もしもう二度と

 デスクに向かい隙間の増えた手帳を眺めながら、ヘッドホンの音量を少しだけ上げた。どうしても眠る気にはなれなかった。昨年倒れて以来、自己管理も仕事のうちと覚えたが、オフの日の前くらい夜更かししたってかまわないだろう。
 数日前ようやく、MEZZO″としての一夜限りの単独ライブを終えた。感謝の意であるとともに、僕たちにとってのけじめでもあった。今後、MEZZO″名義での仕事はもう無い。そうしてもらえるよう、二人でマネージャーに頼んだのだ。
 何をするでもなくただ、滅多に使わないシャッフル機能で曲を回していた。聴きたい曲というものが珍しく思い浮かばなかった。もしかしたら再生している今もあまり耳に入っていないのかもしれない。
 しかしふと偶然、流れ始めた叔父の声に指先が動いた。操作に従って、プレイヤーが弾き語りの楽曲を順に奏で始める。あまり枚数は売れなかったけれど、特別に好きなアルバムの一つだった。
 単一のアコースティックギターと飾らない歌声に息をつき、いつか環くんが即興で作ってくれた、ハモリのパートを口ずさんだ。身体の力が徐々に抜けていく。おもむろに腕を重ね、その上に顔を伏せて瞳を閉じた。
 叔父はずっと一人で歌っていた。デュオだったならまた違っていたのではと悔やむことも未だある。叔父自身恐らく、望んで一人でいたというわけではない。そうせざるを得なかった理由は言うまでもない。
 7人ものグループで活動することができた上、唯一無二のパートナーに出会うことができた僕は幸福だ。あの父を持ちながら誰かとこの世界で生きていくなんて到底できることじゃないと、心のどこかで思っていた。事情を皆に打ち明けた今でさえその恐怖は捨て切れていない。ただただ誠意だけでここにいる。
「……そーちゃん」
 もうとうに皆寝静まっていると思っていたのに、音の陰に確かにその声を聞いた。曲目リストの上部に添えられた時刻を確認すると、そろそろ丑三つ時にかかる頃である。ヘッドホンを置いてそろそろと椅子を引いたが、呼びかけは続かない。
 返事はせずに薄く扉を開けると、慣れたシャンプーの香りが滑り込んできた。
「入ってもいい?」
 問いに口の形だけでいいよと伝える。見ると寝巻きではなくいつものTシャツに猫耳のパーカーを重ねて着ていた。思わず心臓が大きく鳴る。せっかく来てくれたところに申し訳ないけれど、今晩は静かに過ごしたかった。
「環くん……眠れない?」
 それでもつい笑顔でそんな言葉をかける。蛍光灯を遮った表情が、逆光を差し引いても翳って見えたからだ。ただし声は少しひそめた。倣って環くんもささやくように話し始める。
「んー。うん。明日だし。なんか、緊張する」
「そっか」
「あ、明日じゃない……今日、起きたらどっか行く?」
「どうしようか」
「……部屋でゆっくりする?」
「そうだね……」
 僕が会話を広げなかったせいだろうか、環くんが黙り込んで棒立ちになる。立ち話をさせるのも妙だとは思うけれど、座ってするほどの内容でもないので戸惑った。
 床についていなかったことを咎められないのは助かったが、読めない意図を特に突き止めたくもなくて、慣れない気持ちが胸の奥で渦を巻きだす。――今夜は帰ってくれないかなあ。自覚するといっそう不快感が募ったけれど、この口から君に聞かせたくはない。
「僕、もう寝るから……」
 苦し紛れに捻り出したが、一緒に寝てもいいかと尋ねられたらまた悩まなければならないことに気づく。こんなことなら大人しく横になっているべきだっただろうか。どうせポータブルプレイヤーで曲を聴いていたのだから、起きていなくてもよかったじゃないか――建設的な思考ができなくなった僕の腕を、環くんが不意にそっと掴んだ。
「そーちゃん、レッスン場行こ」
「……は?」
 突拍子のない提案に焦りも忘れた。なぜとも訊けないままなんとかパジャマの裾をつまんでみせると、環くんはひとつ部屋を見回した。まさかと思ったがそのままクローゼットに向かい、無遠慮に扉を開ける。今から着替えろということらしい。
「もう二時じゃないか。常識を考えてくれ」
「防音だし気にすることねえよ」
「そういう問題じゃ……」
「いいから」
 ぱぱぱとハンガーから衣服を抜き取る手際の良さに、普段のコーディネートなんてよく覚えているなあ、とまた頭が逃避を始めた。抵抗するのに疲れてきていた。それらを差し出されるがまま着替えている間、環くんは万理さんにラビチャで一報を入れていた。
「寒くねえよな」
「……うん」
 気づけば季節はもう五月だった。月はとうに沈み切っていた。間引きされた街路灯だけでは心もとない夜道の端を、腕を引かれて駆けていく。
 この数か月間、マネージャーとメンバーに頭を下げMEZZO″のためだけに全力を尽くした。まず既存曲とPVを全て録り直した。曲は短いけれど僕は初めての作詞、環くんは弾き語りに挑戦した。ジャケットだけでなく歌詞カードにもこだわった。CDのタイトル案に三日三晩を費やした。
 解散ライブは急きょ一か月前に決定した。凄まじい忙しさだったが持てる限りの時間を注いだ。予算や尺は厳しかったけれど、衣装も演出も二人で素案を作った。デビュー曲はパートを振り直し、環くんの希望でダンスを一新した。当日は一生で一番「ありがとう」を言った日だと思う。もうたくさんの夢を叶えてしまった気がする。
 明日、MEZZO″のファーストアルバムが発売される。その日を以てMEZZO″は活動を終了する。IDOLiSH7では引き続きグループ内ユニットとして組むことになるが、「MEZZO″」の名前を使うことは今後恐らくないだろう。
 ああ、新しいユニット名を決めなければ――。夜風を切りながらぼんやりとそんなことを思い出す。今日まで悲嘆に暮れることはついぞなかった。IDOLiSH7を世に出すためユニットを組んだ日、「裏切り者」の言葉に環くんが黙って唇を噛んだ日、そしてIDOLiSH7が無事にデビューを果たしたあの日から、いつかこうなることは何となく分かっていた。
「バンちゃん、寝てたのにごめん。ありがと」
 事務所にたどり着くと、玄関前で万理さんが待っていた。よく考えれば当然のことだが、ビルに入るには鍵がいる。
「じゃあ、よろしくね」
「おー」
 万理さんは入口扉を開錠すると、環くんにレッスン場の鍵を手渡し、言葉少なに車へ乗り込んで帰ってしまった。謝る隙もなかった。環くんの無茶ぶりとあまりの申し訳なさに、頭が真っ白になっていた。
「信じられない……」
「普段だったらやんねえよ、こんなこと」
 非常口の明かりを頼りに歩を進める。階段の踊り場に少し拗ねたような声が響いた。幸い、沈黙が気まずくなる前に目的の場所へたどり着く。
 暗闇の中でも環くんは手間取ることなく扉を開けた。何百回と通った空間のはずなのに、異様にだだっ広く見えてなんだか寒々しい。
「あ、やった。毛布置いといてくれてる」
「毛布……? そこまで寒くはないよ」
「防犯のために寝泊まりしてくれってさ」
 ほらふわふわ、と厚手のブランケットを手渡される。思わず受け取ったが、ここでいきなりごろ寝をしようという話でもないだろう。かといって僕からしたい提案もない。立ち尽くしていたら環くんが音響機材をいじり出し、ほどなくして僕らの代表曲が流れ始めた。
「もとのダンス、まだ覚えてるでしょ」
 手の中の物を奪われ、続けざまに肩を掴まれて体が反転した。背中にひた、とぬくもりが触れる。そういえばどんなに緊張していた時でも、この位置につけばすっと胸を張れた。環くんの姿は見えないのに不思議だ。
 いつからか本番前の恒例になっていた、彼の小指を撫でる動作で応答を返した。決めていたかのように前奏の振り付けを見送り、無意識に深呼吸を繰り返す。
 照明のスイッチの在りかは知っていたが、二人とも手を延ばそうとはしなかった。月明かりもない場所で目が慣れることがあるのかどうかは分からない。けれど踊り始めれば匂いと気配で分かる。宙を断つ指先の熱、小気味良い足捌き、迷いなく僕を捉える視線。
 ウォーミングアップもせずにそれなりの声量で歌うという経験がほとんどなかったため、息がぴたりと合っている一方で僕自身は気が散っていた。それこそ何百回と叩き込んだ歌詞をオーディオのように吐き出しながら、脳裏には環くんとたどった夕暮れの光景がフラッシュバックしていた。
 春夕立の季節を待って、つい数週間前まで環くんと外を走り回っていたけれど、この曲を聴いて思い出すのはやはり、僕たちが出会って間もない頃のことばかりだ。
 第一印象は悪くなかった。だからこそ相性の悪さに愕然とした。仲良くなりたいと思っていたのに、そんな自分に驚いてさえもいたのに。
 仲間が他に5人もいながら環くんと折り合いをつけることを諦めなかったのは、僕自身の意地もあったと思う。環くんが本当に僕のことを嫌いだったのか、今思うと実のところよく分からない。ただ環くんは確かに「無理をする必要はない」という立場をとっていた。最初に近づくことを決めたのは僕だ。
 自分の責任感を押し付けていた部分もないとは言えない。大和さんに注意されたことも一度や二度ではない。しかしそれ以上にほうっておけないという気持ちがあった。
 環くんはとても強い子だった。それゆえに誤解をされやすかった。僕が最初に環くんの内情を知ったのは偶然だったかもしれない。MEZZO″としてデビューしたのだってそうだ。それでも一番そばにいるのが僕だったから、僕が守っていくしかなかった。
 ……僕が守っていくしかなかった。間奏で反芻すると同時に手と手が触れた。途端、電流が走ったように心臓が大きく一つ鳴り、息を呑んだ僕は膝から崩れた。
「そーちゃんっ」
「――あ、れ……」
 半歩先にいた環くんに支えられ、倒れ込むことは免れた。自分でも何が起きたのか把握できなくて混乱していた。曲の半ばにしてはひどく息が上がっている。耳鳴りに環くんの呼び声が霞む。
 何も見えない場所で、視界がくらんでいるのかどうかすらも分からない。ぼんやりとしていく意識を手放すのが怖くて手の甲に爪を立てたけれど、それほどの事態ではないようだった。ただただ胸が苦しくて必死に息を吸い込む。つま先まで全身が冷えていく中、頭だけが熱くて仕方がない。
「そーちゃん、そーちゃん」
 環くんが僕の背中をさすり、肩へもたれるよう促した。もう判断も何もない状態で、導かれるがままになんとか身体を傾ける。するといきなりお尻が浮き上がって、環くんの太ももの間で横抱きにされた。拳を握るだけでは到底落ち着くことができず、すぐそばの太い二の腕にすがる。
「そーちゃん、息、吸わなくていいから、吐いてみて」
 環くんの言葉に、自分が過呼吸を起こしたのだと理解した。厚い胸と大きな手のひらに温められて、次第に上半身の力が抜ける。しかし両手が細かに震えだして、それを止めようと躍起になった僕は、すっかりパニックに陥っていた。
 無様な格好をせめて明るいところで見られなくてよかった、こんな時にさえ頭の片隅でそう思うのに、環くんは迷わず僕の手を包むように握る。与えられる安心感が今だけは針のようで、先に待つ恐怖にもう触らないでと叫びだしたかった。足が動くなら逃げ出していた。――環くんはそんな僕の気持ちにも、もしかしたら気づいていたのかもしれないけれど。
「吐けたら、ゆっくり吸ってみて。そ、ゆっくり」
 弛緩していた胸が震えた。喉から、ひ、と声が漏れる。息が乱れて、思わず口元を手で覆った。いつの間にか呼吸は正常に戻っていた。
 そうして次に息を吐いた時、両目からずっと押しとどめていたものがあふれた。安堵したように環くんが溜め息をつく。あやすように背を揺すられて、たまらず嗚咽に勢いがついた。
「そうそう、泣いちゃいな。ぜんぶ、泣いちゃえ……」
 腕の中に収まる自分の弱々しさが、やるせなくてやるせなくてどうしようもなかった。だけどこんな自分でも誰かを守りたいと思ったのは、単なる庇護欲からなんかじゃない。
 二人で歌声を重ねた時、全ての偶然が無意味になったあの瞬間を、環くんは覚えているだろうか。真っ直ぐで前向きな君のことだから、目の前の相手だけ見ていればいいと言うかもしれない。だけどあの日のことはずっと僕の宝物だ。初めて「君には僕しかいない」と思えた日だったのだから。
「う――っ……」
「よしよし」
 泣き虫な君こそ泣きたいだろうに、どうしても顔を上げられなかった。自分をどこか他人事のように見ながらも、悲しいのか悔しいのか腹立たしいのか恐ろしいのか、分からないまま爆発した感情に流されて、気を抜けばどうにかなってしまいそうだった。
 MEZZO″が活動を終えたとて一緒に歌う機会を永遠に奪われるわけではない。MEZZO″名義の曲を今後僕たちが歌えなかったとしても、一度日の目を浴びた曲たちはきっとどこかで歌い継がれる。そもそもIDOLiSH7として7人でデビューするためトラブルの応急処置的に立ち上げたユニットだから、穏便とは言えなくとも役目を終えることができるなら、こんなに嬉しいことはないのだ。
 何もかもを捨ててまでしがみつくべきものじゃない。分かってる。だけど、君に出会って僕は変わった。変わっていく自分を好きだと思えた。それすら僕には新しかった。MEZZO″としての日々はそんな毎日の連続だった。
 MEZZO″としての自分を手放すことは、心の一部を失うことと同じだ。
「そーちゃん……」
 大丈夫だよ、と環くんがささやく。涙に濡れてはいない、優しい声色だった。何度も自分に言い聞かせた一言を、今は環くんが負ってくれている。君を守りながら守られてもいたなんてことは、ずっと前から気づいている。
 その勇ましさに後ろめたく思いながらも、明日なんて来なければいいとそっと願った。息を殺すようにこの闇に消えてしまいたかった。終わりを受け入れることへの絶望からではない。生まれて初めて経験する、何かが移りゆくことへの――恐怖。
「そーちゃん、……眠ろうか」
 首を縦にも横にも振らない僕の背を、環くんはずっとさすり続けた。泣き疲れた僕が声を枯らしても、環くんはこの場を動かなかった。夜明けに怯える日が来るとは思わなかった。こんなふうに変わっていく僕でも、君の隣に立つ資格はあるだろうか。いや、ないとしても――二人で歌声を重ねたあの時から、きっと僕には君しかいない。

 ともに歌うために生まれてきた。見知らぬ誰かのその言葉を、今もかたくなに信じている。