たちと同じように、泥にまみれて汚れていた。遅れてそれを見つけた環は、皆一緒だからいいよな、と笑った。

☆書き出しの三行は表子さん(@hy05tk)からいただきました。素敵な文章をありがとうございました!