きみの心のそばにいる

 タンタンタン! といつもより強めのノック音で目覚めたのは、7時前のことだった。
「んー……なに……」
 起きたから急ぐ奴は勝手に開けてくれ、という意味も込めてドアノブにたどり着く前に返事をすると、名乗りもなく飛び込んできたのはそーちゃんだった。いつものてろてろしたパジャマのまんま、ちょっと息を荒げて、何かに襲われたような顔をしてる。
「なに、虫でも出たの……」
 それならみっきーとかのほうに行ってほしかった。そう思いつつ、頼られたらほうっておくわけにもいかない。ティッシュ山盛り持っていけばいいかな、と首だけで散らかった部屋を見渡したら、そーちゃんのほっそい指が俺の胸をぱたぱたと叩いた。
 視線を戻すけれど、そーちゃんは気が動転しているかのように口をぱくぱくさせるだけだった。こんなことはそうそうあるもんじゃないから、急かさずに静まるのをじっと待ってやる。
 おかげで、あ、と弱々しい声がそーちゃんの喉の奥でつぶれたのを、聞き逃さずに済んだ。
「……なに?」
 ほんの少し身をかがめて口元に耳を寄せると、そーちゃんが二人の隙間を手のひらで覆って、息ばかりを必死に吐いた。
「……こ」
「こ?」
「こ……、え」
 わずかに震えるその手を取った限り、熱こそないようだけれど、どうやら喉風邪をこじらせたらしい。今日はお昼から仕事が入っていたので、そーちゃんがここまで焦るのは当たり前のことだった。
 俺を見上げた目は「どうしよう」と訴えるのでいっぱいいっぱいみたいだった。マネージャーに相談して休ませたいところだけれど、そーちゃんのことだから、後先考えず嫌だの一点張りだろう。
「ちょっと待って」
 そーちゃんが買ってくれたスケジュール帳を、ベッドの足元から拾い上げる。怒られるかな、と一瞬緊張したけど、そんな元気はないんだった。それにしても、夕べ聞いて書いたことをなんで覚えていられないんだろう。自分のだらしなさにめずらしくいら立ちつつ、祈るような気持ちでページを開く。
 よかった、今日の予定は夕方で終わり。それも雑誌のグラビアの撮影だけだ。その後、ちゃんとお医者さんに診てもらおう。午前中でもいいけど、もし長引いてお仕事に遅刻したら、ってそーちゃんが心配するだろうから。
「ごはん食べれそう?」
 小さい子に言うみたいに優しく尋ねると、そーちゃんは少し迷ったあと、曖昧に頷いた。このまま働くつもりなら、いくら少食でも頑張ってもらわなきゃ困る。
 マネージャーに連絡して、念のためリーダーにも報告して、温かい飲み物を水筒に詰めて、行きがけに薬局でのど飴を買って、マネージャーが忙しいようならスタッフさんには俺から説明しなくちゃいけないし、……そーちゃんが倒れた時も思ったけれど、そーちゃんがだめになると途端に俺の頭が回る気がする。
 そーいう仕組みで生まれてきたのなら嬉しいな、そーちゃんは普段大変だろうけど……なんて俺はのんきなことを考えながら、そーちゃんの手を引いて共用スペースへ向かった。

「すみません、壮五さんについてあげられなくて……」
 バックミラーに映ったマネージャーが申し訳なさそうに眉を下げた。しっかり者のそーちゃんが体調を崩したくらいの気候だから、当然りっくんの調子はあまりよくなくて、そちらへ付き添わなければならないのだ。
「だいじょーぶ。俺がついてるし」
 マネージャーにそう返すと、隣のそーちゃんもこくこくと首を縦に振る。マネージャーの表情が緩んだのを見て、そーちゃんも少しだけ体の力を抜いた。
「……具合悪くなったらちゃんと言って」
 そーちゃんにしか聞こえないようにそっと耳打ちをすると、そーちゃんはもう一度小さくうなずいた。俺にはずっと分かっている。そーちゃんの顔がずっと何かに怯えるみたいに強張っていること。
 皆の前では、声が出ないぶん無理して大げさにニコニコしていたので、外へ出る直前、パーカーを着せてフードを深くかぶせて、その上からさらにもこもこのマフラーでぐるぐる巻きにしてやった。そーちゃんは夏場でもストールをしているのに、冬場もなぜかストールしかしていない。もともとマスクで目から下を覆っていたので、そーちゃんの弱っているところは頑丈に守られている。
 そーちゃんが周りに気を遣わせたくないのはもうしょうがない。あきらめた。その代わり、俺にだけは頼ってもらおうって決めている。俺が勝手に決めただけだけど。一人でゴリゴリ頑張って倒れちゃうのはもう嫌だから、そーちゃんに不自由がある時は、そーちゃんがあまり周りに心配をかけないで済むよう、俺も一緒に頑張るんだ。
 りっくんのお仕事の現場へとんぼ返りのマネージャーを見送り、俺たちは二人でスタジオへ向かった。事前に事務所から電話を入れていたスタッフに改めてあいさつと事情の説明をし、身なりを整えるためドレッサーの並んだ楽屋へ通してもらう。
 俺の髪のセットは、いつもそーちゃんより時間がかかる。スタイリストの人が格闘しているのを鏡越しに見守っていたら、そーちゃんが横から手のひらサイズのメモ帳を差し出してきた。
「暖房とめてもらうことにした……? なんで?」
 眼だけを動かしてそーちゃんの様子を伺い見ると、人差し指でとんとんと自分の喉をつついていた。
 そういえばヤマさんが言ってた。あまり冷え込んでいないように思えても、空気は意外と乾燥してるんだって。この寮にはエアコンしかないから油断したなって、ヤマさんが苦笑いをしていた意味は俺にはあんまり理解できなかったけど、たぶんエアコンがあんまり良くないんだ。
 とはいっても、今日は春服での撮影だ。寒いんじゃないの……なんて、分かり切ったことを聞いてもそーちゃんの首が疲れるだけか。俺は親指と人差し指で輪っかを作り、黙ってそーちゃんにそれを向けた。

「環くん、表情が硬いよ。動きも硬い」
「……すいません」
 待機中のそーちゃんが気になって仕方ない。パイプ椅子に座っているそーちゃんは背筋をぴっと伸ばしていて、病人のようにはとても見えなかったけれど、顔は少しだけうつむいていて、足元の宙を見つめているみたいだった。いつもは絶対、ハラハラしていたり、ぽかんとしていたり、いろんな目をしながら俺のほうを見ているのに。
「やっぱり具合悪いんかな……」
「環くーん、カメラこっちだから。相方のためにも早く終わらせようね」
「あ、……うす」
 俺がそーちゃんを気にしているのが周囲にも分かったみたいで、ところどころ笑っている人もいた。笑い話で済んでいるのは助かったけれど、本人に気づかれたら、怒られるのを通り越してスタジオ中の人たちに謝ってまわられそうだ。それに、カメラマンの人の言う通りでもある。集中しなきゃ、と頬を打ってからは、今までの自分史上最速のスピードで撮影を終えたと思う。分かんないけど。
「そーちゃん、ごめん、おまたせ」
 バトンタッチの代わりに、おでこに手を当てる。熱は上がってないみたいだ。よかった。
 安心したのもつかの間、そーちゃんが俺の手首を取ってどかすと、にこ、と一つ微笑んだ。――今の、絶対シャッターチャンスだった。
 俺の目同様、カメラマンの目も瞬く間にそーちゃんに奪われる。さっきまでぼうっとしていたくせに、どこにこんな精神力があるんだろう、そーちゃんはまるでモデルみたいに、くるくるとポーズを決めていった。
 そーちゃんがつけるにはめずらしい、桜色のストールがふわとたなびく。俺の撮影が長引いて冷え切ったスタジオは鳥肌が立ちそうなほど寒いのに、そーちゃんの周りだけ花が咲いているみたいだ。さっきまでくすくす笑っていたスタッフも、そーちゃんにすっかり見入っていた。そーちゃんが知らない人みたいに見えるのに、不思議と寂しさはわいてこなくて、ただ胸がドキドキと高鳴ってしょうがなかった。
「そーちゃん……すごい」
 颯爽と俺の元へ戻ってきたそーちゃんに思わずそう漏らすと、そーちゃんはにっと笑ってブイサインを作ってみせた。仕事が無事に終わって安心したんだろう、今朝のピリピリとした雰囲気はちょっとだけ和らいでいた。むしろらしくないジェスチャーが可愛くて、たまには声が出ないのも悪くないんじゃない、なんて、フキンシンなことを思ったりもした。

 建物の外へ出ると、もう日が暮れかけていた。診察の終了時間には何とか間に合いそうだけれど、自分のせいで予定より遅くなってしまったのだと思うと、少し情けなくなってくる。そんな気持ちを悟られるのも恥ずかしくて、俺はそーちゃんの世話に没頭することにした。
「マスクよし、フードよし、マフラーよし。行こ」
 病院までは歩いて行ける。お年寄りを誘導するみたいな気持ちでそーちゃんの手を取った。
 そーちゃんの薄い手袋越しから低い温度が伝わってくる。熱いよりはいいけれど、さっきの撮影でずいぶんと身体が冷えてしまっているみたいだ。予約時間を過ぎたせいか、時計をしきりに気にしているそーちゃんの表情もまただんだんと曇ってきてしまって、つられて俺まで焦ってきた。
「そーちゃん、あのさ、撮影、すごかったね」
 気を紛らわしたいのか紛わさせたいのかごちゃごちゃな気持ちのまま、半歩後ろを歩くそーちゃんに話しかける。うっすらと笑ってくれたけれど、なぜだかどうしてもぎこちない。もう仕事は終わったんだからそんなに緊張しなくてもいいのに、風邪が長引くことを心配しているんだろうか。そう考えたけれど、幸い明日はオフだった。
 そーちゃんは気にしいでネガティブで心配性だけど、俺はそうじゃない。こういう時は、きっと考えても分かんないだろうな、と思ってしまう。だけどそーちゃんには笑ってほしくて、必死に明るい話題を探す。
「そーちゃん、何となく秋とか冬っぽいと思ってたけど、春もいい」
 そう、桜色が本当によく似合っていたんだ。俺たちが出会ったのは若葉の季節の頃だから、桜の下を歩くそーちゃんを俺は知らない。次の桜の見ごろには、そーちゃんと一緒に公園へ行きたい。それでいっぱい写真を撮るんだ。
「きれいだろうな」
 半ばひとり言みたいになってきていた俺の言葉に、そーちゃんがかっと目元を染めた。今日初めてのその表情に俺は嬉しくなる。
 はふ、と吐いた息が白い。そーちゃんが話せないと、俺のほうがおしゃべりになるんだな。
「ホントホント。今日のやつ、載るの楽しみ。俺のは出来よくないかも知んないけど……」
 ちょうど赤信号で足止めを喰らって、何の気なしにそーちゃんのほうを向く。そーちゃんは首を軽く横に振って、困ったみたいに目を伏せた。そんなことないって言ってるつもりなのか。俺がどんなに落ち着きなかったか、見てなかったくせにな……。
「そーちゃんなんかさ、歌えなくなってもやってけそうなくらいだったのに」
 ぱ、と信号が青に変わり、気持ち急いで横断歩道を渡る。今は少しの時間も惜しい。へこんでいる場合なんかじゃない――と、自分に言い聞かせたんだけど。
 する、とそーちゃんの手が離れて、俺の半歩先へ出たかと思うと、なぜかいきなり走り出した。
「えっ、ちょっと待っ……そんなに急がなくても」
 呼び止める声が聞こえていたのかどうかは分からない。そーちゃんが大通りの人混みに突っ込んでしまったからだ。しかも走る方角は病院とは違っていた。もちろん俺の記憶が正しければの話だけど。
「待ってったら、……ごめんなさい、通してっ」
 もともと倒れるまで平然としているような精神の持ち主だ。身軽でほそっこいそーちゃんは体調の悪さなんか物ともしないで、するすると人の隙間を通り抜けてどんどん遠くへ行ってしまっていた。対して俺はこんな場所では、人を突き飛ばしたり踏んづけたりしないように用心しながら進まなければならない。
 目の前に脇道が現れた頃には、すっかりそーちゃんを見失ってしまっていた。
「……うそだろ」
 とりあえず人混みを避け、ラビチャで「どこいったの」と問いかける。通知音を最大にまで上げ、さて探しに行こうかと思ったが、向かった方角の選択肢が多すぎる。
 もしもこんな混雑のど真ん中でへばったら、誰かが気づいて騒ぎになるだろう。となると既にここを突っ切っているのか、やっぱり脇道へそれたのか。それはそれで厄介だ。さっきの調子じゃこんな空いた道、ものすごい速さで疾走してしまっているに決まってる。
「どーしよう……」
 診察時間に間に合わないと思ったのか、はたまた別の用事を思い出したのか。理由は分からない。こんな時に何も分からない。涙さえ浮かんできた。なんでいつも、あの人は俺になんにも言ってくれないんだろう。
 弱気になったけれど、ばちんと両頬を叩いた。さっきの撮影の時の十倍は痛かった。脇道をそのままがむしゃらに走り出すと、熱を持ったそこに北風がひりひりとしみる。
 そーちゃんが何も言ってくれなくても頑張って聞くって、隣にいるって、あきらめないって決めたんだ。そーちゃんが倒れて寝込んでいる間、ベッドの横で悩んで出した答えがそれだった。
 だけど、そーちゃんが口をきけないからって、俺はそーちゃんの言いたいことを聞こえないふりしてしまっていたのかな。
 目につく道を必死で駆けずり回って息が切れ始めた頃、待ちに待っていた通知音が鳴った。スマホを落としそうになりながら、目的の画面を表示する。
『環くん』
 個人ページへ送信しているのに、律儀に俺の名前から始まるそーちゃんのメッセージ。そこに続く言葉に、俺は息が止まった。
『助けて』
 反射的に通話ボタンを押してしまったけれど、すぐに無意味なことに気づいて電話を切る。もどかしい。どこにいるの。これを最後にチャットが途切れてしまったらどうしよう。
 震える手のひらの中で、唯一の頼みの綱が明るくランプを灯す。
『東口の公園』
『救急車呼ばれる』
 そこからどこをどう走ったのかよく覚えていない。とにかく走った。そーちゃんがいざという時に正気をなくしてしまうのも分かる気がした。頭の中はそーちゃんを探すことでいっぱいなはずなのに、こんなに何も見えなくなるんだ。
「そーちゃん!!」
 ともかく目的地には着いた。呼んでも返事はないと分かっているのに、つい大声を出してしまう。と、公園の端のベンチのそばに、小さな人だかりができているのが見えた。
「あ、お連れ様ってあなた?」
 おばさんが一人振り返って俺に声をかけた。他にも、同じ年くらいのおばさんとか、若い男女とか、5,6人くらいの人がベンチでうずくまっているそーちゃんを取り囲んでいた。
「あ、えっと、はい。そうです。……そーちゃん、大丈夫?」
 呼びかけると、そーちゃんが顔を上げ俺を確認してから、皆に頭を下げたので、皆はそれで納得したみたいだった。
 おばさんが去りぎわに、ちゃんと病院行くのよ、なんて言っていた。ここかこの近くかで力尽きたそーちゃんを介抱してくれていたんだろう。ふうっと息をついたそーちゃんの右手には、「連れが来ます」と書かれたメモが握られていた。
「心配しただろ、もう……」
 俺も走り疲れていたので、とりあえず隣に腰掛けた。日はもう暮れ切ってしまっていた。病院は明日だ。もとよりもうこれ以上の予定をこなす元気なんて二人ともなかったから、マネージャーかタクシーに迎えにきてもらいたい。
 マネージャーの都合をラビチャで確認していると、そーちゃんが俺の腕をちょいちょいとつついた。首だけでそちらを向けば、さっきより少し浅めに「ごめん」の仕草を示される。
「いや……見つかってよかったし、いーよ。てか、それより」
 俺の冷えた手じゃもうアテにならなくて、おでことおでこをくっつける。そーちゃんは驚いたのか身を引いたけれど、背中を支えるように引き寄せると大人しくなった。
「やっぱ熱出ちゃったか。なんか店とか入ろ」
 あったまるものでも飲ませよう、そんな気持ちで立ち上がったのに、そーちゃんが俺のコートの裾を引っ張った。
「あ、えーと……おんぶしようか」
 やっぱりそーちゃんが何を考えているのか分からない。探るみたいに恐る恐る尋ねたけれど、そういう意味じゃないのは俺にも予想できている。
 うつむいたそーちゃんの表情を知りたくて、ベンチに座ったままのそーちゃんの足元に膝をつく。嫌がられないかちょっと不安になりながらもその顔を覗き込むと、熱で赤い目が少しだけ潤んでいるように見えた。
「そーちゃん、……教えてくれる?」
 もう逃がしたくない。そんな思いも込めてそーちゃんの両手を取る。そーちゃんがぎゅうと握り返してきたのを見届けて、俺はそれをペンとメモ帳に明け渡した。
 俺のいる場所からは、今何を書いているのかは読み取れない。文字を記す手が一瞬だけ迷う。無事に書き切ったんだろうか、そーちゃんはメモ帳の一番上の一枚を破り取ると、俺の左手を取ってねじ込むみたいに握らせた。
 くしゃくしゃの紙を開く頃には、そーちゃんはいっそう下を向いていて、もう顔を見られたくないんだということだけ理解できた。
『歌えなくなったらどうしよう』
「……そーちゃん」
 呼んでも返事はない。分かっている。それでも呼ばずにはいられなかった。
 ゆっくりと立ち上がり、再びそーちゃんの隣に腰を落ち着ける。顔をこちらに向かせるのもなんか違うなと思って、考えた挙句、無理やりな角度からではあったけれど、もこもこのマフラーに埋まった肩を抱き締めた。
 施設にいた頃、風邪で声が出なくなった子供なんか何人もいた。俺自身もそうなったことがある。それでも風邪が治れば皆けろりとして、いつもどおり好きな歌を歌ったりおしゃべりをしたり、楽しそうに遊んでいたのを知っている。
 こんな風邪、なんてことない。気を付けるのはまずメンバーにうつさないこと、それから仕事に支障をきたさないこと、そのくらい。そのくらいだと思っていたのに、そーちゃんの中では違った。もしかしたら、そのくらいだと思っていた俺の態度も、どっかでそーちゃんを傷つけていたのかも知れない。
 そーちゃんが、とん、と胸を押す。夜とはいえ外でくっつくなんて嫌だったかな、と思っていたら、そーちゃんがメモ帳にまた何かを書き始めた。けれど、そーちゃんは書き終わるなりそれを千切って片手で丸め、コートのポケットに突っ込んでしまう。
「待って待って! どうせ見えてたから」
 掴んでとめてそう告げると、観念したのか腕の力は緩んだ。怖がるみたいに縮こまった指先を優しくほどき、握りつぶされたそーちゃんの気持ちを解放する。
『歌えなくなっても歌ってたい』
 頭の中で、ぱ、と信号が青に変わった。思い出した。そーちゃんが走り出す直前に、俺がそーちゃんに言った言葉。
「……ごめんなさい、そーちゃん」
 悪気はなかった。そーちゃんが歌えなくなる日があるなんて信じてない。ただ、得意の歌やダンスを封じられてもカメラの前で動じないそーちゃんが本当にきれいで、俺は惚れ直してしまっただけなんだ。
 ただそれだけなのに、そーちゃんの恐れがうつったみたいに、俺の目から涙があふれ出した。そーちゃんが慌ててハンカチを取り出し俺の頬を拭う。涙はすぐにしみ込むけれど、嗚咽が漏れてとまらない。
 こんな風邪、なんてことない。だけど歌えない未来なんて一瞬でも想像してほしくなかった。そう思うのに一人で我慢させたことが悲しかったし、知らず知らずのうちにこんな傷つけ方をしているなんて怖かった。
 もこもこのマフラーに顔をうずめた俺の背を、そーちゃんが静かに撫でるのが分かった。これじゃあ逆だ。声は出るはずなのに、思っていることの一つも口にはできなかった。

「……ごめん、こんな寒いとこで」
 泣き疲れて頭がぼうっとする。鼻を垂らしながら顔を上げると、そーちゃんがおかしそうに肩を震わせて、俺の鼻にハンカチをぐいぐいと押し当てた。ほんとに俺はいつまでも子供みたいだ。こんなことでそーちゃんの緊張がほろっとほどけて、なのにそんなことがこんなに嬉しいなんて。
「明日、ゆっくり病院行こ。ちゃんと診てもらえば治るから大丈夫」
 ほんとに大丈夫だよ、おんなじ風邪ひいた奴いっぱい見たことあるし、とそこまで付け加えると、そーちゃんは気を遣ったのか安心したのか、相変わらず分からないけれど柔らかく微笑んだ。
 分からないけれど、まだ少ししゃくり上げそうになるお腹を押さえつけてそーちゃんを見つめる。そーちゃんの目も真っ直ぐに俺を見つめ返してくれていた。大好きな人が目の前にいる。心を通わせようと向き合うことができる。それがどんなにありがたいことか俺は知ってる。もう絶対に手放したりなんかしたくない。
「大丈夫だけど……早くそーちゃんと一緒に歌いたい。俺、歌とダンス以外てんで苦手なんだもん」
 かすれた声で情けないついでに弱音を吐いたら、そーちゃんがまた何やらペンを動かし始めた。
『頼りないなあ』
 千切った一枚を差し出すそーちゃんの目はいたずらっぽく細められていて、妙なあったかさに涙が戻りそうになったけれど、なぜだかつられて笑ってしまった。
「ひっでー」
 俺が弱がるとそーちゃんは強くなる。いつもそれが嫌だったのに、そーちゃんを助けるんだって意気込んでいた今朝より、ずっと胸が満たされているような気がした。
 ふと吐く息の濃さにどきりとしてそーちゃんのおでこを引き寄せると、ちょうどラビチャの通知音が鳴った。マネージャーだ。
「あ、車着いてる。そーちゃん、早く帰ろ」
 つないだ手は熱いのに、そーちゃんは気丈に歩き出す。時に痛ましいくらいの強さに目を閉じてしまいたくなることもあるけれど、やっぱり隣でそれを支えるのは俺でありたい。
 弱気になる日はきっとまた来るから、今日もらった3枚の紙きれは、そーちゃんに内緒でお守りにするんだ。