カノープス

 家族を捨てた。人生最初で最後の不徳だ。僕はこれ以上、誰かと分かり合うのを諦めたりしたくない。
 とはいえ、習慣の違いという壁は大きい。何につけても磁石のように対極な質を面白がられたり有り難がられたり、色々な評価を受けてきたけれど、当人にしてみれば苦難でしかなかった。
 僕たちは今日もベッドサイドのランプの前で、もう何度目かも分からないいさかいを繰り返している。
「昨日は点けたままにしておいてあげたじゃないか」
「だからってなんで今日は消すの!」
「相容れないなら譲り合うしかないだろ」
「意味わかんねえ。昨日ちゃんと寝れてただろ? だったら点けっぱでいーじゃん」
 う、と言葉に詰まる。どうにも押しに弱い。
 もちろん一睡もできなかったということはない。それを「寝れてた」と言うなら環くんの主張にも一理ある。明け方に諦めて起き出すまで何度も目覚めてしまったけれど、暗闇の中で一切眠れないという環くんよりはずっとマシだ。
「……分かった。その代わり、朝までちゃんと別々のベッドにいて。ゲームはせめて音を消して、お菓子も食べないでね」
「注文多くない? 俺、電気のことしか譲ってないし」
 普通は他人のベッドになんか潜り込まないものだし、夜は静かにしているものだし、寝ながらお菓子なんて以ての外だ。以前そう訴えたら、「俺のフツウとそーちゃんのフツウは違うでしょ、普通」と言い放たれた。ならたまには電気を消してくれ僕にはこれが普通なんだ! と返したいところではあったが、最近は争うのに疲れてきていて、ぶつかりこそすれ開始数分で環くんの我が儘を受け入れてしまうことばかりになってきた。でも、それでいいのかもしれない。
 環くんの文句には特に対応しないまま、大人しくシングルベッドの片方へ潜り込み、明かりに背を向けた。今夜も何度か覚醒する羽目になるだろうから、早く横になっておいたほうがいい。
 環くんも納得したのか、黙って僕と同じようにしたので一息ついた。とにかく日中の分刻みのスケジュールをこなすことが最優先だ。僕はこの世界で早く自分の居場所を作ってしまわなければならなかった。
 そんな連夜の地方ロケを終えて寮へ戻る頃、僕は毎回へとへとになっていた。それでもなんとか仕事をこなせる程度には身体が丈夫なので助かっている。皮肉なことだけれど、育ちのせいもあるんだろう。
 そう高をくくって無茶を重ねる癖がついてしまったせいか、今朝は寮での寝起きだったというのに油断した。
「あ」
 ――と声を上げた時にはもう遅く、どんがらがっしゃんなんていう音と、誰かが駆け寄る気配がした。瞬きを繰り返しながら、給湯器のデジタル時計を確認する。まだメンバーの半数は眠っているはずだ。
「生きてるかー、ソウ」
「朝から騒がしくてすみません」
 廊下からひょいと顔を覗かせた大和さんが、慣れっこみたいに苦笑いをした。面倒くさいことは嫌いだと公言している大和さんは、洗面所やシャワー室の順番を気にするのが億劫だという理由から、一織くんに次いで模範的な生活リズムを維持している。当然、お酒を飲む日は例外だけれど。
 早朝の洗面所でバランスを崩した僕が、換気のために開けておいた風呂場のドアに運悪く捕まろうとして、コップやらブラシやらドライヤーやらとともに脱衣所に転がっている、こんな情けない光景をリーダーに見せるのは、おかげさまでもう三度目になる。
「いい加減学べよ。血圧上げる運動教えてやったろ、寝たままできるやつ」
 僕を助け起こしながら大和さんは小言を垂れた。僕は生まれつき低血圧ということもないのだけれど、二人の間ではそういうことになっている。大和さんが実際のところそれを信じているのかどうかは、僕には分からない。
「すみません」
「実践してねえな、その顔は」
 ばつの悪さを感じる間もなく、大和さんが僕の頬をつねり上げた。いつも、この人のこういうところが安心する。
「いひゃいでふ」
「ま、ほどほどにな。顔と頭は打たないように」
「……気をつけます」
 床に座り込んでチカチカする視界を整えながら、大和さんの背中を見送った。有り難い距離感にほっと息をつく。もし、僕の失態を目撃したのが別の誰かだったら、メンバーの弱点は周知徹底、皆で対処が当たり前だ。今日までを運だけで乗り切っている。
 メンバーの皆には、僕は寝起きのいい人間で通っている。ロケなどで川の字に寝る時は、いつも出入り口に近いところへ布団を敷かせてもらっていた。連日外泊が続くようなスケジュールの中では、調子が悪くて廊下を這う羽目になった日もあるが、今のところ人前で平常を装うのに支障が出たことはない。
寮で偶然こういった場面に出くわした大和さんには申し訳ないけれど、踏み込んでこない辺り、理由は何となく察しているんだろう。
 まだわずかにひりひりする頬を自ら打って気合いを入れる。散らかった洗面台を元通りにし、改めて紫色の歯ブラシを握った。
 精神論で頑張れるのもそろそろ限界なのかもしれない。そもそもアイドルは体が資本である。しかし先にその精神のほうが折れてしまったら終わりなのだ。
 こういう時はさすがに、たった数駅分の移動でもすやすやと眠り込める相方の性分がうらやましくなる。鏡を見ると顔色にはまだ出ていないが、目の下にうっすらとクマが浮き始めている気がした。
「あざできてる」
 西日がまぶしい特急電車の席で、環くんがべろんと僕のシャツをめくり上げた。正確にはシャツとインナーを一緒に。どんなに暑い日が続いても、中に一枚は着ていないと落ち着かない。
「みっともないからやめて。大体、こんなところにできてるなんていつ気づいたの」
「楽屋で脱いでたじゃん」
 思いのほかよく見ているものだな。脇腹をぶつけていたなんて今知った。水着でのグラビア撮影はあらかた落ち着いたけれど、これから映像での仕事が増えてくる。こんなところを出すような指示なんて僕には滅多に来ないけれど、もしそうとなるとごまかしづらい場所だ。僕は軽く頭を抱えた。
「殴り合いでもしたのかよ」
「まさか。ちょっと転んだだけだよ」
「ふーん。めずらしいこともあるもんだな」
 環くんは僕を責めたりはしないけれど、脳内ではもう一人の自分が僕に思い切り小言を垂れていた。仕事なんだから、プロなんだから、と内容はいつもの環くんに対するそれに大差ない。
「ごめんね」
「何が?」
「君のことを言えた立場じゃないな、と」
 環くんは面白くなさそうに眉をひそめると、頬杖をついて車窓へと顔をそむけた。
「そんなこと言うくらいなら説教すんのやめれば」
「説教じゃない、僕が言いたいのは……」
「説教だよ、俺にとっちゃあ全部」
 全部、という単語が、頭で捉えるより先に胸に刺さって思考が止まる。環くんは僕の顔を一瞥すると、ばつが悪そうに目を伏せて、また流れる景色を追い始める。
「……僕に話しかけられるのは嫌かな」
「そういうことは言ってねーだろ。いっつもガミガミうるさいくせに、なんでそうやっていきなり自信なくしたりするわけ」
 環くんの言葉をなんとか耳へ入れながら、今日くらいは窓側に座らせてもらえばよかったと思った。通路ドア上部の電光掲示板のニュースも見飽きてしまって結局、早くもうとうとし掛けている相方を盗み見た。アイスブルーの瞳が閉ざされると、薄桃の頬がただただあどけない。
 そりゃあ、自信もなくなる。だって環くんの言う通り、振り返れば僕は本当に「いつもガミガミうるさい」のだ。言う必要のあることしか言っていないつもりではある。それでも一日の終わりには自己嫌悪に陥ることがままある。
 二人でいて、穏やかな空気が流れるのなんて、こうして環くんが眠っている時だけなんじゃないだろうか。ある日そう気づいた時から、僕は環くんに移動中居眠りするのをやめろとは言わなくなり、代わりに電光掲示板を見つめるのが癖になっていた。